どこの国にも貧しい人たちが暮らす場所がある。もともと、とても人が住めるような場所ではなかったはずのそこに、どうしようもない事情があって住み着く人が出て、徐々にその数が増えて一定数を超えると、貧民街として確立して、さらに貧しい人が集まるようになる。
生きる為に女性が体を売るような非合法な商売が生まれ、その数が増えていくとひとつの商域となる。さらにそこに来る客を目当てに酒場など飲食店が出来、さらに発展すると歓楽街と呼ばれるようになる。そこまで来ると成功者も生まれ、合法的な商売も増えてきて、客も少し気軽に足を運べるようになる。それでもやはり治安が悪いことに変わりはない。成功者の多くも裏社会の人間のままだ。
中央諸国連合の加盟国、ノイエラグーネ王国の都の一角にもそういった場所がある。その歓楽街をヴォルフリックとブランドは歩いている。女性たちが路上に立ち、その女性たち目当ての客で賑わう通りを過ぎると、周囲は少し薄暗くなる。酒場が集まる一角のようで、それを示す看板が通りに並んでいる。
「……ここかな?」
その中のひとつ、といっても看板らしい看板もない扉の前で、ヴォルフリックは立ち止まった。
「いかにもって感じだね。中を除いて酒場とかならそうじゃない?」
「じゃあ、入ってみるか」
一見ではとても入る気にはなれない店の扉を、ヴォルフリックは躊躇うことなく開けて、中に入る。思っていた通り、中は酒場。ヴォルフリックを迎えたのは沈黙と客たちの視線。だがそれも数秒のことで、すぐに店の中には喧騒がもどった。
「……ここはガキが来る場所じゃねえぞ」
カウンターに近づいたヴォルフリックたちに、中で立っている男が話しかけてきた。
「金を払えばガキでも客だ」
「払える金があるのか? 駄菓子を買うような金額じゃねえぞ」
「まとまった金が手に入ったから、大人デビューしようと思ってきたんだ。そんな態度じゃあ、上客を逃すからな」
「なにが上客だ」
店の男は呆れ顔を見せている。貧民街の小悪党がちょっとお金を手に入れただけで舞い上がっていると思っているのだ。
「上客だ。これがその証」
こういってヴォルフリックはカウンターの上にコインを置いた。ベルクムント王国の金貨だ。
「お前……」
貧民街の小悪党なんかが持っているはずのない金貨。それを見た店の男は驚いている。
「どうしたなんて聞くのは野暮だからな」
非合法な手段で手に入れたことを匂わすヴォルフリック。そうだとしても問い詰めるような真似は店の男には出来ない。この店の客の金はすべて非合法な手段で稼いだものなのだ。
「客として認める気になったか?」
「……分かった。注文はなんだ? 母ちゃんのミルクなら家帰って飲めよ」
これはヴォルフリックたちを拒否しているのではない。客をからかうのはお約束のようなものなのだ。
「ハーペル、二つ。ロックで」
「ハーペル?」
子供が注文するような酒ではない。名前を知っているだけで驚きの種類なのだ。
「大人デビューって言っただろ? あとはこの店のおすすめ料理をひとつ」
「……分かった」
店の男はカウンターの後ろの棚からボトルを取り出すと、氷を入れたグラスに中身を注ぐ。男はその場を動くことなく、カウンターの上に置かれたグラスを、ヴォルフリックたちに向かって押し出すようにして滑らせてきた。
「あそこ空いている?」
それを受け止めたヴォルフリック。テーブルの一つを指差して、店の男に尋ねた。
「ああ。勝手に座れ」
店の男に席が空いている、今だけではなく誰かの専用席でないことを、確認して、ヴォルフリックたちはグラスを持って、その場所に移動する。壁のすぐ横のテーブル。一番奥ではないが、店の様子は良く見える席だ。だからといってジロジロと眺めるような真似はしない。そんなことをしては警戒心を解くために地元の小悪党を演じていた、といっても地元がラングトアであるという違いだけだが、のが無駄になってしまう。
「……いなさそうだね?」
周囲に気づかれないように時間をかけて、各テーブルの様子を眺め終わったところで、ブランドは小声でヴォルフリックに問いかけた。
「まあ……少し待ってみるさ」
「料理も頼んだしね。どうするの?」
ヴォルフリックは信頼していない人が作った料理は、作っているところをずっと見ていて、大丈夫だという確信が持てない限りは、食べない。当然、初めて来たこの店の人が信頼出来るはずもなく、料理はカウンターの裏にある厨房で作られている。
「……任せる」
「ええ……あの人、信用出来る?」
これを言うブランドは信用出来ないと思っている。
「人としては信用出来なくても、店の中で何か起こすか?」
「……それはあるね。全員グルじゃなければ」
店の料理を食べて客が死んだ、までいかなくても倒れたなんてことが起これば、店の客たちの不審を呼ぶ。そんなことは出来ないとヴォルフリックは考えているが、それも客が全員仲間であれば話は別だ。
「だから食べるのはブランドに任せる」
どちらか一方が無事であればなんとかなる。その無事であるほうはヴォルフリックの役目だ。
「……任された……これ苦いね?」
覚悟を決める為にグラスの酒を一口、なんてほど警戒しているわけでは実際にはないが、を飲んだブランド。
「苦いというか、なんか癖がある。美味いと思える酒じゃないな」
ヴォルフリックの口にも合わなかった。散々、酒を飲み尽くした者がたどり着く、と言われている酒。初心者向きではないのだ。
「……どうしたの?」
ヴォルフリックの手が、組んでいる右足の足首に置かれているのを見て、少し心配そう顔をするブランド。そこには逃走防止用の魔道具が付けられているのだ。
「ああ、なんか痒い気がして。ずっと付けているから洗えないだろ?」
「そんなこと? ずっと付いているなら肌汚れないよ」
なにか異常があったわけではないと知って、ブランドはホッとしている。
「汗をかく。今度戻ったら一度外してもらおう」
「それでまた付けられる?」
逃走用魔道具はどうにかする方法を考えなくてならない。ずっと縛り付けられているわけにはいかないのだ。
「だろうな……前回は予定日数を大幅に超えたけど平気だった。こうして目的地と違うところに来ても問題なし。勝手にどうかなるものじゃないのは分かった」
「そうなると……ずっと誰かが見てる?」
「可能性はゼロではないけど、そこまで面倒なものか? もっと単純だと俺は思う」
「じゃあ、クローヴィスだね?」
「だろうな」
ブランドを除いて、ヴォルフリックの動向を常に把握しているのは、いつも側にいるクローヴィスとフィデリオ。二人のどちらが傭兵団の意向を受けいているかとなるとクローヴィスのほうが怪しい。
「じゃあ、その道具を奪っちゃえば?」
「今それをしても意味はない。このまま逃げるわけじゃなくて、戻るのだからな。それにその道具が一つとは限らないだろ? 他にもあったら追いかけられて、ドカンだ」
「そっか……」
「別に焦ることはない。しばらくは外れなくても問題ないからな。それにいざという時の考えがないわけでもない」
しばらくは逃げるつもりはない。逃走用魔道具の対処は時間をかけて考えられるのだ。なんて話をしている間に、店の男が出来上がった料理を持ってきた。
「ほらよ。うちの特製ホルモン炒めだ」
乱暴に皿をテーブルの上に置く男。その皿に盛られているのは牛の内臓の炒めもの。何か香辛料らしきものとニンニクの匂いが食欲をそそる。ブランドは自分が食べる役であることに文句を言っていたことも忘れて、すぐにそれに食らいついた。
「……うまっ!」
想像以上の味に驚きの表情を見せるブランド。
「ヴォルフリックも食べられたら良いのに。でも残念ながら今回は無理だね? お腹空かない?」
今回はヴォルフリックの気持ちの問題だけでなく、この店は本当に信用ならない場所。二人共が、作っているところを見ていないものを、口に入れるわけにはいかないのだ。
「……帰りに露店で何か買って食べるから良い」
信頼している人に作ってもらうことが出来ない場合のヴォルフリックが腹を満たす方法は二つ。一つは自分で作る。それも無理である場合は露店で買うだ。露店の店主は信頼出来るということでは、当然ない。すでに作られているものの中から選んで買う。店側の意思ではなく、ヴォルフリック自身が食べるものを選べるからだ。たんに気持ちの問題だとも言う。
「ああ、美味しそうな店がいっぱい並んでいたね。僕も食べようっと」
こう言いながら目の前の料理にまた手をのばすブランド。その手を止めたのは入り口の扉が鳴らした鐘の音だった。
扉を開けて男が入ってくる。ヴォルフリックたちの時と同じ、沈黙と視線が彼らを迎えた。違いはその時間の長さ。男たちを迎える時間はヴォルフリックたちのそれに比べて、かなり長い。
「……いらっしゃい。いつもので良いか?」
店の男がその二人に声を掛ける。それをきっかけに店の中に喧騒が戻った。
「……あれかな?」
「それっぽいね。あれは常連には見えない」
ヴォルフリックたちの見立てでは、この店は裏社会の人間が集まる場所。悪巧みをする場所ということではない。そういう話もするが、仲間たちと普通に酒を飲みながら馬鹿話を楽しむ憩いの場所、くつろげる場所だ。
だが今入ってきた男たちからは周囲を警戒している様子が見える。彼らにとって、ここはホームではなくアウェイなのだとヴォルフリックとブランドは判断した。
「そうなると常連であるかのように振る舞った、あの男はグルか」
店の男が、二人が常連であるかのような態度を見せたことで、他の客たちの警戒心が薄れた。二人と店の男は通じている可能性があるとヴォルフリックは考えた。
「ええ……料理、大丈夫かな……」
「大丈夫だろ? 何か入っているなら、あの二人が今、姿を現す必要はない」
「そうだと良いけど……」
「心配なら店を出るか? この状況で何か事を起こすとは思えない」
二人がヴォルフリックたちの目的の人物であったとしても、他に客がいる中で行動を起こすとは思えない。この店もヴォルフリックたちが知る裏社会のルールを守らなければならない場所であるなら、争い事は許されないはずなのだ。
「……そうだね。そうしよう」
店を出ることを決めて、席を立つ二人。カウンターの中にいる男に向かって、歩き出した。
「なんだ? 子供はもう、おねんねの時間か?」
「せっかくだから他の店も回ろうと思って。あの料理、めちゃくちゃ美味かった。この店はまた来ること決定にした」
「それはどうも」
男の表情にわずかではあるが変化が生まれた。もしかして料理を褒めたことを喜んでいるのかとヴォルフリックは思ったが、笑みだと判断出来るほどの動きではない。
「勘定を頼む」
ヴォルフリックはポケットから取り出した金貨を、わざと周りにも見えるように高くあげて、店の男に見せる。
「……そんなの出されても釣りなんかねえぞ」
「ええっ?」
「何も知らない坊主に教えてやる。こういう店に来る時は両替してから来な。お釣りの問題だけじゃなく、目立つものは使わないものだ」
ベルクムント王国の金貨なんて持っている者は珍しい。そういう珍しい金を使えば、そこから何をしたかを辿られる可能性がある。それは他の場合も同じ。盗んだ物、奪った物はそのまま店では使わない。裏の盗品買取屋や資金洗浄屋に頼んで普通の金に替えてから使うものなのだ。
「……なるほど。勉強になった。しかし……今日はどうすれば……」
「まさか小銭持っていないのか?」
「ない……あっ、じゃあ、こうする。今日はこの金で先輩方に奢る」
「……はっ?」
何を言ったか分からなくて戸惑う男。それはヴォルフリックが金貨を持っていることに興味を惹かれ、聞き耳を立てていた客たちも同じだ。
「俺たちは新入りだからな。だからこれから世話になる先輩たちに今日はご馳走することにした。金貨一枚分だ」
「……本気か?」
「本気」
ヴォルフリックのこの言葉を聞いて客たちからどよめきが起きる。金貨一枚あれば店の客全員が一晩中、浴びるように酒を飲んでもお釣りがくる。とんでない大盤振る舞いだ。
ヴォルフリックたちを囃し立てる声。それに手を振って応えたヴォルフリックは「これからよろしくお願いします」という挨拶を最後に残して、店を出た。
「大放出だね?」
金貨一枚を置いてきたことにはブランドも驚いている。
「あれが獲物じゃなければ、別の手を考えなければならない。それには協力してくれる地元の人間が必要だろ?」
「なるほどね……でも今日、釣れたら大損」
「拾った金だ。それにこの先、何かに利用出来るかもしれないだろ?」
「それはシュバルツとして?」
シュバルツは、ノートメアシュトラーセ王国の王子であることを隠してラングトアの貧民街で暮らす為に、ギルベアトが名付けた名前。髪の色から名付けられた。従士試験を受けたもうひとり、ロートの名も彼の赤髪から来ていて、貧民街の孤児にはそういう単純な名が多い。それに倣った形だ。
ヴォルフリックにとって最初の偽名。これが貧民街の中での通り名である黒狼に繋がり、裏社会との抗争が始まった時に彼個人の呼称であることを隠すために、黒狼団という組織名が生まれたのだ。
「他にあるか?」
「そうだね」
ブランドの顔に笑みが浮かぶ。ヴォルフリックはシュバルツであることを、ラングトアの貧民街の仲間のことを忘れていない。彼に地元に帰る意思があることを再確認出来て、喜んでいるのだ。
これを最後に二人は沈黙する。獲物が釣れた気配を感じたからだ。通りを歩き続ける二人。
「おい」
その二人に待っていた声がかけられた。
「……何か用?」
振り返って面倒くさそうな顔で答えるヴォルフリック。声を掛けてきたのは店にいた男。ヴォルフリックたちが怪しいと考えていた男だ。予想があたった形だが、そんな素振りをヴォルフリックが見せることはない。
「……さっき店で使った金貨」
「ああ、御礼? いやだな。そういうの良いから。照れるだろ?」
「そうじゃない。あの金貨はどこで手に入れた?」
「……頑張って働いて手に入れた」
表情に警戒を浮かべるヴォルフリック。当然、演技だ。
「それではわからない。詳しいことを話してもらう」
「その前にまずお前が誰かを言え。役人か?」
「……そうだと言ったら?」
「大声で助けを呼ぶ。この街では役人のほうが悪だからな」
想定外の答えに相手の男たちの表情に戸惑いが生まれる。実際にヴォルフリックが助けを呼んだらどうなるかが分からないのだ。
「役人じゃない。そしてこの街の人間でもない。お前ら、何者だ?」
「…………」
ヴォルフリックの問いへの答えに悩む男たち。考えた結果、出た結論は。
「おいおい? 物騒なものはしまえよ」
ヴォルフリックたちを殺すことだった。剣を抜いた二人に止めるように言うヴォルフリック。
「お前らだろ? あの金貨のもともとの持ち主は」
このヴォルフリックの言葉を聞いて、男たちは完全に決心が固まったようで、その表情に厳しさが増した。
「それならこっちから話がある。俺たちにも仕事をくれ」
男たちの動きを警戒しながらも、手を上げて戦う意思がないことを示しながら話しかけるヴォルフリック。ただしブランドのほうはいざという時に備えて、戦闘態勢だ。それにヴォルフリックも剣を使わなくても攻撃は出来る。
「……何の話だ?」
ヴォルフリックの話を聞いても惚ける男。だが殺人の意思が少し緩んだのは明らかだ。
「仕事をすればもっと金貨がもらえると、ある男から聞いた。俺たちはその男よりも遥かに役に立つ」
「……その、ある男というのは何者だ?」
「さあ? 名前を聞く前に死んじまった。弱っちい男だってことしか知らないな」
笑みを浮かべてこれを言うヴォルフリック。それを見て男は、そのある男というのは、ヴォルフリックたちに殺されたのだと判断した。ヴォルフリックの狙い通りだ。
「……お前たちの名前は?」
「俺はアイン。こいつはフォルス」
偽名を伝えるヴォルフリック。偽名であることは明らかな名前なのだが、あえてそれを選んで伝えた。
「どこに住んでいる?」
相手は偽名であることを指摘してこなかった。名前などどうでも良いと思っているのか、偽名であることに気付けない立場の人間なのか。それは今はどうでも良いことだ。
「貧民街。これ以上の詳しい話をするほど、馬鹿じゃないつもりだけど?」
「……良いだろう。三日後にまたあの店で。そこで詳しい話をしてやる。ちなみに仲間は二人だけか?」
「もっと大勢、とだけ言っておく」
満面の笑みを浮かべているヴォルフリック。演技ではない。完全に獲物が釣り上がったことを喜んでいるのだ。
ヴォルフリックの答えを聞いた男たちは、背中を向けて、この場を去っていく。その無防備な背中に呆れるヴォルフリックだが、襲いかかるような真似はしない。その背中を追いかける者たちがこの先で控えているはず。殺すわけにはいかないのだ。
少しすると、その追いかける者たちが暗がりから姿を現した。クローヴィスとフィデリオの二人だ。
「あの二人、ちゃんとやれるかな?」
「相手もどうやら良いところの育ちみたいだから、いい勝負だな」
その二人の背中を見ながら話すヴォルフリックとブランド。クローヴィスたちの役目は相手のあとを付けて、素性を突き止めること。そんなマネをしたことがないだろう二人では不安だった。