ベルクムント王国の都ラングトア。大陸西部における最大都市であるラングトアはベルクムント王国の王都というだけでなく、西部全体の商業の中心都市という役割も担っている。ベルクムント王国国内だけでなく他国からも多くの商人がやってくるラングトアはその賑やかさ、華やかさにおいては東の大国オストハウプトシュタット王国の都ツェントラールに勝る大都市だ。
そのラングトアにある貧民街。光が強くなれば影も濃くなる、ではないが、大陸一豊かな都市であるラングトアは、貧民街の規模もまた大陸一。表社会からこぼれ落ちるわずかなもので、多くの貧しい人々が日々の糧を得られるということだ。
だが貧民街は貧民街。その場所で生きることは大変なことだ。まして庇護者のいない孤児は、飢えや病気以外の危険からも身を守らなければならない。
たとえば孤児狩り。誘拐しても訴え出る者がいない孤児は、人買いにとっては格好の獲物だった。
「助けて……誰か、助けて!」
大声で叫んでみても、貧民街で他人を助ける為に自分の身を捨てるような人はいない。唯一、彼女の声に応えてくれる兄は、少し離れた場所で動かないでいる。呼吸音は聞こえているので、生きているようではあるが、動けるような状態でないのは明らかだ。
「叫んでも無駄だ。ここで暮らしていれば、それくらい分かるだろ?」
声を掛けてきた男は、この場所で何度も人さらいを行っていることを示している。もしかすると見たことがある相手かもしれないが、声の記憶は蘇らない。蘇ったからといって助けになるわけではない。
「しっかし、こうやって間近で見ると、とんでもない上玉だな。まだ五、六歳だろうが、成長したらどんな美人になることか」
「おい。変な気起こすなよ。商品価値が下がっちまうからな」
「分かってる。それに、いくら可愛くてもこんな子供に手を出す趣味は俺にはねぇ」
だが彼女には商品価値がある。幼女を好むクズが、何年もかけて成長させてから楽しもうと考える鬼畜が世の中にはいるのだ。
「ほら立て。痛い目に遭いたくはないだろ?」
兄に対しては気絶するほど、死んでしまってもかまわないくらいの気持ちで暴力を振るった人さらいであるが、商品に対する態度は少し違っている。あくまでもほんの少しだ。
「立たねえか! ぶん殴るぞ!」
言うことを聞かなければこの通り。態度は一変する。
仕方なく立ち上がろうとする女の子。地面に転がっているはずの靴を手で探ってみるが、届く範囲にはないようだった。
「お前……目が見えねえのか?」
女の子の行動を見て、男は彼女が目が不自由であることに気がついた。
「まじかよ? 値が下がるな」
「それは分からねえ。逃げることが出来ねえのは却って良い。それに目が見えなくても顔が綺麗なら良いのさ」
「交渉次第だな。ほら立てよ。さっさと行くぞ」
女の子に立ち上がるように促す男。それに対して女の子は無反応。このまま連れ去られるよりも、殺されてしまったほうが良いのかもしれない。こんな思いが頭の中を巡っている。
「立ってって言ってんだ!」
焦れた男は女の子の腕を掴んで無理やり立たせようとする。それに抵抗する女の子。腕を引かれても、少々引きずられても立ち上がることをしない。
「てめえ、いい加減にしろよ!」
男の怒鳴り声。その怒りのままに殺してくれれば良い。そんな風に考えた女の子であったが、大切な商品を駄目にするつもりは男たちにはない。力任せに女の子を担ぎ上げてしまった。
足をバタバタさせて暴れてみるが、男はびくともしない。男の足が地面を踏む音が彼女の耳に届いた。頼みの綱の兄も苦しげな呼吸が聞こえるだけ。その呼吸音も遠く離れていく。
とうとう終わりの日が来た。女の子の心に絶望が広がっていく、その時。
「お前ら! 何をしている!」
男たちを咎める声が女の子の耳に届いた。わずかな期待、だがそれはすぐにしぼんでいく。声は彼女とそう年頃の変わらない男の子の声。兄が止められなかった男たちを止められるとは思えない。
「このガキが! 邪魔するつもりか!」
彼女を担いでいないもう一人の男が、男の子に向かっていく。それと同時に高鳴る男の子の鼓動。かなり緊張している様子なのが、彼女には分かる。
「……逃げて……逃げて!」
立ち向かっても傷つけられるだけ。女の子は男の子に逃げることを選んで欲しかった、のだが……何かが風を斬る音。
「こ、この小僧! やりやがったな!」
男の怒鳴り声がまた響き渡る。女の子には分かった。男の足音がさきほどまでとは変わったことに。間違いなく男は足を引きずっている。
「本物の剣だと? ふざけやがって! ぶっ殺してやる!」
女の子を地面に降ろして、駆け出してゆく男。男の言葉で現れた男の子は剣を持っていて、それでもうひとりの足を傷つけたことが分かった。それと同時に男二人の怒りが頂点に達していることも。
肉体を打つ音が女の子の耳に届く。それとほぼ同時に男の子のうめき声も。何度も何度も。
地面を何かがこする音。苦しそうなうめき声。男たちの荒々しい動き。男の子は一方的に暴力を振るわれているのだと女の子は分かった。だが彼女には何も出来ない。自分を助けようとしてくれた男の子の為に何もしてあげられない。ただ両眼から涙を流す以外には。
「これがとどめだ! 死ね、ガキ!」
「やめて……やめてぇええええっ!」
自分のせいで男の子が死んでしまう。それでも、ただ叫ぶことしか出来ない女の子の視界が――真っ赤に染まった。
「ぎ、ぎぁああああああっ!」
それに遅れて聞こえてきたのは男の叫び声。男の子の声ではない。彼を殺そうとした男の声だった。
赤い光が大きく揺れ動いている。不自由な目であるが、まったく見えないわけではない。その目に赤い光が映っている。やがて地面にしゃがみこんでいる女の子よりも低くなり、動かなくなった。
「……な、なんだ? なんなんだ! この化けっ! ぐっ、あっ……こ、この……」
苦しそうな男の声。その体が地面に倒れる音が聞こえた。
何が起こったのか女の子には分からない。分かるのは、近くで息をしているのが自分以外は男の子だけという事実。その呼吸が近づいてきていること。
「……だ、大丈夫、か?」
「あ、うん。大丈夫。貴方は?」
「全然、平気。楽勝だった」
そんなはずはない。男の子はかなりの傷を負っているはずだ。
「立てるか?」
「うん」
地面に手をつき、立ち上がる女の子。男の子の息遣いは自分の顔のすぐ前。もしかすると自分よりも年下なのかなんてことも考えたが、今はそんな時ではない。
「家、どこ?」
「えっと、あっ、兄がいるの。多分まだ倒れていると思う」
「じゃあ、助けに行こう。どこ?」
「えっと……」
周囲の様子を探る女の子。兄の呼吸音が聞こえてきたほうを指差した。
「えっ?」
その指が温かいものに包まれる。男の子の手であることはすぐに分かった。分からないのは、どうして男の子が手を握ってきたかだったが。
「じゃあ、行こうか。足下くぼんでいるから気をつけて」
「……うん」
男の子は自分が目が不自由であることに気がついて、手を引いてくれているのだと分かった。
「大きな石があるから右にすれるな……今度は水たまり。左に三歩、動こう」
ただ手を引いてくれるだけでなく、男の子は足下の様子を逐一教えてきてくれる。兄でさえ、ここまでの気遣いは、慣れてしまっているからだと分かっているが、してくれない。それがなんだか面白かった。
「あっ、そうだ。俺はシュバルツ。最近ここに越してきた」
「私はエマ。物心がついた時からここにいる」
「そうか……ああいうことはこれまで何度も?」
「これまでは上手く逃げていたのだけど、今回は待ち伏せに気がつけなくて」
怪しい足音が聞こえたらすぐに身を隠してきたのだが、今回はまんまと待ち伏せに嵌ってしまった。油断だ。注意深く周囲の様子に気を配っていれば、待ち伏せの存在には気づけたはず。死体でない限り、彼女から完全に気配を隠すことは不可能なのだ。
「そうか……」
それきり、足下の状況を伝える以外は黙ってしまった男の子。次に話しかけてきたのは彼女の兄を見つけた時だった。そこから先も沈黙。これは男の子の意思というより、話す余裕がないからだと女の子には分かる。気絶したままの彼女の兄を背負って歩く男の子。その息遣いは激しく、今にも倒れてしまうのではないかと心配になるくらいだった。
これに懲りて、二度と自分たちには近づいてこないかもしれない。そんな思いは彼女の心を暗くしたが、それは杞憂で終わる。そのあとも彼女が危機に陥るたびに男の子は姿を現した。時には、赤い綺麗な光とともに。
――そして、ある日。
「あ、あのさ、俺と一緒に暮らさないか?」
「えっ……?」
「もちろん、ロートも一緒に。うちの爺は俺よりも強いから、一緒に住めば安心して暮らせる。俺も安心出来る」
「……うん。分かった」
シュバルツの言葉をプロポーズだと受け取るほどエマは大人ではない。それはシュバルツも同じ。ただ一緒に暮らしていれば、側にいればお互いに安心出来る。そう考えただけだ。それでもエマはこれを一生のことだと受け取った。自分とシュバルツはずっと一緒に生きていくのだと。
これが二人の出会い。二人の始まりの時――
「なに、思い出し笑いしている? 気持ち悪いな」
過去の楽しい思い出に浸る時間はこの兄、ロートの声で強制的に終わらされた。
「昔のことを思い出していたの。シュッツと出会ったばかりの頃のこと」
エマはシュバルツをシュッツと呼ぶ。ただの愛称であるが、エマだけが呼ぶ特別な呼び名だ。他の人が同じように呼ぶとエマが不機嫌になったので、いつの間にか特別なものになったのだが。
「ああ……そうか」
このあとにエマの口から出てくる言葉は分かっている。ラングトアに戻ってきてからずっと、いつ言い出すかと思っていた台詞だ。
「兄さん、私、シュッツの側に行きたい」
予想していた通りの言葉。十年近く一緒に暮らしてきた。兄弟のような関係だったが、妹の感情がそれ以上のものに育っているのをロートは知っている。仲間うちは全員知っていると言っても良い。離れ離れでいられるはずがない。
「分かっている。でも、もう少し待て。ノートメアシュトラーゼ王国への旅の準備がある。それに長くここを離れることになるだろうから、色々と整理しておかなければならないこともあるからな」
「……ごめんなさい。私のわがままのせいで。皆にも迷惑を掛けてしまうわ」
自分がこの場所を離れることになれば、兄であるロートも付いてくることは分かっていた。目の不自由なエマを一人で旅に出すなんてロートが許すはずがない。大丈夫だと言える自信もエマにはない。
だからなかなか言い出せなかった。兄だけでなく、仲間たちにも迷惑をかけることが分かっていたから。
「皆、分かってくれる。黒狼団は元々、お前を守る為にシュバルツが作った組織だ。離れ離れでいるほうがおかしいのさ」
「でも今はそれだけの組織じゃないわ。皆の組織なのに」
いざ、シュバルツの側に行きたいと言い出したものの、仲間のことを考えると申し訳ない気持ちで一杯になる。シュパルツがいなくなり、さらに組織のナンバー・ツーであるロートまでいなくなることに、皆、不安を感じるに決まっているのだ。
「俺たちは戻ってくる。ノートメアシュトラーゼ王国に行くのはエマの為だけでなく、シュパルツを連れ戻す為でもある。仲間に悪いという気持ちを持つのは良いが、それで思い悩む必要はない。片が付いたら御礼を伝えれば良い。俺たちは皆、家族だ。それで十分なんだよ」
「……ありがとう」
兄の言葉は自分の気持ちを軽くする為のもの。それは分かっているが、仲間たちを家族だと思う気持ちはエマも持っている。ロートの言葉を否定することは出来なかった。
シュバルツの側に行く。これは自分のわがままだ。そうであればせめてそれが実現したあとは、仲間たちの為に出来ることを考えよう。考えてそれを実現しよう。こう心に決めた。
◆◆◆
エマがシュバルツの側に、ノートメアシュトラーゼ王国に行くと決めたことで、ロートも正式にそれを仲間たちに告げることとなった。自分もまたベルクムント王国を離れることと一緒に。
「いよいよか……分かっていたことだけど、正直、寂しいな」
ロートの話を聞いて、仲間のカーロは正直な気持ちを口にした。彼は仲間の中では最年長者。他の仲間がロートに遠慮していえないことも口に出せる立場だ。
「すまない。ただこれは分かってくれ。決して、エマの為だけにここを離れるんじゃない。シュバルツを連れ戻す為だ」
「分かっている。エマとシュバルツだけじゃあ、二人でどこかに言ってしまいそうだ」
重い空気を冗談でほぐそうとするカーロ。だがこれは上手く行かなかった。
「どれくらいで戻ってこれそうなの?」
具体的な期間を聞いてきたのはヘルツ。彼女もロートより年上、といっても彼女の場合は遠慮のない性格が、なんでも口に出してしまうだけだ。
「正直分からない。シュバルツでも簡単には行かないと言ってしまうような強敵みたいだからな」
「そう……爺ちゃんは私にとっても恩人だから敵討ちには反対しないけど、無理はしないでね? 亡くなった爺ちゃんよりも生きている貴方たちのほうが私は大事だから」
ギルベアトに助けられた仲間は多い。ただ剣を教えただけでなく、彼らが力をつけるまでは自ら、彼らを守る為に力を振るっていたのだ。
「分かっている。どうあがいても無理だと思えば、諦めさせる。俺ではなくエマが」
「……確かに。それはエマちゃんにしか出来ないことね」
冷静な時のシュバルツであれば別だが、熱くなった彼に言うことを聞かせられるのはエマしかいない。シュバルツにとって親同然のギルベアトの敵討ちを諦めさせるなど、彼女以外に出来るとはヘルツも思えない。
「不安にさせてしまうことは申し訳ないと思っている。だが俺たちは必ず帰ってくる。シュバルツも一緒に」
「分かっている。俺たちもその日が来るのを疑ってなんていない。頼んだよ」
「ああ、任せてくれ」
カーロのこの言葉を聞けて安心したロートは、出発の準備の為にまた別の仲間のところに行った。
その場に残った仲間たち。彼らにはまだ話すことがある。
「これから僕たちどうするのですか?」
ロートの前では言えなかった不安を口に出したのはピーク。
「そんなだから俺たちは置いていかれるのさ」
「えっ?」
物分りの良い態度を見せていたカーロの意外な言葉に驚きを見せるピーク。
「今の俺たちにはシュバルツを支える力はない。だから、ここに残ることになった」
ノートメアシュトラーゼ王国に向かうのはロートとエマだけではない。他にも何人か仲間が同行する。ロートは、ただシュバルツの側に行くというだけでなく、いざという時に助けになる拠点を作るつもりなのだ。その為のメンバーにここにいる仲間たちは選ばれていない。
「……そうだけど」
「だったら俺たちはどうするべきだ? ただシュバルツたちの帰りを待っているだけで良いのか?」
「それじゃあ、つまらないわね?」
カーロの言いたいことがヘルツにも分かった。彼はシュバルツやロートへの不満を口にしているのではない。ここに残る仲間たちを鼓舞しようとしているのだと。
「この場所を守るってこと?」
ピークもうっすらと理解した。これから何をするか。その覚悟を決めなくてはいけないのだ。
「それは最低限だろ? 俺たちがやるべきことは、あいつらが戻ってきた時に、びっくりするような場所にここをすることだ」
黙って話を聞いていたクロイツも会話に入ってくる。
「そうだ。俺たちの手で組織をもっと大きくする。それが出来て初めて、俺たちはシュバルツの仲間だと誇れるんだ」
認められるとはカーロは言わない。シュバルツは自分たちを仲間として、家族として認めてくれている。だが自分たちにその資格はあるか。ただ守られているだけ、指示された通りに動くだけだった自分たちはシュバルツを支えていたと言えるのか。そうではないとカーロは考えている。
「私は何をしようかな? 私が出来ることなんて男をたぶらかすことくらしかないけど?」
「なんでも良いのさ。自分が出来るすべてを使って、組織を大きくする。強敵を相手にしたシュバルツたちは、きっともっと大きくなって帰ってくるはずだ。ここをそんな奴に相応しい場所に、俺たちがする」
「そうね。やりましょう」「ああ、やってやる」「頑張ってみる」
決意を口にする仲間たち。リーダーを失った彼らは、それに落ち込むことなく、自らの牙を、爪を研ぐことを決意した。来たるべき日の為に。彼らもシュバルツ・ヴォルフェ=黒狼団の一員、狼の一人なのだ。