レンベルク帝国南西部の戦場がレンベル帝国軍の勝利で終わったとほぼ同じころ。その東ではまさに戦いが始まろうとしていた。傭兵王率いるマーセナリー王国軍二万に対するはゼムとアスヘイユそれぞれが三千を率いるレンベルク帝国軍六千。
三倍以上の敵軍を前にして、さすがにアスヘイユの顔にも緊張の色が強く浮かんでいる。
「待ってはくれそうもないな」
言葉に出したからと言って状況が変わるわけではないが、アステイユはこう呟かざるを得なかった。
アイトラハト王国での調練を終えてからも、鍛錬を疎かにしてきたつもりはない。以前に比べれば自軍はより精鋭になったと言い切る自信はあるのだが、対する軍を率いるのは傭兵王である。先の東方連盟戦争でも、戦略に色々と問題はあったにせよ、戦いそのものでは無敗の軍なのだ。防ぎきれるのかと問われて、出来ると断言するほどの自信はない。
「敵の陣形は既に攻撃のそれに変わっております。間もなくでしょう」
律儀にアステイユの呟きに答える副官。彼の胸中にも不安が渦巻いている。
「陛下の軍は今どこあたりだ?」
「先ほど来た伝令からの報告では、早くても、あと半日はかかるかと」
「そうか……」
この事態において、レンベルク皇帝自身も自ら兵を率いて戦場に向かっている。だが、マーセナリー王国とマリ王国の連合軍の偽装工作によって戦場を南西部と想定していたせいで、東部への移動に時間がかかっていた。
傭兵王の動きは想定以上の速さだった。傭兵王の戦い方は、相手の不意をついて本拠地を急襲するのが常である。進軍速度においては、他国軍の追従を許さないものがあった。
ゼムとアステイユの軍が、かろうじて守りに良いこの場所を押さえることに成功したのだが、結果として三倍の敵と向かい合うことになってしまっている。
「持ちますでしょうか?」
「持たせねばならん。逆に持たせることが出来れば地形的にはこちらが有利。そこに陛下の一万が加われば、相手を撃退することは難しくない」
「しかし、二万です」
自軍は六千。皇帝直卒軍が到着するまではこの数で戦うことになる。
「泣き言を言うな! 武を誇る我等レンベルク帝国軍が三倍程度の敵を恐れてどうする?」
「はっ! 申し訳ございません」
「……とは言ったもののだな」
部下を叱責したものの、アステイユにも三倍の敵を相手に半日以上耐え切れる自信があるわけではない。せめてあと半年。その期間があれば、もう少し自信を持てたであろうにとアステイユは思った。アステイユも兵たちもアイントラハト王国での調練を経て、自分たちの誇っていた武が、ただの思い上がりであることを知った。アイントラハト王国での三ヶ月を終えた後も鍛錬を怠ることはなかったのだが、いかせんその三ヶ月を足しても半年にもならない鍛錬期間である。いまだにアイトラハト王国軍における基礎訓練から脱しえていなかった。アイトラハト王国軍と同じような戦い方が出来るとはとても言える状況ではない。
ヒューガであれば、どう戦うのであろう。こんな思いがアステイユの頭によぎった。アステイユは気付いていない。自分が君主であるレンベルク皇帝ではなく、ヒューガを心待ちにしていることを。ヒューガがこの戦場に現れることなど、なんら約束されたものではないにも関わらず。
だが、そんな彼の気持ちに応えたかのように、伝令が使者の到着を告げた。
「アイントラハト王からの使者です!」
「何!? その使者は確かにアイトラハト王の使者だと言ったのだな!?」
「間違いありません」
「伝令の内容は!?」
使者はヒューガから送られた者。それを知ったアステイユの胸が高鳴る。
「一刻持ちこたえろと!」
「一刻……確かに一刻と?」
「はっ」
「分かった。下がって良い」
「はっ」
伝令を下がらせた後、アステイユは一度大きく深呼吸をした。気持ちを落ち着かせようとしたのだ。
「おい。困ったな、これは」
「何がですか?」
「正直、さっきまでは不安で胸が一杯だったのだが、今は……」
アイントラハト王国の使者の伝言を聞いて、その不安は消え去っている。
「少しわくわくします」
それは部下も同じだ。
「お前もか?」
「はい。アイントラハト王国軍の本気が見られるかもしれないと思うと、興奮が押さえられません」
レンベルク帝国軍との戦いでアイントラハト王国軍は全力を出し切っていない。演習の延長という程度の戦い方だったのだ。だが、連合国軍相手の戦いにそんな出し惜しみをする必要はないはずだ。
「そうだな……その為には一刻を耐える必要があるが」
『お前らぁ!!』
アウテイユが言葉を続けようとした時、突然となりの陣から戦場全体に響き渡るくらいの怒鳴り声が聞こえてきた。確かめるまでもない。聞き知ったゼムの声だ。
『ヒューガ王からのご指示だ!!』
『おおっ!?』
ヒューガからの指示と聞いて、兵たちがどよめき声をあげる。
『指示はひとつ! 一刻耐えろだ!』
『おう!』
『ヒューガ王もお優しくなったものだ! たった一刻の鍛錬で許してくれるそうだぞ!』
『おうっ!!』
離れた場所で聞いているアステイユにも兵たちの笑顔が感じられた。
『この気持ちに応えなくてどうする!?』
『おうっ!!』
『ヒューガ王に我等の鍛錬の成果を見せる絶好の機会だ! 皆の者、励めっ!!』
『おぉおおおおっ!!』
ゼムの檄に応える兵たちの気合の声が戦場に響き渡った。
「……兵に気合いを入れる手間が省けたな」
「そうですね」
「さて、ゼムの言うとおり、たった一刻だ。あの時の鍛錬に比べれば楽なものだな」
「はっ!」
「そうは言っても、ただ耐えているだけではヒューガ王に恥ずかしい。ヒューガ王の到着までには少しくらいは敵を削っておこう」
「はっ!」
「全軍に伝令! 敵を迎撃する! アイントラハト王国軍に我が軍の成長を見せてみろっ!!」
「はっ!!」
二万の敵を前にして、やや怯えの見えていたレンベルク帝国軍に活気が戻った。伝令の指示が広がるにつれ、陣営内に多くの兵たちの声が響き渡る。
最高に士気のあがった兵たちの様子を見て、アステイユの顔にも自然に笑みが浮かぶ。伝令ひとつで士気をあげるヒューガ。その面白味を改めてアステイユは感じた。
◆◆◆
戦場のあちこちから喚声があがっている。マーセナリー王国軍がレンベルク帝国軍への攻勢をかけてから既に一刻。頑強な抵抗をみせるレンベルク帝国軍を傭兵王率いるマーセナリー王国軍は崩せないでいる。
「なんで崩せねえ! こっちは三倍の兵がいるんだぞ!」
「やつら思ったよりもずっと精強だ! そう簡単には崩れん!」
「それを何とかしろって言ってるんだよ!」
味方は敵の三倍。勝って当然の戦いだと傭兵王は考えていた。だが実際には三分の一の敵に苦戦を強いられている状況。まさかの誤算に傭兵王は苛立ちを押さえられない。
「何とかしようとしてる! こっちは交代で攻め込んでるのに、相手に一向に疲れが見えない!」
苛立っているのは傭兵王の怒鳴られた部下も同じ。今は臣下の身であるのだが、元は一緒に傭兵として働いていた仲。文句を言い返すことに躊躇いはない。
「……仕方ねえな。向こうの大将がお出ましになるまで温存しようと思っていたが」
「それが良い。敵の大将が来るまでまだ時がある。休む暇は十分にあるはずだ」
「よし! ガロンの部隊を出せ! 一気に蹴散らすぞ!」
「了解! ガロン出番だ!」
「おう」
傭兵王配下のガロン率いる部隊はマーセナリー王国の精鋭部隊。マーセナリー王国のとっておきの決戦部隊だ。レンベルク皇帝の軍との決戦に備えて温存しておくつもりだったのだが、戦線の膠着を打開するために、その部隊の出撃に傭兵王は踏み切った。
指示を受けて後衛に控えていたその部隊が一気に前線に飛び出していく。
「ガロンたちの空けた穴に後続を突入させろ! これでけりをつけるぞ!」
傭兵王には絶対の自信がある。元傭兵としていくつもの修羅場をくぐった傭兵たちを、更に実戦を経て、鍛え上げた部隊。生半可な軍に遅れをとるわけがない。
だが、その傭兵王の期待はわずかの間に見事に裏切られた。前線に投入されたその部隊は初めのうちこそ、傭兵王の期待通り、敵の前線に穴を開け、さらに深く敵陣に踏み込んで敵陣を大きく切り裂いていくかにみえたのだが、徐々に敵軍に入り込んだはずのその部隊は小さくなり、やがてどこにいるのか分からなくなってしまった。
「……どうなってる? ガロンの野郎はどうした!?」
「ここからだと良く見えん」
「良く見えんじゃねえ! 消えちまってるじゃねえか! 後続は何をしてる!?」
「……逆に押し込まれているように見えるな」
ガロンの部隊があけた穴を押し広げようと、その後に続いて突撃をかけていた部隊が次々と押し返され、後ろに下がってきている。
その更に後ろから最前線に姿を現した部隊。傭兵王がいる場所からも良く見える。黒ずくめのその部隊の前に立っていた自軍の兵たちは次々と統制を失い、終いには背を向けて逃げ出す者まで現れている。
「なんだ、ありゃ!? あんなのがレンベルクにいるなんて聞いてねえぞ!」
「俺だって知らん! 皇帝の部隊なのか?」
自軍の最精鋭部隊を返り討ちにしてしまった部隊。傭兵王もその部下もその部隊の情報を持っていなかった。
「向こうの大将が現れるのは、まだ何刻もかかるはずだろ!」
「じゃあ、元からいたんだ!」
「この兵力差の中で温存してたっていうのか?」
「そうとしか考えられん」
「……とにかくあれを何とかする。後衛も一気に押しこませろ! 数で押し切るんだ!」
「おい、後からもう一万がくるんだぞ!?」
全軍で押し込むという傭兵王の命令に、躊躇いを見せる部下。レンベルク帝国軍にはまだ到着していない皇帝直卒軍という新戦力がある。それが到着する前に自軍は余力を失って大丈夫か心配なのだ。
「ここで兵が減ったらもっと悪いわ! いいから全軍で押し込め!」
「分かった。全軍、突撃だぁ!」
号令の声と共にマーセナリー王国軍の、傭兵王直卒部隊を除く、全軍が前進を始める。思い思いの武装で身を固めた兵たちが、我先にと前方に向かって駆けていく。
前衛で戦っている兵と増援軍の距離が縮まり、もう少しで合流しようかとした瞬間。その兵たちを巻き込むように大きな火柱がいくつも立ち上がった。
「なんだ、ありゃあ?」
「あれだけの数の上級魔法を一度にだと?」
「上級魔法なのか?」
「火属性の上級魔法ファイアストームだと思うが……」
部下も知識として知っているだけ。詳しいことは分からない。火属性であることと、その威力からこう判断しただけだ。
「おい、レンベルクってのはあんな数の上級魔法士を抱えているのか?」
「知らん」
「どうなってんだ? 全然情報が合ってねえじゃねえか? 潜り込ませた傭兵どもは何をしてやがった?」
きちんと敵戦力の情報を調べ上げ、それを分析した上で傭兵王は攻め込んできている。だが今の状況は事前に得られた情報にはないものだった。
「今はそんなことを言っている場合じゃないだろ! 敵の魔法士を黙らせるのが先だ!」
「そんな事はさっきからやってんじゃねえのかよ。魔法使いの数だってこっちが上じゃねえのか?」
「そのはずだ」
「じゃあ、なんで上級魔法なんて唱えてる時間を与えた? 魔法使いどもに攻撃を強めるように言え!」
「無茶言うな! もう一刻以上、魔法を使い続けてるんだぞ!? 全員が魔力切れになっていてもおかしくない!」
「じゃあ、敵はなんで?」
「新手だ!」
前線に急いだ上、目の前に現れた火柱により陣形も何もなくなった後衛部隊の側面へ騎馬の集団が向かっている。騎馬の集団から放たれる色とりどりの魔法。その魔法によって真横から攻撃された後衛部隊はなお一層混乱を極めることになった。
「魔法使いが騎馬だと? そんなの聞いたことねえぞ?」
「俺だってだ」
魔法を唱えるには、難しい魔法であればあるほど精神の集中を必要とする。よほどの上手でないと馬に乗りながら行えることではない。特に魔法士は魔力を高めることを重視していて、他の鍛錬を行うことは少ない。ましてや、馬に乗る訓練に時間を割くことなどありえない。これが傭兵王たちの知る常識なのだ。
「まずいぞ。完全に混乱してるじゃねえか」
「……本陣を出すしかないな」
「なんてこった。六千の敵に全軍でかかるのかよ」
「それが嫌なら兵を引かせろ。このまま続けたら、敵の大将が到着した瞬間に負け確定だぞ」
「俺が負けるだと?」
「いいから決断しろ!」
「……本陣を前に出す。目標はあの邪魔くさい騎馬隊だ」
実際のところ、傭兵王に選択の余地はほとんどない。多くの傭兵が彼に従っているのは、彼が強いから。勝者の側に立って、美味しい思いを死体と言う者がほとんどだ。
ここで敗北すれば、傭兵王の威信はがた落ちだ。ろくに忠誠心など持たない傭兵たちが引き続き傭兵王に従う理由を失ってしまう。
「分かった! 突撃用意! 目標は敵騎馬隊! 殲滅しろ!」
『おお!!』
号令に応えて、直卒軍六千が一斉に前に出る。彼らはこれまで戦いに参加していない。体力も魔力も十分にある。まして先頭に無敗を誇る傭兵王がいる。士気の面でも十分だ。
戦場を駆け回る騎馬隊に向かって、身体強化魔法を使い、徒歩で襲い掛かった。
「散会!」
だが、騎馬隊はそんな傭兵たちをあざ笑うかのように、離合集散を繰り返して、まともに戦おうとしない。前線で激しい戦いが行われている中で、まるで鬼ごっこでもして遊んでいるような奇妙な光景が広がることになった。
「卑怯だぞ!」
先頭で駆け回る傭兵王。彼もまた必死で、敵の騎馬を追いかけていた。
「やられた! これは罠だ!」
「罠! こんな罠があるか! 敵は逃げてるだけじゃねえか!」
「前線の統制が取れていない! てんでバラバラに戦っている! このままでは崩されるぞ!」
騎馬隊との鬼ごっこを繰り広げている間に前線の戦況はさらに悪化していた。
「なんだと?! じゃあ騎馬隊はほうっておく! こうなったら前線を突き破るぞ!」
「分かった! 騎馬は無視しろ! 前線に突入だ!」
「おお!」
前線への突入を指示したつもりだったが、それはうまく伝わらなかった。騎馬を追いかけることにより、あちこちに分散してしまった直卒軍の兵たちは、号令を聞かないまま、追いかけっこを続けている。個々の傭兵の力に頼りきり、確たる指揮系統を確立できていなかったマーセナリー王国軍の弱点がここにきて表にでた。
それは傭兵王も分かっている。だからこそ、他国の軍を真似て、統制らしきものを取り入れようとしていたのだが、今はそれも完全に裏目に出ている。個人の判断まで放棄して、指示されるままに動いている、もしくは動かないでいる兵が出てきているのだ。
結局、本陣を動かして自らも戦闘に入ってしまった時点で、傭兵王は完全にレンベルク帝国軍、というよりはアイントラハト王国軍の罠にはまっていた。傭兵王がいなければマーセナリー王国軍など烏合の集に過ぎない。傭兵王を指示できない状態にすれば勝ちというソンブの戦術が見事にあたったのだ。
六千の軍が分散したところで、アイントラハト春の軍は反撃に転じる。バラバラになっていた部隊をあっという間にひとつに纏め、数百単位で固まっているマーセナリー王国軍の兵たちに向かって、突撃を繰り返した。同数での戦いであれば、マーセナリー王国軍の側に勝ち目はない。いくつかの集団が次々と突き崩され、完全に各個撃破の形になっていった。
「まずい! まずいぞ、これは!」
「こうなれば敵の頭を潰す!」
「頭といってもレンベルク皇帝はまだ戦場に現れていないぞ?」
「この戦場を統率しているのはレンベルク皇帝じゃない……あいつだ!」
傭兵王が指差す先にはひときわ大きな馬にまたがった男がいた。ヒューガだ。ヒューガが戦場を指揮統制していることを、この混乱の中で見抜いたのは、さすがに戦いに身を置き続けている傭兵王というところだ。
他の兵が後に続いているかなど一切気にすることなく、傭兵王はまっすぐにヒューガに向かっていった。ヒューガが正面のマーセナリーの部隊と向かい合って戦っていることなどお構いなし。後ろから馬上のヒューガに斬りかかっていった。
完全に不意を突いた形であったが、傭兵王の剣は、ヒューガが乗っている馬、実際はホーホーであるコクオウだが、が真横に飛んだことで見事にかわされた。
「なんだと!」
想像していなかった事態に思わず傭兵王の動きが止まる。そこへ背後から剣が振り下ろされてきた。とっさにそれに反応し、剣で受ける傭兵王。そのまま前に転がるようにして、後ろから斬りかかってきた敵との距離をとる。
「さすがだな。うまく不意を突けたと思ったのに」
傭兵王の目の前には、馬のような生き物にのった銀髪の男、ヒューガがいた。不意打ちをやり返されたのだ。
「てめえ、卑怯だぞ!」
「卑怯? 先に後ろから斬りかかってきたのはそっちだろ?」
「うるせえ! 俺が言っているのは馬になんか乗っていることだ」
「もしかしてお前、目が悪いのか? コクオウが馬に見えるなんて……」
信じられないという顔をヒューガは傭兵王に向けている。
「なんだか分からねえから馬って呼んでるだけだ!」
その態度に益々傭兵王は苛立ち、その声は大きくなる。
「じゃあ、せめて馬のような生き物って言えよ」
「てめえ、俺を馬鹿にしてるのか!?」
さらにヒューガの挑発は続く。
「正しい言葉の使い方を教えているだけだ」
「……いいから降りろ! 一対一の勝負だ!」
「嫌だ」
「何だと?」
「これは戦争だろ? なんで一対一で戦う必要がある?」
「それは……」
ヒューガの問いに言葉を詰まらせる傭兵王。一対一で戦う理由など、彼にも思いつかない。彼は騎士ではない。正々堂々と戦うなんて真似を尊ぶ気持ちはないのだ。
「理由を言ってみろ。俺がお前と一対一で戦わなければいけない理由を。それが納得いくものであるなら、考えてやる」
「そんなものがあるか!」
「少しは考えろよ。納得すれば考えるって言っているんだ」
「……男としての意地だ」
「おい、それが傭兵王の言葉か? 傭兵が意地に命を賭けるのか?」
「それは……」
傭兵王にはヒューガの言っている意味が良く分かる。傭兵に意地なんて関係ない。なんだかんだ言っても食べていくために傭兵なんてやっているのだ。生き延びてこそ明日の稼ぎがある。死ぬと思えば逃げるだけ。それは傭兵としての当然の心得だ。
「馬鹿野郎! さっさと斬りつけろ! それはそいつの時間稼ぎだ!」
少し離れたところから、声が聞こえてきた。前を遮るアイントラハト王国軍の兵を振り払いながら、なんとか傭兵王に近づこうとしている副官の声だった。
「なんだと?」
「ばれたか。まあ、それなりに時間は稼げたから良しとしよう」
「ふざけるな!」
「っと」
怒りに心を支配されながらも、傭兵王の剣は鋭かった。コクオウのサポートもあり、それをなんとか躱したヒューガであったが、そのままバランスを崩して、背中から地面に落ちてしまう。無様にひっくり返るようなことはなかったが、コクオウから落ちたヒューガに逃がす隙を与えまいとひたすら剣を振るう傭兵王の攻撃をかわすのに必死で、その場を離れる余裕はない。
「ヒューガ!」
それを見て、ホーホーに乗ったまま、ヒューガの元に駆け寄ろうとするエアル。だが、ヒューガは軽く手を上げて、それを制した。傭兵王の剣はまったくヒューガを傷つけることが出来ていない。これであれば避けきれる。ヒューガはそう判断した。
「ちょこまかと逃げ回りやがって、ちゃんと戦いやがれ!」
「そう思うなら、ちょっと攻撃止めろ。こっちが攻める隙がない」
「ふざけるな! じゃあ、このまま死んでしまえ!」
「断る」
完全に怒り心頭に達した状態の傭兵王。ひたすらヒューガに斬りかかるが、剣先がヒューガに届くことはなかった。
「落ち着け! もっと冷静に攻めろ!」
副官の声が傭兵王の耳に届く。だが、その声は無駄だった。傭兵王は焦っていた。確かに散々におちょくられて怒っている。だからといって怒りに我を忘れているわけではない。攻撃はきちんと本来の形で行っているのだ。
だが、それがあたらない。目の前にいる男は、自分が考えていた以上に強かった。自分は間違った選択をしてしまったかもしれない。傭兵稼業で培われた勘がそれを告げている。
「……お前、本当に傭兵ギルドのSランクなのか?」
「なんだと?」
「Sランクと立ち合うなんて初めてだけど、想像と違った」
「どう違うって言うんだ!?」
「思ったよりも弱い」
「……なんだと?」
「Aランク傭兵とは戦ったことがある。正直その時は死ぬかと思った」
これはヒューガがエルフ救出で大陸全土を駆け回っていたときだ。貴族の護衛に雇われていた傭兵との戦いになった。結果として逃げ延びたが、ヒューガの体にはそのときの傷跡が今も残っている。
「うそだ!」
「その時よりは俺も強くなっていると思うけど。お前とその傭兵にランクひとつの差があるとは思えない」
「……黙れ!」
「そういえば前にセレネとSランクについて話した事があったな。Sランクは架空の存在。もしかして正しいのか?」
「黙れ! 黙れ!」
「なるほど。そういう事か」
傭兵王の反応がその事実を証明している。ヒューガとのやり取りは周りの者にそう感じさせるものとなっていた。傭兵王の反応も悪いが、ヒューガが意識的にそう思われるように応えた結果だ。
「Sランクは存在する! 俺がそのSランクだ!」
「これ以上、騒がないほうがいいぞ。どうやら周りにも聞こえてしまったみたいだ」
「何?」
傭兵王が辺りを見渡すと先ほどまで戦っていたはずので自軍の兵たちが手を止めて、自分を見ていた。傭兵王にはその彼らの目が自分を責めているように感じた。嘘つき、そんな言葉が今にも自分にかけられるような気持ちになる。
「……ち、違う。俺は本当に!」
「もう良い! 引きあげるぞ!」
なんとか傍まで辿り着いていた副官が傭兵王の腕を取って、ヒューガから距離を取らせようとしている。
「俺は!」
「そんな事はどうでも良い。この戦は負けだ。逃げるぞ」
「あ、ああ」
逃げる、その言葉に反応して動き出したのは傭兵としての性であろうか。傭兵王は副官とともにヒューガに背を向けて、駆け出していった。それを追うことなく見送るヒューガ。
「良いの?」
そんなヒューガにエアルが声をかけてきた。
「ちょっと悩んだけど、傭兵王がいなくなれば、マーセナリー、それにダクセンも無法地帯になるような気がする。うちには関係ないことだけど、あまり近くの国が荒れるのもな」
「そう……とりあえず勝ちかしら?」
「今日は。再侵攻してこなければ、この戦争は、になるかな?」
結果、この戦争はレンベルク帝国の勝利で終わることになる。傭兵王がSランクだったことは虚偽。この噂が逃げ帰った兵たちによって、一部はアイントラハト王国の忍たちによって、広まってしまったのだ。初めての敗戦とその噂により傭兵王の権威は完全に失墜。各地で傭兵たちが勝手に振舞うようになってしまった。それにさらにマリ王国の欲も絡まり、状況はさらに混沌としたものになってしまう。傭兵王としてはそれを何とかするので精一杯。再侵攻どころではなくなった。