照明の灯りに照らされた黒い巨体。多くの人々が、子供はまた異なるだろうが、想像する鬼(おに)そのものの姿をしたそれは、圧倒的な力を持っていた。精霊力云々の問題とは思えない。ただ力が強いのだ。
特殊戦術部隊の能力者たちの攻撃を手で弾き飛ばし、その巨体からは想像出来ない敏捷さで移動し、人々を殴り倒していく。
支援部隊の攻撃も通用しない。銃はその体に傷をつけることも出来ない。ダークパレットに込められた『穢れ』も意味はない。攻撃する側は分かっていないが、相手は穢れそのものと言える存在なのだ。通用するはずがない。
時の経過と共に地面に転がる死体の数が増えていく。戦える人が減れば、それだけその勢いは加速する。相手にとっては一方的な殺戮対象なので、実際には追いかける時間が増えて、減速するかもしれないが。
「……なんだ……なんなんだ、あれは? 朔夜! こんな話は聞いていないぞ!?」
自分たちの力が通用しない。尊の時と同じような状況ではあるが、それとはまた話が違う。殺戮者は何者で、どこから現れたのか。何も分からない状況で、ただ死の時間を待つだけなのだ。
「……知らない。俺は知らない」
朔夜も百武と変わらない。突然現れた殺戮者が何であるかなど分かっていない。
「知らないはないよね?」
「ミコト!? お前はあれが何か知っているのか!?」
「君が呼び出した存在」
「な、なんだって?」
尊の言葉に驚く朔夜。朔夜本人にはまったく心当たりがないのだ。
「正確にはそれを手伝っただね。君は桜にまんまと騙されて、この世界に彼等を呼び込むのを助けた。責任取って倒してよ」
「馬鹿な……俺はそんなことをしていない!」
「したよ。君はこの世界に穢れをまき散らし、彼等が住みやすい環境にしてあげた。彼等が生きる空間と、人の住む空間を繋げてしまった。君が黄泉の鬼を呼び込んだ」
「そんな……」
尊の言葉を否定しようと思うが、全てを否定することは出来ない。穢れをまき散らした、という点に関しては、心当たりがある。もちろん「黄泉の鬼を呼び込む」なんて目的の為ではない。朔夜本人はそう思っている。
「言っておくけど、この世界に来たのは彼一人じゃないから」
「…………」
さらに尊の言葉に衝撃を受ける朔夜。
「それでもまあ、今、目の前にいるのは彼一人だから。頑張って倒して」
「……ま、待て!」
この場を去ろうとする尊を呼び止める朔夜。だが、それに従う義理は尊にはない。足を止める気配は、なかったのだが。
「あっ、忘れてた。百武さん! 僕の預言あってたね!」
「……預言?」
「貴方の未来。後悔と絶望の表情を浮かべて死ぬって言ったの覚えてない? どうやら、その通りになるね?」
「…………」
覚えている。確かに尊はそれを自分に告げた。すでに真っ青になっていた百武の顔が、青を通り越して、真っ白になる。
「頑張って。頑張っても無理だけどね。彼等の力を用いて強くなった貴方たち紛い物が、本物に勝てるはずがないから」
残酷な言葉を残して去って行く尊。残された朔夜と百武は、絶望の表情を浮かべて立ち尽くしている。このまま死ねば尊の預言通りだ。そして彼等に待っているのは確実に死。ただ一つ、わずかな希望が残っているが、彼等にはそれは分からない。
そのわずかな希望の為に尊は朔夜たちから離れて走っている。
「ミコト! どこに行くのよ!?」
一人ではない。月子と天宮、それにコウや牙といった仲間たちも一緒だ。鬼の圧倒的な力を前にして為す術が思い付かない彼等には、尊しか頼る相手がいないのだ。
「桜のところ!」
尊の向かう先は、敷地内の建物。その地下に桜はいるはずなのだ。
「桜子? あっ、助けに行くの!?」
「違う! 殺しに行く!」
「えっ……?」
まさかの答えに月子の足が止まる。
「彼は言っていた。事が起きたら、彼か桜子ちゃんのどちらかが死ななければならないって」
動揺している月子に天宮は以前、聞いた話を伝えた。
「貴女はそれに納得したの!? そんな馬鹿な話に!」
だがその話は月子の怒りを呼ぶことになった。だがこの場合は、それに怯む天宮ではない。
「納得なんてしていない! 私は桜子ちゃんにも死んで欲しくない! だから、彼と一緒に戦うの! 何が相手か分からないけど! とにかく戦うの!」
月子以上の勢いで、自分の想いを言葉にしてきた。それに呆気にとられた月子。
「……意外と熱血」
口から出たのは、この言葉だった。
「えっ?」
「でも、そうね。貴女が正しい。二人を助ける為に私も戦う。行きましょう」
「ええ」
また走り始める二人。尊との距離はかなり離れてしまったが、それは問題ない。桜のいる建物は軍の施設。セキュリティーは万全だ。さらに桜がいる場所には、特別な処置が施されているはず。それを破るには時間がかかる。すぐに追いつけるはずだ。
実際に二人はすぐに尊に追いついた。ただ追いつけた理由は、思っていたのとは違っていたが。
「……バレてた」
目の前に立ち塞がっているのは黄泉の国の鬼。特殊戦術部隊との戦い、殺戮を放り出して、尊の行く手を阻んでいる。
「どうするの?」
「……戦うしかない」
「勝てるの?」
「勝つしかない。本当は戦いたくないけど……やるしかない!」
覚悟を決めて前に出る尊。それに月子と天宮、他の面々も続く。
「これ、貸してあげる」
「えっ?」
差し出された剣に驚く天宮。
「どうして彼女に貸すのよ?」
月子は尊が天宮を選んだことに不満そうだ。
「彼女には穢れが混じっていない。月子たちには悪いけど、この中で彼に対抗出来るのは僕と天宮さんだけだ」
「そんな……」
自分たちは役に立たない。尊にそう言われて、月子は落ち込んでしまう。だが、この落ち込みはすぐに解消することになる。
「……嘘。月子も穢れてないよ。さっき話したばかりのことを、もう忘れてるの?」
「……どうして、この状況で冗談が言えるのよ!?」
「彼女の緊張をほぐそうと思って」
その天宮は呆れ顔を見せている。たしかに緊張はほぐれたようだが、これで良いのだろうかと話を聞いている周囲の人たちは思った。
「天宮さんに剣を貸すのは相性の問題。彼女の力がより彼には有効だってこと」
「……そうだとしても」
尊の為に何も出来ないのは悲しい。
「月子たちには僕の支援をお願いする。彼を倒すには力を貯めなければいけない。それには少し時間が必要だから」
「支援って?」
「僕と彼女に致命的な攻撃が当たるのを防いで。彼は僕たちだけを攻撃するわけじゃないから、結構大変だからね?」
「……分かった」
尊と天宮を気遣いながら、自分の身も守る。尊の言うとおり、かなり厳しい役割だ。それでも鬼を倒す為には、それをやるしかない。
それぞれが強い決意を持って一歩前に出る。その決意に反応して、体に纏う精霊力がその色合いを強める。尊の場合は、より色を失い、黒というより深い闇という印象が強まるのだが。
鬼のほうも尊たちの戦気に反応して、動き出した。一足飛びで尊たちの目の前に来ると、その長い腕を振り回す。それを剣で受けようとした天宮だが。
「焦るな! 出番はまだ先!」
尊の声を聞いて、大きく後ろに跳ぶことでそれを避けた。
「攻撃はまだ良いから、気持ちを高めて! 彼女の力を剣に込める! それを意識して!」
さらに尊は天宮に指示を出す。その尊も、動きは最小限にして、何かに気持ちを向け始めている。ここからは月子たちが頑張るところだ。
「コウ、攻めて!」
「守るんじゃねえの!?」
「気を逸らす為よ! これくらい言わなくても分かれ!」
「いや、初めからそう言えよ」
文句を言いながらも炎の矢を、鬼に向けて放つコウ。少しでもダメージを、と考えたのだが、それは無理のようだった。直撃を受けても、相手は視線を向けるだけ。痛みを感じている様子はない。
「良いわよ! その調子!」
「……なんか複雑」
攻撃が通用していないのに褒められても嬉しくない。
「馬鹿! 油断するな!」
攻撃は通用しなくても鬼の注意を引くことには成功していたのだ。月子の言葉に気を取られている隙に、鬼はコウとの間合いを詰めて、蹴りを繰り出してきた。
破裂したのは、コウの前に展開された土の壁。
「一撃だと!?」
自分が構築した壁を一撃で粉砕されて、土門は驚きの声をあげた。
「まだまだ! これならどうよ!」
鬼の前後左右の地面から、もの凄い勢いで伸びていく木。さらに牙が操る根が、その木の周りを塞いでいく。鬼をその場で動けなくしようという考えだ。だが。
「ええっ!? せっかく育てたのに!」
鬼の一蹴りでミズキが伸ばした木は、根元から折れてしまう。その隙間から抜け出した鬼。
「逃げろ、ミズキ!」
土門が叫ぶが、その声がミズキに届くより先に、鬼の腕が彼女を吹き飛ばす。激しく地面に叩きつけられる、と思った瞬間に落ちる勢いが、地面から吹き上げる風のおかげで弱まった。
「フウ! ナイス!」
「ミズキ! 動けるか!?」
フウを褒める声とミズキを心配する声。後の声を出した土門は、地面に倒れているミズキに駆け寄ろうとするが、鬼のほうが動きが速かった。
「ミズキィイイイイッ!!」
ミズキに向かって振り下ろされた腕。だがそれはミズキではなく、その前に展開した土門の壁でもなく、その手前の地面を抉っていた。
「ミズキ! 早く、離れて!」
月子の声に反応したのはミズキではなく土門。壁を展開する為に緩めた駆ける勢いを、もう一度速めてミズキに駆け寄り、その体を抱えて走り出した。その土門の背中に鬼の腕が振るわれる。
だが、今度もその腕は大きく外れることになった。
「よし! 効いている!」
鬼の目を攪乱しているのは、月子の幻影。鬼相手に通用するか不安だったが、どうやら少しは効いているようだ。少しは、というのはどこに誰がいるのかは、鬼は認識出来ているから。
自分の目測を狂わせているのは月子だと認識し、その彼女を先に倒そうと動き出した鬼。
「月子を守れ!」
月子が標的にされたと考えたコウが、彼女を守るように皆に向けて叫ぶが。
「私は平気! 自分たちの役目を忘れないで!」
月子はそれを拒否した。月子たちの目的は時間稼ぎ。尊と天宮から鬼の目をそらし、彼等の戦う準備が整う時間を稼ぐ為だ。鬼が自分に向くのは望むところだ。
「月子!」
だが月子に向けられた鬼の攻撃は凄まじかった。少々、目測が狂っても関係ない。もの凄い勢いで振り回されている腕と足。風切る音は、まるで暴風が吹き荒れているようだ。
フウが少しでも、当たった時のダメージを軽減しようと月子の周りに風を展開するが、それは簡単に、鬼が生み出す風圧で消し飛んでしまう。
「あっ……」
そのもの凄い風圧は、逃げ回っていた月子の体も揺るがせる。バランスを崩して、地面に倒れ込む月子。風切る音が目の前に迫っている。
「……ミコト」
月子の呟きの声。それに応えたのは。
「うぉおおおおおおおおっ!」
尊の、彼らしくない、雄叫びだった。尊の背中に広がる八本の黒い影。蛇というより剣のように見えるその影の一つの先に浮かびあがったのは、意味不明の文字だった。
「い、行けぇええええっ!」
鬼に向かって真っ直ぐに伸びる文字の浮かんだ影。影に浮かぶ文字が輝きを増し、その光が宙に映し出される。
「建御雷之男神、来臨!」
眩い閃光が視界を塞ぎ、轟く雷鳴が聴覚を狂わせる。真っ白な光。それが収まった時、目に映ったのは、落雷の直撃を受けてブスブスとくすぶっている鬼。それでもまだ、ゆっくりとではあるが動こうとしている鬼。
攻撃した尊もまた、血をまき散らしながら仰向けに倒れていく。
「……い、今だ。行けっ!」
倒れながらも天宮に向けて叫ぶ尊。それに応えて天宮は、さきほどの雷に負けないくらいの眩い光をまとった剣を手に、鬼に向かって突き進んでいく。
剣を振りかぶり、地を蹴る天宮。人の跳躍力を遙かに超えて、高く舞い上がった天宮は、鬼の頭上から剣を振り下ろした。
地に降りた天宮。その目の前で鬼の体が二つに割れていく。地に落ちる前に霧散していく鬼の体。
「……やった?」
呆気ない幕切れに、天宮は勝利の実感を掴めないでいた。
「あっ、尊!」
地に倒れた尊を思い出し、慌てて後ろを振り返る天宮。その時には、すでに月子が尊の側で膝をついていた。
「…………」
「……ご苦労だったな。それとも助かったと言うべきか?」
天宮に声をかけてきたのは牙だ。
「貴方は確か……」
近くで顔を見て、天宮は彼が新竹下通りのカフェで会った店員だと気が付いた。
「ミコトが心配だ。様子を見に行こう」
「あっ……ありがとう」
尊の側に行くことに躊躇いを覚えていた天宮にとって、牙の言葉は救いだった。
「何が?」
「……とにかく、ありがとう」
「……行くぞ」
牙と二人並んで、尊の倒れている場所に向かう天宮。二人だけではない。フウもコウも、土門に背負われてミズキも二人の下に向かっている。
近づくにつれて天宮の心から不安が消えていく。尊の声が、月子と何か言い合いをしている声が聞こえてきたのだ。
「私はミコトを心配して言っているの」
「それは分かってる。でも、彼を倒すにはこうするしかないから」
「そうだとしても。ちょっと、貴女もミコトに何か言ってよ。無茶しすぎなのよ、ミコトは」
「あっ……あの、何があったの?」
いきなり月子から話しかけられて戸惑う天宮。ただそれ以上に、何があったか分からなくて、戸惑っている。
「これ見て」
「えっ……?」
月子が天宮に見せたのは、血だらけの右腕。どうすれば、ここまでボロボロになるか考えつかないほどの酷い状態だ。
「……過ぎた力は身を滅ぼすってね。怪我で済んだのだから僕は運が良い」
「……馬鹿なの?」
「はい?」
「どうしてこんな無茶をするの!?」
地面に跪いて尊の手を取りながら天宮は、つい先ほど月子が尊に向けたと同じ文句を口にした。
「天宮さん、痛い」
「あっ……ごめん」
「ほら、天宮さんは痛いと言えば、すぐに離してくれる。それに比べて月子は」
「どうせ私は、彼女と違って優しくないわよ。でもこれ……」
治るの、という問いを月子は途中で止めた。聞こえてきたプロペラ音が、それを止めさせたのだ。
「おいおい。まだ終わりじゃないのか? 勘弁してくれよ」
うんざりした様子で、コウが文句を口にする。
「あれが来なくても終わりじゃない。桜を止めない限り……いや、もうその段階じゃないか」
「そうだった。桜子を……」
尊の話で目的は桜を倒す、止めるが皆の気持ちだが、ことだったと思い出した。まだその邪魔をする鬼を倒しただけだと。
「……多分、もういない」
「えっ?」
「気配が完全に消えた。どこかに移動したのだと思う」
「……じゃあ、これからどうするの?」
桜を止めるという目的は叶わない。次の行動をどうするのか。この場所にはまだ月子たちにとっての敵がいる。近づいてくるヘリコプターはまず間違いなく、その敵の仲間だ。
「……逃げる」
「あっ、そう。そうよね」
尊の言葉に月子たちはホッとした。これ以上、戦う力は残っていない。体力的にも精神的にも。鬼を倒せたところで、燃え尽きているのだ。
「じゃあ、急がないと。もう見つかっているか」
ヘリコプターのサーチライトが自分たちを照らしている。ここにいることはもう知られているのだ。
『天宮くん。無事か?』
「えっ?」「はっ?」
いきなり聞こえてきた声に戸惑いの声をあげる月子たち。
「あっ、これ無線の。えっ、この声って?」
『葛城だ。古志乃くんもそこにいるのか?』
無線の声は解任された葛城陸将補のものだった。それが分かって天宮は少しホッとした。葛城陸将補であれば尊に酷い真似はしない。そう思ったのだが。
「……その剣は貴女に貸しておきます」
「えっ?」
「僕にはもう軍で働く理由がない。軍に残ることは、制約にしかならない」
桜の為に軍で働く必要はなくなった。この先、尊は新たな目的の為だけに行動するつもりなのだ。
「……わ、私」
「天宮さんは日の当たる場所で生きていくべき。僕たちとは違う道を進むべきだ」
「…………」
自分も一緒に。この言葉を口にすることを、尊は許してくれなかった。自分は拒絶された。そう感じた天宮の瞳に涙がにじむ。
「強くなって下さい。貴女はもっと強くなれる。貴女の力はこの先、人々の希望になる。そうすれば……」
この先を続けることなく天宮に背を向ける尊。
「……行こう。ヘリが降りてきた」
さらに月子たちにも、急ぐように促してきた。
「エビスさんは?」
「もう逃げた。あの人、逃げ足速いから」
「そう……じゃあ」
少しの間、戸惑いの視線を天宮に向けていた月子だが、彼女は何も言わないと判断して、尊のあとを追って歩き出す。仲間たちもそれに続いていく。
「……あのさ。言った通り、ミコトを取り戻したのだけど……」
その中で一人、コウだけが振り返って天宮に話しかけてきた。
「あれだ……独占するつもりはないから。お前にもミコトと仲良くする権利はあるから」
「……ありがとう」
コウの優しさが傷ついた心に染みた。天宮の瞳から、堪えていた涙が零れ出す。
「じゃあ、またな」
「またね」
またな。この言葉も意識してのものだと天宮は受け取った。また会える。コウはそう教えてくれたのだと。
慰める為だけの言葉ではないと天宮は思う。戦いはこれからなのだ。その戦いの中で、いつか必ず尊に会える。戦場に立つことで、その機会は生まれるのだ。
自分は戦い続けるしかない。仲間の為だけでなく、自分の為にも。天宮はそう思った。