戦争の噂が王都内で広がっている。相手がどこかなど具体的な情報はない。出撃の時が近いようだというだけの漠然とした噂だ。それは仕方がない。噂を流した人たちが、それ以上のことを知らないのだから。噂の出所はトリプルテン、を教えている教官たち。軍事機密など知っているはずがない。
訓練を効率化する為には、せめて小隊が所属する中隊の意識くらいは早めに変えたいと考えて流した噂。だがその噂が他軍に伝わったところで伝達速度は一気に加速し、範囲は拡大した。
もとから出撃が近いことを感じ取っていた兵士が噂を聞いて、自分の考えは間違っていなかったのだと考え、それを肯定する。そういった兵士が何人もいるとそれは噂ではなく、事実に変わる。出撃が事実となれば、兵士たちにとっては一大事。兵士たちはそれを家族に伝え、その家族がまた噂を広めていく。
こうして噂は王都内を駆け巡り、逆に城内に戻ってくることになる。
「どうして機密情報が漏れた?」
軍事機密の漏洩。エドワード王は今回の事態をこう受け取った。
「漏れたかどうかは現時点では分かりません」
エドワード王の問いにスタンレー元帥は否定を返す。軍は機密情報漏洩だと考えていないのだ。
「事実として噂が広まっている」
「戦争が始まるのではないかという噂。どこを相手にしてのことかなど具体的な内容は何もありません」
「具体的な内容が漏れていなければ問題ないと元帥は考えているのか?」
「ですから漏れたとは決まっていないと申し上げているのです」
重ねてスタンレー元帥は情報漏洩の事実は未確認であることを訴える。これで軍の責任を追及されては堪らない。責任逃れをしようというのではない。本当に情報漏洩はないと考えているのだ。
「……否定するのであれば、その証拠を示すべきではないかな?」
だがエドワード王はスタンレー元帥の言葉を責任逃れだと受け取った。
「より実戦的な訓練を始めれば、兵士たちは戦争が近いことを察するものです。物資の調達を始めれば商人が気付きます。確かに広まるのが早すぎることは否定しませんが、この程度の噂が広まるのは仕方がないことです」
「……今後への影響は?」
スタンレー元帥の説明は言い訳と決めつけられるものではなかった。エドワード王は完全に納得しているわけではないが、追及は一旦止めることにした。
「ほぼないと考えております」
「その理由は?」
「この噂を聞いて、侵攻先は自国だと考えるだろう東の三国は、すでに臨戦態勢に入っております。しかもその三国は侵攻先ではないのですから、何も変わりません」
ルート王国、ゼクソン王国、そしてアシュラム王国は既に戦う気満々。噂が伝わったからといって何かが変わるわけではない、というのが軍部の考えだ。
「真の侵攻先も何も変わりません。開戦が早まるかもしれませんが、それと我が国の出撃時期を合わせる必要はありません」
モンタナ王国が噂を聞いても問題ない。王弟派は約束通りだと喜び。国王派はもしかしてと焦るだけ。ウェヌス王国の侵攻を知っても、国王派に出来ることはないのだ。
「……出撃時期を合わせる必要がない理由は?」
どうやら自分が間違っていた。すでにエドワード王はそのことに気が付いているが、素直に過ちを認められない。これがギルバート宰相など昔からの側近だけの場であれば違う態度を見せるのだが、今はそうではない。
特に軍部の掌握が不完全であることはエドワード王にとって大いなる誤算。それを取り戻そうという焦りが、悪い方向に働いているのだ。
「王弟派が無傷では後々面倒ではないですか?」
利用されるだけされて、事が済んだら邪魔者扱いされては堪らない。そんな態度を王弟がみせたとしても、力で押しつぶすことは出来るが、軍としては無駄な戦いは避けたいのだ。
「確かに。分かった。では当初の計画通りだね? 準備は順調なのかな?」
「予定通りではあります。ただ少し気になる点が」
ここでスタンレー元帥は保身の為に言葉を選んだ。準備は進めているが問題は多い。ただその問題は予想されていたことなので予定通り、という答えだ。
だがこれにエドワード王が気付くことはない。
「気になる点?」
エドワード王の気を引いたのは後の言葉。それを聞いたエドワード王の顔がしかめられる。また自分が想定外の事態が生まれた。スタンレー元帥の言葉をそう受け取ったのだ。
「悪いことではありません。ただ、理由が分からなくて」
「詳細を話してもらえるかな?」
「第三軍の訓練の様子が変わってきております。それそのものは問題ではありません。ただそれを行っているのが、退役したはずの兵士であることが不思議でして」
健太郎、そして教官たちが頑張れば頑張るほど、その動きは目立つ。第三軍全体にまではまだ広がっていないが、それでも中隊規模で訓練のやり方が変われば、他軍にもその情報は漏れる。結果、スタンレー元帥の耳にまで届いてしまっていた。
「まだ分からない。何が問題だと言いたいのかな?」
「その退役した兵士たちはグレンの元部下たちです」
「……なんだって?」
エドワード王にとってまったく予想外の情報。グレンが絡むこととなれば、驚きも大きい。
「一斉に退役した者たちが教官として戻ってきております。訓練はさすがという内容で、明らかに兵士の様子は変わってきたようですが、戻ってきた理由が分かりません」
「……本人たちに確認していないのか?」
「もちろん聞いております。彼等は勇者の要請を受けたと申しております。勇者に事実確認を行いましたが、直接ではないものの確かにそれを望んだと言いまして……」
当然、スタンレー元帥もグレンの関わりを疑っている。だがヒアリングの結果、健太郎がスタンレー元帥の疑念を否定してしまった。もちろん、この証言だけで疑いが完全に消えたわけではないが、追及する理由は失った。
「勇者が? 彼は何故、そんなことを求めたのかな?」
「自分の小隊を強くする為と聞きました。それが小隊だけでなく中隊にも広がったということのようで。その結果は軍としては望ましいことで、それを止めさせる理由はありません」
「……三軍は強くなるのかな?」
「一時は第一軍を超える精鋭と考えられるくらいになった第三軍。それを実現した者たちが指導しているのですから期待は出来ます。ただ次の戦いに間に合うかと問われれば、難しいと答えるでしょう」
三軍の兵士は新兵ばかりで基礎が出来ていなかった。そこからの成長はめざましいものがあるが実戦、しかも他国軍と戦うとなれば、まだまだ訓練の時間は必要だとスタンレー元帥は考えている。
「……第三軍の将軍は……いや、その小隊が所属する大隊の長は、グレンと親しかったのかな?」
将軍クラスの裏切りはさすがにない。あるとすればその下だと考えて、エドワード王はこんな質問を投げた。
「……上司と部下の関係でありましたので親しかったと言えるかもしれません。しかしながら、バレル千人将の忠誠に疑うべきものは何もありません。それはその下の中隊長も同じです」
エドワード王の疑いを知って、スタンレー元帥はそれをはっきりと否定する。バレル千人将や中隊長たちへの不審は、軍に対する不審。そう受け取ったのだ。
「いや、そういうことを言っているのではないよ。その元兵士たちを呼び戻せた理由は何かと思っただけだ」
スタンレー元帥の反応で、自分の失敗に気付いたエドワード王は、元帥の勘違いということにしようとしている。
「呼び戻したのは勇者です。バレル千人将はその受け入れを認めただけです」
疑うのであれば健太郎を疑えという意味だ。スタンレー元帥に健太郎を庇う理由はない。
「勇者にはこれについて聞かなかったのかな?」
「勇者は自分の熱意が伝わったではないかと。ただ本人たちは復職を考えていたところに話が来たので乗っただけだと話しております」
両者の話には齟齬があるが、疑いをかけるほどのものではない。健太郎のいつもの勝手な思い込み、という言葉で辻褄が合ってしまう。
「そうか……分かった。軍が強くなることは良いことだ。しばらく様子を見ていよう」
この件についてスタンレー元帥と話していても求める答えは得られない。スタンレー元帥に不快な思いをさせることにもなった。こう考えて、エドワード王は話を終えることにした。
これで一旦、会議は中断。軍部は戦争準備で忙しい。長く会議に引き止めておくわけにはいかないので、関係する議題が終わったところで退席することになっていた。
その退席を待って会議は再開。ただ再開された会議で最初に話し合われるのは軍部にも関係あることだ。
「勇者と話をしたい」
「分かりました。場所はどちらになさいますか?」
「……私の執務室にしよう」
少し考えて、エドワード王は自分の執務室を選んだ。
「それは、奥の執務室ということですか?」
執務室とはいえ、王族の私的空間である城の奥に招き入れることは、厚遇とも受け取れる。いまさら健太郎に、たとえ偽りだとしても、好意を見せる理由がギルバート宰相には分からなかった。
「ギルバートは勇者の意図はどこにあると思う?」
「簡単に考えるのであれば、元の地位に戻る為に手柄を立てたいのでしょう。任務を欲しているという噂は私も聞いております」
ギルバート宰相もまた健太郎の動きについては、ある程度は掴んでいる。特別注視しているわけではなく、以前から監視対象にしていたことの延長であるので十分とは言えないが。
「彼のこれまでの言動を考えれば、そう考えられるよな」
「ですが、彼の私欲の為にグレン殿の元部下たちが協力するでしょうか?」
最初の話はあくまでも「簡単に考えた」場合。そうではないとギルバート宰相は考えている。
「では何だと思う?」
「勇者と元部下たちに共通していることは限られています。その一つがフローラ様と接点があること。当然、グレン殿とのほうがより深い関わりがありますので、こちらで考えた場合の目的は裏切りとなります」
「裏切りの可能性はないと考えているのだね?」
「全くないとは申しません。ですが勇者がこの国を裏切るでしょうか? 可能性があるとすればそれに見合う対価を約束された場合ですが、グレン殿がそんなことをするでしょうか?」
ギルバート宰相は真実を語っているのだが、そう考える背景にはグレンへの高評価がある。自国に害を為したとはいえ、グレンは英雄と呼ばれるに相応しい存在。そんなグレンが金で裏切らせるような悪事は行わないだろうという間違った思い込みを生んでいるのだ。
だがエドワード王はそうではない。王に成り上がり、三国を支配するまでになった事実が、悪事を為してきた証だと考えている。
「フローラが彼等を結びつけたのだとして、目的はなんだろう?」
だが自分の考えをエドワード王は口にしなかった。グレンとの関係を悪いものに思わせたくないというのが、その理由。
仮に健太郎が裏切りを企んでいたとしても、気が変わるような厚遇を約束すれば良いだけ。そう考えているのだ。
「フローラ様を守ること。ただこの考えには自信がありません」
「……求める地位はフローラの近衛だと?」
「いえ。奴隷騎士でも良いと言ったくらいですから、勇者はそうだと思います。ですが元部下たちは、その勇者からフローラ様を守ろうとしているのではないでしょうか?」
「逆に勇者をフローラに近づけない為にか……それは思い付かなかった」
そうであると事態は面倒になる。近衛にすることで全員が喜ぶのであれば、それも有りかと考えていたのだ。武器としての勇者をつなぎ止めるだけでなく、せっかく戻ってきたグレンの元部下たちもエドワード王は手放したくない。
王位について間もない頃から、軍を強化させる為にグレンの部下だった従卒や兵士の行方を捜し、軍に復帰させようとしていたのだから。
「先ほども申し上げた通り、自信のある考えではありません。この件についてはまだまだ情報が足りないようです」
「そうか……ではそれを待とう」
情報入手は銀鷹傭兵団にもやらせようとエドワード王は考えた。
その結果、銀鷹傭兵団はエドワード王が求める情報をもたらすことになる。元部下たちの目的はフローラに何か起きて、またグレンが復讐を考えるような事態を引き起こさないこと。その為に少しでもフローラの側にいることだと。
これこそがエドワード王の求める答え、望む答えだ。それを銀鷹傭兵団は伝えてきた。