ウェヌス王国の王都を東西に走る大通り。騎士たちが立ち並ぶその大通りに沢山の王都住民、そして近隣の街や村からやってきた人々が集まっている。人々が集うのは、その大通りの中央をゆっくりと進む軍列を見学する為。出陣するウェヌス王国軍の軍列ではない。王都を訪れた他国の軍勢だ。
その存在さえ忘れ去られていた落ちぶれた帝国。その帝国の皇帝が自ら足を運んで、ウェヌス王国に挨拶に訪れると聞いて、王都の人々は久しぶりに気持ちを高揚させていた。落ちぶれたとはいえ、かつて大陸を統べていた帝国が、臣従を誓いにきたと思っていたのだ。
度重なる敗戦、国内の混乱で傷ついたウェヌス王国の威信を、民衆にこう思わせることで少しでも盛り返そうと企んだ結果だが、それは失敗に終わりそうだ。
人々は歓声をあげることも嘲笑を向けることも出来ず、ただ息を呑んでその軍勢を見つめている。一糸乱れる動き、軍馬の足並みさえ揃えられている規律ある行軍。磨き上げられてはいるが傷だらけの軍装は歴戦の証だ。素人が見ても、かなりの精鋭であることが分かる。
それでも数としては三百ほど。ウェヌス王国軍に抗えるような数ではない。そうであるのに人々が恐れを抱いているのは、その軍勢が掲げている旗のせい。銀狼が描かれたその旗の意味を、銀狼グレンの名を知る人は少なくないのだ。
グレンが率いる軍勢だとすれば、たった三百などと侮ることは出来ない。常に少数で自国の大軍を打ち破ってきたグレンなのだ。
人々はそのグレンの姿を探している。当然、見つかるはずはない。グレンはこの場にはいないのだから。
グレンの代わりに人々の目にとまったのは、王冠の代わりにティアラを頭にのせ、ドレスではなく黒と銀を基調とした軍装を纏った騎乗の女性。エイトフォリウム帝国皇帝、実際は異なる肩書きだが、ソフィア・ルートだった。
◇◇◇
ウェヌス王国の王城内の大広間。その場所に据えられた玉座にエドワードは座っている。ソフィアを迎える為だ。大広間の両脇には文武の高官が勢揃い。エドワード、そして高官たちの表情も少し強ばっている。彼等は当然、ソフィアが臣従を誓う為に王都にやってきたなどとは思っていない。では何の為か。それが分からないのだ。
面会を申し入れていたのはウェヌス王国側だが、それはずっと無視されていた。それが突然、要求を受け入れ、しかも相手のほうが王都にやってくるという。その意図がウェヌス王国は測れていない。それでも話し合いが出来るのは望むところ。こうして今日の日を迎えることになった。
「……グレンはいないのだね?」
ソフィアを待つ間に、臣下に尋ねるエドワード王。交渉相手がグレンかそうでないかで大きく変わる。交渉の内容も、それを行うエドワード王の緊張度合いも。
「城に入った者たちの中にいないのは間違いございません」
「そう……分かった」
軍勢の中に紛れ込んでいる可能性は否定出来ない。だが、少なくとも交渉の場に現れることはなさそうだ。それを知って、エドワード王は気持ちを緩めた。
皇帝となっていてもソフィアは飾り物に過ぎない。駆け引きで負けるはずがない。交渉にならないことはあり得るが。
「もう間もなく入られます」
別の臣下がソフィアの到着を告げてきた。それを聞いてエドワード王は、左右に並ぶ高官たちも姿勢を正す。エドワード王は威厳を見せる為。高官たちは来客への礼儀として。
入り口の扉が開かれる。まず最初に大広間に入ってきたのはウェヌス王国の近衛騎士。案内、という名目でソフィアたちの監視をしてきた騎士たちだ。
その騎士たちが左右に並んだところで、エイトフォリウム帝国の近衛騎士、という肩書きは当然正式ではないが、と軍装姿のソフィアが進み出てくる。
近衛騎士役のセインとミルコに左右を守られ、玉座に向かって歩みを進めるソフィア。その足が真ん中あたりで止まった。
「……そのまま前に進まれよ」
慌てて近づいて来た近衛騎士が前に進むように、ソフィアに告げる。
「……いえ、ここで結構よ」
こう言ってソフィアは、数歩左にずれて、横を向いた。
「……無礼ではありませんか?」
ますます慌てて、そうであっても周囲に聞こえない程度の小声で、ソフィアに注意する近衛騎士。
「無礼なのは貴殿ではないか?」
それに答えたのはソフィアではなく、セインだった。
「陛下がお待ちだ」
「何故、待つ? 我等の陛下と話をしたいのであれば、この場に進み出てくれば良い」
「なんと?」
近衛騎士はようやくソフィアが立ち止まった意図が分かった。玉座に座ったままのエドワード王に礼を行うことを拒んだのだと。近衛騎士では判断がつかない。どうすれば良いのか問う意味で、エドワード王に視線を向けた。
「……来客をいつまで立たせておくつもりかな? 早く椅子を用意して」
エドワード王は折れることにした。ここで意地を張っても意味はない。交渉で何を得るかが重要なのだ。
自らも玉座から立ち上がり、ソフィアが立つ場所に歩いて行く。目の前に到着した時には、すでに椅子が用意され、近衛騎士が二名立ち並んでいる。ソフィアの後ろに立つセインとミルコに数を合わせたのだ。
「お疲れでしょう? どうぞ、お掛け下さい」
「いえ、ご心配なく。我が国は尚武の国。私自身は武は得手ではありませんが、行軍ごときで疲れるわけにはいきませんわ」
エドワード王の心遣い、本気でソフィアを気遣っているわけではないが、をソフィアは軽く拒絶した。
「……お疲れでしょうは余計でしたか。せっかく臣下が用意した椅子です。よろしければお掛け下さい」
「分かりました。お心遣いに感謝いたしますわ」
今度はソフィアも受け入れる。強がっていただけなのか、何か意図があるのか。この時点では、エドワード王には意図が読めない。
それでも両者が椅子に座ったところで話し合いが始まる。
「わざわざ王都までご足労いただいたことに、まずは感謝を」
「いえ。この街には私自身、少し思い入れがあります。久しぶりに訪れてみたくなっただけです。貴国から要請を受けたのであれば、気兼ねなく歩き回れますから」
目的は交渉ではなく、ただ以前に暮らしていた王都に来たかったから。これが本音とは思わないが、やはりソフィアが何を考えているか分からない。
「……よろしければ思い出の地を一緒に歩きますか? 以前、ごちそうになった料理をまた用意して欲しいとまでは言いませんから」
ソフィアとは一度だけ会ったことがある。お互いに素性を隠したままであったが。その時の話をエドワード王は持ち出した。特に意味はない。ソフィアの話にあわせたつもりだ。
「あの頃は無邪気でいられて良かったですわ。何も知らないということが、幸せなこともあるのですね?」
「……今は幸せではありませんか?」
「当時のようにはいかないことは間違いありませんわね」
「そうでしょうか? 私は、また以前のように同じ時間を楽しめると思います」
自分とフローラ、グレンとソフィア。また四人で同じ時を過ごせる。そうなりたいとエドワード王は思っている。ただかつてとは、その意味合いは全く違う。その点はソフィアの言葉が正しい。
「残念ですが、そのご期待には応えられないと思いますわ」
「それは……私とフローラの結婚は認められないということですか?」
他愛のない話から、エドワード王は一気に踏み込んだ。このままでは埒が明かないと感じて、話を急ぐことにしたのだ。そうしないとソフィアの意図が見えないと考えたからでもある。
「エドワード王のご結婚に、私の許可など必要ありませんわ」
「しかしフローラはセントフォーリア皇家の血を引いている。貴女の妹ではありませんか」
フローラがセントフォーリア皇家の血筋であることを話すエドワード王。ソフィアとの外交の場で話すことで、公式に認められたことにしようという思惑だ。
「……何も知らない時は本当の妹のように思えた。でも実際に血の繋がりがあると知ると、その気持ちは失せる。人の気持ちは複雑ですわ」
「……フローラは間違いなく貴女の妹です」
ソフィアはフローラが妹であることを否定しようとしている。エドワード王はそう受け取ったのだが。
「誰が母親かも分からない女を、私の妹などと言わないでもらえますか? 不愉快です」
きつい視線をエドワード王に向けて、不愉快と言うソフィア。彼女の言葉は血のつながりの否定ではなく、出自を問題にするものだった。エドワード王としては予定外の対応だ。
「……しかし、父親は間違いなく貴女と同じ」
「だからどうだと言うのです? 父はすでに亡くなっており、彼女のことを公式には認めていません。そうである以上は、彼女は私の国とは無関係の女性です」
「……彼女がどうなっても良いと?」
思いがけない展開に、エドワード王は結婚の許可を得るという建前を忘れて、脅しめいた言葉を口にしてしまう。
「父の浮気相手である身分卑しき女の娘など、私が妹と認めることはありません。その身の心配をすることもありません。何度も言わせないでください」
「……グレンは何と言っているのですか?」
口にした言葉がソフィアの本音とは思わない。だが、このまま話を続けても求める展開にはなりそうもないと考えたエドワード王は、グレンの名を出すことにした。
「私とは異なる考えを持っているのでしょう。だから国を離れたのだと思いますわ」
「……彼は今、どこに?」
「さあ? 連絡を取り合っていませんので分かりません」
「そうですか……そうなると大変でしょう?」
自分の問いに惚けてみせるソフィアに、エドワード王は苛立ってきている。もともと対等な交渉相手だとは思っていないのだ。
「大変……心当たりが多すぎて、何のことか分かりませんわ」
「失礼ですが、帝国をここまでにしたのはグレン。そのグレンが国を離れたとなれば、将来に不安を覚える者も多いのではありませんか?」
グレンがいなければエイトフォリウム帝国に恐れるものは何もない。それをエドワード王は、こういう言い方で示したのだが。
「ああ、そういうお話ですか。それでしたらご心配は無用です。我が国の臣民たちには自らが国を造ったという自負があります。彼の功績は大きいですが、その穴を埋めようと頑張ることでしょう」
ソフィアの言葉に、その後ろに並ぶセインとミルコが大きく頷いている。彼女の言葉を裏付ける態度、とはエドワード王は信じるつもりはない。
「……後ろに並ぶ二人は、我が国の騎士ですね?」
そのセインとミルコを使って、ソフィアを揺さぶろうと考えたエドワード王。
「いえ、違います」
だが一切動揺の色を見せることなく、ソフィアはエドワード王の指摘を否定する。
「惚けないでください。彼等はグレンに従っていた騎士見習いに間違いありません」
「では聞きますが、エドワード王は今もグレンはウェヌス王国の臣民だと言うおつもりですか?」
「それは……」
どう答えるべきかをエドワード王は悩む。肯定することでグレンをウェヌス王国に取り戻す流れになるか。その逆となるか、すぐには判断がつかないのだ。
「それと彼等は口に出せないでしょうから、私が代わりに申し上げますわ。捕虜でいた彼等を見捨てた国が、今更、自国の騎士だと主張されるのはいかがなものでしょう?」
「それは私ではない。その時、私は王ではなかった」
「……前の王が為したことはなかったことに出来る。貴国はそう主張する国ですか。それを知った他国はどう思うのでしょう?」
「ちょっと待ってくれ。それは話が飛躍している。私は彼等の帰属が曖昧であるという事実を話しただけで、約束を反故にするようなことは言っていない」
ソフィアが極論に持っていこうとするのを止めるエドワード王。思っていたよりも遙かに手強いソフィアに、少し焦り始めていた。
「そうであれば、やはり彼等は貴国の騎士ではありません。ジョシュア様が彼等の選択を認めてくれていますわ」
「……そんな話は聞いていない」
さらに予想外の言葉が、ソフィアの口から飛び出してくる。前の王が為したことを反故に、という極端な言い方を彼女が口にした意味がここで分かった。
「それはそうでしょう。エドワード王はその場にいらっしゃいません」
「その事実を証明出来る人はいるのですか?」
死人に口なし。ジョシュアが言った、だけで事実だと認めるわけにはいかない。どんな作り話でも出来てしまうのだ。だが、このような問いが来ることは予想済みのこと。ソフィアには答えの用意がある。
「マリア様がいらっしゃいます。貴国ではメアリー様と申し上げたほうがお分かりになりますわね?」
「……妹は……グレンの妻だ」
「それでも聞いていたのは事実ですわ。それにもう一人、証人はいます」
「それは誰だ?」
「トルーマン元元帥閣下。あの方に聞いてみて下さい。確かにそういう約束をしたと証明してくださいますわ」
「そっ……」
そんな話は聞いていない、という言葉をエドワード王は飲み込んだ。それを口に出した時、ソフィアが何を返してくるか。それを警戒したのだ。
話の流れが思うようなものにならない。会談への準備不足を感じて、焦りは後悔へと変わっていく。
「確認についてはお任せします。それで私が話したことが事実であると、お分かりになるでしょう」
「……彼は……いや、確認してみよう」
すでにこの世の人ではない、と言うことも躊躇われた。ソフィアは何をどこまで知っているのか。死んだと告げた場合に何を返してくるのか。それが分からない。
「予想は出来ていましたが、あまり実りある会談にはなりませんでしたね?」
こう言いながらソフィアは椅子から立ち上がる。会談打ち切りの宣言だ。
「……仕方がありません。お互いの立場を理解し合うには、もっと時間が必要でしょうから」
「その機会がまたいつか来ると良いですわね?」
「……またいつか?」
夕食の時間にでも、ゆっくり話しましょう。こう言うつもりだったのだが、ソフィアの言葉はそれを許さないものだった。
「これで失礼させていただきますわ。立ち寄りたい場所もありますし、お分かりだと思いますが、あまり国を空けられる状況ではありませんので」
「そのような予定は聞いておりませんでした」
「思いの外すんなりと話すべきことは全て……あっ、一つ忘れていました」
「……何ですか?」
「マリア様とエドワード王の奥方になる予定の人との交換も、受け入れるつもりはありませんので。マリア様がそれを望みませんわ」
「そう、ですか……」
人質をとっているのはこちらも同じ。ソフィアの言葉をエドワード王はそう理解した。実際にはマリアは、グレンが本当に関わり合いをなくしていた場合は別にして、人質なんてものではない。本人がウェヌス王国に戻ることを望まないことは事実だとエドワード王は思っている。
だがしかし、これを聞いた臣下たちはどう思うか。この先、エドワード王が人気の高かったマリアを見捨てるような判断を行った場合、それをどう思うか。こう思わせることがソフィアの、ルート王国側の目的で、それにまんまとエドワード王は嵌まっている。
会談はこれで終わり。ソフィアの意図を掴むことなく、準備不足で会談に臨んだエドワード王の負けだ。
◇◇◇
会談場所を出て、城の出口に向かって急ぐソフィアたち。
結果は上々。この日の為に考えつく限りの問答を想定し、それに備えてきたことが功を奏した形だ。
とはいえ、外交交渉などソフィアにとっては初めての経験。この日の為にミスコレットやマリア、それとジョシュアに立ち居振る舞いを叩き込まれてきたのだが、所詮は付け焼き刃。被っている仮面が剥がれ落ちないうちに城から去ろうと急いでいるのだ。
だが、そういう時に限って現れる、間が悪い男がいた。
「……何か用かしら?」
目の前に立つ男に冷たい視線を向けるソフィア。現れたのは、彼女にとっては悪感情しか湧かない相手、健太郎だ。
「……申し訳ありません!」
「はっ?」
現れた健太郎は、いきなり深々と頭を下げて謝罪してきた。その行動にソフィアは戸惑う。
「君を傷つけた。部下の行ったことだとはいえ、僕にも責任がある。いや、こういう言い方は駄目だね。あれは僕の責任だ。だから謝りたい」
「……それってフローラを連れ去った時のこと?」
「そう。女性に暴力を振るうなんてことは、謝っても許されることじゃないとは分かっている。でも、ケジメをつけさせて欲しいんだ」
「ケジメ……それは何の為?」
ソフィア本人には何のケジメにもならない。謝られても許す気にはなれないのだ。
「もう一度、グレンの前に立つ為」
「……何の為にグレンの前に立つの?」
「それは……難しいな。戦う為なのだけど、それは殺し合いではなくて、認めて貰いたいからで……でも、やっぱりいつかはグレンに勝ちたくて……でも勝ってそれで終わりというのでは……」
たどたどしい説明。健太郎自身が自分の気持ちを整理出来ていないのだ。心は決まっているのだが、それを上手く表現出来ないのだ。
「……グレンの背中を追いかけて、いつか追いついて、対等な競争相手として認めて貰いたいってこと?」
「あっ、それ」
「……どうぞ、ご勝手に」
健太郎の為に無駄な時間を使うつもりはソフィアにはない。話を切り上げて、先を急ごうと歩き出した。
「あっ、ちょっと!」
そのソフィアを引き止めようとした健太郎だが、それは自国の近衛騎士たちに阻まれた。ソフィアは健太郎と話すのを拒絶した。それが分かれば、近衛騎士に遠慮はいらない。
「も、もう一つ! 聞いて欲しいことがある!」
なんて声をあげてもソフィアは足を止めない。
「フローラのことだ! フローラは記憶をなくしている! エドワード王との結婚が、彼女の本心だなんて思わないであげて!」
「貴様! 何を言っているのだ!?」
健太郎の話は、自国の近衛騎士を怒らせることになる。彼の言い方では、エドワード王はフローラが記憶を失っていることを利用して、結婚しようとしているように聞こえてしまう。実際に健太郎はそう言っているのだが。
「……仮にそれが事実だとしても、私たちは何もしない」
だがソフィアの足を止めることには成功した。
「どうして? 二人はとても仲が良かったじゃないか!?」
「私は、私たちは多くのものを背負ってしまったの。かつての私たちには、今は戻れない」
「そんな……」
そんなことは関係ない、と普段の健太郎であれば叫んだかもしれない。だが、ソフィアの辛そうな表情を見てしまっては、それを口にすることなど出来なかった。彼女もグレンと同じ。背負った物の重さに苦しんでいるのだと分かってしまったのだ。
「……もし、貴方に償いの気持ちがあるなら……いえ、いいわ」
淡い期待を抱いても、それは弱さにしかならない。覚悟はもう決めたはず。それを揺るがせてはならない。思いを口にすることなく、ソフィアは健太郎に背中を向けて歩き始めた。
その背中を見つめている健太郎は。
(……僕にはもう背負っているものは何もない。だから僕がやる。僕がやるしかないんだ)
彼らしくもなく、ソフィアの思いをきちんと汲み取って、決意を新たにした。