グランフラム王国軍による追撃で、グレートアレクサンドロス帝国軍の混乱は激しさを増し、完全に戦うどころではなくなってしまった。兵士の混乱を治めるべき指揮官の大半が、すでに逃げ出してしまっている事が大きかった。
グレートアレクサンドロス帝国軍において末端の兵士は消耗品。こんな意識が指揮官全体に広がってしまっているのだ。
統制を失った兵士たちはバラバラになって逃げ出したのだが、それが却って良かった。追う相手を絞れずに、グランフラム王国軍の追撃の足が鈍る結果になったのだ。
もっともこれは一時的な事で、周囲を険しい山に囲まれているバンドゥでは逃げ場は限られている。数週間後にはかなりの数の兵士が逃走を諦めて、投降する事になった。これも帝国兵士にとっては幸いであるかもしれない。
西の国境付近で待機していた帝国軍一万の軍勢は敗報が届いて間もなく撤退していった。敗戦の状況からすぐに次戦に臨むのは避けるべきと判断したからだ。リオンの登場で今度は、グレートアレクサンドロス帝国側に戦法を考える必要が生まれたのだ。
結果、グレートアレクサンドロス帝国によるグランフラム王国討滅作戦は、失敗という結果に終わる。
戦いの終結を確認して、主要な者たちはカマークに戻ってきた。これから、戦いを終えて初めての全体会議を行う予定だ。参加者の表情はどれも緊張で強張っていた。
張り詰めた空気が漂う会議室。そこに現れたのは。
「不思議の国傭兵団のアリスよ。報酬を受取りに来たわ」
またアリスだった。
「……リオンはどうした?」
誰もがリオンが現れると思っていた。完全に肩透かしをくらった感じだ。
「何だか不満そう。私、団長よ?」
アリスにも、そんな周囲の感情は伝わっていた。
「それは分かっているが、こちらはリオンに会いたいのだ」
「……誰、それ?」
軽く首を傾げて、アリスはアーノルドに尋ねる。
「惚けないでもらいたい。お前と一緒に戦っていた男が、リオンである事は分かっている」
「ホワイトの事ね。へえっ? 彼、リオンって言うの? 知らなかったなぁ」
あくまでも惚けてみせるアリス。この態度が又、周囲を苛立たせてしまう。
「とにかくリオンを連れて来い」
それはアーノルドもだ。言葉使いが荒くなっている。
「連れて来てもねぇ。彼、記憶がないから、分からないと思うの」
だが、そんな態度に怯むアリスではない。惚けた雰囲気のまま周囲が驚く言葉を口にした。
「……何?」
「過去の記憶がないの。名前も覚えていなかったから、私が付けてあげたのよ」
「……そんな馬鹿な事があるか?」
いきなり記憶がないと言われても、信じられないのは当然だ。実際に嘘である。ただ、これはアリスが勝手に言っている事ではない。
グランフラム王国の者たちがリオンに対して、フレイ子爵、もしくは王族として接してくる事は分かっている。それを前提として、リオンがグランフラム王国の為に戦うのは当然だと考えている事も。
これがリオンは嫌だった。戦いを押し付けられるのも、それを断るのも面倒なのだ。記憶がないとなれば、何を言われても知らないで済ませられる。こんな理由からだ。
「文句を言う前に、まずは依頼達成の報奨をもらえる?」
「……まずはリオンに会わせてもらいたい。話をすれば何か思い出すかもしれない」
「そんな契約条件はなかったもの。それで報酬を払わないという事は契約違反ね?」
「報酬は払う。ただリオンに会わせろと言っているだけだ」
「私たちは契約を大切にするの。それが守れない相手に、付き合うつもりはないから。ねっ、依頼主さん?」
依頼主はアーノルドではなく、アレックス王子だ。アリスは視線を本来の話し相手であるアレックス王子に向けた。これはアーノルドの話を聞く義務はない、という意思表示でもある。
「……えっとだな」
いきなり話を向けられたアレックス王子は困ってしまう。
「まさか払えないの? ええっ? それって、オクス王国が契約違反をしたって事?」
「い、いや、そうではない。報酬は払う。ただ、今は手持ちがないだけだ」
「はい。契約違反。オクス王国は契約違反をしましたぁ」
実際はここまでの話ではない。支払いを少し待つくらいの事は、これまで何度もあった事だ。アリスが厳しく責めているのは、アレックス王子に騙された事への仕返しをしているに過ぎない。
「アーノルド王?」
アレックス王子が頼る相手は、アーノルドしかいない。元々報酬はグランフラム王国が負担する約束なのだ。
そしてアレックス王子に求められては、アーノルドも断る訳にはいかなくなる。
「……分かった。ランバート」
「はっ」
報酬の用意はしていたのだ。ランバートが前に進み出て、アリスに金貨の入った袋を渡した。アリスの作戦勝ちだ。
「はい、どうも。じゃあ、これで契約は終了ね」
袋の中身を確かめることもなく、アリスは依頼の終了を宣言する。これには渡した方のランバートが不安になってしまう。
「……確かめないのか?」
「誤魔化しているの?」
「まさか」
「私たちは最初の仕事では相手の誠意を確かめる事にしているの。報酬を誤魔化すような相手は信じられない。二度と仕事を受ける事はないわね」
「だから、誤魔化してなどいない」
「当たり前。だから確かめる事なんてしない。足りないなんて教えてやる必要もないしね」
相手のミスも許さない。雇い主に対する不思議の国傭兵団の要求は厳しい。ただ、こういった態度は相手によって異なる。本当に相手が困窮していれば、許すことだってある。困っていても嫌な奴だと思えば、許さなかったりもする。つまり気分次第という事だ。
「次の仕事を頼みたい」
アリスがさっさとこの場を去ろうとしている気配を感じて、アーノルドは次の依頼話を持ち出してきた。これで繋がりを絶たれる訳にはいかないのだ。
「……依頼内容は?」
「グランフラム王国の復興」
これは依頼というよりも、アーノルドと臣下たちの悲願だ。
「無理。一度、失われたものは元通りになんてならないから」
それをアリスはあっさりと拒否する。復興出来ないという事ではなく、何をもって依頼を達成したとなるのか曖昧だからだ。
「……グレートアレクサンドロス帝国の打倒」
「ごめんね。私たち、基本的に長期契約は受けないの」
これも嘘ではない。不思議の国傭兵団のポリシーだ。
「……王都奪回」
「う~ん。それも長いかな? でも次の戦いの舞台を考えると……持ち帰り検討で良い?」
「返答はいつもらえる?」
「明日かな?」
「思ったより早いな。カマークの宿に止まっているのか?」
さりげなく居場所を聞き出そうとするアーノルド。バンドゥの者たちにとってリオンは、自分たちを魔神から救った英雄だ。カマークに入れば大騒ぎになって、すぐに分かると思っていたのだが、グランフラム王国側は未だにそれを確認出来ないでいた。
「街中にはいないから。一応、言っておくけど、不思議の国傭兵団は私とホワイトだけじゃないからね」
「野営を?」
「さあ? それを教える必要ないから。じゃあ、用は終わりね。又、明日」
アーノルドの追求から逃れるかのように、アリスは会話を強引に終わらせて、会議室を出て行った。当然、その後を付ける者がいるのだが、リオンの居場所はアーノルドの耳には入らない。
そもそもアリスの後を付けなくても、黒の党はリオンの居場所を知っている。知っていて教えていないのだ。
◇◇◇
リオンたち不思議の国傭兵団は、誰も住む者が居なくなった村に集まっていた。魔物の襲撃を受けた後、村人が放棄した村だ。こういった場所がバンドゥには何箇所かある。復興にあたって、労働力を集約させる為に村の統廃合を図った結果だ。
「お前たち、家族の所に行かないのか?」
リオンが合流してきたマーキュリーたちに尋ねている。マーキュリーたち、元バンドゥ党の面々も、この地に戻ってきたのはリオンと共にバンドゥを出た時以来だった。
「いや、俺たちは一番大変な時にバンドゥを捨てた身なので。顔を会わせるのは、ちょっと」
「……家族は気にしないんじゃないか? まあ、俺には分からないけどな」
リオンは元の世界でも家族を早くに亡くしている。家族の思いを口にしても、正直、本人に実感はない。
「リオン様こそ、エアリエル様に会わなくて良いのですか?」
「……今はまだ、会わせる顔がない」
「では、いつになったら会えるのですか? バンドゥに戻ったのは、もう知られているはずです。それで会いに行かないなんて、愛想を尽かされても知りませんよ?」
マーキュリーたちには、エアリエルに会いに行かないリオンが理解出来ない。
「……それは平気」
「そんなの思い上がりです。ていうか、これだけ待たせておいて、まだ待っていてくれている事が驚きです」
マーキュリーたちはリオンに心服しているが、エアリエルに対しても同じくらいの思いを持っている。この件に関してはリオンに対して厳しい。
「思い上がってはいない。ただエアリエルの相手は俺にしか出来ないから。エアリエルは可愛いけど、時々、性格が物凄くきつくなる。お前ら、本気で鞭で打たれた事なんてないだろ?」
「いや、それはないですけど」
「俺は何度もある。縛られて、噴水に沈められた事は?」
「……それもないですけど」
「エアリエルの虐めに耐えられる奴なんて、大陸全土を探しても見つからないから。一緒に過ごしても、まず間違いなく数日で死ぬな。ちょっとした事ですぐに切れるからな。機嫌を取り戻すのは大変で……」
マーキュリーがしつこいので、言い訳のつもりで話し始めたのだが、愚痴のような話が延々と続く事になってしまう。エアリエルの事をこれだけ話すのは久しぶりなので、止まらなくなったのだ。
そんなリオンにマーキュリーが、他の者も盛んに目配せをし始めた。それに気付いたリオンも、視線をちらりと入り口に向ける。
「……ああ、帰ったのか。交渉はどうだった?」
アリスが帰ってきたと思ったリオンは、慌ててエアリエルの話を止める。アリスも又、機嫌が悪くなると面倒なのだ。
「ねえ、リオン。貴方、誰と私を間違えているのかしら?」
だが返ってきた声は、アリスのそれとは違う、それでいて聞き覚えのある声だった。
久しぶりに聞くその声に、リオンが恐る恐る振り返ってみると――すでにエアリエルの顔が目の前にあった。
「……どうしてここが?」
「ルフィーに先導してもらったの」
精霊の力を借りて、エアリエルはリオンの居場所を突き止めた。エアリエルにしか出来ない事だ。
「そういう手があったか」
「感心してないで説明なさい。戻ってきているのに連絡なしって、どういう事かしら?」
「……いっ、いひゃ、い」
両側からリオンの頬をつまむ、というよりは口に親指を突っ込んで、エアリエルは思いっきり捻り上げている。
「どういう事か、聞いているの」
「ご、ごめ、んにゃ、ひゃい」
「何年も音沙汰なしって、どういう事? ねえ、リオン、私が納得するように説明してもらえる?」
「……ひょ、ひょれ、は」
「何、言っているか分からないわ!?」
「ゆ、ゆひ……ゆ、びが」
指で抓るのを止めてもらわないと、マトモに話など出来ない。だがこの程度で、止めてくれるエアリエルではない。
「……ごめんなさい」
「ご、めん、な、ひゃい」
「愛してる」
「へっ?」
「あ・い・し・て・る」
「……あ、い、ひ、へ、りゅ」
「これを朝までね。はいっ、始め!」
有言実行はエアリエルの信条だ。大抵の場合、エアリエルはやらせるだけで、実際にやるのはリオンだったりするのだが。
「む、むい。く、くひ、あ」
「始め!」
「……あいひてる」
「あ・い・し・て・る」
「あいひへる」
「……ちゃんと言って」
子供みたいに頬を膨らませて怒っているエアリエル。こういうちょっと変わった無邪気さがリオンは好きなのだ。優しくエアリエルの手を取って自分の口から外すと、ハンカチを取り出して丁寧に指を拭いていく。
エアリエルは為されるがままだ。
「ずっと放ったらかしにしてゴメン。でも、エアリエルを忘れた事はないから」
「……当たり前だわ。どうして私を置いて、どこかに言ったの?」
「ソルは何も?」
「ええ。決して、話そうとしないの」
「アイツ、思っていたより馬鹿真面目だな。仕方ないか。何が起こるか分からないしな」
誰かに話すと大変な災厄が起きる。このアリスの言葉をソルは真剣に受け止めて、ずっと守っていた。半信半疑であっても、本当に何か起こってから後悔しても遅いからだ。
「どういう事?」
「俺が、バンドゥを離れたのは――」
「他に好きな女が出来たからよ!」
「はい?」
割り込んできた声。それは今度こそ、間違いなくアリスの声だった。エアリエルとアリスが鉢合わせ。この恐るべき状況にマーキュリーたちは、黙ってこの場から立ち去ろうとしている。
「い、いや、ちょっと待て。俺を一人にする気か?」
女たらしだったリオンだが、実は修羅場というものを経験した事がない。公の場で会うことのない女性が多く、そうでない女性は独り占めを最初から諦めていたりしたからだ。
その初めての修羅場が、今ここで実現しようとしていた。
「あら? 一人にされると何か都合が悪い事があるのかしら?」
エアリエルが嫌味いっぱいで、問いかけてくる。
「……いえ、ありません」
「真っ先に聞くべき事を忘れていたわ。この女は誰なの?」
「私は、彼の妻よ」
エアリエルの問いにアリスが答える。しかも挑発以外の何物でもない答えで。
「……私は、リオンに聞いているの」
「知りたがっているから教えてあげたのに。ここは御礼を言うところじゃない?」
アリスの挑発は止まらない。
「アリス。事態を混乱させるのは止めろ。結婚なんてしてないだろ?」
「あっ、ひど~い。つまり、私の体を弄んだのね?」
「……弄んでないから」
否定しながらも、リオンの心の中には嫌な予感が広がっている。
「じゃあ、愛してくれたのね? 私、嬉しい!」
「お前な……」
予想通りの結果だった。隠したいリオンと暴露したいアリス。これではリオンは圧倒的に不利だ。ただこれは自業自得というものだ。
「リオンに抱かれたからって、それで妻は舞い上がりすぎだわ」
ここで再び、エアリエルが参戦してくる。
「何ですって?」
「リオンの女癖の悪さは病気なの。ごめんなさいね。どうやら、また誤解させてしまったみたいだわ」
嫌味を言う事にかけては、エアリエルはとびっきりの才能を持っている。悪役令嬢の役割は伊達ではないのだ。
「……誤解しているのは貴女じゃない? いつまで、奥さん気取りでいるの?」
「ずっとよ。だってリオンは私でないと満足出来ないもの」
「そんな事ないもん」
「そんな事あるわ。リオンは、私のことが忘れられないの。心も体も」
「……か、体も?」
何となく話題の方向が、怪しくなっているのをアリスは感じ取った。
「リオンはね」
「ち、ちょっと待った!」
エアリエルが話そうとするのを、慌ててリオンが止める。エアリエルがとんでもない事を話そうとしていると、ようやく気が付いたのだ。
「何かしら?」
「変な事を話そうとしている」
「変な事じゃないわ。リオンの性癖よ」
「……だから、それが変な事だって」
「貴女は知っているの? それとも貴方はリオンに愛されるだけで、愛していないのかしら?」
リオンの声を無視して、エアリエルはアリスに問い掛けた。少し意味ありげな問いだ。
「……愛してる。貴女よりもずっと、私は愛してるもん」
「では、どうしてリオンを苦しめるの? リオンの望みを叶えようとしないのかしら?」
事実を知らないエアリエルなのだが、この言葉はアリスの一番痛いところを突くことになった。リオンを無理やり自分の側に居させている。この事実はアリスにとって大きな引け目となっていた。
「……お前なんて嫌いだ。私から、リオンを奪うなっ!」
感情を爆発させて、エアリエルを怒鳴りつけたアリスは、そのまま外に出て行ってしまう。その後を咄嗟に追いかけようとしたリオン。
「リオン?」
「あっ……えっと、エアリエルと引き離された事は恨んでいるけど、アリスにも同情する点はあって」
「同情って?」
「……ゴメン。内容は俺の口からは言えない。人に話して良い事じゃないから」
「そう……じゃあ、直接聞くわ」
「はい?」
「リオンには、まだ謝らなければいけない人がいるわ。まずは、その人と話してからにして」
「……もしかして、フラウを連れてきたのか?」
エアリエル以外に謝らなければいけない相手となると、娘であるフラウしかリオンには思いつかない。
「そのフラウを育ててくれた人よ。ちゃんと話してね?」
そう言って、エアリエルが扉の影から引っ張り出した相手はシャルロットだった。涙目のシャルロット。この日を待ちわびていたのだが、いざリオンを目の前にすると何も言えなかった。
「リオンくん……」
かろうじて口に出来たのはリオンの名だけ。
「……えっと……お久しぶりです」
潤んだ瞳で自分を見詰めるシャルロットに、リオンは戸惑っている。懐かしい友人との再会を喜んでいるでは済まない熱情が、シャルロットの瞳から感じ取れる。この理由がリオンには分からなかった。
「何度も諦めそうになったの。お城から出る事も出来なくなって、このまま私はずっと……でも、私にはフラウがいて」
「あっ、そうでした。フラウを育ててくれて、ありがとうございます」
「ううん。フラウがいてくれたから耐えられたの。リオンくんの子供の母でいられる。それだけが私の支えだった」
「……あれ?」
ようやく、リオンにも何がおかしいのか分かってきた。
「良かった。こうして貴方に会える日が来てくれて、全てが報われた気がする」
「……あの、ちょっと失礼な事を聞いても?」
「何?」
「シャルロットさんは、アーノルド王を好きだったのでは?」
シャルロットはアーノルドの妻になりたいのだとリオンは思っていた。この思いをアリスは利用して、エアリエルとフラウを保護させたのだと思っていたのだ。
「……あっ、それは……あの……」
シャルロットも自分とリオンの関係が、ただの友人に過ぎなかった事を思い出した。顔を真っ赤に染めて俯いている。
「まさかと思いますが、アーノルド王とは仮想夫婦のままで、ずっと?」
「……ええ。そういう約束だから……」
「ええっ?」
自分の為にアーノルドに嫁ぎ、形だけのままで何年もの時を過ごしていた。シャルロットは、この世界ではもう行き遅れを通り越しているような年齢だ。大切な時間を自分の為に犠牲にさせた。これに気が付いたリオンの顔は真っ青になっている。
「あの、私が勝手にした事だから。気にしないで」
「気にしないでって言われても……」
これまでありがとう、じゃあ、さようならで終われるはずがない。シャルロットに対しては、さすがにリオンも、そこまで非情にはなれない。
ではどうするか。この答えはリオンにはすぐに思い付かなかった。
◇◇◇
リオンがシャルロットを前にして困惑している頃。エアリエルはアリスと睨み合っていた。
「私には理由を聞く権利があると思うわ」
リオンを連れ去った理由、リオンが大人しく従った理由を聞いているのだが、アリスは頑なにそれを話そうとしないのだ。
「これは私とリオン、二人の問題だもん。貴女には関係ないの」
「……そもそも貴女何者なの? いつリオンと知り合ったの?」
「私はリオンの妻よ」
「そういうのいいから。私は貴女が何者かを聞いているの」
「私は……アリス」
「はあ……」
わざとらしく大きく息を吐くエアリエル。自分の素性さえ隠そうとするアリスにやや苛立っている。
「リオンは私のことが好きなの」
「それは分かっているわ」
「えっ……?」
まさかエアリエルからこんな返しがくるとはアリスは思っていなかった。
「飛び出した貴女のこと心配していたから。貴女にも事情があるからって庇ってもいたわ」
「……お人好し」
無理矢理エアリエルと引き離したのだ。恨まれているのが当然。だがリオンのそういう気持ちをアリスも知らなかったわけではない。だからこそ、こうしてバンドゥに戻ってくることを許したのだ。
「リオンは単純なお人好しではないわ。つまり貴女にはリオンが気持ちを向ける何かがあるということ。だから貴女が側にいることは認めるしかない」
「もう一人、お人好し」
「私はお人好しじゃないわ。仕方なく許すの。リオンが気持ちを許す人って……昔よりはずいぶんと増えたけど、それでも貴重だから」
「それは貴女のおかげ。貴女とヴィンセントのおかげ。貴方たち二人にリオンは救われたの」
エアリエルとヴィンセントだけがリオンが心を許した相手。この二人の為の行動がリオンの周りに人を、信頼出来る人を増やしていったのだ。
「……リオンに聞いたの?」
「いいえ。私はずっと見ていたの」
「えっ?」
「私はこの世界の一部だったの。この世界の一部としてずっと貴女たちを見ていた」
「……貴女がリオンを苦しめていたのね?」
この世界の理不尽さ。それがリオンをずっと苦しめていた。その世界にリオンはずっと抗っていた。
「それは否定出来ない。私には自分の意思なんてあるようでなかったから」
「でも貴女は」
こうして話をしている。リオンを好きだと言っている。それは意思。アリスの話には矛盾があるとエアリエルは思った。
「それが嫌で私は世界であることを止めた。そんなことは出来ないと思っていたけど、出来たの」
「……結局、貴女は何なの?」
「私はもう何者でもない。ただ存在するだけ。それももうすぐ終わるの」
「……死ぬということかしら?」
「分からない。私みたいな存在はこれまでいなかったから。世界から切り離された私は本来、存在することは許されない。でもリオンが時間をくれた。私に好きに生きる最後の時間を与えてくれたの」
「そう……それをリオンは知っているのかしら?」
問いの答えはもう分かっている。リオンが発した同情という言葉はこのことなのだとエアリエルは思っている。
「知っているわ。だからリオンはもう逃げられるのに私の側にいてくれる。彼は……お人好しだから……」
「あとどれくらい?」
「分からない……最後どうなるかも分からないの。それが私は恐いの」
「貴女のような存在でも死ぬのは恐いのね?」
「違う。私が恐いのは私の存在がなかったことになること。この世界にとって許されない存在の私は、存在したことさえ消されるかもしれない。それはいいの。でも……リオンには忘れて欲しくない……リオンだけには……」
大粒の涙がとめどなくアリスの瞳から流れている。この姿を見ていると、エアリエルには世界の一部だったなんて特別な存在ではなく、ただの女の子にしか思えない。恋をしているただの女の子にしか。
「……リオンは絶対に貴女のことは忘れないわ。だって彼はずっと世界に逆らい続けていたのよ」
「……そうね」
「私も忘れない。リオンを私から一時でも奪った恨みは絶対に忘れてあげないから」
「……ありがとう」
「お礼を言われることじゃないわ。私は貴女を恨んでいるのよ」
「そうね……私と貴女はライバルだもんね」
敵ではなくライバル。アリスの中でエアリエルに対する気持ちが変化した現れだ。リオンがバンドゥに戻るのを許したのは正解だったとアリスは思った。リオンの幸せをこの目で見ることが出来るのだから。