ラング宰相の身の安全を保証したところで、いよいよ本格的な交渉に入る、とはいかずにグランフラム王国側は、更にウィンヒール王国に対して揺さぶりをかけた。ラング宰相には知られないように、他の交渉担当に対してエルウィンの出生に疑義がある事を伝えたのだ。
いち早く交渉をまとめて、グレートアレクサンドロス帝国との戦いに備えたいはずのグランフラム王国としては、かなり思い切ったやり方だ。
ラング宰相やその息の掛かった者たちの臣従を認めても、結局は又、裏切る可能性が高い。そうであれば一度、膿を出しきってからウィンヒールを受け入れた方が良いとの判断からだ。
この判断は結果として良い方向に向かった。グランフラム王国への寝返りを図らなかった、ある意味ウィンヒールでは一番良識のある中間派が、事の真相を明らかにしようと動き出したのだ。
もちろんラング宰相が認めるはずがなく、確たる証拠も出てこない。だが事は真実であり、それに対してやましいところのあるラング宰相は、グランフラム王国への臣従に否定的な意見を述べるようになる。
これが他のウィンヒール王国の貴族たちとの決定的な対立を生むようになった。
これを押さえ込む力はラング宰相にも、国王であるエルウィンにもない。無理にそれを行おうとすれば対立が深まるだけだ。エルウィンが貴族を統制出来なくなったこの時点で、ウィンヒール王国は滅んだも同じだった。
エルウィンとラング宰相、そしてその一党は、ウィンヒール王国内で孤立した。それどころか逃げ出さなければ、その首をグランフラム王国に差し出されるのではないかという、危機感まで覚えるようになり、実際に逃げ出した。
「急げ! ここを抜ければ、少し落ち着けるはずだ!」
夜の闇の中を騎馬と馬車の集団が進んでいる。隊列の先頭で声を出しているのはウォルだ。そのウォルの後に続くのは近衛騎士団。近衛騎士団といっても元々は、ラング宰相のウスタイン子爵家の騎士だった者たちだ。その騎士団の隊列の中央には何台もの豪奢な馬車が、かなりの勢いで馬を駆けさせている。
中でも一際豪奢な馬車に乗っているのがエルウィンと母親のユリア、そしてラング宰相だ。家族揃っての逃避行というところだが、少なくともエルウィンに家族としての意識などない。
「ねえ、大丈夫なの? ちゃんと逃げきれるのかしら?」
「多分、平気だ。グランフラム王国がわざわざ我らを追ってくるとは思えない。そんな余裕はないはずだ」
ラング宰相の推測は正しい。多くのウィンヒール貴族が臣従した以上、グランフラム王国にエルウィンやラング宰相を罰するつもりはない。エルウィンたちの反乱の罪を問えば、それに加担した貴族家の罪も問わなければならなくなる。それはグランフラム王国の望むところではない。臣従してきた貴族家にはまず安心してもらい、その上でもう一度グランフラム王国への忠誠心を育て上げるべきなのだ。
「ねえ、これから何処に向かうの?」
「……グランフラム王国の、グレートアレクサンドロス帝国の影響力のない国だ。メリカ王国が受け入れてくれればそれで良し。駄目であれば又、他の国を探すしか無いな」
「そう……とにかく安心して暮らせる場所であれば、どこでも良いわ」
「どうなるかは交渉してみないと分からないが、メリカ王国は受け入れてくれるはずだ。そこでもう一度、何とか這い上がって」
「そういうのはもう良いじゃない。穏やかに暮らしましょうよ?」
「……メリカ王国が駄目であれば、その時に考える」
ラングとユリアの会話はエルウィンには耐え難いものだ。二人の間にある慣れ合いの雰囲気。これは自分の出生の真実がどうであるかをエルウィンに思い知らせてしまう。
自分はウィンヒール侯家の直系の血を引いていない。それでは自分のこれまで為してきた事は一体何だったのか、とエルウィンは思ってしまう。
「ねえ、後ろの馬車の人たちは、私と貴方の関係は知っているの?」
母親であるユリアはもう隠す気はないようだ。ラングの野心に乗って、国王の母にまでなったユリアだが、元々本人には少し贅沢な暮らしが出来れば良いくらいの望みしかなかった。それはウィンヒール侯爵の側室という立場であっても、十分に味わうことが出来ていたのだ。
「……知らん」
「じゃあ、これからどうするの? まさか、私、また日陰の立場にならなければならないのかしら?」
「それは……追々、話をしながら」
「追々って、いつ? ねえ、貴方はどうしたいと考えているの?」
「止めろ!」
じっと黙って二人の会話を無視しようとしていたエルウィンだったが、母ではなく女としての姿を見せるユリアに耐えられなくなった。
「……エルウィン?」
「ずっと俺の事を裏切っていたんだな?」
「何を言っているの? 私は貴方を裏切ってなんていないわ」
「裏切っていただろ!? 俺を騙していた!」
「それは……別に騙していたつもりはないわ。貴方は……その……どちらの子供でもある可能性が……」
言い訳だとしても、息子であるエルウィンに向かって言う台詞ではない。つまり前ウィンヒール侯爵ともラングとも、同じ時期に関係を持っていたと言っているのだ。
考えてみれば当たり前の話だ。関係もないのに前ウィンヒール侯爵が、自分の子供だと思うはずがない。だがそれを母親の口から聞かされたエルウィンはたまらない。
「……でも俺はそいつの息子だ。そういう事なのだろ?」
「そいつなんて言い方は良くないわ」
「じゃあ何て呼べば? 今更、父上とでも呼べと言うのか?」
「そうよ。これからは堂々と父上と呼べば良いわ」
ユリアは全くエルウィンの気持ちなど考えていない。ウィンヒール侯家の血がエルウィンの誇りであった。それがエルウィンのこれまでの人生の基盤であり、そうであるから悪事に手を染めてもウィンヒール侯爵の座を、その上の地位を望んだのだ。それを今更、否定されてはこの先、どう生きていけば良いのか分からなくなる。
「……どちらの子供か分からないと言ったのは母上だ」
「そうね。でも、生まれた日を考えると……まあ、早産だったという可能性もあるけど……」
ユリアが急に歯切れが悪くなる。今更ながらエルウィンにとって、どちらが父親である方が良いのかと考えたのだ。だがやはり今更だ。
「つまり父上……前侯爵も気が付いていた可能性がある訳か」
ユリアの言葉を聞いてエルウィンは納得した。前侯爵は、少なくとも疑ってはいた。その結果が碧風の剣の所在であり、前侯爵自身の所在なのだと。
「……そんなはずはないわ」
戦場での話をユリアは知らない。誰も耳に入れることをしなかったのだ。
「ウィンヒール侯家の当主の証である碧風の剣は、エアリエルの手元にある。ヴィンセントが死んだ後で父上から渡されたそうだ。これは父上、いや、前ウィンヒール侯爵は、俺を跡継ぎとして認めていなかったって証だ」
「たかが剣じゃない。実際の侯爵位は貴方が継いだのよ?」
「……ヴィンセントが死んだ時点で、ウィンヒール侯家の血筋は絶たれたって考えたのじゃないか?」
「馬鹿な事を言わないで。そう思っているなら又、子供を作れば良い話じゃない」
ユリアの話を聞けば聞くほど、エルウィンの気持ちは落ち込んでしまう。ユリアにとってのウィンヒール侯爵位は随分と軽いようだ。エルウィンはその逆で、侯爵位に重みを感じ、優秀な自分こそがそれに相応しいと信じて、行動していたというのに。
だがエルウィンのこの考えも直系の血筋であってこそ。そうでなければ、それはただの簒奪で、許される余地のない犯罪だ。
ウィンヒール侯家の為。これがエルウィンの、ある意味では、心の拠りどころ。悪事を行う上での大義名分だったのだが、それが虚偽と分かった今、エルウィンの心の中では大いなる後悔の念が渦巻いている。
だが後悔したとしても手遅れだ。ヴィンセントが生き返るはずはなく、エルウィンの罪が許されるはずもない。
突然、周囲に響いた甲高い破裂音。馬車が大きく揺れて止まり、周囲が一気に喧騒に包まれる。
何事かが起こったのは明らかで、それが何かも、エルウィンには大体予想がついた。
「……ランスロットめ」
破裂音の正体をエルウィンは知っている。この新兵器の存在を知らされたからこそ、エルウィンは大人しくグレートアレクサンドロス帝国に従う道を選んだのだ。
あくまでも自国が同じか、それを超える力を手に入れるまでの我慢のつもりではあったが。
「敵襲! 陣形を整えろ! 迎撃体勢を取れ!」
ウォルの号令の声が周囲に響く。それに続いて、周囲を守る近衛騎士団の慌ただしい様子も伝わってきた。
「な、何が起きたの?」
「落ち着け。周囲は近衛騎士団が守っている。心配する必要はない」
ラングはユリアを落ち着かせようとこう言っているが、実際のところ、どんな状況かなど分かっていない。
「守れ! 押し込まれるな!」
ウォルの叫び声が周囲に響き渡っている。状況がかなり悪い事は、言葉の雰囲気で分かる。
やがて又、破裂音が鳴り響く。近衛騎士を指揮する声が変わった。
馬車の中でじっとしている場合ではないと、エルウィンは外に飛び出した。近衛騎士団に襲いかかっているのは、黒装束に身を固めた者たち。素性を示すようなものは何もないが、そんな物はエルウィンには必要ない。
「間者風情に俺が殺せると思っているのか!?」
この言葉に続いて、エルウィンの口から魔法の詠唱が紡がれる。
だがこれが最後まで唱えられる事はなかった。銃声が響き渡った瞬間に、エルウィンの体が大きく後ろに飛んだ。そのままエルウィンは、うめき声を漏らすだけで立ち上がる事はなかった。
「目標補足! 一気に制圧しろ!」
この声は近衛騎士のそれではない。これまで一言も発していなかった襲撃者の一人が指示を出しているのだ。
やがて戦いの声が消え、周囲には女性の泣き叫ぶ声だけが聞こえるようになる。制圧は終わり。襲撃者が女性たちをどうしようとしているのか、考えるだけでエルウィンは気分が悪くなる。
「お前のした事と何が違う?」
まるで心を読んだような言葉が、エルウィンの耳に届く。だが問い掛けられても、答える余裕がエルウィンにはない。
「男は殺す。女は奴隷だ。人数は違うが、お前のした事と同じだな」
襲撃者が何を言っているのか、エルウィンにもようやく分かった。ヴィンセントを死刑に追い込み、エアリエルを奴隷に落とした。これと同じだと言っているのだ。
「……そ、それ、を……言う、し、資格、は……」
エルウィンは確かにそれに加担した。だが主体となったのはランスロットとマリアだ。ランスロットの側に自分を責める資格はない、とエルウィンは思っている。
だがエルウィンは根本的なところで思い違いをしている。
「資格はある。俺にはな。ずっとこの時が来るのを待っていた。長かったな」
「お……まえ……まっ、まさ……」
エルウィンは最後まで言葉にする事が出来なかった。いきなり巻き起こった炎が、その体を包み込む。暴れて地面を転げまわるエルウィンだったが、炎は消えるどころか勢いを増すばかり。すぐにその体は動かなくなった。
炎が消えた後、その場所には燃えカス一つ残っていなかった。ウィンヒール国王エルウィンとその一党は、この日以降、表舞台から姿を消した。
◇◇◇
グレートアレクサンドロス帝国とファティラース王国の最前線。その本陣の天幕の中で、マリアは至福の時を過ごしていた。何の遠慮もなく、逆ハーレム状態を楽しんでいるマリア。それを止められる者はこの場には誰もいない。
ただ今は少し真面目な話をしている。マリアの親衛隊は、マリアの参謀組織でもあるのだ。
「エルウィン国王の件、首尾よく果たしたとの報告が来ております」
報告をしてきたのは情報担当のマシュー・バートンだ。情報担当といっても公式なものではない。あくまでもマリアの私的機関における役割だ。
「そう。それで?」
「ウィンヒール王国貴族のほとんどが、グランフラム王国への恭順を誓いました。これはエルウィン国王が逃亡時点での話です」
「ふうん。予想通りね。ここまで読むなんて大したものね」
マシューの報告を聞いたマリアの視線が、同じく親衛隊のアラン・シェルフォードに向く。アランは作戦参謀というところだ。作戦参謀といっても考えさせられるのは、後ろ暗い、策謀の類ばかりだが。
マリアたちにとってウィンヒール王国の滅亡は大歓迎、というより、そうなるように仕向けた結果だった。グレートアレクサンドロス帝国にとってのウィンヒール王国ではなく、マリアにとってエルウィンは実に目障りな存在だったのだ。
いつもどこか冷めた目で、マリアのやる事を批判的に見ているくせに、自分もちゃっかりと乗っかって良い思いをしている。それがマリアには気に入らなかった。
ゲームの失敗でマリアとランスロットは酷い目にあったのに、エルウィンだけが良い思いをした、という僻(ひが)みもあった。リオンとエアリエルが聞けば、怒り狂うか呆れ返るかのどちらかだが、マリアにとって今の行動は、自分を虐げた人々に対する復讐でもあるのだ。
「お褒めの言葉を賜り、感激です。ですが今回は相手が愚かなだけです。こちらの思う通りに動いてくれるので、実に簡単でした」
マリアの褒め言葉を喜びながらも謙遜するアラン。本気でこう思っているのかは、怪しいものだが、こういう受け答えはマリアが喜ぶものだ。
「彼らにも感謝の言葉を伝えておいて」
「……ならず者たちには勿体ないのでは?」
アランの表情が曇る。今回の件でも裏社会の者たちを使っている。役に立つ者たちであるのは確かだが、だからこそ必要以上に彼らがマリアに近づく事をアランは恐れているのだ。
「彼らは役に立つもの。まだまだ手放すのは惜しくない?」
「……そうですね。伝えておきます」
マリアの言葉から、ずっと使い続けるつもりはないのだと判断して、アランは少し安心した様子を見せている。こういった揺さぶりがマリアの意図したものだと、アランは気がついていない。
男心を弄ぶのと同じように、マリアは仕える者たちの心をこうして刺激して、自分の言いなりになるようにしているのだ。
「さて、こうなると次はどうなるの?」
「はい。グランフラム王国はある程度、国力を回復させた事で、いよいよ我が国に対して攻勢に出ようとするでしょう」
「そうね。それに対しての備えは?」
「グランフラム王国は、まず間違いなく王都奪回に動きます。新帝都トキオの備えは既に済んでおりますので、ただ待っていれば良いのです」
「キヨトを攻める可能性はないの?」
キヨトは元々アクスミア侯家の本拠地であり西部最大の都市だ。グレートアレクサンドロス帝国にとってトキオか、それ以上に重要な都市なのだ。
「一応の備えはしております。しかし可能性は低いかと」
「理由は?」
「グランフラム王国の現在の本拠地はバンドゥです。そこを空にして、正反対のキヨトに向かうとは思えません」
「バンドゥから西上すれば、先にトキオがあるものね?」
「はい」
マリアに合わせて、アランは了承の言葉だけで済ませたが、単純に近いからというだけが理由ではない。中央を押さえていれば東西南北、どの方向にも最短で対応が出来るのだ。単純な事ではあるが、これが戦略的には大きな意味を持つ。
それにグランフラム王国にとって王都奪回は、周囲に復権を印象づける意味もある。求心力を取り戻す為には大切な事のはずだ。
「そうなると、そろそろファティラースのケリを付けなくては駄目ね?」
「いえ、急ぐ必要はありません」
「そうなの?」
グランフラム王国とファティラース王国と同時に戦うのは、さすがに無理があるかとマリアは考えたのだが、アランはそれを否定した。
「もうすぐファティラース王国は我らと戦っている余裕もなくなるでしょう?」
「何を仕掛けたの?」
「ファティラースの国民の中から、貧困や差別に苦しんでいる者たちを選んで武器を渡しました。悪徳領主を討ち果たし、我が国に恭順すれば、一等国民として受け入れると約束をして」
「革命ね。でも、うまく行くかしら?」
「そこは……あの者たちに少し扇動をやらせております。あれらも又、ある意味では虐げられた者たちですので」
「素晴らしいじゃない。既得権益者を打倒して、国民の手で自由で平等な理想の社会を作る。私が望むやり方だわ」
自分自身は皇后という高貴な身分を強く望んでいたくせに、口では平等が理想という。矛盾しているのだが、本人はそうは思っていない。
力ある者は報われ、そうでない者はそれに相応しい地位に落ちるべき。マリアの考える平等はこういう事だ。
全く間違っている訳ではない。だがグレートアレクサンドロス王国には、新貴族というべき者たちが生まれており、国民も一等、二等と区別されている。例え今は実力や功績に応じたものであっても、これが世襲となれば、結局は、新たな特権階級を作るだけになる。
「グランフラム王国を帝都での戦いで完膚無きまでに叩きのめせば、旧グランフラム王国に居た無能な貴族は淘汰され、マリア様の考える理想社会が実現する事になります。後、少しです」
「いえ、まだまだよ。それが終われば、次はメリカ王国。そして、大陸全土に広げていくの。私が大陸を統べて、新しい世界を作るのよ」
マリアの欲望は止まらない。皇后という身分を手に入れても、却って不自由になったとマリアは不満を覚えているのだ。
皇后の先にあるものをマリアは求め始めている。まだ自分では自覚はないが、それは確実にマリアの心の奥底で膨らんでいた。