全軍での総攻撃を決めた翌日。勇者軍は早朝からその準備に入っていた。本陣では総攻撃にあたっての戦法の確認を行うために大隊長以上の将官が集まっている。
それを率いる健太郎はといえば、上座に座ったままテーブルに突っ伏していた。
「ケン様、全員集まりましたが?」
「……ああ」
これから総攻撃だというのに、健太郎は気怠げな様子を隠さないでいる。総大将がこんな状況では周りにいる者たちは不安になってしまう。
「どうされました? 体調でも悪いのですか? それでしたら今日の総攻撃は」
大事な一戦だ。総大将である健太郎がこのような状況であれば見送るべきだとカーライルは考えた。
「平気。寝不足なだけだ」
「寝不足ですか……」
カーライルの顔にわずかに呆れた雰囲気が浮かぶ。寝不足の原因が侍女との性行為のせいだと思ったからだ。
「違うから。昨日の夜はしてないよ」
「私は別に」
「寝不足なのは、あの伝令のせいだ」
健太郎は昨日の伝令の無礼にまだ腹を立てていた。腹を立てているのは無礼そのものが理由ではなく、グレンに自分が勝てないと言われたことを根に持っているのだ。
「伝令ですか……」
「本当だって。全く、頭に来るよな。大将軍である僕に向かって、あの態度はあり得ないよ。怒りが収まらなくてさ。それで寝れなかった。顔を覚えていないくらいが何だよ」
「ケン様、それはもう」
カーライルはこの件について深く話をしたくない。健太郎の愚痴を止めようとしているのだが、それは通じなかった。
「従卒だったって言ってたよな。誰の従卒だよ? まさか、ここにいないよな?」
「……私です」
「はっ?」
カーライルが深く話をしたくない理由の一つがこれだ。
「彼は私の従卒でした」
「カーライルの? だったら、もっときつく言ってくれれば良いのに」
「申し訳ありません」
健太郎の文句は止まらない。自分の感情ばかりを優先して、周りのことが見えていないのだ。
「そうだとするとカーライルへの態度も問題だな。よし、この戦いが終わったら首だ。騎士でなくしてやる」
「いや、それはお止め下さい」
「どうして? カーライルは頭に来ないのか?」
「……私にはその資格がありません」
「資格? 何それ?」
止めておけば良いのに、健太郎は無神経に話を続けようとする。昨日の伝令の騎士の態度を冷静に考えてみれば、ただ事ではないのは分かるはずなのにそれが出来ない。
「……覚えていないのですか?」
健太郎の言葉を聞いてカーライルが驚きを見せている。反応したのはカーライルだけではない。周囲の何人かの顔色も変わった。
「カーライルまでそれを言うかな? 親衛隊って二百人もいたんだ。その更に従者なんて覚えてないよ」
「そうではなくて」
「何?」
「……いえ」
カーライルのほうが気を遣って話を終わらせようとするのだが。
「気になるな。何? きちんと説明してくれないと分からない」
やはり健太郎には通じない。
「……前回のアシュラム侵攻の時のことです」
仕方なくカーライルは何の話かを匂わせたのだが。
「何かあった?」
やはり健太郎には通じない。カーライルが何を言っているのか全く理解していない様子だ。
「ケン様は戦況の確認をしていないのですか?」
「戦況? ……あれって結局、何があったのか分からなかったよね?」
「いえ。帰還した捕虜の証言をまとめて戦況報告書は作られております」
「そう。それが何か?」
健太郎がそう言った途端に、わざとらしく大きな音を立てて、大隊長の一人が立ちあがった。その顔は怒りで赤く染まっている。
「おい!」
そのまま天幕を去ろうとするその大隊長を、慌ててカーライルは呼び止めた。
「……何だ?」
「どこへ行くのだ?」
「外だ。さすがの俺もこの話はこれ以上聞いていられん」
大隊長の怒りの原因はカーライルと健太郎の会話の内容にある。それはカーライルも良く分かっている。分かっているからこそ、席を外すことを良しとしないのだ。
「これから軍議だ。席に戻れ」
「軍議など始まらんではないか? それに軍議の前にきちんと話したらどうだ? 何があったかを知れば、少しはマシな言葉が出るかも知れん」
「それは……」
「それを話すにしても、やはり俺は聞いていられん」
「逃げるのか?」
「逃げる? 馬鹿を言うな。戦況報告は何度も読んだ。何か出来たのではないか。自分は何を間違ったのかを知りたくてな。だが駄目だった。俺には何も思いつかない」
「お前……」
逃げたのではない。真剣に向き合ったからこそ、今この場で怒りが抑えられないのだ。一方でそれから逃げた者たちは、今この場で自分は何も知らないという風な態度を見せている。
「それで得られたことは、少しだけまともな人間になれたと思えるようになったくらいだ。だがそれを感謝する気にはなれん。愚か者のままでもあんなことはない方が良かった」
「おい!」
カーライルが呼び止めるのを無視して、その大隊長は天幕を出て行ってしまった。
「今の何?」
二人の会話が終わったところで健太郎が何の話か尋ねてきた。
「いえ」
「気になるだろ? 何の話?」
「それは……」
健太郎に重ねて問われてカーライルは仕方なく事情を説明しようと口を開いた。だがそれを許したくない者たちがこの場には大勢いる。
「カーライル。その話はいらないだろ?」
「そうだ。今更、昔の話をしてどうする?」
「そうそう。もう過ぎたことだ。関係ない」
説明を始めようとしたカーライルを何人もの大隊長が制してくる。だが、それが却ってカーライルの気持ちを刺激した。カーライルもまた外に出て行った大隊長と同様、ずっと思い悩んでいたのだ。
「お前ら、本気で言っているのか?」
「お前こそ、何を言おうとしている? 今更、良い子ぶってどうする?」
「ふざけるな! 自分たちが何をしたか分かっているはずだ!」
「それがどうした!? お前だって同じ穴のムジナだろ!?」
「そんなことは分かっている!」
そのままカーライルは口を噤んで、悔しそうに下を向いてしまった。
「えっと……結局、何?」
そこで話を終わられては健太郎には何のことかさっぱり分からない。
「ケン様、カーライルは総攻撃を前にして、ちょっと気持ちが高ぶっているのですよ」
「そういうことじゃないよね?」
「そういうことですって。気にすることはありません」
適当に誤魔化そうとする大隊長の一人。だが、彼は健太郎のことをあまり理解していない。こういう態度は健太郎を刺激するものなのだと分かっていないのだ。
「話せよ! 何を隠してる!?」
「…………」
いきなり怒声をあげた健太郎に驚いて黙り込むことになる。
「僕を馬鹿にしてるのか?」
「いえ、そんなことは……」
「じゃあ、話せよ!」
「「「…………」」」
「私が話します」
誰も口を開かないとみて、カーライルは自分が説明すると健太郎に告げてきた。
「じゃあ話して」
「アシュラムの砦から逃げ出した時のことを思い出して下さい」
「逃げたわけじゃない。あれは策を破る為に後退しただけだ」
どうでもいい拘り。だがこの拘りを無視すると健太郎の機嫌を損ねることをカーライルは知っている。
「……後退した時のことを思い出して下さい」
「それだけじゃあ、分からない」
「我らは騎馬を駆って後軍のもとへと急ぎました。ただひたすらに駆け続けました」
「そうそう。あれで後軍がゼクソンに襲われるのを防げた」
第一次アシュラム戦役は健太郎にとって成功事例だ。本当の意味で自慢出来る戦いだと健太郎は考えている。それが大きな勘違いだなんて知りもしないで。
「……馬を持たない者たちは、どうしていたのでしょう?」
「えっ?」
「我らの従卒たちは徒歩でした。彼らはどうしたと思いますか?」
「あれ? ……知らない」
後方のことなど当時の健太郎は全く気にしていなかった。ただ少しでも早く後軍に合流することだけを考えていた。それがゼクソン王国の奇襲を防ぐ為か、自分の身を守る為か、どちらであったとしても。
「国軍兵士たちと共に走っていました。我らの姿などすぐに見えなくなって、どうすれば良いか分からずにただ走っていました」
「どうすればって……僕は後軍まで後退だって」
「彼らは見習い騎士です。それに一緒にいた国軍兵士も全て小隊長以下です。指示するものは誰もいませんでした。後退している間ずっと、指揮する者のいない不安と、いつアシュラム軍に襲われるかという恐怖に怯えていたそうです」
「……でも後退出来た」
自分の過ちに気付き始めた健太郎。だがそうであっても自分の非を素直に認めることは出来ない。
「彼らがいつ国境を超えたかご存知ですか?」
だがそんな自分の非を認めようとしない健太郎の態度は、説明をしているカーライルの心を苛立たせて、彼を追い込ませてしまう。
「一緒にじゃなかった?」
「後軍の野営地に着いて、すぐに撤退を進言したではありませんか。我らは後ろに続いていた彼らを置き去りにして野営地を引き払いました」
「…………」
「我らは自分たちの従卒を戦場に置き去りにして逃げたのです。彼らはそう思って恨んでいます」
健太郎や元勇者親衛隊騎士である勇者軍の将校たちに恨みを抱いているのは、昨日の伝令だけではない。程度の差はあっても置いてきぼりにされた全員が恨みに思っていた。
「それは悪かったけど、でも、助かったわけだからさ」
「彼らが助かったのはグレン王のおかげです。グレン王があの時、何をしたかはご存知ですか?」
「捕虜になった」
「その前です」
「……でも、捕虜になったってことは何も出来なくて」
健太郎は戦後すぐの頃の曖昧な情報しか頭に入っていない。戦況報告書を全く見ていないことの証だ。
「そうではありません。では、それも一から説明します」
「ああ」
「我らが後退した後、先軍はふた手に分かれました。騎士団と国軍兵士にです。騎士団は中軍との合流を図ることを優先して、足の遅い歩兵と別れたのです」
「酷いな」
「……残された国軍兵士を率いたのがグレン王です」
「それでアシュラムに負けて、捕虜にか」
結論を無駄に急ぐ健太郎。これは、無意識かもしれないが、グレンの活躍を聞きたくないという思いがそうさせている。
「違います。グレン王はゼクソンで捕虜になったのです。グレン王率いる国軍兵士は騎士団を追うアシュラム騎兵の数を減らすための囮役でもありました。実際にアシュラム騎兵は絶え間なく後退する国軍兵士を襲ってきたそうです。それをグレン王は全て撃退しました。分かりましたか?」
「えっと?」
「我らの従卒たちが逃げ切れたのは、グレン王がアシュラム騎兵の追撃を手前で止めていたからです。グレン王は一緒に行動していた兵士だけではなく、その前を行く者たちも救いました。ざっと三千の兵士がグレン王に命を救われたことになります」
ウェヌス王国にとって裏切り者であるグレンが、もちろん恨みに思っている人は大勢いるにしても、全体としては完全な悪者扱いされないのはこれが理由だ。命の恩人だと感じている人たちは、グレンは追い込まれて仕方なく敵に回った、ウェヌス王国にも責任はあるなどと庇う傾向にあるのだ。
「……じゃあ、グレンはいつ捕虜に?」
「アシュラム騎兵を振りきった後です。後軍の野営地にたどり着いて、やっと助かったと思った兵たちの前にいたのはゼクソン軍だったそうです」
「それに負けてか」
「ゼクソン軍はほぼ全軍がいたようです。対するウェヌス側は二千、しかもほとんどが戦えない状態でした。それでは勝てるはずがない」
「そうか」
「それでも戦おうとしたそうです」
「えっ……?」
「グレン王は疲れきった体を引きずって、ゼクソン軍に向かおうとしたそうです。当時、グレン王に付いていた従卒たちが止めなければ、一人でも突っ込む勢いだったとか」
「…………」
グレンの英雄的な行動を聞いた健太郎は黙り込んでしまった。
「もっと言わせて頂くと、最後の方はグレン王がほぼ一人でアシュラム騎兵を止めていたそうです。その力があれば間違いなく逃げられたはずだった。だが、グレン王は兵と共に捕虜になることを選びました」
「何だよ、それ?」
「はっ?」
健太郎の声音に込められているのは反省ではなく不満。それにカーライルは驚いた。この話を聞いて健太郎が何も感じないとは、さすがに思っていなかったのだ。
「グレンを持ち上げてばかりじゃないか。カーライルは僕の副官だよね?」
「そうですが、今のは」
「がっかりだ。信頼していたのに、カーライルはグレンの方を買っていただなんて」
「…………」
今度はカーライルが黙り込む番だった。
「もう側にいなくていいから。副官は解任。ああ、さっき出て行った奴も解任ね。伝えておいて」
「……なるほど。そういうことですか」
「そういうことって何だよ?」
「なんでもありません。では私は失礼致します。側にいるなということは軍を出て行けと言うことですね?」
「……そうだよ」
「長らくお世話になりました。大将軍の今後の健闘を祈っております」
こう言って天幕を出たきりカーライルは、先に出た大隊長も戻ってくることはなかった。
長い付き合いだったカーライルも、健太郎のグレンへの強烈な嫉妬心に気が付いていなかった。気が付いたのは最後の瞬間だ。最初はともかく、途中からはそれなりに誠意をもって仕えてきたつもりのカーライルにとって、たかが嫉妬が自分への信頼を上回ることはどうしても許せなかった。
結局、その日の総攻撃は中止。翌日に持ち越されることになった。
◆◆◆
総攻撃の準備を終えて、あとは号令を掛けるだけ。健太郎は本陣でその時を待っていた。
何を待っているわけではない。ただ副官の指示を待っているだけだ。そして副官は健太郎が号令を掛けるのを待っていた。
「まだ?」
なかなか合図をしようとしない副官に焦れた健太郎。
「はい?」
副官は何を聞かれたのか分かっていない。カーライルがいなくなったことで新しく副官に任命されたばかりの彼は分かっていないのだ。健太郎の副官がどれほど大変であるかを。
「号令はまだ掛けたら駄目かな?」
「ああ、どうぞ」
「だったら早く言ってよ。ずっと待ってた」
「それは……失礼しました」
『全軍! 前進!』
副官の号令を受けて、それを待っていた軍が一斉に動き出した。先頭を進むのは戦車部隊。その周囲を歩兵部隊が足を止められるのを防ぐ役として固めている。その後に続くのは隊列を整えた歩兵部隊。
城塞からの投石器の攻撃を警戒しながらの進軍はかなり足が遅い。それでも着実に城塞に近づいていた。
「……君は?」
「はっ?」
いきなりの問い。だが中身のまったくない問いでは、何を聞かれているか分からない。
「君は……いや、君の従卒も怒ってるのかな?」
「……ああ、いや、それは知りません」
ようやく問いの中身が分かったが、副官は答えを持っていなかった。
「そう……じゃあ、いいや」
健太郎のそっけない態度。機嫌を損ねているのは分かっているが、副官にはその理由が分からない。
「……敵からの攻撃がありません」
嫌な雰囲気を嫌って、副官は話を仕事に戻した。どんな雰囲気でも仕事をしなければいけないのだが。
「……良いことじゃないか」
健太郎の態度は変わらない。気のない返事を口にした。
「そうですが……おや?」
副官を助けたのは戦況の変化だった。
「何?」
「いや、城塞の旗が……」
遠くを眺めながら不思議そうに呟く副官。
「だから何?」
「白旗に変わっているように見えます」
「えっ?」
副官の言葉に健太郎も城塞の上に翻る旗に目を向けた。明らかに昨日までのとは違う旗。無地の白旗であることが遠目でもはっきりと分かる。
「白旗って、この世界でも降伏なのかな?」
「はい。そうです」
「つまり?」
「アシュラム軍は降伏しました」
「やった! よし、すぐに城塞に向かおう!」
勝利が確定したと思って喜ぶ健太郎。
「……大丈夫でしょうか?」
だが副官のほうは不安げだ。
「何が?」
「罠の可能性はないでしょうか?」
副官は罠である可能性を危惧している。当初はウェヌス王国軍が一方的に攻めるだけであった戦いも、今では明らかにアシュラム王国軍の優位に進んでいる。ここで降伏する理由が副官には分からない。
「……あるね。どうしよう?」
「本当に降伏するつもりであれば向こうから使者が来るはずです。それを待ってみますか?」
「そうしよう」
罠にかかるよりは、総攻撃を遅らせるほうが良い。健太郎も副官の意見に同意を示す。
「では攻撃の中止を」
「ああ」
「…………」
「…………」
「…………」
「……号令掛けてよ」
「私がですか?」
「そう。カーライルはいつもそうだったけど」
「……分かりました」
副官の停止命令に全軍が徐々に進軍を止めていく。全体が止まったあとは後退だ。
城塞からの不意打ちに備えながらも、ゆっくりと勇者軍は元の位置に戻り始めた。
「よし、使者が来たら、すぐに国境を突破して王都に向かおう」
「はい」
「王都まではどれくらい?」
「……調べます」
「それくらい知っていてよ。副官だよね?」
「昨日までは違っていて」
「それでも知っていてよ」
「はい……」
新しい副官は、わすか一刻で副官の地位に就いたことを後悔することになった。
◆◆◆
使者が来るまでは暇だろうからと、健太郎は自分の天幕に入ってベッドで寝転がっていた。だが、いつまで経っても使者が来たとの報告は来ない。
それに苛立って侍女もベッドに入れて一行為。それでも使者はやって来ない。さすがに焦れた健太郎は外に出た。
打ち合わせに使う大きな天幕に入ってみると、副官たちも待ちくたびれた様子で椅子にだらしなく座っていた。
「どうして来ないかな?」
「あっ」
健太郎の声に慌てて姿勢を正す副官たちだったが、元々健太郎はそういう行儀を気にする性質ではない。特に何かを言うことはなく自分の席に座った。
「どうして来ないかな?」
入った時と同じ台詞を繰り返す。それを問われても、副官たちは答えを持っていない。
「城塞のほうを見てみますか?」
「見たって使者は来ないよね?」
「……では、こちらから使者を出しますか?」
「そうしよう。待ちくたびれたよ」
「では、誰を使者として」
「君」
「はい?」
「副官だよね?」
「はい」
「行ってきて」
「……こういう場合はまず降伏の意思を確かめる為の使者を出して、その後、引き渡し条件などの交渉をする為の使者を」
「二回も行くのか。大変だね?」
「……行ってきます」
健太郎に思うように意思を伝えるにはどうすれば良いのか。そんなことを悩みながら副官は天幕を出て行った。だが、その副官はすぐに戻ってくることになる。
「忘れ物?」
「いえ、また旗が変わりました」
「えっ?」
「城塞の上に翻っていたはずの白旗が、いつの間にか黒い旗に変わっていました」
「何だって!? 騙された! すぐに総攻撃だ!」
アシュラム王国に騙されたと考えて、慌てて総攻撃再開の指示を出す健太郎。
「いえ! 何の旗か確認したほうが良いと思います!」
だがその健太郎の命令を副官は慌てた様子で止めてきた。
「……何の旗って、黒旗にも意味があるの?」
「いえ、ただアシュラム王国の旗ではありません」
「じゃあ、どこの旗だって言うのさ?」
「黒旗と言いましたが、正確には黒字に銀で何か描かれた旗です」
「それって……」
黒に銀の図柄。その旗には健太郎も心当たりがある。
「今、確かめに行かせています。それが戻るまでは絶対とは言えませんが、恐らくは」
「恐らくは?」
「銀狼旗。ゼクソン国王代行グレン・ルートの旗だと思います」
「……嘘だ……嘘だぁあああ!!」
健太郎の絶叫が本陣中に響き渡った――。
◆◆◆
待ち構えていたはずの使者であったが、その到来を喜んでいるのは兵士ばかりで将官達の顔は暗い。将官の中にも内心では戦いの終わりを喜んでいる者はいる。いるのだが、その喜びを表に出すことは彼らには許されなかった。
喜ばないどころか、憎々しげに使者を睨んでいる健太郎を気にしてのことだ。
「ゼクソン王国、狼爪師団長ランガー将軍からの言葉をお伝えします」
「はい」
ランガー将軍から送られた使者の相手をしているのはレスリーだ。新任の副官では頼りなさ過ぎて交渉を任せられないと判断した結果だ。ちなみに健太郎に任せるという選択肢は、はなから頭にはない。
「アシュラム城塞内の掌握は完了しました。ご協力に感謝すると」
「そうですか……それで?」
「それだけです」
「今後のことは何もないのですか?」
これで終わってしまってはこの後、どういう行動を取ればいいのか判断出来ない。レスリーは使者から情報を引き出そうと質問をなげた。
「言付かっておりません」
「アシュラムとの戦いの状況は?」
「順調です」
「アシュラム領内の戦いの状況はどうなのですか?」
「それは軍事機密になります」
この言葉で使者には初めから多くを語るつもりはなかったのだとレスリーは分かった。だがそれでは困るのだ。
「我らは同盟国です。その我らに話せないのですか?」
「……確かに。では、すでに我軍がアシュラム王都に到達していることはお知らせします」
「既に王都に……」
この情報を知らされてもやはり動きは取れない。既に手遅れという思いがレスリーの頭には浮かんでいる。
「じゃあ、僕の軍も王都に向かおう」
健太郎がここで口を挟んできた。健太郎はレスリーほど諦めが早くない。往生際が悪いという表現のほうが近いかもしれないが。
「アシュラム王都にですか?」
「そうだよ」
「……それは王の意向を確認してから返事致します」
健太郎の申し出は使者の一存では是非が判断出来るものではない。
「王って?」
「グレン王です」
「どうしてグレンに聞く必要がある!?」
グレンの名を聞いた途端に健太郎は気持ちを高ぶらせている。心に広がっている敗北感を刺激されたのだ。
「……あると思いますが?」
「どうしてって聞いてる」
「勝手に動かれて、王の構想を乱すことになっては困るからです」
「そんなの僕には関係ない」
「関係はあるはずです。この戦いは我が国とアシュラム王国の戦いです。こちらの要請に応えて援軍を出して頂いたことには感謝しておりますが援軍は援軍。あくまでも我が国の要請に応じて動くのが筋ではありませんか?」
健太郎に向かって理屈を述べる使者。だが健太郎に理屈が通用するはずがない。
「そんなこと知るか!? 僕はグレンの援軍になんてなった覚えはない!」
「では何の為にアシュラム王都に向かおうとしているのですか?」
「…………」
使者の問いに健太郎の勢いが一気にしぼむ。勢いのまま余計なことを口走らなかったのはウェヌス王国にとって幸いだった。
「ウェヌスには二心がある。我が国をそう受け取らねばならないのですか?」
「そうじゃない。僕が言っているのは援軍とは関係なしに、僕らはアシュラムを攻めていた。そうだよ。城塞が落ちたのは僕のおかげだ」
「それは……」
「そうだろ?」
自分の戦果を武器にして話を有利に進めようと健太郎は考えたのだが。
「それについては、はっきりと言わせていただきます。城塞が落ちたのは我が師団が後背から奇襲を掛けたからです。それを否定しては我が師団の戦功が無になってしまいます」
「でも、ずっと城塞を僕は攻め続けていて、もう落ちるだろうというところまで追い詰めていた。そっちは最後に美味しいところを持って行っただけだ」
「あの……これは申し上げないでおこうと思ったのですが」
「何かな?」
「そちらの攻撃は、城塞そのものは傷めつけたかもしれませんが、それだけです。城塞にはほとんど人数はいませんでした。アシュラム軍は城塞の後方にいたのです」
「えっ……」
使者がもたらした情報に呆気にとられる健太郎。空の城砦を相手に半月以上も攻撃をし続けていたなど、全く気が付いていなかったのだ。
「城塞に攻撃を引きつけての時間かせぎです。アシュラム軍に人的被害はほとんどありません」
「……それでも、もう落ちる寸前だった。僕は総攻撃を命じたんだ。それを少し早くしていれば」
自分の戦果を無にするわけにはいかない。そんなことは健太郎の自尊心が許さない。
「一つお聞きしても?」
「何?」
「総攻撃とは何を目標にしての総攻撃ですか?」
「何って、城塞を落とす為に決まってるじゃないか」
「城塞を占拠するという意味ですか?」
「もちろん」
何を当たり前のことを聞いているのだと、健太郎は怪訝そうな顔で使者に答える。
「では我らに感謝して頂きたい」
「何故?」
「城塞の仕掛けについては?」
「仕掛け?」
「やはりご存知なかったようだ。城塞を占拠した途端に、そちらの多くの兵が城塞と共に焼かれることになったでしょう。城砦そのものがアシュラム王国の罠だったのです」
「あっ……」
第一次アシュラム戦役で同じ策をアシュラム王国は企んでいた。使者の話を聞いて、健太郎はそれを思い出した。自分たちがその罠に対して全く警戒していなかったことも。
「我軍は王より、アシュラムはそういう細工をするので注意するようにと言われておりました。白旗が上がった後も占領に時間を掛けたのはその為です」
「……僕だって、それくらい」
グレンは分かっていたと言われると健太郎はまた意地になってしまう。
「いや、今更そう言われても」
「うるさい!」
「何と?」
「とにかく僕はアシュラム王都に向かう! 邪魔をするなら力づくで押し通るまでだ!」
「馬鹿な!? その様な真似をされては後で問題になります!」
「そんなことは知るか! いいから通せ! よし! 皆かまわないから進撃だ!」
使者の警告も通用しない。健太郎は軍を動かそうと部下に指示を出し始めた。
「……外交問題になりますが?」
ゼクソン王国の使者は健太郎を相手にするのは諦めて、レスリーに問いを向けた。
「……分かっています。すぐに止めます」
ゼクソン王国の制止を無視してアシュラム王国内に攻め込むなど後々問題になるのは明らか。レスリーにはその片棒をかつぐつもりはない。健太郎の説得にレスリーは動き出した。
だが、レスリーが何を言おうと健太郎は聞く耳を持たない。レスリーの制止を振り払って健太郎はアシュラム領内に向けて進軍を開始した。
――目の前を通り過ぎて行く勇者軍。それを城塞の上からランガー将軍は見詰めていた。
「やはりこうなるか。王に伝令を。勇者は強引に領内に突入したと」
「はっ!」
ランガー将軍の指示を受けて、騎馬が駆けていく。
「よろしいのですか?」
隣に立っているアシュラム王国軍の将校がランガー将軍に尋ねてきた。
「構いません。これも想定通りです。いや想定とは少し違いますね。勇者に従わない部隊もいます」
全ての勇者軍が砦を抜けていったわけではない。ウェヌス王国領内に残っている部隊もいる。これはレスリーの判断だが、さすがにそこまではランガー将軍には分からない。
「どうしますか?」
「……残った軍が攻めてくることはないでしょう。予定通り進めることにします。修復だけでなく貴国側からの備えも固める必要があります。早めに始めたほうがいい」
「そうですな」
勇者軍が通り過ぎたあとの城塞では、ゼクソン王国とアシュラム王国の兵士たちが共同で砦の修復作業を開始した。その様子はとても戦いを終えたばかりとは思えない、友好的な雰囲気だ。