アイネマンシャフト王国の都の名称はノイエーラに決まった。皆に求められてジグルスが名付けたのだ。新時代という意味の言葉を発音しやすく変えたもの。嫌々ながら、それでもそれなりに真剣に考えた名称であり、周囲の受けも悪くない。新時代という言葉は大きな変革を感じさせる。アイネマンシャフト王国の都に相応しい名という評価だった。
実際の都の様子は新時代というよりも別世界。魔族、人族、エルフ族が一つところで普通に生活している姿など、アイネマンシャフト王国以外では見られない。ゾンネンブルーメ公国にも多種族が暮らす街はあるが、それは征服者と被征服者の関係であって、アイネマンシャフト王国の人々とは異なるものだ。
その別世界にリーゼロッテたちは迷い込んだ。正しくは王妃とその側近たちが都にやってきた、だが。
「……広い」
ブラオリーリエよりも遙かに巨大な防壁に守られたノイエーラ。リーゼロッテの目の前には広大な耕作地が広がっている。
「広いというより何もないですね」
驚いているリーゼロッテにジグルスは照れ笑いを浮かべながら話しかけた。防壁の内側は広大な耕作地帯が広がっているだけ。都と呼べるような場所ではないのだ。
「建物がないだけで何もないわけではないわ。よくこれだけの土地を耕作地に変えられたわね?」
リリエンベルク公爵家の人間だったリーゼロッテだ。この場所にこんな広大な耕作地などなかったことを知っている。
「土地を耕したり、水を引いたりと大変ではありましたけど、そういうのが得意な人が多いので」
魔族の強靱さは土木工事でもその力を発揮した。さらに体力だけでなく、魔法も工事に活用することで普通では考えられない速さで耕作地を広げたのだ。
「……あの更に壁で囲まれている場所は何かしら?」
耕作地の中に一カ所、壁で囲まれている場所があるのをリーゼロッテは見つけた。
「ああ、あれは実験場です」
「実験場?」
「ゴブリンなど道具が使える魔物に農作業をさせてます」
「はい?」
「森の実りだけでは十分な食料の確保は難しいかと思いまして。彼等にも農作業を覚えてもらうことにしました」
魔王軍に従うことを止めた魔物たちはノイエーラの背後に広がる森林地帯で暮らしている。だが狩猟だけで十分な食料を確保するのは難しい。乱獲によって森林資源が駄目になっても困ってしまう。
「……魔物もこの国の民なのかしら?」
「いえ、さすがにそれはありません。ただ彼等は先に見える大森林で暮らしていますので近所付き合い、って言い方はおかしいか……とにかくちょっと支援を」
もともとジグルスが策謀混じりの説得を行って、戦うことを放棄した魔物たちだ。あとは勝手にしろというわけにはいかなかった。
「……問題は起きないの?」
「だからあの中だけで作業をさせているのです。他の人の農地を荒らされたりしたら、ここに受け入れるわけにはいかなくなりますから」
「それでも……いえ、私がどうこう言うことではないわね」
魔族どころか魔物との共存。魔族には人族と同等かそれ以上の知性があることはリーゼロッテも分かっている。だが魔物と意思疎通が出来るのかという点にはリーゼロッテは不安しかない。
「……壮大な実験なのです。何百年経っても成果が出ないかもしれないような」
「どういうことかしら?」
「魔物は繁殖力が強い。その結果、数が増えすぎた魔物は食料を求めて人里を襲う。だから人族にとって魔物は害なのです」
「そうね」
戦争に関係なく、大森林に近い土地ではそういった被害が毎年発生している。魔物は厄介な存在であり、問答無用に討伐する対象だ。
「でも繁殖力の強さって過酷な環境に生きているからかもしれない。本来は大人にまで成長出来る子供が少なくて、種を絶やさない為に多くの子供を産まなければならない。これを言うと魔物たちは怒るかもしれませんが、動物が一度に多くの子供を産むのと同じではないかと」
「……そうだとして、ジークは何をやろうとしているの?」
「食事に困ることがなく、外敵にも襲われない安心して暮らせる生活環境があったら、魔物たちの在り方も変わるのではないかと思いまして」
「それが壮大な実験……分かったわ」
生きている間には何の成果も得られないかもしれない実験。それをジグルスは行っている。
これまでいくつも不可能を可能にしてきたジグルスではあるが、リーゼロッテが知る限りそれは、確実に出来ると思えるまで、あらゆる情報を集め、徹底的に分析し、対応策を考え、周到な準備を行った結果であって、今回の実験のようなものではなかった。
ジグルスの新たな一面を知ったような気持ちになったリーゼロッテ。では何がジグルスをそうさせたのかと考えると。
「……ねえ、ジーク。貴方は王だわ。私への言葉遣いは変えるべきでないかしら?」
「言葉遣いですか?」
「そうよ。私は、その……貴方の妃なのだから、敬語を使われるのは……」
照れて頬を染めながら、言葉遣いを改めるようにジグルスに告げるリーゼロッテ。
「気にしなくても良いと思うけど?」
それに応えたのはジグルスではなく、ナーナだった。
「王に敬語を使わせる王妃なんておかしいわ」
「おかしいくらいで良いのですよ。この国はそういう場所なの。それに王のそういう一面を見せることはこの国にとって悪いことではないと思いますよ?」
「……どうして?」
「王は、特に魔族には恐れられていますから。魔族の未来を造ろうとしている王に皆が感謝し、尊敬しています。でもそれと同時に敵に対する王の非情さを恐れてもいる。もともと皆、敵でしたから最初の王への印象が消えないのです」
敵であった魔族の多くがジグルスの非情さを知っている。その裏にある優しさを知り、ジグルスに従うようになったのだが最初の印象は完全に消えたわけではない。もし何らかの失敗をしてジグルスを怒らせるようなことになればどうなるか。それを恐れる気持ちは強い。
大きな問題ではない。人族の国であっても国王による厳しい処罰は行われており、それへの恐怖が臣下を従順にさせていることなど当たり前にあることだ。
「でもそれと王妃としての心得は」
王に敬語を使わせるような王妃になどリーゼロッテはなりたくない。一歩下がって王を立てる。それが正しい王妃の在り方だとリーゼロッテは考えている。
「……確かに貴女の気持ちもありますね。良いです。私が言いたかったのは、あまり畏まった態度で王に接すると臣下との距離も広がってしまうかもしれないということです。もともと王の態度は別にして、王と私たちの距離は近いものです。それが離れてしまうような事態になるのは国にとって良くないと思ったのです」
魔族の多くにジグルスは冷たい態度をとる。だからといって遠ざけているわけではない。話し合いは頻繁に行われており、その内容はお互いに遠慮のないものであったりする。
ナーナは今のそれを変えたくないのだ。いずれ魔族の側は、敵であったことによるわだかまりが薄れ、それと同時にジグルスの本質をより理解するようになる。もっと良い関係になれるとナーナは考えている。
「……分かりました。気をつけますわ」
「ただし、貴女が王の弱点だと思われない程度に。自分で言葉遣いや態度を気にするなと言っておいて、こんなことを注意するのは申し訳ありませんが、気をつけて下さい」
「……はい」
実際問題として、ジグルスの最大の弱点はリーゼロッテだ。暗晦の一族によるブラオリーリエ襲撃への対応に自ら動いたのもそれの証。それを読まれていたら暗晦の一族は違った作戦を採っていただろう。リーゼロッテを囮にしてジグルスを討つという作戦に。
「王もですよ?」
「……誰だって奥さんは弱点だと思うけど?」
「そうだとしても……とにかく気にしてください」
ジグルスに言っても無駄。彼の言う通り、肉親が弱点であるのは当たり前のことだ。ではどうするのかとなれば、それは弱点となる側で対応するしかない。たとえば人質になるくらいなら死を選ぶなど。ただこれはジグルスの前で言えることではない。言わなくてもリーゼロッテは分かっているとナーナは考えている。
「さて、内壁の入り口まで来ました。ここから先は少し騒がしくなるかもしれませんね」
ノイエーラは二重の防壁で囲まれている。内側の防壁の中が人々の居住区だ。ジグルスたちはその入り口に到着した。壁の上に立っていた歩哨が門を開けるように伝えている。やがて、ゆっくりと門の扉が開いていった。
ジグルスに続いて門をくぐって、中に入ったリーゼロッテ。大歓声が響き渡った。
「あっ……」
真っ直ぐに先に伸びる大通り。その両側に大勢の人が並んでいる。笑顔を浮かべて叫んでいる人々。中にはその場に跪いて拝むような恰好の人もいる。リリエンベルク公国の領民だった人たちだ。
リーゼロッテはその中の一人に近づくと手を取って話しかける。
「立って下さい。私は貴女たちの為に何もしてあげることが出来なかった。跪くべきは私です。貴方たちに謝罪する為に」
「……リーゼロッテ様……お気持ちだけで十分です。それに私たちはリーゼロッテ様が心を痛めるほどの苦労はしておりません。王に助けて頂きましたから」
「ええ。私の出来なかったことを成し遂げてくれた王には深く感謝し、尊敬しています」
ジグルスに顔を向けてリーゼロッテはこれを言った。言われたほうのジグルスは照れて俯いてしまっている。
「……この国の王妃におなりになると聞きましたが?」
「ええ。王は……私が学院に通っていた時からずっと想いを向けていた御方。戦争という不幸な出来事の中、公爵家の人間であった私がこのような幸せを手に入れてしまって良いのかと思ってしまいます」
「学院に通っていた時から……ですか?」
リーゼロッテの話を聞いた相手は意外な答えに戸惑っている。この結婚は、リーゼロッテ本人の意に沿わない政略結婚である可能性も考えていたのだ。
「……当時、王のご実家は男爵家。叶うことのない想いだと諦めていました。でも、私は王の横に立つことが出来る」
「そうでしたか」
頬を赤らめて語るリーゼロッテを見て、この話は事実なのだと相手は思った。これは無条件に喜んで良い結婚なのだと。周囲で聞き耳を立てていた人たちの顔にも笑みが浮かんでいく。
「あ、あの、リーゼロッテ様。そういったことはここで話すことではないのではないですか?」
さらにジグルスが恥ずかしそうな顔をしてリーゼロッテの話を止めようとしてくる。ジグルスの想いも周囲に人々に分かった。
「……王。私は貴女の妃になるのですから、様は……そのような呼ばれ方はかえって寂しいわ」
「あっ、えっと……じゃあ…………じゃあじゃない。呼び方はあとで決めましょう」
周囲の視線に気が付いて話をやめるジグルス。周りからは不満そうなうめき声が聞こえてきた。
「お話しする機会はこの先もありますよ。先を急ぎましょう。まだ待っている人たちがいますからね」
ナーナが先に進むように促してきた。今の話で、元リリエンベルク公国の領民たちには、今回の結婚を純粋な祝い事として受け取ってもらえる。十分過ぎる結果だ。だがこの先には彼等よりも難しい人たちがいるのだ。
大通りを先に進むジグルスたち。すぐに人族とは違う人々が見えてきた。歓迎の為に両脇に並んでいるのだが、さきほどの人族の人たちとは少し雰囲気が違っている。敵意とは違う複雑なものだ。それを感じ取ってリーゼロッテも少し緊張の色を見せている。
そのリーゼロッテの前に駆け出してきた人たち。
「……えっと……もしかして、そのお花は私への贈り物かしら?」
「うん」
目の前に立ったのは花束を持った子供たち。狼人族、鬼人族、有翼族、エルフ族の子供たちだ。さらにその後ろには鳥人族や熊人族などなど、各種族の子供たちが並んでいる。
子供たちに近づいたリーゼロッテは、膝を折って彼等と視線を合わせる。
「ありがとう。とても嬉しいわ」
エルフ族の子供から花束を受け取ったリーゼロッテは、軽く抱きしめながら御礼を告げる。他の三人の子供たちにも同じ対応を行った。
さらに低い視線のまま、後ろに並んでいた子供たちに近づくと一人一人、抱きしめていった。
「私の名前はリーゼロッテ。王と結婚してこの国の王妃になる予定です。王妃は国の母。私は貴方たちのもう一人の母になるつもりですので、これからもよろしくお願いしますわ」
「……お母さんはもういる」
「ええ、そうね。貴方たちの大切なお母さんはもういるわ。でも私も、本当のお母さんには負けてしまうでしょうけど、貴方たちを愛したいと思っている。それがもう一人の母ということ。分かるかしら?」
「……同じお母さんなのに違うの?」
「そうね……たとえば貴方のお母さんは貴方を誰よりも大事に思っている。貴方に幸せになって欲しいの。でも私は貴方たち、皆が幸せになって欲しいと考えるわ。貴方のことだけを考えてくれるお母さんは貴方にとって一番。でも貴方が幸せになる為に、隣の子が不幸になってしまうこともあるかもしれない。そういう時に私の出番が来るの」
子供たちの質問に頑張って答えているリーゼロッテ。ただ国の母について子供たちが理解出来るように説明するのは大変だ。何度も言い方を変えて、子供たちの質問に答えることになった。
「……思っていたよりも上手くやれそうだな?」
その様子を見ていた狼人族のフレイは、少しホッとした様子だ。
「もともと公爵家のご令嬢だ。ああいう振る舞いは慣れているだろ?」
鬼人族のグウェイはやや否定的な見方をしている。リーゼロッテの子供たちへの対応は出来すぎ。無理をしているのだと考えているのだ。
「あれは演技しているだけだと?」
「俺たちに偏見を持たない人族などいない。それが子供相手であったとしてもだ」
「……この場だけか。そうなると安心出来ないな」
リーゼロッテを王妃に迎えるにあたってフレイたちには不安がある。自分たちを嫌悪する人族を王妃に迎えて、この国は上手く行くのかという不安だ。ジグルスがリーゼロッテを大切に思っているのが分かっているから尚更だ。リーゼロッテの言いなりになって、人族ばかりが優遇される国になってしまう可能性もある。
「それはちょっと違うな」
「王!?」
いきなり割り込んできた声はジグルスのもの。リーゼロッテの側にいるはずのジグルスがいきなり現れたことにフレイは驚いた。
「リーゼロッテ様、い、いや、リーゼロッテはまったく無理をしていないと俺は思う」
「あれが素だと?」
「素というのは違うかな……彼女は貴族とは、公爵家令嬢とはどうあるべきか、ということを大切にしてずっと生きてきた。今は王妃とはこうあるべきというのを実践しているのだと思う」
「それはやはり演技。彼女の本質とは違う」
ジグルスの説明は自分の考えを裏付けるものだとグウェイは受け取った。
「たとえ最初はそう振る舞っているだけであったとしても、それをずっと続けていればそれが普通になる。リーゼロッテ様はそういう人だ。無理をしていないから異なる顔を見せることはない。彼女はこの国の王妃として理想の姿を見せ続けるだろう」
「……アイネマンシャフト王国の国民に対しての偏見は生まれない。たとえどんな種族であっても。そういうことか?」
「魔物がいると言ったら、さすがにちょっと困った顔をしていたな。でもその反応はお前たちよりはずっとマシだ」
魔物たちをノイエーラで働かせるとジグルスが言った時、フレイたちは強く反対した。彼等にも偏見はある。魔物に対するものだけでなく、人族に対する偏見が。偏見を持っているという点だけでいえば、お互い様なのだ。
「……それは自慢か?」
「はっ?」
「俺の妻は凄いだろ、という自慢に聞こえる」
「お前……そういうことを言う性格だったのか?」
こういうイジりはいつもフレイから。まさかグウェイがこんなことを言ってくるとはジグルスは思っていなかった。
「ただ感想を口にしただけだ。とにかく王妃殿下は、俺たちが考えていた可能性の中にはない最上の女性であったということだ。あとは王自身だな」
「俺? 俺の何が問題だ?」
「問題は山ほどある。ただ今言いたいのは、この国が結局は人族が支配する国だと思われないように気をつける必要がある」
魔族の為の国。そう思っている国民は少なくない。実際にこの国の存在によって助かるのは魔族。人族は魔王軍の支配下から逃れられたというだけ、それはとても大きなことだが、なのだ。
「俺、人族じゃないけど?」
「……そうだった。王は考え方があれだから、ついそうであることを忘れてしまうのだ」
ジグルスは魔族であるバルドルとエルフ族のヘルの間に出来た子だ。人族の血は流れていない。だが、明らかに異なる価値観を持つジグルスのことをグウェイは魔族とは思えないのだ。
「人族として育ったからな……母親の教育は違うか。でも、まあ、あれはあれで特殊だ」
「ヘル殿か……親しく接していたわけではないが、特別な人だったようだな」
「まあ」
そのヘルの息子であれば変わっていてもおかしくない。グウェイはそう思ったが、これはジグルスにまんまと誤魔化されている。ジグルスの価値観には両親は関係ない。転生者であることが大きいのだ。
「生まれてくる王子は魔族とエルフ族、そして人族の血を引くことになるな」
「ま、まあ。そうなるか」
リーゼロッテとの子供。想像しただけでジグルスは照れてしまう。
「では是非、王子の嫁は狼人族からもらってもらおう」
フェイが気の早いことを言ってくる。
「いや、鬼人族だ」
グウェイも自分たちの種族こそを王子の妻にと言ってきた。
「おい? 二人で勝手に決めるな」
さらに別の種族の男が会話に割り込んでくる。そうなると他の人も黙っていられない。自分の種族からこそ王子の妃にと次々と声をあげ始めた。
突然起きた大騒ぎにリーゼロッテと話をしていた子供たちは驚いてしまっている。
「ちょっと! 何を騒いでいるのですか!? 歓迎の催しが台無しですよ!」
騒ぎを収めようとナーナが大声をあげた。
「生まれてくる王子の妻をどの種族の女性にするか話しているのだ」
ナーナの問いに答えたのは騒ぎのきっかけを作ったフェイだ。
「まあ、気が早い。そういうことなら是非、有翼族からと私も言いたいところですけど、皆気持ちは同じですね?」
「まあな」
「でも今決めることではありませんよ。じっくりと話し合って順番は決めないと」
「順番?」
「公平にしようと思えばそうなりますよ。全ての種族の血を王家に入れるのです」
「なるほど。それは良い案だ……どのような子供になるのだろ?」
有翼族のように背中から翼が生え、狼人族のように歯が尖って、鬼人族のように頭に角を持ち、半馬人族のように四つ足で歩く。なんてことにはまずならない。
「どこが良い案だ!? お前等、俺の子や孫を何だと思っている!? 結婚は自由恋愛! 種族も身分も関係ない! 王家だけでなく国民全員がそうだ!」
「「「ええっ!?」」」
また新たな価値観がアイネマンシャフト王国に生まれた。