空にはまだ白く輝く月が浮かんでいる。夜が明けるまでにはもう少し時の経過が必要だ。ベッドに仰向けに寝たまま、顔だけを横に向けて、窓から見える夜空を眺めながらジグルスは小さくため息をついた。
ジグルスの胸の上に伸びた腕。右腕にあたっている柔らかな感触は胸の膨らみ。ジグルスにぴったりと体を寄せてリーゼロッテは眠っている。
抑えきれない欲望……ではなく愛情に流されるまま、リーゼロッテを抱いてしまった。ジグルスは今更ながらまさかの急展開に動揺していた。こんなことが許されるのか。ジグルスとリーゼロッテはまだ何の約束も交わしていないのだ。
ジグルスが特別真面目ということではない。この世界では、貴族に限ってのことだが、自由恋愛など許されない。まして結婚の約束もないのに、あったとしても結婚後まで待つのが普通だが、体の関係を持つなどあってはならないことなのだ。それでいて結婚後は、あくまでも一部の女性だが、自由恋愛が許されている貴族女性がいることにはジグルスはずっと疑問を感じていたが。
リーゼロッテは貴族の中でも最上位の公爵家の令嬢だ。その彼女とジグルスは関係を持ってしまったのだ。自分のしでかしてしまったことを思って、またジグルスの口からため息が漏れた。
「……ため息」
「起きていたのですか?」
「違うわ。ジークのため息で起きてしまったの」
ため息で起きたは嘘だ。ただ寝たふりをしていたわけでもない。ふと目覚めた瞬間にジグルスのため息が聞こえてきたのだ。
「そんなに敏感なのですか?」
「普段は違うわ。きっとジークとの時間を寝て終わらせたくないという気持ちがあるのよ」
「そ、そうですか」
リーゼロッテはジグルスへの気持ちをまっすぐに伝えてくる。その積極的な対応にジグルスは少し戸惑ってしまう。
「……後悔しているの?」
「何をですか?」
「惚けないで。私とこういう関係になったことだわ。ため息はそういうことでしょ?」
リーゼロッテにも躊躇いがなかったわけではない。だがジグルスとの関係は、自ら深く踏み込まないと壊れてしまう。そんな風に感じているのだ。
「……後悔というか……こうなってしまって良いのかなと」
「それを後悔というのではなくて?」
「後悔という言葉だとどこか嫌がっている感じがありませんか? リーゼロッテ様を、その、関係を持てたことは一人の男としては、とても嬉しいのです。ただ強く求めていても、決して現実にはならないと思っていたことなので……」
「私も……現実にこんな日が来るとは思っていなかったわ」
最上位貴族である公爵家の令嬢であるリーゼロッテと最下位貴族である男爵家のジグルス。結ばれることなどないはずの二人だ。強く想っていても、リーゼロッテも諦めていた。
「でもこうなった。許されることではないと分かっていたのに、自分の気持ちを抑えきれなかった」
「ジーク。私はもう公爵家の人間ではないわ。リリエンベルク公国は滅びたの」
「復活出来ます。魔王の軍に勝って、全ての領土を取り戻すのです」
「もちろん、そのつもりよ。でも私は、ローゼンガルテン王国の貴族家としての復活など望んでいないわ」
公爵の爵位はローゼンガルテン王国から与えられたもの。リリエンベルク公国を裏切り、見捨てたローゼンガルテン王国に再び仕えるつもりはリーゼロッテにはない。
「そうだとしても……貴女がたとえ平民であったとしても許されないことです」
「どうしてそんなことを言うの?」
「俺は自分が何者であるかを伝えることなく、貴女を抱きました。貴女を騙したのです」
「私は貴女が何者であっても愛し続けるわ」
「魔王の息子であっても?」
「…………」
リーゼロッテの瞳が大きく見開かれた。魔人と何らかの関わりがあることはとっくに分かっていた。だが「魔王の息子」という言葉には、さすがに動揺を隠せなかった。
「……どうやら俺は先の戦いで死んだ前魔王と母親の間に出来た子供のようです。顔も知らない男を父親と認める気はありませんが、俺の体に流れているのはエルフ族と魔族の血。これは変えられません」
リーゼロッテの反応は予想されていたもの。そうであっても胸が痛むのは避けられない。そうであるからこそ、ジグルスは笑みを浮かべるしかない。動揺を見せてしまったことを彼女が悔やまないように。
「母親も元は前魔王の側近としてローゼンガルテン王国と戦っていました。今、俺の側にいる魔族たちも、その多くはリリエンベルク公国攻めに参加していた人たちです」
ジグルスはリリエンベルク公国の、人族の敵の側にいる。そんな自分がリーゼロッテの側にいるべきではない。以前から考えていたことだ。そうであるのに、ジグルスは感情を抑えられなかった。
「……普通のおでこね?」
ジグルスのおでこに手を伸ばし、指でさすりながらリーゼロッテは呟いた。
「……はい?」
その唐突な問いにジグルスは戸惑ってしまう。
「もう一つの目がおでこにあるわけではないのね? それとも髪に隠れているのかしら?」
おでこにあったリーゼロッテの手が頭に移動して、髪をくしゃくしゃにする。
「目は三つもありません」
「そう……鼻も一つ。口も一つね」
頭からゆっくりと降りてきた指が鼻をなぞり、口で止まる。
「良かったわ。どの唇を選ぶか悩まないで済む」
こう言ってリーゼロッテはジグルスに顔を寄せて、口づけをした。
「リーゼロッテ様……」
「私は貴方のご両親に恋をしたのではないわ。ジーク。貴方を好きになったの。貴方のご両親が誰であったとしてもジークはジーク。私が愛したのは貴方よ」
「全てを捨てることになります」
「私はずっと前からそれを望んでいた。全てを捨てて、貴方と共に生きたかった」
公爵家の令嬢なんて立場を捨てたかった。貴族家に生まれた女性としての責任なんてものを投げ出したかった。だが出来なかった。
「本当にそれで良いのですか?」
「それが私の夢なの。叶えてくれる?」
「……貴女が望んでくれるのであれば」
「あっ……」
二人の体が入れ替わり、上になったジグルスは仰向けになったリーゼロッテの両手に自分の指を絡ませて、頭の上で軽く押さえつけた。
「ジ、ジーク……」
露わになった胸元。くびれた腰。羞恥でピンクに染まった体がジグルスの心を刺激する。
「リーゼロッテ様はご存じないでしょうけど、少し偉くなった俺は、以前より我が儘になってしまったようです」
「……我が儘?」
「もう貴女を手放すことはしません。貴女が嫌になっても、この瞳も、口も……胸も……永遠に俺の物です」
瞳に、口にそして胸に口づけをしていくジグルス。
「……心も」
「心も。貴女の全てが俺の物です。そして俺の全ては貴女の物です」
「永遠に」
「はい。永遠に」
月明かりの中で交わされた誓い。立ち合う者などいない、二人だけのプロポーズ。
◆◆◆
ということにはならない。二人が気が付いていないだけで見届け人はいたのだ。そしてその見届け人の証言は、エルフ族にとってはだが、絶対となる。
夜が明けて、ジグルスにとっては旧知のフェリクス等、リーゼロッテの側近たちも集まった会議の場でジグルスはそれを知らされた。
「……えっと、つまり精霊たちが見守る中で結婚を誓ったのだから、俺とリーゼロッテ様はもう夫婦だと?」
「そういうこと。素敵な結婚の儀だったね?」
見届け人の一人であるルーは、二人の結婚を心から祝福している。
「素敵な……まさか、見てたの?」
「それは僕も見届け人だから」
「そういうことじゃない。どこからどこまで見てた?」
「最初から最後まで?」
つまり初めて二人が結ばれた時から、誓いを交わした後の行為まで全部だ。
「……以後、のぞき見は絶対禁止」
「嫌だな。僕だってそれくらい分かっているよ。昨晩は成り行きが気になって見守っていただけ。結果良かった」
「良かったって……」
昨晩は二人きりということもあって感情を優先させたが、実際に結婚となると解決しなければならないことは沢山ある。
「良かったじゃない。えっ、まさか誓いを破るつもり? そんなことしたらどうなるか分かっているの?」
「いや、それは……当然、守る。精霊たちが見届けていなくても守るけど……」
視線をリーゼロッテに向けて、探り探り言葉を発するジグルス。リーゼロッテはどう考えているのか気になるのだ。ジグルスはまだ彼女に全てを説明していないことに気が付いていない。リーゼロッテにとってはジグルスほど大変なことではないのだ。
「戦いはまだ続けるつもりだわ。だから一緒に暮らすのは、それが終わったあとでもかまわない……たまに会いに来てくれれば……」
戦争が続く中では離れ離れになることが多いのはリーゼロッテも覚悟している。ジグルスの妻であるという事実がリーゼロッテの心の支えとなるのだ。
「それで済むかしら?」
割って入ってきたのはナーナ。彼女は、表に出ていないだけで冥夜の一族もだが、城に残っていた。
「どういうことかしら?」
ナーナに向けるリーゼロッテの視線は少し厳しい。問いの意味を誤解しているのだ。
「だって王の妻ということは王妃ってことですよね?」
「……王妃?」
「あら? まだ話していないの? ジークは王よ。アイネマンシャフト王国の王」
「アイネマンシャフト王国の王?」
リーゼロッテの視線が今度はジグルスに向く。ナーナに向けたそれよりも遙かに厳しい視線だ。こんな大事なことを教えてもらえていなかったことを怒っているのだ。
「いや、その、時間がなくて」
前魔王の息子であることを告白し、永遠の愛を誓ったあとは会話らしい会話をする時間はなかった。これは事実だ。
「そうだとしても……」
「すみません……」
「まあ? ジークは妻に対してはそういう態度を見せるのですね? 新鮮だわ」
ナーナに対してはまだ丁寧さは残るが、それ以外の人たちに対するジグルスの態度はかなりきついか、素っ気ないものだ。リーゼロッテの前でしゅんとしている姿はナーナには新鮮だった。
「……ジークと呼ぶのね?」
リーゼロッテがまたナーナにきつい視線を向ける。まだ誤解は解けていないのだ。
「普段は王と呼びますけど、今は私的な話。ジークの母代わりとして話しているのです」
「母代わり? えっ?」
また新たな事実が発覚、したわけではない。ジグルスの母代わりはナーナの自称だ。
「ナーナさんはその、前魔王に好意を向けていて……その前魔王が俺の実の父だから……」
ジグルスの説明はたどたどしい。ナーナを母代わりとは認めていない。だが、きっぱりと否定した場合のナーナの反応がどのようなものになるか不安でもあるのだ。
「そうでしたか。それで義母上。アイネマンシャフト王国とはどのような国なのですか?」
いきなり態度を改めるリーゼロッテ。ジグルスの曖昧な説明が彼女に新たな誤解を生じさせているのだ。
「小さな国ですよ。そこでは私たち魔族だけでなくエルフ族も、そして人族も暮らしています」
「人族も、ですか?」
その人族は自らの意思でそこにいるのか。リーゼロッテはこんなことを考えてしまった。
「北部で暮らしていた人たちです。お願いして移住してもらいました。最初は占領地にいるよりはマシという気持ちからでしたが、今は上手くやっていると思います」
リーゼロッテが感じた疑問にすぐにジグルスが答えた。アイネマンシャフト王国の王はジグルスだ。人族を、種族に関係なく人を酷使するような真似をしているとは思われたくない。
「上手くというのは?」
「農業を教えてもらっています。実際に作業もやってもらっていますが、体力については魔族のほうが上ですから役割分担をして」
「魔族が農作業?」
「魔族が戦いを始めたのは、もとは食料確保が目的です。農業で十分な食料を得ることが出来るようになれば、戦う必要はなくなるはずですので」
「……戦争に勝つことでなく、戦争の理由を失わせるのね」
ジグルスがそこまでのことを考えて活動しているとリーゼロッテは考えていなかった。殺し合い以外の方法で戦いを終わらせようとしているジグルスは尊敬出来る人。その人が自分の夫であることが嬉しかった。
「戦争は収まるどころか激しくなっています」
ジグルス自身は身近にいる人たちの為に行っているだけのつもりだ。戦争そのものがそれで終わるとは考えていない。
「まだ始まったばかりですよ。それに共感する人たちは確実に増えています」
アイネマンシャフト王国の国民は確実に増加している。ただジグルスに降伏したというだけでなく、アイネマンシャフト王国が行っていることを知って、それを支えたいと思うようになった人が増えていることをナーナは知っている。
「……行ってみたいですわ」
「貴女は王妃。いつでも王国を訪れることが出来ますよ」
「……人々は私を認めてくれるかしら?」
いきなり自分は王妃です、などと言っても人々が受け入れるとはリーゼロッテには思えない。アイネマンシャフト王国の国民は人族だけではないのだ。
「それは貴女次第。私たちはリリエンベルク公国を攻め、貴女の味方を大勢殺し、人々の土地を奪ったわ。それを恨みに思っている人もアイネマンシャフト王国にいる。それでも皆、国の為に一緒に働いているの」
「どうして、それが出来るのでしょう?」
「王が大義を示して下さったから。人々はその大義の為に私情を殺し、アイネマンシャフト王国の民として誇りを持って生きることを選んだのです」
「私も……」
そうありたい、という言葉をリーゼロッテは飲み込んだ。途中で気が付いたのだ。選ぶことは別の何かを捨てることだと。全てを捨ててジグルスに付いていくことがリーゼロッテの望みだが、それは私情であることに。
「主の願いを、それが正しいことであれば実現することが臣下の務め。そして今のリーゼロッテ様の望みは正しいことだと私は思います」
「フェリクス……」
「ブラオリーリエの兵は何度もジグルスの軍勢に自分たちが助けられたことを知っています。共闘については問題ないでしょう。ただそれ以上については説得に時間がかかりますし、全ての兵というわけにはいかないと思います」
「……それは仕方のないことだわ。残る兵は兄上にお任せしましょう」
フェリクスはさらに一歩踏み込んだことまで考えている。それを知って、リーゼロッテも覚悟を決めた。
「リーゼロッテ様……それはさすがに……」
それに驚いたのはジグルスだ。彼が国を興したのはなんだかんだ言いながらも魔族の為だ。彼等が将来に不安を持つことなく暮らしていける場所を作る為。それ以上のことは望んでいない。
「ローゼンガルテン王国に従うことなく、この地で生きるにはどうあるべきか。それを考えればこの選択になるわ」
「もっと強く、豊かな国にしなければ無理です」
ローゼンガルテン王国が迂闊に手出し出来ないくらいの国。今のアイネマンシャフト王国はそうではない。いざとなれば大森林地帯に逃げ込む。ジグルスはその前提で考えている。
「ではそうしましょう。その為の方策は王の頭の中にある。臣下である我等はそれを実行し、成功してみせます」
「ナーナさん」
「さらに多くのものを貴方に背負わせることになるのは申し訳なく思います。ですが王よ。貴方は我等に希望を与えてしまった。私たちはもうそれなしには生きられないのです」
その場に片膝をつき、頭を垂れてジグルスに話すナーナ。母代わりではなく臣下、他の多くの臣下を代表しての願いのつもりだ。
周囲の視線がジグルスに集まる。その全てに期待が込められていることをジグルスは感じてしまった。
「……分かった。やれるだけのことはやってみる」
結局、ジグルスは願いを拒めない。実際は拒んでも変わらない。アイネマンシャフト王国はすでに強く豊かな国になる為に動き出している。その目標を少し上に修正するだけのことなのだ。
大きくなった目標はアイネマンシャフト王国の発展を加速させることになる。ジグルスには、彼を支える人々も活動を抑える理由がなくなったのだ。