リーゼロッテの父マクシミリアンはブラオリーリエの南にある街グラスルーツにいる。リリエンベルク公爵家、今はテーリング家と呼ぶのが適切かもしれないが、の当主であるマクシミリアンがいるその街がリリエンベルク公国の都、政治の中心ということになる。
公国の民や部下と避難してきたばかりの頃は中心都市と呼べるような街ではなかったのだが、規模を拡張し、防壁を高く堅牢なものにするなどして、以前よりはかなり立派な姿になっている。といってもそれは規模だけ。公国の主が住む街としての豪華さはない。実用性だけを考えて拡張されている状態だ。見栄えに気を使う余裕も必要性も今のリリエンベルク公国にはないのだ。
リリエンベルク公国南部を死守する。それが現時点における唯一の目的、そのはずだった。
「……北部三国との通商条約」
アルウィンによってもたらされた情報を聞いて、マクシミリアンはやや呆然としている。まったく想定していない内容だったのだ。
「はい。物資をローゼンガルテン王国内だけで調達するのは困難です。かなり高騰しておりますし、さらにこの先は入手そのものが難しくなることが予想されます」
ローゼンガルテン王国全体が戦争状態。このまま戦いが長期化すれば、民間だけでなく軍における調達も難しくなる可能性がある。そもそもリリエンベルク公国向けの調達は正規の軍の調達ではないので、真っ先に難しくなるはずだ。
「その調達を北部三国に頼るのか……そうするしかないのだろうな。しかし、よく三国が承知したな?」
北部三国の関係が良くないことは、マクシミリアンも当然知っている。個別の商売であればまだしも三国が一緒に条約を結ぶことをマクシミリアンは意外に思った。
「魔人の脅威は三国にとっても他人事ではありません。共同で事に当たるべきと判断したようです」
「……共同で事に当たるとは?」
三国が魔人に脅威を感じているのは分かる。ただそれに対して共同で事に当たるという表現は、通商条約にはそぐわないようにマクシミリアンは感じた。
「第一段階としては、魔人が北部三国に目を向ける余裕を与えないように、協力してリリエンベルク公国を支援するということです」
「……その次の段階は?」
「魔人が北部三国への侵攻を始める事態になった場合は、共同で戦うことになります」
「……その時に公国はどのような対応を取る必要があるのかな?」
マクシミリアンはすでに答えの分かっている問いをアルウィンに向けた。
「当然、三国と共闘することになります」
「やはり……つまり、軍事同盟だ」
「あくまでも魔人が北部三国に侵攻を開始した場合です」
そういった事態が起こらない間は、三国との条約はあくまでも通商に限ってのこと。ローゼンガルテン王国の承諾を得ることなく他国と条約を結ぶこと事態が問題ではあるが、そこまでであればそうせざるを得ない状況を作ったのは王国だと強気に出ることも出来る。そういう判断だ。
「同じ問いを発しても良いか? よく三国は了承したな?」
リリエンベルク公国がローゼンガルテン王国の許可を得ることなく、そもそも許可など出ないが、他国と条約を結ぶことに問題があることは、北部三国も当然分かっているはず。まして事が発覚すれば、北部三国もローゼンガルテン王国に睨まれることになるのだ。
「条約を結ぶことに関しては三国にそれほどリスクはありません。軍事同盟についても魔人が侵攻してきたとなれば、ローゼンガルテン王国を気にしている余裕はないでしょう。ローゼンガルテン王国が助けてくれるのであれば別ですが」
「それはないだろうな」
「はい。ですが今はまだ三国にはそれは分かりません。それでも交渉をまとめられたのはヨアヒム様のお力でしょう」
「おだてなくても良い」
「おだてているつもりは、まったくございません。ヨアヒム様は策士とは違いますが、交渉上手だと思います。誠意を相手に感じさせるのが得意のようです」
「……人の良さが交渉に役立つか」
ヨアヒムの内政能力に関してはマクシミリアンもそれなりに評価していた。だが外交の才能があるというのは意外なことだ。嬉しい誤算というものだろう。
「ただ人が良いだけでもないでしょう。三国との同盟はかなり思い切った判断です」
「そうだな。それもまた意外だ」
はたして自分がヨアヒムの立場で同じ決断が出来ているか。マクシミリアンは疑問だ。それでもヨアヒムの判断に文句を言うことなく、それを受け入れる度量がマクシミリアンにはある。
「生意気なことを言うようですが、ヨアヒム様は初めて場を得たのではないですか? ただの息子であった時と違うのはおかしなことではありません」
「確かに」
事が起こる前まではリリエンベルク公爵は存命であり、マクシミリアン自身も独り立ちしていなかったのだ。その息子であるヨアヒムには公国の政治に関わる機会などほとんど与えられていない。評価する以前の状況だったのだ。
「状況は少しずつ良くなってきております。ですがリリエンベルク公国北部の回復までとなりますと、まだ見えておりません。それを実現しようと思えば、さらなる決断が必要となります」
「……その決断とは?」
「北部三国に留まらず、リリエンベルク公国奪回の為に必要とあればどのような勢力とも結ぶ覚悟を持つことです」
「それは……公国と公国の民の為になるのであれば」
あえてアルウィンが「どのような勢力とも」と言った意味。具体的なことはまだマクシミリアンには分からないが、「公国と公国の民の為になるのであれば」という前提をつけた。
「それは勿論です。私欲の為だけに助力を申し出るような相手とは結ぶべきではありません。ただ逆に言えば、公国の民の為にならない相手とは手を切るご決断も必要になります」
「……それは王国のことを言っているのだな?」
「はい。新たな味方、いえ、すでに味方ではあるのですが、さらなる協力を得る為には、わざわざ宣言する必要はありませんが、実態としては王国との関係は絶つ必要があります」
アルウィンが言っているのはジグルス、そして彼に従っている魔人勢力のことだ。ブラオリーリエの戦いを横から支援するだけであれば良いが、それ以上のことを行おうとすれば公に接触する必要が出てくる。その事実を知ればローゼンガルテン王国はリリエンベルク公国を敵と見なすかもしれない。その可能性のほうが高いとアルウィンたちは考えている。
「……王国との決別となると重い決断だ。ヨアヒムとリーゼロッテはどう考えるだろう?」
「……お二人にはまだ尋ねておりませんが、リーゼロッテ様は迷うことなく、その新しい勢力の手を取るでしょう。これは間違いありません」
「それは……もしかして、そういうことなのか?」
リーゼロッテがそこまで信頼している人物。今現在、身近にいない中で誰かと考えれば、一人しかいない。
「今はそれにお答えする段階ではございません。恐れ入りますが、まずはマクシミリアン様にお気持ちを定めていただかないと」
「しかし……」
ジグルスが関係しているであろうことは分かる。だがジグルスであれば何故、無条件に味方しないのか。王国との関係を絶つ必要があるのか。それがマクシミリアンには分からない。
そういった事情を説明してもらわなければ、決断など出来るはずがない。
「……亡くなられた公爵様からは何も聞かれていないのですか?」
ただアルウィンもまったく事情が分かっていない状況での決断を促しているつもりはなかった。マクシミリアンであれば、ある程度の事情は知っているものと考えていたのだ。
「父上から? それも何のことか分からなければ答えようがない」
「それもそうですか……クロニクス男爵が王国に戻らずに公国に留まった理由です」
「王国騎士団との間に揉め事があったからと聞いている」
逆にマクシミリアンはここまでしか聞いていない。リリエンベルク公爵はヘルの秘密については、いずれは跡を継ぐマクシミリアンにも話したであろうが、自分一人の胸の中に留めていたのだ。
「マクシミリアン様にも秘密にしていたのですか……」
「父は何を隠していた?」
「……亡くなられた公爵様と同様に、マクシミリアン様お一人の胸の内に留めて頂けますか?」
まったく事情が分からなければマクシミリアンは判断出来ない。それが分かっているアルウィンは説明することに決めた。話を先に進めるにはそうするしかないのだ。
「もちろんだ」
「ヨアヒム様にも、そしてリーゼロッテ様にも」
「……約束する」
リーゼロッテにも秘密と言われたことをマクシミリアンは不思議に思った。ジグルスに関わることであり、アルウィンが知っているとなれば、リーゼロッテはとっくに話を聞いていると考えていたのだ。
「ではお話しします。クロニクス男爵の奥様はただのエルフではありません。かつて三大魔将と呼ばれた前魔王の側近で、おそらくは恋人でした」
「……な、なんだって?」
「魔人勢力に属する立場だったのです。そして……ジグルスの父親は……クロニクス男爵ではありません」
さすがに前魔王の息子です、という言い方は躊躇われた。だからといってマクシミリアンの動揺が弱まるわけではないが。
「…………」
「これについてはリーゼロッテ様に一切話をしておりません。理由はお分かりになるかと」
「……彼は、人ではない」
「人ではあります。ただ我々とは種族が異なるだけです」
「そ、そうだな……いや、これは……父上はよくもこんな秘密を隠していたものだ。というか隠す気になったな」
前魔王の息子を匿っていたということだ。どうしてそんな決断に至ったのか、マクシミリアンにはまったく分からない。
「公爵様のお気持ちは分かりません。ですが結果としてリリエンベルク公国は味方を増やすことが出来ます。強力な味方です」
その味方がリリエンベルク公国を救うかもしれないのだ。間違った判断ではない。あくまでも今の時点では、だが。
「……魔人内部の勢力争いに巻き込まれることにならないか?」
「あの男が魔王の地位など望むと思いますか? あいつが求めるのは……これは言いづらいですね。とにかく、あいつは間違いなく自分の体に流れる血を呪っています」
ジグルスが求めるのはリーゼロッテ。それは父親であるマクシミリアンには言いづらい。
「そうだな……だがリゼであれば……父親としては複雑だ」
「おそらくマクシミリアン様と同じ悩みを持つ人はこの世界にはいないと思います……いえ、今は、と付け加えましょう」
将来は分からない。種族の異なる男女間での恋愛が当たり前に生まれる時代が来るかもしれない。アルウィンはその可能性を感じている。
「……申し訳ないが、今日のところは色々と頭を整理させてくれ。考えることが複雑すぎて……」
「もちろんです。すぐに結論が出るとは初めから思っていません」
簡単に決断できる内容ではない。リリエンベルク公国の当主としてだけでなく、父親としても。この決断は世の中をひっくり返すことになる可能性があるのだ。
◆◆◆
花の騎士団=ブルーメンリッターの戦いが再開された。王都に迫る魔人軍の迎撃。これが最初の戦いだ。魔人軍二十万に対するローゼンガルテン王国軍は三万。敵は十倍であるがそれを迎え撃つローゼンガルテン王国に悲壮感はない。敵の数が多いのはいつものこと。それだけでなく、万全の迎撃態勢を整える為にローゼンガルテン王国軍はゾンネンブルーメ公国内ではなく、領土の中央部と呼べる場所まで敵を引き込んだのだ。戦場の要地は押さえており、数以外は有利な状況で戦うことが出来ている。
狭隘地に殺到する魔人軍に向けて周囲の丘から矢が、魔法が降り注ぐ。なんとかそこを突破した魔人軍も狭隘地を抜ける手前で待ち構えていたローゼンガルテン王国軍に囲まれて、次々と討たれていった。このまま行けば十倍の敵を相手にして、それほど犠牲を出すことなく勝利出来る。そんな手応えをローゼンガルテン王国軍は感じていた。
だが花の騎士団を率いるだけでなく、迎撃軍全体の指揮官となっているエカードの表情は暗い。
「……魔人の数が少ないな」
「そうだね。ほとんどが魔物だ」
エカードの意見にレオポルドも同意する。何度も戦いを重ね、魔人と魔物の区別はほぼつくようになっているのだ。
「どういうことだ?」
「数の力で押し切ろうと考えていた、にしては少ないね。ここに辿り着くまでにかなり数を減らしたのかな?」
二十万という数は多いが、決戦に投入する戦力としては少ない。陽動作戦だと考えられているラヴェンデル公国に侵攻してきた魔人軍でも十万の軍勢だったのだ。そのラヴェンデル公国からだけでなくキルシュバオム公国からも魔人軍の多くは引き上げている。それで何故、魔物を主力とした二十万程度の軍勢になるのかをレオポルドは疑問に思った。
「……後方に残っている可能性はある」
「ああ、それはあるね。危険な場所を魔物に突破させて、主力はあとから。これかな?」
魔物を犠牲にする戦法は魔人軍が何度も見せているもの。今回もその類いである可能性をエカードとレオポルドは考えた。間違いだ。ただこの時点で二人にそれが分かるはずもない。
「魔物を掃討してからが俺たちの出番か……悪くはない」
主力の魔人を相手にする前に疲弊しなくて済む。エカードたちにとっては良いことだ。だが彼等の出番が来ることはない。魔人軍は魔物が多いのではない。魔物軍と呼ぶのが相応しいくらい魔人は参戦していないのだ。
では主力である魔人はどこにいるのか。新たな作戦の為にすでに動き出している。
◆◆◆
――ゾンネンブルーメ公国の東部最大都市であるエステブルグ。東部最大といっても公国の地方都市だ。王都やゾンネンブルーメ公国の中心都市はもちろん、ローゼンガルテン王国中央部にある商業都市と比べてもその規模は小さい。それでもローゼンガルテン王国全体としては東の国境に近い場所にある街。規模は小さくてもその守りは固い。本来は。
「ほーほっほっほっ。さあ、皆の者。エステブルグの者たちに私たちの恐ろしさを思い知らせてやるが良い」
「……ユリアーナ殿。それは一体」
「ユリアーナ様とお呼び。女王様でも良い」
「……ユリアーナ様。それは何のおふざけですか?」
普段とは異なるユリアーナの口調。それに部下たちは戸惑っている。
「……悪の女王ってこんな感じじゃない?」
おかしな口調はユリアーナなりの悪を演じていたからだった。
「悪……私がこういうことを言うのも変ですが、魔人が悪というのはローゼンガルテン王国から見てのこと。魔人には魔人の戦う正当な理由があるのではないですか?」
「戦う理由……魔人にも正義はあるってこと?」
「正義というか、戦わなければならない理由です」
「……へえ、貴方はそう思うのね?」
部下の話はユリアーナには意外だった。自分に付いてきてくれた彼等だが、魔人軍として戦うことを完全に受け入れているわけではないと思っていたのだ。
「誰だって死にたくない。魔人だって同じはずです。そうであるのに戦うってことは何か理由があるはずです」
部下は魔人を理解しているわけではない。戦場での恐怖を知っているのだ。
「……魔王が悪で、その命令に従ってるだけかもしれないわよ?」
「魔王が全ての魔人の不満を抑え込めるほど強いのであればローゼンガルテン王国に勝ち目はありません。寝返って正解です」
恐怖で支配する。それには絶対的な力が必要だ。これまで花の騎士団としては善戦してきたといっても、やはり魔人は強かった。その魔人たちを押さえ込めるだけの強さが必要なのだ。
「……それはないか……魔王の善悪は別にして、魔人には戦う理由がある。何かしら?」
魔王にそこまでの強さがあるとユリアーナは思っていない。本来のストーリーでは自分たちで倒せるのだから。
「さあ? でもそのうち分かるのではないですか? 我々も魔人軍なのですから」
「そうね……でも魔人軍としての初戦を華々しくしたかったのに」
ユリアーナが与えられた任務は一度落とした拠点の再占領。もともとはかなり堅牢だった街を囲む防壁もかなり痛んでいる。
「気を使われたのではないですか? 魔人軍としての初戦というだけでなく、兵士はほぼ魔物なのですから」
ユリアーナは寝返る前に率いていた兵士たちを連れてきていない。連れてこようともしなかった。その為、今回の任務を行うにあたって、兵士として魔物を与えられたのだ。
魔物を率いての戦い。上手く行くのかも分からない。再占拠といっても楽ではないと部下は考えている。
「悪の女王を舐めないで」
「ですから……」
「まあ見ていなさい。攻撃目標は目の前の街よ! でも人殺しは最低限にね! さあ、一気に行くわよ……突撃!!」
ユリアーナの号令。それに応える周囲からの雄叫び。ユリアーナにも部下たちにも何を言っているのか良く分からないが、まず間違いなく戦闘を前にしての雄叫びだ。
士気を高揚させた魔物たちがエステブルグに向かって進軍を開始する。
「……さすが女王様。魔物まで虜にしますか」
その様子を見て、呆れ顔で呟く部下。魔物たちの姿が、花の騎士団で戦っていた時の自分たちに重なったのだ。実際に魔物たちはユリアーナの能力の影響を受けている。魔物だからこそだ。魔力の強い、精神耐性の強い魔人であればこの様にはならない。
それを見越してフェンはユリアーナに魔物を率いさせた、わけではない。裏切り者の彼女を魔人軍で認めさせるには功績が必要だ。だが、その為に魔人を割く権限をフェンは持っていない。仕方なく魔物を率いさせたのだ。
結果としてそれは大成功となる。