気が付いた時、夏は見知らぬ部屋のベッドで寝かされていた。シルフと結んだ途端に、魔力切れで気を失った。あらかじめ知らされてはいたが、あれは不意打ちと同じ。気絶する前に頭に浮かんだ文句をすぐに言いに行こうと、夏は部屋を出て、ヒューガに会いに向かった。
途中でヒューガの居場所を尋ねた人から、自分が三日間、気を失っていたのだと知らされて、さらにヒューガへの怒りが湧いてくる。勢い込んでヒューガがいるはずの部屋に飛び込んだ夏。
ただそこには先客がいた。
「ナツ姉、おはよ」「おはよう」「おはよ」
エイプリルとジュンとメイの三人娘だ。
「おはようって、今は夜でしょ?」
廊下の窓の外はすでに暗かった。何時かまでは分からないが、夜であることは間違いないと夏は思っている。
「でもナツ姉はずっと寝てたじゃない」
実際に今は夜。目覚めたばかりの夏相手だからこその挨拶だ。
「そうだけど……ところで、あんたたち何をしてるの? ここはヒューガの部屋よね?」
「最近、毎晩来てるんだよ」
夏の問いに答えたのは、子供たちに囲まれているヒューガ。困った顔を見せている。
「迷惑なんじゃない?」
ヒューガの困り顔を、夏は迷惑に思っているからだと考えた。
「それは平気。この時間はもう執務は終わってるからな」
「そうなの? じゃあ、何に困ってるの?」
「それは、こいつらがここに来てる動機が動機だから」
「何それ?」
夏にはまったく見当もつかない。つくはずがない。
「邪魔してるつもりみたいだな」
「邪魔? やっぱり迷惑なんじゃない」
「俺の邪魔じゃなくて、エアルの」
「……ああ、そういうことね」
エアルに懐柔されたように見えた小姑たちだが、さすがに甘くはなかった。こうしてヒューガの部屋に居座ることで、二人きりの時間を作らせないようにしているのだ。
「別に邪魔してないわ。来たければ来れば良いのよ」
だがジュンはそれを否定する。小賢しいことをしている自覚があるからだ。
「用がなければ来ないよ」
「あら、それは何の用かしら?」
「仕事の用。あのさ、エアルとの関係は否定しないけど、そんないつも一緒にいるわけじゃないから」
ヒューガもエアルも忙しい。出会ったばかりの頃、そういう関係になったばかりの様に毎晩一緒にはいられないのだ。
「じゃあ、それはいつ?」
「聞いてどうする? 邪魔しようと思っても無駄。エアルは俺のところには来ないよ」
「じゃあ、ヒューガ兄が行くのね?」
ジュンの追及は止まらない。深く考えての行動ではない。たんにヒューガとの会話を続けようとしているだけだ。
「……まあ。でもそれもほとんどないな。エアルはエアルで気を使ってるんだよ」
「気を使っているって、何を?」
「自分の立場。臣下であることを超えないようにっていうのが一つ」
二人の時間よりも、ヒューガに臣下として尽くし続けることをエアルは優先している。彼女にとっては当然の選択だ。
「他にもあるの?」
「お前たち。対等に競争するって約束しただろ? 大人と子供。そっちの面じゃあ、エアルには勝てない、というか競争にならない」
「そんなことないわ」
「いや、あるから」
ジュンにエアルと張り合われても困る。言葉やこういった行動で好意を示される分には兄妹愛、妹が兄の彼女にヤキモチをやいているくらいに受け取れるが、それ以上のことはヒューガにはあり得ないことなのだ。
「ふん。もう少しすればヒューガ兄も私を見る目が変わるわ。だいたい私だってもう大人の女よ。体はエアルなんかに負けないから。見てみる?」
「……いい」
「もう、ヒューガ兄、照れちゃって」
笑みを浮かべてヒューガにしなだれかかるジュン。男に媚びを売る術をジュンは、見様見真似であるが、知っている。なんといってもパルス王都の貧民区近くの歓楽街には、お手本となる女性が大勢いるのだ。
「照れてないよ。でもそういうことを言うジュンはズルいな」
「どうしてズルいの?」
「エアルはそういうことで俺を誘惑しないようにしてる。ジュンに遠慮してな。ジュンがやっているのは抜け駆けってやつだ」
「……じゃあ、エアルも同じようにすれば良いじゃない」
不満そうな顔でこれを言うジュン。
「良いのか?」
「……いいわよ」
ヒューガの念押しにも了承で返すジュン。だが、その心が揺れているのは明らかだ。
「じゃあ、エアルに言おうっと。遠慮はいらないから毎晩しよって」
「やっぱ、駄目ぇ!」
「なんだよ。じゃあ、ジュンもそう言うことで俺を誘惑するのはなしだな」
「ん、わかったわ」
この様子を見ていた夏は、やはり子供たちの扱いにかけてヒューガは天下一品だと思う。他の人にとっては、かなり扱いが難しく感じるジュンを、元々の関係性が違うとはいえ、簡単に納得させてしまうのだから。
「さて話は済んだ? ちょっとヒューガと話したいの。部屋に戻ってくれる?」
「えぇー、ここで寝るのに」
「……そうなの?」
「だって……」
「エアルは来ないんだから、邪魔する必要はないでしょ?」
「でもな」「でもねえ」「ん」
三人は、エアルとは関係なしにヒューガと一緒に寝たいのだ。
「甘え過ぎ。王に対してやることじゃないわよ? 今日は部屋に戻って」
「はぁい」「ちぇっ」「ん」
あからさまに不満そう態度を見せながら、子供たちはヒューガの部屋を出て行った。
「話って何だ?」
子供たちがいなくなったところで、ヒューガが用件を尋ねてくる。
「何だ、じゃないわよ。あたし、三日間も気を失ってたのよ?」
「それは説明してただろ?」
「そうかもしれないけど、何も話せなかったじゃない」
到着して、ゆっくりと話をする間もなく気絶することになった。それに文句を言う夏だが。
「あの時、話せなくても今こうして話せるじゃないか。これからずっといるんだろ?」
「当たり前でしょ」
ヒューガに反省する様子はない。ヒューガにとっては当然の措置。必要なことだったのだ。
「じゃあ、精霊たちとの関係のほうが優先だ。実際、精霊たちの仕事はかなりはかどっているみたいだ」
「仕事って?」
「こうして俺たちが安全でいられるのは、精霊たちの結界のおかげ。そういう結界を張ったり、ここの自然を育てたりするのが精霊たちの仕事だ。精霊の支えがあって初めて俺たちの暮らしは成り立つのだから、優先するのは当たり前」
「分かった。それは良いわ。でもエアルとの関係はどうなのよ?」
ヒューガの説明を聞いて、気絶させられたことについては納得した夏。だが夏が不満に思っているのはそれだけではない。どちらかといえば、エアルとの関係のほうが問題だ。
「お前までそれ?」
「理由を知りたいの。どうして、ディアちゃんがいるのにそんなことになったのよ?」
エアルの存在によって、クラウディアとの関係がどうなるのか。これは知っておくべきだと夏は考えている。
「……説明しづらいな。正直、最初は仕方なくだ」
「えっ? なんか女の敵って感じの言葉ね」
「ちょっと違うけどな……話しておいたほうが良いか。エアルは元奴隷だ」
エアルとの関係を説明しようと思えば、この事実を話さないわけにはいかない。
「奴隷? 嘘でしょ?」
「そんなに驚くことじゃない。この世界には奴隷にされているエルフはたくさんいる」
「……そういう人たちを助けてたんだっけ?」
「話したか? まあ、いいか。どんな奴隷かの説明は必要か?」
「いらない」
美貌のエルフが奴隷にされたとなれば、どういうことは簡単に想像がつく。夏としては気分が悪くなるので、想像などしたくないが。
「エルフが奴隷にされると大きな問題が起こる」
「問題って?」
奴隷された時点で大問題だ。それ以上、何があるのか夏には分からない。
「簡単に言うと気が触れる。精霊が離れてしまうことに影響があるようだ。実際には結んだままであっても、存在を感じられなくなるだけでも心が壊れてしまう」
「そんな……」
「問題が起きるのは心だけじゃない。体も痩せ細って骨と皮だけになる。さらにその状態が続けば、死んでしまうことになる」
「……エアルがそうだったって言うの?」
今のエアルからはまったく想像が出来ない。夏の知るエアルは、健康的な美しさを持った女性なのだ。
「出会った頃はひどかった。とにかく死にたがってた。それでなくてもわざと淫乱であるかのように振る舞って、自らを貶めようとしたりしてた」
「……それで?」
「脅された。自殺されたくなければ抱けって」
「……それで抱いたのね?」
胸に感じる痛み。その時のエアルの気持ちは分からない。分かるはずがない。夏はそんな絶望を味わったことなどない。それでも、今感じている心の痛みなど、エアルのそれとは比べものにならないことは分かる。
「ああ。正直どうすれば良いのか分からなかった。せっかく助けたのだから死なせたくなかった。でもそんな理由で抱いても、エアルを傷つけるだけだとも思ってた。ただの同情だからな」
「でも抱いた」
「最初は正直、苦痛だったけど少しずつエアルの本当の姿が見えるようになった」
「それで好きになったの?」
「どうかな? いつからかは分かってない。確信を持ったのは、エアルが拠点を脱け出して、自ら死のうとした時だな。何にも考えずに飛び出していた。とんでもなく強い魔物がうようよいる結界の外に。それで分かった」
自分の命よりも大切な存在。これはあとから考えたことで、その時はただ助けたいという思いだけで行動していた。理屈よりも感情が優先していた。
「まあ、彼女、美人だからね」
ヒューガの告白が照れくさくなって、夏は軽口を叩いたつもりだったのだが。
「美人だと分かったのはその後だ。骨と皮だけって言っただろ? それに顔も、心が荒れている時は幽鬼って表現がぴったりな雰囲気だった。だから精霊が戻って、体に肉付きが戻った時はちょっと驚いた」
「そう……」
外見などまったく関係なかった。ヒューガらしいと嬉しさを感じる一方で、そんな状態で結ばれた二人の関係は特別なものかもしれないと思って、心が沈む。ではクラウディアとの関係はどうなのかと考えてしまうのだ。
「きっかけはこういうこと。だから許してなんて言うつもりはない。それはエアルに対しても失礼だからな。エアルは俺にとって大切な人。これは事実だ」
「……ディアちゃんは?」
今は聞くべきではない。そんな思いも夏の心に浮かんだが、やはり聞かずにはいられない。
「ディアに対する気持ちは変わってないつもり。ただ、それを証明しろと言われてもな……あえて言えば、玉座の隣はディアの場所ってことになってるくらいか」
玉座の隣。王妃の席はクラウディアのものということになっている。ヒューガが勝手に思っているのではない。国としてそう定めてあるのだ。
「そういう気の使い方か……少し意外」
王になったからといって、まったく態度を変えない、相手が変えることも求めないヒューガだ。その彼が、王妃という立場を重視していることは少し意外だった。
「白状すると用意したのは俺じゃない。エアルだ」
「……何でそんなことを?」
「ディアの居場所を作っておく為。自分の、エアルの立場を明確にする為。多分そんなところかな?」
「多分って……」
夏は少しヒューガに腹がたった。エアルを認めるつもりはないが、同じ女性としてそれは可哀そうだという思いが浮かんだのだ。
「どうやって聞けって言うんだよ? 俺はそこまで無神経じゃない」
「十分、無神経よ」
ただヒューガの言う通り、聞き方は難しいかもしれないと夏も思った。
「まあ、そんなところだ。正直、自分でも驚いてる。俺は二股なんて絶対に出来ないと思ってたんだけどな」
「二股って表現で良いのかしら? まあ、あんたは王だからね。側室の一人や二人」
「エアルは側室にもならないと思うな」
「……なんで?」
夏はエアルの立場が分からなくなってきた。体だけの関係ではないことは、今さっき聞いたばかりのヒューガの話で分かる。だが妻、側妃であっても、としての立場は用意されていない。
「なんとなく」
「なんとなくじゃあ、分からないわよ」
「そう言われても……言葉に出来ることじゃないんだよ」
「言葉にしなさいよ」
「面倒だな……多分だけど、エアルは俺の為に命を捨てようとしている。そんなエアルが王宮の奥で大人しくしてるはずないだろ? あいつは絶対に前線に出ようとする。実際、エアルの軍はそういう軍だ」
「戦いがあるの?」
ヒューガの説明はそういうことだ。それは夏の頭にはなかった。
「予定はまったくない」
「はい?」
「言葉にしろって言うから、無理やり言葉にしただけだ。そういう気持ちに近いってことだよ」
「まぎらわしいわね。でも、軍は準備してるのね?」
「当たり前だろ? この大森林はかなり前みたいだけど、パルスに攻められた。エルフたちの苦境はそこから始まってるんだ。だから二度とそういうことにならないように備えなければならない。それも次は精霊たちを傷つけないで済むだけの力を手に入れなければいけない」
かつての戦いではパルス王国軍を撃退する為に精霊たちを犠牲にした。その結果、エルフ族はドュンケルハイト大森林で暮らすことが困難になり、外で生きなければならなくなった。そこもまた危険な場所であるというのに。
同じ轍を踏むわけにはいかない。エルフ族が取り戻した安住の地を失うわけにはいかないのだ。
「そういえば、あたしも軍を持つんだっけ?」
「ああ、その予定」
「兵士はいるの?」
「これから増える予定。今は、いわゆる新兵訓練の真っ最中だからな。それが終わると各軍に配属される」
ただ、いつどれだけの兵士が訓練を終えられるか分かっていないが。合格するのはかなり大変なのだ。
「シルフが私の精霊だから、やっぱりそういうエルフたちなのかな?」
「……いや、それだと魔法の属性が偏る。色々な属性を混ぜたほうが良いな」
「でも、四属性の軍とか言ってなかった?」
季節の軍にはそれぞれ属性がある。夏の軍であれば風属性。そう聞いていた。
「あれは形式だけ。そう思わせたほうが良いだろ? 風魔法しかないと思わせておいて、他の魔法で攻撃すれば相手の不意をつける」
「誰の不意をつくのよ? 戦う予定もないくせに、今からそんな仕込み?」
「一回しか使えない仕込みだ。たいした仕込みじゃない」
一回きりであっても使えるのであれば使おうとしている。つまり、仕込んでいるということだ。
「そのたった一回の為に、そこまですることに私は感心してるのよ」
「こういう細かなこと労力を厭わないのが俺の長所だ」
「自分で言うな。でもやっぱ、あんた凄いわ」
国王になってもヒューガは変わらない。様々なことを考え、それを実践している。行っていることの内容も規模も、パルス王都にいた頃とは比べものにならないが、物事に向き合う姿勢は同じだ。
「何だ、それ? 褒めても何も出ないからな」
「出しなさいよ。あんた、王でしょ?」
「そんな軽々しく報償を出すわけにはいかない。それに見合った功がないとな」
「……本当に王になったのね?」
しみじみとこれを口にする夏。なにかとんでもないことをヒューガはやらかす。そういう人物だと思ったからこそ、この世界での自分の人生を預けてみようと夏は考えた。だが、いざそれを現実として目の前に見せられると、なんとも言えない思いが湧いてくる。
「たまたまだ」
「普通の人はたまたまで王にはならないから。まだ自分が普通でないことを認めたくないの?」
「抵抗はあるな。でもかなり受け入れるようになってきた。周りに叱咤激励されてどうにかだけどな」
こう言って照れくさそうに笑うヒューガは、夏が知る彼とは少し違って見えた。それと同時に悔しさが心に湧き上がる。ヒューガをその気にさせたのは、エアルを筆頭にしたここにいる人たち。夏ではないのだ。
「……負けられないわね」
「何が?」
「エアルによ」
「はあ? なんで夏がエアルと張り合うんだ? えっ……あっ、ごめん、悪いけど俺にその気は」
「そういう意味じゃないわよ」
「そうだよな。夏の相手は冬樹だものな」
「……誰がしゃべった? あのガキどもね?」
冬樹との関係がヒューガにばれている。夏本人は当然のこと、今もまだ気を失ったままの冬樹でもない。そうなると子供たち以外は考えられない。
と夏は思ったのだが、ヒューガがニヤニヤして自分を見ているのに気付き、それは間違いだと知った。
「いやぁ、やっぱそうだったのか。なんとなくそうじゃないかなと思ったんだよな。そういう男女の機微が分かるなんて、俺も大人になったな」
夏はヒューガのかまかけにまんまと引っかかったのだ。
「……何で分かった?」
「今、言った通り。二人の雰囲気だな。でも自信がなかったから確かめてみた」
「なんで今それをする? 真面目な話だったでしょ?」
この世界に来てからのことに思いを馳せていた、夏だけだが、時に彼女と冬樹の関係を暴くというくだらない、夏にとってはだが、ことを行うヒューガ。それが夏は気にくわない。
「隙があったから。それに冬樹が起きればすぐ分かる。それじゃあ面白くないだろ? やっぱり、こういうことは女の口から聞かないとな」
「変態ね」
「何とでも言え……あれ、似たようなことを誰かに言われたような?」
「あんた、他の女の人にもこんなことしてるの?」
「気のせいかな? エルフってそういうことに照れがない。人族でも今のところ、そういう人いないし」
「そう」
エルフ族でも人族でもない。美理愛なのだが、そんなこと夏に分かるはずがない。
「真面目な話に戻すか。夏と冬樹はとにかく鍛錬を続けてろ」
「なんだか役立たずみたいじゃん。あたしたち」
「実際そうだから。内政なんて出来ないだろ?」
「……まあ」
出来るとは夏は言えない。やったこともなければ、学んだこともないのだ。アイントラハト王国では皆そうだが。
「しばらくしたら軍の編制だ。夏の軍は魔法中心だな。さっきも言った通り、各属性で偏らないように編成を考える」
「ねえ、人族ってほとんどいないのよね?」
「ああ」
「じゃあ、エルフを率いるの?」
「そうだな。エルフが中心だ」
「……出来るかな?」
エルフ族か人族かは関係ない。内政と同じで軍事も夏は素人だ。上手くやれる自信などあるはずがない。
「頑張ってもらうしかないな。心配しなくても夏だけじゃないから。皆が探り探り仕事をしてるんだ。俺なんて王だ。経験も知識もあるはずがない」
エルフ族も同じ。ヒューガが求める軍の形は、これまでのエルフ族の戦い方にはないものだ。正しいと思うことを行ってみる。それが駄目ならまた考えて、試してみる。それの繰り返しだ。
「それはそうだけどね。精霊魔法ってどんなの?」
「それはシルフに聞けよ……もしかして指導法とか考えているのか? それだったら、これまで夏がやってきたことと同じで良い」
「良いわけないでしょ? あたしは精霊魔法なんて使ったことがないわ」
「だから精霊魔法に拘らなくて良いってこと。魔法はどれも同じ。魔力を変換するだけ。夏だって分かっていることだろ?」
詠唱はその変換手続きを容易にする為のもの。適性なんてものもない。得手不得手があるだけで、苦手は努力すれば克服出来る。長所を伸ばすほうが効率的なので、それに時間を費やす必要があるかは微妙だが。
「でもエルフよ?」
「エルフも同じ。と言うよりも同じようにしてくれ。精霊魔法は精霊たちの力を使う。でも俺は精霊たちの力だけに頼ってもらいたくない。ちゃんと自分の魔力で魔法を使うようにしてもらいたいんだ。ただ属性には気を付けなければならない。結んでいる精霊たちの属性に合わせる必要があるから、変換の課程は精霊たちにお願いするのが良いと思う」
実現出来る可能性のないことを求めるヒューガではない。精霊魔法とは異なる魔法でもエルフ族は使いこなせる。その理屈も考えてあるのだ。
「……なんとなく分かった。それはいつから?」
「基礎訓練が終わる人が出るのは……三か月はかかるかな? それまで暇だったら基礎訓練の講師もやるか? もっともその前にシルフと相談して、変換の部分だけ精霊たちに任せるプロセスを実際に確かめておく必要がある」
「……そうだね」
ヒューガの口調は相変わらずだが、人に指示することに慣れた雰囲気を夏に感じさせる。それが嫌だということではない。夏と冬樹が個の力を求めている間に、ヒューガは組織をそして国を造って王になり、それに相応しい力を身につけている。先を行かれているという思いだ。
「どうした?」
「いやぁ、だってさ、王だよ、王」
「それ、何回目だよ?」
「そうは言うけどね。普通の中学生が異世界に来て、一人は王になり、残りの二人はその王に仕えることになったわけよ」
「あと二人いるけど?」
「あんなのどうだって良い。自分がさぁ、物語の登場人物、それも主要キャストだと思うとね」
「……これ現実だぞ。まず間違いなく」
「分かってる。目覚めたら夢でしたってことはない。その現実の世界で……ねえ、ヒューガはどこまで行くつもり?」
夏もそれは分かっている。ただそんな言い方をしないと自分の気持ちを抑えられないのだ。元の世界ではあり得ない出来事の渦中にいる自分。恐れる気持ちはあるが、それ以上にワクワクする気持ちが大きい。
「それについては考えるのを止めた。バーバさんに先を考え過ぎだって言われたからな。しばらくは目の前にあることだけに集中する」
「でも少しは考えたでしょ? やっぱり世界征服とか考えた? 考えるよね? そういう余計な知識は山ほど持ってるから」
「まあな。それが真っ先に頭に浮かぶのって、やっぱり小説とかの知識を持ってるからだよな? 普通はそんな大それたことは考えないはずだ」
これもヒューガが自分を恐れる理由だ。異世界に転生した自分であれば、そういうことも可能なのではないか。この世界を現実の世界として強く認識し、そういった思いを否定してきたつもりだったのだが、頭に浮かんでしまったのだ。
「どうだろね? でもそうだね。ここは国といっても何処にも認められてないでしょ? そんな状況で世界征服だもん」
「正確に一国には認められてる。アイオン共和国、ドワーフ族の国だ。正式な調印とかはないけど国交があるといえる。交易もしてるし、人材交流もある」
「そっか。ドワーフ族が来てるのね。でもどうして?」
ドワーフ族がドュンケルハイト大森林に入ったことを夏は知っている。話す機会はなかったが、その姿も見ている。
「ブロンテースはドワーフ族にとって神なんだって。その神が俺の国にいる。それは会いに来るだろ?」
「神? でもサイクロプスだよね?」
「ギリシア神話の世界では神族だ。キュクプロス族で鍛冶が得意だってのも一緒」
「ギリシアって元の世界のギリシアのことだよね?」
「そう。不思議だろ? この世界って元の世界との共通点が一杯あるんだよな。召喚者がこれまでも何人もこの世界に来ていたのは間違いない。それの関係かとも思ったけど、ブロンテースが実際に存在したことで知識として伝わったわけではないのが分かった」
こういう話は夏としか出来ない。元の世界での知識、それもあまり一般的ではない知識を持たない人に話しても、盛り上がらないのだ。
「どこかで繋がっている?」
「時間軸とか全く無視してな。でもさすがに究明している時間はないな。世界の秘密ってのは個人的には研究心をくすぐられるけど」
「それに知らない方が良いこともある」
「特にこの世界の人は」
ヒューガはこの世界にすごく気を使っている。それが前から夏は不思議だった。文化や慣習を壊したくないというのは分かるが、それ以上のものを感じるのだ。世界への慈しみ。こんな言葉が夏の頭に浮かんだ。
「ねえ、まさか神様になっちゃうなんてないよね?」
「はあ? どうしてそんな質問が出る?」
「いや、なんとなく」
「馬鹿か? この世界の神はちゃんといる」
「神がいるって……」
元の世界にもいる。だがその存在を感じられる人は、極々小数の人を除いて、いない。夏はまったく感じたことがない。神社に行くのは嫌いではなかったが。ちなみに結婚式は教会希望だ。
「実際にいる。話したから」
「……もう一度、言ってくれるかなぁ?」
「話したから。神様と」
「えっと」
「熱はないから」
夏がおでこに伸ばした手は、ヒューガによって払われた。
「本当に?」
「本当に。少なくともエルフにとっての神であることは間違いない」
「……神様っていたんだ」
ただその神様が、元の世界での神様と同じ概念とは限らない。元の世界の神様がどういう存在か分からなければ、同じか違うかの結論も出ない。
「みたいだな。でもおかげでこの世界に宗教というものがない理由がなんとなく分かった」
「なんで?」
「神の代理人を必要としないから。神様と直接、話が出来るのだから代理人なんていらないだろ?」
神の言葉は神から直接聞けば良い。実際にはいつでも聞けるというものではないのだが、ヒューガはそう考えた。
「……そっか。言葉を直接聞けるんだものね。なるほど……人族は?」
「さあな。俺はこの世界で人族について一番詳しくない」
ヒューガは、パルスの王都を出てからは、人族との接触がほとんどない。そのパルスにいた時も城に住み、たまに外出する程度であったので、貧民街という特殊な場所以外は、なにも知らないのだ。
「……まだまだこれからよね?」
「それはそうだ。この世界での居場所が出来た。それだけだからな。大変だぞ、これから」
「それは望むところ。その為にここに来たんだからね?」
「ああ。よろしく頼む」
「はい、王様。この夏にお任せください」
「……変なの」
「変ね。でもこれが大人の世界ってやつじゃん。公私の区別はちゃんとしないとね」
「……俺としては私のほうを忘れないで欲しいけどな」
態度や口調は変わらなくてもヒューガは王だ。周囲は王として彼に接してくる。彼がそれを望もうと望むまいと。夏と冬樹、そして子供たちが来てくれたことがヒューガは嬉しかった。約束が守れたというだけでなく、人手が増えたということだけでもない。気を使わないでいられる、気を使わないでくれる相手だと思っているからだ。
そんなヒューガにとって、「公私の区別」という夏の言葉は少し寂しかった。王になってから、これまで何度か感じてきた孤独を感じさせた。