パルス王国のノースエンド伯爵領から北に進んだ、魔族の領土にかなり近づいている場所。平時であれば人気のないその平原に今は数え切れないほど多くの天幕が立てられている。その間を動き回っているのは武装した人たち。パルス王国の魔族領侵攻軍の陣地だ。
その陣地を発見してから、すでに一週間が経っているが、パルス王国の軍勢は一向に先に進む気配を見せない。そのせいで、ヒューガは完全に足止めをくらっていた。
「駄目そうだな?」
「はい。今日も動く気配はありませぬ」
ヒューガたちは西部での活動を終えて大森林に戻る途中。移動路として北の国境地帯を設定していたのだが、それは今、目の前の軍によって塞がれている。なんともタイミングが悪いことだ。
いずれは魔族領への進軍を開始するはずだと思って待っていたのだが、その様子もない。
「南は?」
「盛んに輸送部隊と思われる軍勢が行き来しています。その合間を測って移動するという手はありますが、どの程度の隙があるか……」
「北は……さすがに危険か。最前線だからな。タイミングを間違えれば戦争に巻き込まれる可能性がある」
「先生がいてくだされば良いのですが」
「それを期待してか? ちょっと甘すぎるだろ? でも、近くにはいそうな気がするな」
ヴラドが本来の仕事である間者をやっているとすれば、前線の様子を探るために近くにいる可能性は十分にある。だが接触するつもりがあるのであれば、ヴラドのほうから姿を現すはずだ。それがないということは、ヴラドは、当然のことだが、魔族軍としての立場を優先しているということ。ヒューガたちを優先することはない。
「どうなさいますか?」
「やっぱり俺が行く」
「……手の者は?」
「それはもう話しただろ? あそこに何人も送り込むほうが危険だ。軍の陣地だ。警戒はかなり厳しいはずだ」
「……しかし、主に万一があったら」
ヒューガを一人で敵地、は言い過ぎかもしれないが、決して好意的とは思えない相手のところに行かせることにハンゾウの部下は抵抗を感じている。
「ルナを信用しろ。俺一人ならルナが何とかしてくれる」
「任せろなのです」
これでもかというくらいに胸を張って、これを言うルナ。その態度が、逆に部下たちを不安にさせてしまう。彼等は新参。まだルナの恐ろしさが分かっていないのだ。
「じゃあ俺は行くから。万一の為に全員を少し下げておいてくれ。それと彼等にも事情を話しておいてくれ。失敗したら一旦拠点に戻ると」
「はっ!」
「はっ!なのです」
「……行ってくる」
◆◆◆
魔族領侵攻の前線基地。パルス王国軍がこの場所に留まってから既に二週間以上が経過している。今のところ、戦いが始まる様子はない。戦いを始める、それ以前の魔族領に進軍する準備がまだ済んでないのだ。
総大将であるアレックスを始めとして、多くの将が忙しく働いている中、美理愛は暇を持て余している。軍を動かす能力も権限も彼女にはない。ただ何もないこの場所で、ただ自分の出番が来る時を待っているしかないのだ。
そんな退屈な日々だが、今日は少し変化があった。訪ねる者などいないはずの戦場で、美理愛に会いたいと言ってきた人がいる。しかもその人は、面会者の存在を伝えてきた兵の話を聞く限り、貧民区の人だ。
何故、貧民区の人がこんな所にいるのか。美理愛は疑問に思ったが、それは会って聞けば良いだけのこと。美理愛は面会者が待つという後方の天幕に向かった。
そこにいたのは、ボロをまとった男の人が一人。その顔に美理愛は見覚えがなかった。
「お久しぶりです。聖女様」
「……あの貴方は?」
「顔を覚えていませんか? それはそうですね。貧民区で会ったのは二、三度ほどです。それも仕方ありません」
「そうね。ごめんなさい。さすがに全員の顔までは」
一人一人の顔など美理愛は覚えていない。貧民区には何度か行った。だがじっくりと話をした相手は、片手でも足りる程度の数なのだ。
「いえいえ、気になさらずに」
「それで? 何の御用でしょう? 貧民区で何か問題が起こったのですか?」
「はい、少々。ただ出来ましたら」
こう言って貧民区から来たと言う男は、美理愛に付いてきた騎士に視線を向けた。その意味は美理愛にもすぐに分かった。
「少し外してもらえますか?」
「しかし」
「大丈夫ですよ。こういっては貴方に失礼かもしれませんが、魔法を使わせれば私のほうが強いでしょ? 安心して席をはずしてください」
「いや……わかりました」
さらに反論しようとした騎士を、美理愛は強い視線を向けて黙らせた。こういったことにも少し慣れた。基本的に騎士や兵士は優斗や美理愛に強く言われると逆らえない。それを分かっているのだ。
「さあ、これで良いでしょう」
騎士が天幕から出たところで、美理愛は視線を面会に来た男に戻した。
「……そうだな。こんな簡単に一人にさせるなんて、護衛としては失格だと思うけど……余計なお世話か」
「あの?」
騎士がいなくなった途端に男の態度が変わった。仰々しい雰囲気は消え失せ、代わってふてぶてしさが表に出ている。その変化に美理愛は騎士を追い出したことを後悔した。
「……もしかして本当に気付いていないのか? 簡単に二人っきりになるから、てっきり気付いていて知らない振りをしているのかと思ってた」
「……もしかしてヒューガくん?」
ようやく美理愛は相手が誰か分かった。
「そう。別に何度も会ってたわけじゃないけど、さすがに冷たくないか?」
「ごめんなさい。でも、かなり大人っぽくなっているから」
美理愛の記憶にあるヒューガは、かなり小柄な年下の男の子。だが今のヒューガに男の子という表現は相応しくない。
「背は大分伸びたな。今がまさに成長期って感じだ。今ならプリンセスともそんなに変わらないだろ?」
「ちょっと……」
美理愛と背丈を比べようとして近づくヒューガ。背が伸びたせいで向かい合わせに立つヒューガの顔はすぐ目の前。ヒューガに男を意識して美理愛は少し戸惑っている。
「おっ! ちょっと勝ってるな」
「……見た目だけね。そういうところは子供のまま」
「はぁ? 元から子供だったとは思わないけど?」
「そうだったかしら? でも変わっていないのは確かね。年下のくせに生意気なところとか」
ヒューガは年下の男の子。美理愛は意識してそういうことにしようとしている。
「まあ、それは認める。さて、あまり時間がない。本題に入っていいか?」
「……そうね」
もう少しこうした、くだらないやり取りを続けていたいという気持ちが湧いている美理愛。だが、ヒューガが何の用もなく彼女の前に現れるはずがない。ただ旧交を温めあう。そんな関係ではないのだ。
「ちょっとお願いがあってきた」
「……貴方が私にお願い。ちょっと想像がつかないわね。何かしら?」
「ここをちょっと横切りたいんだ。ここっていっても野営地とは少し離れた場所だ」
「通れば良いじゃない?」
何故、そんなことをわざわざ自分に言ってくるのか。美理愛にはまったく分からない。
「俺一人じゃない」
「あれ? 俺って?」
「……反応するのはそこじゃない」
「でも以前は……ああ、大人になったのね?」
ヒューガは以前、自分のことを「僕」と言っていた。俺というようになったのはそれを恥ずかしく思うような年頃になったからだと美理愛は考えたのだが。
「違う。これは一緒にいる奴等……こんな話はどうでも良い。俺だけなら勝手に通る。そうじゃないから頼みに来たんだ」
ヒューガが「俺」を使うようになったのは盗賊の振り、奴隷にされたエルフを奪っているのだから相手から見れば振りではなく盗賊そのものだが、をするのに都合が悪いから。ヒューガの年齢で多くの配下を従えている盗賊などいない。出来るだけ顔を隠し、口調も変えて誤魔化していたのだ。
「一人じゃないって、誰と一緒なの?」
「エルフ。エルフを連れてこの近くを移動したいからそれを助けてほしい」
「……話が見えないわ。どういう事? 別にエルフが一緒でも良いじゃない? たしかにここは戦地だけど、敵でもない相手を……まさか敵なの?」
「どうしてそういう発想になるかな?」
「貴方なら、いつの間にかそういう事になっていそうじゃない?」
「俺って何者だ? まあ、でもまったくの外れでもないな。こっちが敵視しているわけじゃないけどな」
ヒューガを奴隷を奪った盗賊だと見る人がいる。そういう人たちにとってヒューガは敵だ。
「貴方の話はいつも分かりづらいわ」
「じゃあ、分かり易く説明する。というより、相変わらず分かってないんだな?」
「何が分かっていないのよ?」
不満そうに口を尖らせる美理愛。ヒューガたちと話をすると、いつも同じようなことを言われる。あまり自覚のない美理愛はそれに納得いっていないのだ。
「それも説明する。エルフがこの世界でどういう境遇かは知ってるか?」
「……知らないわ」
「やっぱり知らないじゃないか。エルフはこの世界の人族に狙われている。奴隷にするためにな」
「奴隷……この世界に奴隷がいるのは知っているわ」
この世界について知っていることを、少しでもアピールしようとする美理愛。まったく意味のないことだ。
「そう? でもエルフは特別だ。この世界には自ら奴隷になった者もいる。ちょっと正しくないか。自らの所業によって奴隷になったが正しいかな。これは?」
「罪を犯してとか、借金の形にとかよね?」
「そう。でもエルフはそうじゃない。無理やり奴隷にされている」
「……そう。そういうことも当然あるわよね」
「まだ分かってないな。エルフを奴隷にする目的は性奴隷としてだ。この意味分かるかな?」
「……馬鹿にしないで。それくらい分かるわよ」
性奴隷という言葉に、美理愛は内心ではかなりショックを受けていた。だがそれをヒューガに見せるのが悔しくて、ついこんな言葉を口にしてしまう。
「へえ、初心なお嬢様でも分かるんだ?」
「初心ってなによ? 私は……」
「私は?」
笑みを浮かべて、話の続きを促すヒューガ。美理愛が何を言おうとしたか分かっているのだ。
「……ねえ、私をからかって楽しい?」
「少し。でもそうか、プリンスとそういう関係になったのか」
「……だったら、何? 貴方にどうこう言われる筋合いはないわ」
優斗と関係を持ったことを言われて、美理愛は恥ずかしさを隠す為に、きつい言い方をしている。ヒューガにとっては、なんでもないことだ。
「良かったな。元の世界の時からの想いが叶ったってことだろ?」
「えっ? どうして知っているの?」
「……知られていないと思うほうが驚きだ。プリンセスの様子を見てれば誰でも気付くだろ?」
「そう?」
優斗のことをずっと鈍感だと思っていた美理愛だが、彼女も似たようなものだ。自分が見せている態度に気付いていなかった。それに驚いているヒューガも、ある分野では負けないくらい鈍感だが。
「まっ、その件は置いといて。本題は……どこまで話したっけ?」
「エルフが……その……ねえ、わざと言わせようとしているの?」
「別に。そんなつもりはない。つまり奴隷にする目的までだったな。そしてそれをしているのは貴族だ。つまり貴族が多いこの軍にとって、俺の連れは恰好の獲物ってこと」
それどころかヒューガに奴隷を奪われた、ヒューガたちからすれば救っただが、貴族もいるかもしれない。
「でも奴隷を囲っているのは大貴族でしょ? ここにいるのは多くが新貴族よ」
「それが分かってないってこと。大貴族が抱えている奴隷は農奴だ。治める領地の広い彼らにとって奴隷の生産力ってのは欠かせないものだからな。一方で生産とは何の関係もない奴隷を抱えているのは多くが小貴族。つまり新貴族派の貴族だ」
「……嘘でしょ?」
味方である新貴族派の不正。それは美理愛にはすぐに信じられるものではない。
「こんなことで嘘をついてどうする? 俺に何のメリットもない。仮に俺の話が事実で、その貴族から連れのエルフを守るために力を貸してくれといったら?」
「……事実であれば手を貸すわ。事実であればね」
「そうか。じゃあ、御礼の意味も込めてもう少し教えてやる。この軍は近衛だ。本来は王を守る軍である近衛が何故、侵略戦争に参戦しているのか。その理由を考えたことは?」
御礼の意味ではない。半信半疑の美理愛に新貴族派が正義ではないことを分からせようとしているのだ。
「……魔族の脅威を取り除くという大義のため」
自信なさげに答える美理愛。ヒューガがこんな言い方をするということは自分の知っていることが事実ではないということ。気持ちとしてヒューガの話を受け入れられないだけで、頭では分かっているのだ。
「それは表向きの理由だな。実際は領地、恩賞が欲しいからだ。魔族の領土って荒れているようで、実は結構な価値があるそうだ。新貴族派はそれを求めている」
「……そうかもしれないけど、軍人であれば戦功をあげたいと思うのは当然じゃないの?」
「そんな単純じゃない。全員と言わないが、彼らの中には切羽詰まっている奴がかなりいる。借金に追われてな。領地を運営する為なら俺も同情するけど、それが放蕩のせいであれば話は別。ましてそれにエルフの奴隷が関わるとなれば絶対に認められない」
広い領地を持たない小貴族には贅沢なんて出来ない。爵位を持たない商家のほうがずっと金持ちだ。そうであるのに借金、それも強引に金を借りてまで、贅沢三昧な暮らしをしている者がいる。それをヒューガはエルフ解放の活動をしている中で知った。
「エルフの奴隷?」
「エルフの奴隷って希少だし、非合法だからかなり高い。おまけにエルフの奴隷を抱えるのに必要なものがある。隷属の首輪については?」
「……知らないわ」
「だろうな。隷属の首輪ってのは相手を言いなりにさせる魔法具だ。首輪をはめられると契約者に逆らえなくなる。これもまたとてつもなく高い。小貴族の分際でそんな物を手に入れようってのが、そもそも身の程知らずなんだよ。借金に追われるのも当然だ」
「そんな首輪があるの?」
「そっちのほうが気になる? あるぞ。実際の首輪がこれだ」
そう言ってヒューガが懐から取り出したのは、薄い鉄のようなもので出来た板。一見何の変哲もない鉄の板に見える。
「これが?」
「もう効力はない。でも似たような感じには復元出来る。やって見せようか?」
「……そうね」
「じゃあ」
「ちょっと!? 何をするの!?」
ヒューガが美理愛に近づいて、その鉄の板を首に当てようとする。まさかヒューガが自分に付けるつもりだったなんて思っていなかった美理愛は大慌てだ。
「首輪の復元だから。俺がつけても分かんないだろ?」
「だからといって私だって嫌よ。奴隷にされる首輪なのよね?」
「大丈夫。これに支配の効力はない。擬似的な形を作るだけだ」
「でも……」
「あれ、もしかして疑ってる? 言っておくけど俺に年上で気の強い女……には興味がないとは言えないか。エアルはそのまんまだな。えっと……あっ、プライドの高い女を服従させる趣味はない」
美理愛の不安を払拭しようとしている、ようにはとても思えない説明だ。
「……よく分からないけど、そういう趣味ってあるわよね?」
「そういう趣味って、どういう趣味?」
「……もう、良いわよ。好きにしなさい」
恥ずかしい言葉を口にさせようとしているヒューガ。それをいちいち気にして文句を言うのも面倒になって、美理愛は首輪を受け入れることにした。ヒューガから見れば、甘い、ということになる。
「じゃあ。魔力を軽く起こしておいて」
「どうして?」
「そのほうが感じやすいから」
「感じやすいって……」
「何、勘違いしてんだ? もしかしてプリンセスって結構スケベ――」
「いいから! 始めなさい!」
「なんだよ。自分が変なこと言い出したんだろ? じゃあ、始めるぞ。今から首輪をつける。つけると同時に首輪と自分の魔力が繋がる感覚があるはずだ。それを感じるようにしろ。出来るなら、それを感じたら直ぐに流れを捻じ曲げてみろ。そうすれば自分で外せるから。じゃあ、いくぞ」
ヒューガが首に当てた途端に、薄い板だったはずのものが美理愛の首に巻き付いていく。それとともに、美理愛は魔力がわずかに吸い取られるのを感じた。
「早くやれよ」
「ちょっと待って……捻じ曲げるって?」
「首輪の中で魔力の流れを変える感じ。それが無理なら、魔力を思いっきりぶつけてみろ」
「……えっと、やり方がわからないわ。あっ……感覚が消えたわ」
繋がりが消えた。ヒューガの言ったことが出来たのだと美理愛は思ったのだが、それは間違いだ。
「時間切れ。もう完全に繋がった。ちなみに今の状態だと魔法使えないからな」
「嘘でしょ?」
「試してみれば? そうだな。軽く火をおこすとか」
「火なんて起こしたら天幕が燃えてしまうでしょ?」
「だから小さく」
「小さくなんてならないわよ」
「はあ? 魔法の鍛錬してるんだろ?」
聖女と呼ばれ、勇者と同等に扱われている美理愛に出来ないはずはない。ヒューガはそう考えている。
「しているわ。とっくに上級をマスターしたわ」
「でも小さな火は起こせない……なんだかな。じゃあ回復魔法で試してみるか?」
「そうね」
魔力の制御が出来ていない。なんて説明をするとまた余計な時間が取られるだけなので、ヒューガはそれについては何も言わず、天幕の中で使っても支障のない魔法で試させることにした。
「よし、じゃあ」
ヒューガは腕をまくりあげると、腰に差していた短刀を取り出して自らの腕を切った。切った傷口から、当たり前だが、血が流れ出してくる。
「ちょっと!?」
「こうしないと試せないだろ? ほら、早く試してみろよ」
「何を考えているのよ? もう……魔法の光よ。癒しの力となりて彼を照らしたまえ、ヒーリング! ……嘘?」
美理愛が回復魔法を唱えても、ヒューガの傷口が塞がる様子はない。詠唱を行っても美理愛はまったく魔力を感じられなかった。それでは魔法は発動しない。
「なっ、使えないだろ?」
「なっ、じゃないわよ。腕の血が止まらないわ」
「納得した?」
「納得したから、早く首輪を外しなさい」
「はいはい……ほら、外れた」
「早く腕を出して。傷は……傷は?」
「自分で直した」
確かにヒューガの腕からは、もう血が流れていない。それでもまだ傷跡が残っている。それに向かって美理愛は、癒しの魔法を唱えようとしたのだが、それはヒューガに止められた。
「これ今出来た傷じゃない。前に傷つけたやつだ」
「回復魔法もろくに使えないのに無理するからよ」
「回復魔法だって万全じゃない。ひどい怪我の時は傷跡くらい残る。知らないのか?」
ヒューガの話を聞いて、改めて美理愛は彼の体を良く見てみる。衣服のすきまから覗く肌の所々に、傷跡が見える。特にはっきりとしているのは首筋からわずかに逸れた位置にある大きな切り傷。
その傷を見つけた美理愛は、ヒューガの服に手を伸ばした。
「ちょっと? 何で人の服を脱がそうとすんだよ? お前、もしかして欲求不満か?」
「欲求不満じゃないわよ! この傷は何!? こんな位置にあるなんて……死んでいてもおかしくなかったのじゃないの?」
「……まあ」
美理愛の言う通り、かなりやばい怪我だった。しかも、そういう怪我を負ったのは、それ一度きりではないのだ。
「そんな目に遭うなんて……貴方、今まで何をしていたの?」
「言わなかったか? 奴隷にされたエルフの救出だ」
「それは分かっているわ。それでこんな怪我を?」
「さすがに大変だったからな。待ち伏せされたことも何度かあったし。相手が結構な手練れで逃げ出すだけで精一杯ってのもあったな。まあ、それなりに命がけだったってことだ」
苦笑いを浮かべながら、美理愛にとってとんでもないことを口にするヒューガ。何故、異世界のエルフの為にそんな真似が出来るのか。何故、そんな経験をして以前と変わらずにいられるのか。何故、汚れた裏の世界を見て、ヒューガは正気でいられるのか。
こんな想いが美理愛の心の中を駆け巡っている。
「……ねえ、何人のエルフを助けたの?」
「数えてないな」
「何回、それをやったの?」
「数えてないな」
「今、数えなさい」
「……数えられないな。数が多すぎる」
「……貴方は馬鹿よ」
「良く言われる……そんなことより、この状況をプリンスに見られたら俺はどうなるかな?」
美理愛は涙を流しながらヒューガを抱きしめていた。無意識の行動だ。美理愛はヒューガの話を聞いて、本当の意味で自分たちとの違いを理解した。何故、王都で夏があれほど怒ったのか。その理由が分かった。
ヒューガはこの世界で生きている。この世界の人たちの為に行動している。自分たちはもちろん、夏や冬樹とも離れて、普通では考えられない、とんでもないことを行っている。
その事実に素直に美理愛は敬意を覚えた。年下の男の子なんて考えは、完全に吹き飛んだ。
「……ごめんなさい。貴方があまりに馬鹿だから」
「馬鹿だと抱き付くのか? 変な趣味だな。話し戻すぞ。隷属の首輪については、なんとなく分かったか?」
「本当になんとなくね」
「何だったら、もう一回やってみるか?」
「首輪はあまり気分の良いものじゃないわ」
「じゃあ。首輪にしない状態でやってみせる。輪っかになったら触って見ろ」
ヒューガの言う通り、手に持ったままの状態で、鉄の板がつながって輪になった。美理愛はそっと手を触れてみる。
首輪を流れる魔力。ヒューガの魔力を感じられた。
「魔法の流れは感じられるか?」
「ええ、回っている感じね」
「そう。あとは俺の手から、その渦に繋がっている流れは?」
「ちょっと待って……見つけたわ」
「じゃあ、それを曲げられるか?」
「その曲げると言うのが分からないのよ」
魔力を曲げる、と言われても美理愛にはイメージが掴めない。鍛錬不足、はヒューガたちから見ての表現であって、パルス王国の一般的な魔法士の鍛錬内容にはそういったものがないというだけだ。
詠唱によって魔法をコントロールすることしか教わっていない美理愛は、詠唱なしでは魔力を制御出来ないのだ。
「制御が下手なのか? 小さな火が起こせないって言ってたからな。じゃあ力技だな。そこに自分の魔力を思いっきりぶつけてみろ。あくまでも首輪の中でだぞ?」
「……駄目ね。うまくいかないわ」
「はあ、やっぱり制御が下手なんだよ。これやるから練習してろ。手に持って中にゆっくりと自分の魔力を流す感じ。上手く出来れば勝手に輪になって中で渦が出来る。あとはそれをどういじるかだ。自分で作れるようになってからのほうが感覚は掴みやすいはずだ」
「そう。分かったわ……ねえ、始めからこれで良かったんじゃない?」
首輪の仕組みについて知るだけであれば、わざわざ首につける必要はなかった。こう美理愛は思った。
「これだと魔法が使えないようにならない。それだと奴隷に使われてるっていう実感が湧かないかと思って。それに高慢ちきな女が首輪をしている姿ってやっぱエロイじゃないか。一度見てみたかった」
美理愛が思った通り、首輪をされたのは彼女を辱める意味もあった。
「……そう。それで私はどうだったのかしら?」
「まあまあかな。でも、もうちょっと、いつもの高慢さを発揮して……あっ……」
「貴方って人は……どうしてそうなの!」
ヒューガの悪ふざけに怒った美理愛は、子供にお仕置きをするように、彼の頬を思いっきりつねってみせた。
「痛いって……謝ってるだろ?」
「言葉で謝るだけでは許せないこともあるのよ!」
頭にきている。その一方でホッとしている自分を美理愛は感じている。普段通りに変わらないでいるということが、こんなにも人を安心させてくれるものだと初めて知った。
実際は、ヒューガのこれが普段通りなのかなど美理愛には分からない。それが分かるほど二人の付き合いは深くない。ただ今の美理愛にとっては好ましい態度なのだ。
もっと早くヒューガとこんな風に話せていたら……せっかく久しぶりに穏やかな気持ちになれた美理愛であったが、すぐに後悔の気持ちが湧いてきてしまった。