ゼクソン王国の反乱がすでに終息しているとも知らずに、健太郎率いるウェヌス王国軍は、ゼクソンとの国境を越えて領内に入っていた。
率いる軍勢は五千。その士気は、それなりに高い。今度こそゼクソン王国に勝つ。そういう思いに軍全体が奮い立っていた。
ひたすらにゼクソン王国の王都に向かって進軍を続けるウェヌス軍。その前に立ちふさがったのは、ほぼ同数の軍勢だった。
「ここで現れるのか? 聞いていた話と違うな」
「数はこちらがやや優勢です。いかが致しますか?」
「一気に蹴散らすよ。同数であれば負ける気はしない。倍でもしないけどね」
こんな軽口を叩きながら軍に号令をかけ、健太郎は最前列に出て行く。
整えられた陣形は五千での鋒矢陣だ。健太郎にとっては馬鹿の一つ覚えと言って良いもの。最前列でただただ敵を蹴散らせて、敵本陣に突入していく。後に続く兵の犠牲など考えていない。
それでもこれでアシュラム王国軍を叩きのめした。その成功は、犠牲者となるだろう兵士にとっても自信となっていた。
いざ突撃。そんな健太郎の勢いを挫いたのは、敵陣に掲げられた軍旗だった。
「あれは?」
漆黒の旗を見て、健太郎の胸に不安が広がっていく。そして駄目押しが、敵の前面に出てきた漆黒の鎧を身にまとった騎士だった。
「嘘だ!?」
思わず、健太郎からそんな声があがる。
『ウェヌス軍に問う! こんな所で何をしている!』
健太郎にとって聞き覚えのある声。聞くのは久しぶりだが、さすがに間違えることはなかった。
『グレン! 君こそ何をしている!』
『俺が聞いているのだ! ウェヌスとゼクソンは講和を結んだはずだ! この侵攻は何のつもりだ!』
『僕はゼクソンの反乱を収めにきた! 邪魔をしないでくれ!』
『ゼクソンの反乱は終わった! とっととウェヌスに戻れ!』
「……何だって!?」
健太郎にとって、この言葉は想定外のことだった。
「大将軍!」
二人のやりとりを聞いて、慌てて勇者軍の副将であるジェラード・カーライルが前に出てきた。
「ジェラード、どういうことだろう?」
「あの男のことです。謀ではないでしょうか?」
「どんな?」
「それは分かりません。とにかく油断されないことです」
「分かったよ」
ジェラードの忠告を受けて、気を引き締め直す健太郎。だが、すぐにまた気持ちが揺れ動くことになる。
『こちらに交戦の意志はない! 速やかに立ち去れ!』
「えっ?」
グレンには交戦の意思がない。これもまた、健太郎にとっては意外なことだ。自分を討ちにやってきた。そう思っていたのだ。
「騙されてはなりません!」
「そうだね。そうなると……」
「まずは一当て。それで様子を見てみますか?」
「……そうしよう。よし! 皆、行くぞ!」
健太郎の号令でウェヌス王国軍が一斉に前進を始める。
『こちらに交戦の意志はない! こちらの兵はウェヌス王国の兵だぞ!』
それを見て、グレンがまた声をあげる。
「……策かな?」
「恐らくは」
『皆! 騙されるな! 又、偽装した兵だ!』
『お前は馬鹿か!? 戦う前に確認しろ!』
こう言って、慌てて後ろに下がっていくグレン。それでもう健太郎の勢いは止まらなくなった。少しグレンを恐れていたところがあったのだが、そのグレンが逃げるように後ろに下がったことで、その不安が吹き飛んだのだ。
『よし! 突撃だ! 一気に蹴散らすぞ!』
『ウェヌス兵、下がれ! 戦いはこちらで行う! 下がれ!』
突撃の勢いを増したウェヌス王国軍。その正面で整列していた兵たちが一斉に後ろに下がっていった。その代わりに出来てきたのは、後ろに隠れるように布陣していたゼクソン王国軍。
その中央にはゼクソン国王の所在を示す王国旗が翻っている。そして猛牛、飛隼、荒鷲団の軍旗が次々に立ち上がっていった。
「何!?」
『ゼクソン王国の兵たちよ! ウェヌスの無法を許すな! 侵略者に正義の鉄槌を!』
それまでとは違う。グレンの戦意溢れる檄が響き渡る。その声に応えたゼクソン軍の兵たちの雄叫びが大地を揺るがした。
「なっ、何!?」
『ゼクソン国王代行、グレン・ルートが告げる! ゼクソンの勇者たちよ! ウェヌスの暴徒共を殲滅せよ!』
自らの兵を勇者と呼び、ウェヌス軍を暴徒と呼ぶ。健太郎にとっては許しがたい暴言だ。
「どういう事だ!?」
「大将軍! 下がりましょう! これは嵌められました!」
「何が!?」
「今の台詞を聞いたでしょう! 奴はゼクソンの王権を握っています! このままでは我等は侵略者です!」
「嘘だ!? 僕は反乱の鎮圧に!」
「とにかく下がります! 戦ってはなりません! あの男が本当に国王代行であれば!」
「あれば?」
「我が国からゼクソン王国へ戦争を仕掛けたことになります! それも講和を一方的に破棄して!」
「嘘だ!?」
「しかし、あの旗はゼクソン国王の旗です!」
「でも僕が勇者なんだ!」
「下がれ! 全軍下がれ!」
健太郎を説得していては埒が明かないと思ったジェラードは独断で兵に号令をかけた。兵たちも当然、グレンの言葉は聞こえていて、自分たちに非があることは分かっている。副将の号令に素早く反応して退却を始めた。
『ゼクソン王国軍! こちらにも交戦の意志はない! これは情報の誤りだ! 交戦の意志はない!』
殿(しんがり)に残ったジェラードが懸命にゼクソン王国軍に向かって叫ぶ。後退の判断は誤りではない。だが、その後背を襲われては被害が甚大になることも分かっている。
『釈明をしてもらおう! それが無いとなれば、こちらはウェヌスの無法を全世界に知らしめる!』
『必ず! 必ず使者を送る! それを待ってくれ!』
これに対するグレンの返答はない。だがゼクソン王国軍が後退していくのが、それへの答えだ。
ジェラードはホッと胸をなで下ろして、後退するウェヌス軍の後を追った。
◆◆◆
ゼクソン領内でそのような戦いとも言えない戦いが行われる少し前。エステスト城砦の後背となる場所に百名程の兵が集結していた。
「エステスト城砦は攻撃どころか、誰何する事もなく、ウェヌス王国軍を通しました」
「よし、間違いないな。間違いがあっても罪に問える内容だ」
兵の報告を聞いたセインは満足そうにこの言葉を口にした。
「では行きますか?」
「ああ、行こう」
セインの答えを受けて兵たちが吊るされた縄を伝って、地面に掘られた穴の中に入っていく。
「本当に怖い御方だ。うちの陛下は」
最後にそう呟いて、セインも穴を降りて行った。そして次にセインたちが現れたのは、エステスト城砦内の奥にある、ほとんど使われる事のない物置小屋だった。次々と穴から這い上がってくる兵たち。
「全員上がれなくないか?」
「はい。この部屋では」
「では先に進もう。半分はこの場所の確保に残す。ここからは?」
「こちらです」
案内の兵が向かったのは小屋の出入り口ではなく、反対側の壁。その一カ所を探ると軽く壁を叩き始めた。壁の一部が外に倒れ、ぼっかりと抜け穴が空いた。
「……手が込んでいる」
「小屋から小屋へと渡って、主将の部屋がある建物の近くに向かいます。そこからは、堂々と進むことになるので、泥などは払っておいてください」
「ああ。皆、分かったな」
セインの指示に兵たちは大きく頷くことで応えた。難攻不落と呼ばれるエステスト城砦。そこにこの様な侵入口があることなど、ゼクソン王国軍どころか、ウェヌス王国軍でも知らない。グレンが占拠している間に密かに作ったものなのだ、知るわけがない。
それを使ってセイン率いる百人は城塞内への侵入を果たした。その目的は、辿り着いた部屋の中にある。
「ゼークト将軍、どうして領内に戻らないのですか!?」
「ここを空にするわけにはいかん」
「では、何故、ウェヌス軍を通したのですか!?」
「陛下を救いに行ったのだ。通して何が悪い」
「ウェヌスなど信用なりません!」
大声でゼークト将軍に部下が文句を言っている。それを聞いたセインはわずかに逡巡を見せた。出来れば強行はしたくない。だが、部屋の中に数人いるとなれば、そうも言っていられなくなる。そう思ったからだ。
それでもセインは目的を優先させた。但し、部屋に入ったのはセイン一人だ。
「何だ!?」
部屋の中から誰何の声が飛ぶ。
「大至急お伝えしたいことがあります」
「伝令か?」
「それが正式なものではありません」
「……間者か?」
ゼクソン王国にそういう存在がいることを当然、ゼークト将軍は知っている。会議の席で、その部門の長と何度も顔を会わせているのだ。
「自分には分かりません。とにかく急いでゼークト将軍にお伝えするようにと」
「その相手は?」
「消えました」
「何?」
「それだけを告げると消えてしまいました。とにかく聞いた内容が内容でありますので、すぐにご報告をと」
「その報告とは?」
「反乱が平定されました」
「そうか……いや、少し早過ぎないか?」
一度はセインの報告に納得したゼークト将軍だが、すぐに疑問を返してきた。
「早い、ですか?」
「そうだ。ウェヌス軍が我が国の領内に入って、それほど日が経っておらん」
ゼークト将軍は、反乱はウェヌス軍によって為されるものと思い込んでいる。
「平定と申し上げたのですが?」
「それが?」
「陛下が見事に反乱軍を打ち破り、ほぼ全軍が投降したと聞いております」
「陛下が!? それは本当なのか!?」
セインの言葉にゼークト将軍は驚きを見せている。
「自分は聞いただけであります」
「そうか……陛下が勝たれたか」
憂いを帯びた表情のゼークト将軍。とても反乱の鎮圧を喜んでいるようには見えない。このゼークト将軍の反応はセインが予想していた通りのもの。
「もう一つ伝言があります」
ほぼ確信を得たところで、セインは事を起こすことにした。
「何だ?」
「陛下より、ゼークト将軍は速やかにエステスト城砦を出て、王都に出頭せよとの命が出ております」
「エステスト城砦を空にするわけにはいかん」
「御一人で出られるだけです」
「何?」
「出頭というのは、そう言うことではないのですか?」
軍を率いて出撃しろ、ではなく出頭。それは罪を犯した者に対する命令だ。
「……嫌疑は?」
「そこまでは」
「そうだな。分かった」
「すぐに発たれますか? それであれば準備を」
「ここを離れるつもりはない」
ゼークト将軍には命令を受け入れるつもりはなかった。
「しかし出頭」
「うるさい! 陛下の命だからといって、従える状況ではない!」
「なるほど。では抗命罪でゼークト将軍を拘束させて頂きます」
拘束する口実は手に入れた。あとは遠慮なく実力行使するだけだ。
「何だと!?」
「入れ! 将軍を拘束しろ!」
一気に雪崩れ込んでくる兵たち。一瞬、剣に手を掛けたゼークト将軍であったが、その数を見てすぐに手を掲げて、抵抗の意志がないことを示した。
「ご懸命な判断です。ただ少し残念です。もう少しぼろを出して頂きたかった」
「誰の指示だ? この様な無理が通ると思っているのか?」
「無理とは思っておりません。将軍を拘束し、監禁するように」
ゼークト将軍と話しながら、セインは兵士に指示を出す。
「……出頭ではないのか?」
「その命令に反しての抗命罪です。出頭の必要があるかは王都に聞いてからに致します」
「……貴様、何者だ?」
ここまでの独断をただの一騎士に出来るはずがない。ゼークト将軍はようやくセインが何者か怪しんだ。
「元銀狼兵団大隊長のセインです」
「何だと!?」
「良かったです。顔を覚えられていなくて。連れて行け」
両側からゼークト将軍を押さえつけて、拘束していく兵士たち。将軍に対する遠慮などない。がんじがらめにされて、ゼークト将軍は部屋から連れ出されていった。
「さて、ゼークト将軍を拘束しました。失礼ですが貴方は?」
「あっ、ああ。副兵団長のヴァンダレスだ」
副官の男は何が起こっているのか分からないで、かなり動揺している。
「ヴァンダレス殿。貴方は信用出来るのでしょうか?」
「どういう意味だ?」
「ゼークト将軍が出頭を命じられた嫌疑は、ウェヌス王国への内通です」
「何だと!?」
セインの説明にヴァンダレスは驚きの声を上げた。
「貴方は大丈夫ですか?」
念の為にこんな質問をしたが、ヴァンダレスの反応でセインにはもう答えは分かっている。
「当たり前だ!」
「では結構です。ヴァンダレス殿が猛虎兵団の指揮を引き継いでください」
「しかし勝手に」
「問題ありません。陛下の許可は得ております」
これは言葉としては本当でも内容は嘘だ。セインが言う陛下とはグレンのことなのだ。セインへの指示は反乱軍が投降を初めてすぐに放たれたシャドウの部下によって届けられたもの。セインもまだグレンがゼクソンの王権を握ったことまでは知らない。
「銀狼兵団は又、ゼクソンに?」
「はい」
「それで銀狼、いやグレン殿は?」
「近くまで来ております。ですから変な気は起こされない様に。それとゼクソン国王陛下を助けたというか、反乱軍を崩壊させたのは陛下ですから」
「ち、ちょっと待て、陛下が陛下をとは?」
「ああ。グレン王は我等の王なのです」
「……ゼクソンの?」
「ルート王国です。ですが、どうでしょう? ゼクソンの王になっていても自分は驚きません」
「そうか……」
ヴァンダレスもその可能性は認めている。ヴィクトリアの息子。将来のゼクソン国王の父がグレンであることをヴァンダレスも知っていた。
「出来ればここでゼークト将軍の内通の裏付けを取りたいと思います。しばらくは滞在の許可を頂けますように」
ゼークト将軍の内通については、今はまだ状況証拠しかない。ゼークト将軍に知らぬ存ぜぬで通されては、罪を問えない可能性があるのだ。
「構わないが、裏付けとは?」
「取ることが出来ればの話です。ウェヌス軍が引き上げて来れば分かります」
「そうか……」
そして、見事に裏付けが取れることになる。
ゼクソン領内から引き上げてきた健太郎率いるウェヌス軍。その軍使が堂々と城砦を訪れてきた。
「お待たせした」
「……ゼークト将軍?」
現れたのはゼークト将軍ではなくヴァンダレス。ゼークト将軍に会うつもりでいた軍使は戸惑っている。
「いや、実は将軍は急な病に倒れて寝込んでいる。もう二日もうなされたままだ。自分は将軍が回復されるまで、兵団を任されている」
「……将軍にお会いしたい」
「今言った通りだ。意識がなくて話せない。それに移る病の恐れがあって、隔離と言って良い状態なのだ」
「そんな……」
「もしかして、将軍との約束の件か?」
「話を?」
ヴァンダレスに誘いに軍使はまんまと乗ってきた。
「正直に言おう。自分は心底納得してはいない。だが、将軍が我が国の為というから」
「お気持ちは分かります。しかし、今の貴国の状況は国の存続に関わるといっても良いもの」
「それは……薄々は承知している」
「大国である我がウェヌスの後ろ盾を得ることが国を存続させる道です。そもそも隣国のアシュラムは信用ならない国です」
ウェヌス王国という後ろ盾を得ることでゼクソン王国を存続させる。ゼークト将軍はこの話に乗ってしまったのだ。ゼークト将軍なりにゼクソン王国を思ってのことだが、ヴィクトリアへの不信もかなり決断に影響を与えている。
「しかし、アシュラムとは」
「アシュラムの腹には一物あります。それが何かとまでは申し上げませんが、信用出来る国ではありません」
「……そこまで」
「さて引き渡しの件ですが」
「うむ」
そこで二人の会話に邪魔が入る。部屋の扉を激しく叩く音がそれだ。
「何だ! 今は来客中だ!」
「大至急お伝えすることがあります!」
「後で聞く!」
「いえ、すぐに! 反乱が銀狼兵団によって鎮圧されました!」
「何だと!?」
「銀狼兵団が国境に向かっております! 城砦に迎える用意をしろとの伝令です!」
「分かった! 詳細は後だ!」
「はっ!」
そのやり取りが終わった後、部屋には長い沈黙が流れることになった。先にゆっくりと口を開いたのはヴァンダレスの方からだ。
「……軍使殿?」
「はい」
「どういうことなのだろうな? なぜ、銀狼がここで出てくる?」
「我等には何のことか。情報の誤りではないですか?」
惚ける軍使だが、これは悪あがきというものだ。ヴァンダレスは最初から真実を知っているのだ。
「そうでなければ?」
「……すぐに戻って確認致します」
今すぐにこの場から逃げ出したいが軍使の本音だ。
「軍使殿」
「はい」
「今の報告が事実であれば、二度と目の前に現れないで欲しい。自分はあくまでもゼクソン王国の軍人であり、ゼクソン国王陛下の臣なのだ」
「……分かりました」
がっくりと肩を落として部屋を出て行くウェヌスの軍使。その背中が見えなくなったところで、ヴァンダレスが大きく息を吐いた。
「終わった」
「お見事でした」
隣の部屋に通じる扉を開けてセインが入ってくる。
「あんな曖昧な話で良いのか?」
「密約があったことが分かれば良いのです。後はゼークト将軍ご本人の口から聞くことになるでしょう」
「そうだな。しかし、このようなことは二度とごめんだ。いつ演技がばれるかと冷や冷やした」
「はい。このようなことが必要のない国になれば良いと思います」
「……そうだな」
「証言を求められると思いますが」
「当然応える。国を売る裏切り者など、上官であっても許すことは出来ない」
「はい」
ウェヌスの軍使が城砦を訪れることは二度となかった。それどころではない。グレンの軍勢が近くまで来ているという偽情報を受けて、ウェヌス軍はその日のうちにエステスト城砦から見えないところまで引き上げていった。
◆◆◆
一方でグレンが出て行ったルート王国は臨戦態勢のまま、数か月を過ごしている。さすがに住民たちにも疲れが見え始めた。
そろそろ限界が近い。臨戦態勢を解くべきか、維持するべきか。結論の出ない会議が長時間続けられた。
それを終え、疲れた体をベッドで休めているソフィア。グレンの不在がここまで大きいということ。そして、この事態において、自分が何も出来ていないことに深く落ち込んでいた。
自分に何か出来ないか。それをずっと考えているが、思いつくことは何もない。そんなソフィアの思考を破る音が扉から聞こえてきた。
「はい。どうぞ」
その音に返事をするソフィア。だが、扉が開くことはなかった。
「……鍵は空いているわよ」
「不用心でございます」
「誰?」
聞き慣れない声にソフィアの心の中に警戒感が生まれる。
「シャドウでございます」
「シャドウ? えっ、誰?」
ソフィアには、そんな名の臣下に心当たりはない
「グレン王に名付けて頂いたゼクソンの」
「ああ、貴方。どうぞ入って」
シャドウの説明でソフィアはゼクソン王国の間者であったと思い出した。部屋に入ることを許したソフィアだが。
「それが不用心でございます」
またシャドウに叱られることになる。
「えっ、だって」
「ソフィア様は王妃でございます。ご自身の身をあまり軽視なさらぬように」
「でも」
「ご自身の為ではなく、国の為でございます。万一攫われて人質に取られるような事態になれば、ルート王国に大きな不利益を与えることになりませんか?」
「……そうね。気を付ける」
シャドウに言われたことなどソフィアは全く意識していなかった。反省はしたが、面倒にも思う。
「部屋の鍵は掛けてください。出来れば信頼できる侍女、護衛役をお側に置いてください」
「そんな余裕はないわよ」
侍女という存在は今のルート王国にはいない。労働力は他のところに全て回しているからだ。そもそもソフィアもグレンも身の回りの世話をする者など必要としていない。
「それでもです。誰か分からない者の声には不用心にお答えにならないように。安易に扉に近付くことも控えてください」
「ちょっと? どうしたのよ」
ゼクソン王国のシャドウが何故こんなに口うるさく言うのか、ソフィアには全く理由が分からない。
「……本題に入ります」
「そうね。そうして」
「ゼクソンの反乱は陛下の手によって治められました。当然、陛下はご無事でございます」
「……良かった。他の人は?」
「兵にも一切の怪我人もなく全くの無傷での勝利でございます」
「良かった」
死傷者が出なかったと知ってソフィアは一安心だ。
「陛下はゼクソン国王代行となりました」
「あっ、やっぱり。そういうことになると思った」
「従いまして私は正式に陛下に御仕えする身となりました。ですから、王妃であるソフィア様も同じように守るべき御方として仕えさせて頂きます」
「……そう。何だかくすぐったい」
帝国の旧臣たちからはずっと皇族として扱われてきたソフィアだが、彼らとは慣れ合いがあって、ソフィア自信は皇族であることを意識することはほとんどなかったのだ。これは今も同じだ。
「慣れてください。ソフィア様は望まれていないようですが、ゼクソンの王権をもった陛下の立場はこれまで以上のものとなっております。必然的に奥方であるソフィア様の立場も上がっております」
「……それはちょっと」
「それが陛下の奥方になられたソフィア様の義務でございます」
「……そうね」
心のどこかでは分かっていたことだ。それでも今はまだソフィアには覚悟が出来ていなかった。
「ゼクソンの混乱が落ち着くまでは陛下はゼクソンを離れられないでしょう。それでも区切りの良いところで一旦戻ると申されておりました。それまで待つようにと」
「それを伝えに来てくれたの?」
「はい。それとルート王国の兵は返すそうです。数が増えておりますので、その受入準備をハーバード殿とポール殿に指示するようにと」
「増えて?」
「ゼクソンの反乱に与した兵士。捕虜にされていたウェヌスの兵士の一部が加わります。数については決まり次第、お伝えに参ります。恐らく私の部下になると思います。伝える相手はソフィア様のみ。そのおつもりで」
「ちょっと待って? どうやって分かるの?」
シャドウの部下と言われても、ソフィアにはそれが誰だか分からない。
「すぐに侍女を一人派遣致します。信頼いただくしかないのですが、その者をお側に置いてください」
「その人が貴方の部下ね?」
「はい。ただそのことは決して他言なさらぬように。普通に侍女として扱ってください」
護衛役を兼ねてということだ。
「その経験がないの」
侍女として扱えと言われても、どうすれば良いか分からない。侍女を側に置いたことなどないのだ。
「……では僭越ですが、その者からご説明を」
「お願い」
「ルート王国軍が帰還した段階で通常体制に戻るようにと」
「いつまで? もう限界が近いのよ」
「先遣部隊は、もう半月もしないうちに現れます。そこまでは我慢を」
「分かったわ」
住民たちは緊張を強いられているだけで、実際に戦っているわけではない。いつまでかはっきりすれば、大丈夫だろうとソフィアは考えた。
「それと……これは陛下に口止めされておりますがお話ししておきます」
「そういうこと話して良いの?」
「これは特別でございます。それとあらかじめ申しておきます。陛下の口止めはご自身の口からきちんと説明したいという気持ちからでございます。隠す為ではございません」
「……もう分かった」
このシャドウの回りくどい言い方で、ソフィアには何の話か分かってしまった。
「陛下はゼクソン国王ヴィクトリア様を側妃に迎えられました」
「やっぱり……でも側妃なの?」
一国の王だったヴィクトリアを側妃にして良いのかという思いがソフィアにはある。
「はい。正妃には既にソフィア様がいらっしゃいます」
「でも。相手は一国の王よ?」
「ですから先ほどから申し上げております。ソフィア様もまた、お立場が変わるのです。陛下との私的な時間はこれまで通りで全く問題ございません。しかし、公式の場では、それなりの態度が求められることになります」
「…………」
王妃として振る舞うこと。こんなことは今まで厳しく求められてこなかった。それを今いきなり言われても、ソフィアの心には不安と戸惑いしか浮かんでこない。
「陛下のお側にいるということはそういうことでございます。私は少々ソフィア様に嫌われようと、何度でも申し上げます。陛下が陛下である以上、その隣にいるソフィア様も、それに相応しい何かを身に付けなければなりません」
「私は……」
グレンの妃に相応しい女性になる。この自信はソフィアにはない。グレンの側にいられることでさえ、ソフィアにとっては驚きを感じることだったのだ。
「後、ヴィクトリア様からもご伝言を受け取っております」
「はい?」
「セントフォーリア家の血筋であるソフィア様に御仕え出来ることを光栄に思います。お側に伺うことはなかなか出来ないと思いますが、ソフィア様の信頼を得られるように努めて参ります。口調は少々変えさせて頂きました。ヴィクトリア様は男性として育てられましたので」
「それは良いけど、御仕えするってどういうこと?」
「側妃であるヴィクトリア様にとって、正妃であるソフィア様は主と言える存在です。奥があれば奥の纏めはソフィア様になるのですから」
「だからって」
ゼクソン国王であったヴィクトリアを自分に下に見ることはソフィアには出来ない。
「ヴィクトリア様は側妃としてあるべき姿であろうと気を使っているのです。それに応えて頂けないでしょうか? 私にとってヴィクトリア様はずっと仕えていた御方なのです」
シャドウが口うるさく言うのは、ヴィクトリアの主であるソフィアには、それに相応しくあって欲しいという思いもあるからだ。
「……そうね。分かった」
否応なくグレンの妻であるということがどういうことなのか、ソフィアは思い知らされた。シャドウが投げかけた言葉への答えは、今のソフィアには見つからない。その答えはグレンだけが持っているものなのだ。