月の文庫ブログ

月野文人です。異世界物のファンタジー小説を書いています。このブログは自分がこれまで書き散らかしたまま眠らせていた作品、まったく一から始める作品など、とにかくあまり考えずに気の向くままに投稿するブログです。気に入った作品を見つけてもらえると嬉しいです。 掲載小説の一覧(第一話)はリンクの「掲載小説一覧」をクリックして下さい。よろしくお願いします。 

悪役令嬢に恋をして 第38話 第一歩は踏み出された

異世界ファンタジー小説 悪役令嬢に恋をして

 領主になってもリオンの毎日のスケジュールは大きくは変わらない。日中の従者として働いていた時間が、領主としての執務時間に変わっただけだ。
 まだ夜が明けきらぬうちから起きだしての鍛錬。それはバンドゥの地にたどり着いてからも変わらず続けている。以前よりも熱が入っていると言えるくらいだ。
 イベントでの魔物との戦いを経験して、それなりの強さを身につけたと思っていた。だが、ヴィンセントを助けようと乗り込んだ処刑場でリオンは近衛騎士団長に、正に言葉通り、手も足も出ないままにやられてしまった。
 切り札と考えていたディーネの魔法防御でさえ、近衛騎士団長の剣に反応出来ていない。サラの魔法攻撃も展開する間もなかった。
 その時の事を思い出すと、自分の思い上がりを恥じるばかりだった。
 自分はまだまだ未熟だ。もっと鍛えて、近衛騎士団長を倒す力を身につけなければならない。そう決心して、熱を入れて鍛錬をしているのだが、事は中々うまくはいかない。
 独学である事、一人で剣の腕を磨く事の限界。王都に居た頃からの問題は解決していないのだ。何か良い方法はないか。いつの間にか剣を振る事も忘れて、リオンは考え込んでいた。

「ご領主様」

 そこに不意に掛けられた声。声音で誰かは分かった。

「カシスか」

「はい」

 元城代であり、今は領地軍の隊長であるカシスが立っていた。リオンが自ら望んで話したい相手ではない。カシスが、という訳ではなく、領地に来てからリオンはまだ一人も信用出来る人物に会っていないのだ。

「何か用か?」

「いえ。たまたま通りかかったところに、人の気配がしましたので」

「そうか」

 用がないのであれば話は終わり。リオンは鍛錬に戻ろうと剣を構える。結局、今出来るのは素振りくらい。考えるのは後にして、それを行おうと思った、のだが。

「よろしければ、お相手仕りましょうか?」

「えっ?」

 カシスが思わぬ提案をしてきた。

「素振りは基本ですが、それだけでは上達は難しいかと」

「……強いのか?」

「強いかは分かりませんが、幼き頃より学んではおりました」

「そうか……じゃあ、相手をしてくれ」

 自分から言い出すからには、それなりに使えるはず。リオンにとっては願ってもない事だ。

「はっ」

 リオンの前に進み出てきたカシス。向い合って剣を構えた瞬間に、カシスがとんでもなく謙遜していた事が分かった。
 カシスの全身から立ち昇る闘気。リオンはその気に圧倒されてしまう。

「……参る」

 ゆっくりと進み出た、ように見えたカシスの体が、一瞬の後に目の前にある。その振るわれた剣も。リオンはとっさに剣を横にして防いだが、その衝撃は凄まじく、そのまま押し潰されるような感覚に襲われた。
 辛うじて、わざと後ろに倒れる事でそれから逃れ。出来た間合いを利用して立ち上がる。

「ほう……」

 カシスの口から、感心したような呟きが漏れた。

「何が『ほう』だ。お前、猫かぶっていたな?」

「特に意識はしておりませぬ。ただ剣しか取り柄のない私には、慣れない城努めは緊張するばかりで」

「……言葉遣いも変わってるぞ。つまり、これが素か」

「まあ。所詮はただの武人ですからな」

 卑下するような言い方だが、武人という言葉を口にするカシスには誇りが感じられる。

「……上等だ。これくらいの相手じゃないと、近衛騎士団長なんて倒せないからな」

「はっ?」

「今度はこちらからだ。参る!」

 カシスの台詞を真似て叫ぶと、リオンは一気に間合いを詰めに行く。だが、カシスはそれさえも許さない。頭上からもの凄い勢いで剣が降ってきた。
 それを何とか横に躱したリオンだったが、カシスが更にリオンを追うように剣を横に薙いだところで、それを受けきれずに体勢を崩してしまう。

「……ふむ」

 又、カシスが小さく呟く。

「なんかムカつくな。よし、今度こそ」

 と思って、カシスに向かって突っ込んでいったリオンだったが、今度は見事に撃沈。剣を合わせる事も出来ずに、まともにカシスの剣を食らって、ぶっ倒れる事になった。
 そして、この日から、これがリオンの日課となる。

 

◆◆◆

「……あいつら、絶対に昼間の鬱憤ばらしをしてるな」

 ベッドに横になったまま文句を口にしているリオン。そのリオンを面白そうにエアリエルが見ている。その両手に沢山の打ち身に効く薬草を持って。
 リオンの朝の鍛錬の時間は実に充実したものに変わっている。怪我ばかりの毎日を充実と言えるのであれば。
 リオンの相手をしているのはカシスだけではない。四人が入れ替わりに鍛錬場に現れては、リオンと立ち合うのだ。誰もがバンドゥ六党の党首。赤の党のカシス以外に、青の党のキール・ブラウ、緑の党のモヒート・グリューン、黄の党のアペロール・ケルプの三人だ。
 それぞれ戦い方は異なるが、四人が四人ともに、とにかく強い。リオンの実力ではどの程度なのか測る事も出来ないが、とにかく何度立ち会ってもリオンは一本も取れないでいた。
 一方的に剣で打たれて全身痣だらけになるだけだ。怪我といえるくらいのものは、エアリエルが魔法で治してくれるので問題ないのだが、その結果、傷はないのに赤や青の痣で、肌の色が所々違ってしまうのが何ともおかしい。
 エアリエルが笑っているのは、そのせいだ。

「そんなに文句を言うなら、止めれば良いわ」

 リオンの答えが分かっていて、エアリエルはこんな事を言う。

「止めない。あいつらに勝てなくて、近衛騎士団長なんて倒せないからな」

「近衛騎士団長の方が強い?」

「分からない。分からないくらい俺が未熟だって事だ。でも、いつかそれが分かるくらいに強くなる。いや、それよりももっと強くなって必ず……」

 宙を睨みながら、リオンは自分の決意を口にする。そのリオンの体からは、エアリエルにも分かるくらいの殺気が溢れだしていた。

「恐いわ。今のリオンはどのリオン? 何だか物騒だから、きっと貧民街育ちのリオンね」

「……いや、別に入れ替わるわけじゃないから」

 エアリエルの惚けた問いかけに、リオンの殺気が掻き消えた。
 王都を発つ前に、リオンはエアリエルに全てを話している。隠し事をしたまま、結婚するのは卑怯だと考えたからだ。
 エアリエルの反応を恐れていたリオンだったが、それは全くの杞憂に終わった。エアリエルは薄々リオンがただの貧民街の孤児ではない事に気が付いていたのだ。魔法が使えるからではなく、その言動によって。
 エアリエルの全く知らない知識、変わった考え方、そして一番分かりやすいのが、この国では使わない単語をリオンが度々口にする事。
 精霊の知識など良い例だ。精霊という言葉はあっても、サラマンダーやウンディーネ、シルフなんて呼ぶ事はこの国どころか、この世界全体でもない。
 では、リオンはどこでそんな知識を仕入れたのかという事になる。さすがに異世界とまでは思い至っていなかったが、それをリオンに教えてもらった時に、驚くよりもエアリエルは納得してしまった。
 そうなるともう、リオンの言葉をそのまま受け入れるだけ。そもそもリオンが何者であっても、エアリエルには関係ない。侯家の令嬢であるエアリエルが、貧民街の孤児であるリオンを好きになったという事はそういう事なのだ。

「……でも、リオン」

 リオンの瞳をじっと見つめながら、エアリエルは顔を寄せていく。

「何?」

「今の貴方の左目は綺麗に輝いているわ」

「えっ? もしかして左と右で明るさが違う?」

「そう……凄く、赤くて……綺麗」

「……エアリエル」

 エアリエルの頬に手を置いて、そっとリオンは唇を重ねる。もう片方の手はエアリエルの腰。細く括れた腰を引き寄せると、体を入れ替えて上になる。
 頬においていた手が、ゆっくりと下に降りてエアリエルの胸を。腰に回していた手も更に下に伸びて。

「……あっ」

 遂に、というところでリオンは正気に戻ってしまった。慌ててエアリエルの体から手を離して、そのまま横に寝転んだ。

「むう……」

 エアリエルは頬を思いっきり膨らませて、不満を表している。エアリエルの誘惑は今回も失敗に終わってしまった。

「危ない。普通に抱きそうになった」

「それで良いのよ。私たちは夫婦だわ」

「そうだけど……」

「リオンは私の事を好きではないの?」

「そんなことない。今だって本当は抱きたくて…………あれ?」

 ようやくリオンは気が付いた。自分が実に間抜けな事で悩んでいた事を。

「どうしたの?」

「いや、俺、女性の裸が嫌いで。なんていうか、汚い感じがして、それを我慢して抱いていて」

「……それが何?」

 他の女性を抱いた話は、内容がなんであっても気分が良いものではない。

「万一、エアリエルにもそんな感情を持ったらどうしようと悩んでいて」

 成人まではというのは口実だ。リオンはずっとセックスの時の女性が嫌いだった。欲望に溺れる女性の姿が醜悪なものにしか見えなかった。
 大好きなエアリエルまで、そう思ってしまったらどうしようとリオンは悩んでいたのだ。

「……もしかして?」

「そう。だから、こういう事を避けてた」

「そう。それで?」

「いや、俺、抱きたいと思って女性を抱いた事がなくて、でも今は抱きたいと思って、自然と体が動いた」

「つまり、何?」

 リオンの言いたい事は分かっている。それでもエアリエルは、リオンの口から、はっきりと言わせたいのだ。

「……成人前でも抱いて良いかな?」

「馬鹿……」

 ニッコリと笑みを浮かべて、エアリエルはリオンに体重を預けていく。ようやく二人が結ばれる時が来た……はずなのに。

「……痛い」

「えっ?」

「体が痛い」

 リオンの体が言うことを聞かなかった。

「……じゃあ、治るまでしない」

「ええっ? だって鍛錬は毎朝あって」

 治るもなにも毎朝の鍛錬で体を痛めているのだ。痛くならなくなる日、つまり、カシスたちの剣を体に受けないようになる日までどれだけかかるのか。

「知らない」

 やっと待ちに待った瞬間が訪れたと思ったのに、この展開。エアリエルも拗ねてしまっている。
 結局、この日はリオンの痛い場所をわざと刺激するというエアリエルのお説教の時間で終わってしまう事になった。

 

◆◆◆

 領主としての執務の時間。今日のリオンはいつも以上に機嫌が悪い。
 ようやくエアリエルを抱く気になれたのに、それが出来なかった。その苛立ちは、自分の体を傷めつけた者たちに向かっている。
 完全な八つ当たりだとリオンも分かっているので、さすがに当たり散らすような真似はしない。ただ意識して、その存在を無視しているだけだ。
 そんなリオンの雰囲気を感じ取って、執務室に居るカシムたちも居心地が悪そうだ。だからといって、執務室から出る事も出来ない。リオンは望むところだろうが、それではいつまで経ってもリオンの信頼を得られないとカシムたちは分かっているのだ。
 重苦しい空気の執務室には、リオンが走らせているペンの音だけが流れている。

「失礼いたします!」

 その空気を破る存在が現れた。城門の警護をしている兵の一人だ。

「何?」

「ご領主様に面会を求めている者がおります」

「俺に? 誰だろう?」

 領主になってから今まで、リオンは領地の様子を把握するのに精一杯で、外部との接触はほとんどない。そのリオンに面会となれば、相手は限られている。
 限られているが、リオンはあえて疑問の言葉を口にした。

「王都から流れてきた商人らしく、この街で商売をしたいと」

「そうか。奇特な人も居る者だな。分かった、すぐに会うから、部屋に通してくれ」

「はっ」

 リオンの指示を受けて、来客を伝えに来た兵が戻っていく。

「来客だから席を外してくれ」

「はっ」

 執務室に居た者たちも、リオンに言われて部屋の外に出て行く。カシムを除いて。

「……席を外せと言った」

「ご領主様をお一人にするわけには参りませぬ」

「相手は商人だ。心配は要らない」

「本当に商人であるか分かりません」

「……俺には護衛なんていらない」

「ご領主様より強い者は世の中には大勢おります。私もその一人であります」

「ぐっ……」

 武一辺倒のカシスにしては、うまい所を突いた。武の実力はリオンがカシムたちを認めている唯一の事。そして、一度認めた事をリオンは無理に否定する事はしない。
 それ以上、何も言わず、リオンは目の前の書類に目を向けた。カシスが部屋に残るのを認めたという事だ。
 少しして、先ほど現れた兵が一人の男を連れてやってきた。それを確認したリオンは自席を立って、机の前のソファーの横に立つ。

「どうぞ、こちらにお掛け下さい」

「は、はあ」

 リオンに促されてソファーに座る男。リオンも男の正面に腰を下ろした。

「ようこそ、私の領地へ。道中は大変だったでしょう?」

「道中?」

「……ここまでの旅は」

「ああ。まあ、でも色々と見れて面白かったです」

「そうですか、それは良かった。さて、この街で商売をしたいと聞きましたが?」

「大将? なんですかそれ? その口調はここいらの流行りですかい?」

「馬鹿! 大将と呼ぶな! 俺一人じゃないだろ!?」

「あっ、ああ……はじめまして、えっと……大将じゃなくて、何と呼べば?」

 カシスの存在を意識して、慌てて演技を始めた男だが、それもうまく出来ないようだ。それはそうだ。貧民街の悪党に、商人らしい振る舞いなど出来るはずがない。

「……もう良い。今更だ」

「すいません」

 リオンも誤魔化すのを諦めた。

「よく来たな。ただ正直いうと、フォルスが来るとは思っていなかった」

 フォルスはリオンの配下の中で席次は上の下というところだ。それは関係ないにしても、ろくに商人の演技も出来なかった通り、表向きの仕事を得意としているわけではない。

「まあ、色々ありまして。一番、王都を離れて良い俺が選ばれたってわけです」

「色々?」

「最初はアインの兄貴やゴードンの奴が行くって言い出して。さすがにそれは駄目だって皆で止めて」

「それはそうだろ? あの二人は王都でしっかり組織をまとめないと」

 二人は組織の上に立つことではなく、リオンに仕える事に喜びを覚えている。それを肝心のリオンが今ひとつ、分かっていないのだ。

「そうなんですがね。アインの兄貴はすぐに納得したのですけど、ゴードンの野郎が。あいつ、兄弟分としては下の方じゃないですか。それを逆手にとって、下っ端の俺がなんて言い出して」

「……下っ端って、元は一家の親分だろうが。年だって上のほうだし」

「ええ。それを押さえる口実を色々と考えているうちに、席次は高くも低くもなく、それでいて、王都を離れても許される俺に」

「なるほど。何となく分かった」

 二人を説得する為に二人とは全く違うタイプのフォルスが選ばれたとのだとリオンは理解した。

「という事で、しばらく厄介になりますので、よろしくお願いします」

「ああ。それでいつまで居るんだ?」

「さあ?」

「はい? 王都に戻るんだろ? 俺も色々と持ち帰ってもらいたいものがある」

「それは他の奴が。俺の役目は、この街で娼館を始める事で」

「この街で?」

 この話はリオンの計画にはなかった事だ。

「はい。大将のお膝下の街に組織の拠点がないのはおかしいって。だから娼館を作ります」

「……儲からないぞ?」

 この街に娼館に通えるような者はいない。住民の数が少ない上に、皆、貧しいのだ。

「ああ、それはこの街に入って思いました。でも、まあ、あれですから」

「あれ?」

「何でしたっけ? 連絡所、中継所、そんな感じです」

「連絡所はともかくとして、中継所か」

 王都とカマークを結ぶ街道上の街に拠点を増やしていく。これがリオンたちの計画だ。カマークは終結地点。そこに中継所と呼ぶ拠点を設ける意味をリオンは考えた。
 どうやら、自分の部下たちは、自分以上に大きな事を考え始めているようだと、少し嬉しくなる。

「そんな事なので、別に儲かる必要はありません」

「分かった。営業許可は娼館だけで良いのか?」

「そうですね。ゆくゆくは王都と同じ感じにするつもりです」

「娼館と酒場と浴場、それと賭博場か。分かった。これで営業許可を出す」

「えっ?」

「俺、ここの領主だから。賭博も公認で」

「……そうでした」

 非合法だったリオンの組織が、形だけとはいえ、合法の商売に乗り出す事になった。これが、カマークの発展の第一歩となる事など、この時のリオンには分かっていない。

「俺からも頼みがある」

「何ですか?」

「いくつか王都に持ち帰ってもらいたいものがある。一番大事なのは、これ」

 ずっとリオンが書き記していた書類。その分厚い紙の束をリオンは指差す。

「何ですか?」

「中身は気にするな。これの一部をファティラース侯家のシャルロット・ランチェスターに渡してくれ。アインに言えば、うまくやるはずだ」

「はい」

「もう一部は保管。シャルロットが何の行動も起こさない時の為。どうするかも書いてある」

「分かりました」

 リオンがこうしろと言えば、それをする。それがリオンの部下たちだ。ただカシスたちと違って、それに応用を加える力が貧民街の者たちにはある。
 実際にはそれは貧民街が良くなって、自分たちがやってきた事への自信が生まれてからなのだが、リオンの頭の中には、今のアインたちしかない。これがバンドゥ領のカシスたちの不幸だったりする。
 とにかく、どうにも手を付けようもなかった領政の改革がようやく動き出す。リオンは考える時を終え、行動の時に移ったのだ。

 

◆◆◆

 フォルスがリオンの元を訪れてからひと月後。王都で一つの物事が動き出した。リオンの思惑通りに。

「部長、新たな注進状が届いております」

 王国騎士団の監察部。監察官の一人が、観察部長に注進状の提出を報告している。

「……これは、貴族領内の不正ではないか。我々の管轄外だ」

 差し出された書類を見て、こう言うと、観察部長は部下の監察官にそのまま突き返した。何を受け付けているのだという批判の視線と共に。
 だが、部下だってそれくらいは分かっている。分かっていても、監察部長に報告する理由があるのだ。

「差出人は、ファティラース侯家のシャルロット・ランチェスターです」

「たとえ差出人が侯家の者であっても同じ事だ」

「はい。ただ、注進者はリオン・フレイ男爵とエアリエル夫人です」

「……何?」

 二人の名を聞いた途端に観察部長の顔色が、さっと変わった

「……エアリエル夫人とはあのエアリエルか?」

「そうです。リオン・フレイ男爵は従者であった、あのリオンで、エアリエル夫人も、あのエアリエル・ウッドウィルです」

「そうだったな。二人はそうだった……」

「どうされますか?」

「すぐに調査を開始しろ。完全に証拠を固めた上で、内務局に突き出してやれ」

「はっ」

 冷酷非情と言われている監察部も、その組織で働いている者たちは普通の人間だ。義務感、使命感から犯罪者に非情とも思える厳しさを発揮しているだけなのだ。
 そんな彼らにとって、ヴィンセントとエアリエルの件は痛恨のミス。冤罪だとしても、それが王国の為になれば彼らも何とも思わないが、事態はそうはなっていない。
 ヴィンセントとエアリエルは悲劇の主人公として、吟遊詩人の歌にまでなってしまっている。当然その中で監察部は、もちろん違う組織として歌われているが、悪逆非道な存在だ。そして王家への反感も歌が広まるのと同じに広まっている。
 王国はそんな歌が広まらないように取り締まっているが、それが又、民衆を刺激してしまう始末。王国が火消しに走っている裏でリオンの部下たちが火を付けて回っている影響も大きいのだが。
 どうにもならない王国の苛立ちは監察部に向けられる。アーノルド王太子たちに向けるわけにはいかないのだから、そうなってしまう。
 肩身の狭い思いをしている監察部は汚名返上の機会を、喉から手が出るほど欲していた。
 リオンはこの状況を利用した。たとえ敵であっても、敵であるからこそ、尚更、利用出来るものは利用する。そういう事だ。
 かくして、バンドゥの地で好き放題していた役人たち、元役人も含む、は一斉に監察部の捜査を受ける事になった。管轄局である内務局であれば事前のもみ消しも出来ただろうが、騎士団の監察部では不正役人も何も出来ない。次々と悪事が暴かれ、多くの者が捕まっていった。
 王国史上、最大の横領事件。あくまでも公になったものの中で、ではあるが、この一件はそう呼ばれる事になった。