領地へ向かう旅も一ヶ月になる。結構な長旅ではあるが、王都周辺しか知らないリオンとエアリエルの二人にとっては、見るもの全てが目新しく、毎日が退屈しない楽しい日々だった。ましてこの旅は、この世界にはない習慣ではあるが、新婚旅行だ。何をしていても楽しいに決まっている。
そういう点ではちょっとした揉め事、初めての夫婦喧嘩も経験している。喧嘩の理由は、リオンが一向にエアリエルに手を出さない事。リオンの言い分は「エアリエルが成人を迎えるまでは、そういう事はしない」という「そんな奴いねぇよ」と誰もが言いたくなるくらいの、驚くべき道徳的理由だった。
それに納得しないエアリエルが、とにかく大切にしたいと訴え続けるリオンに対し「他の女は平気で抱けるくせに」というリオンの心を抉る言葉を投げつけてしまい、初めてリオンがエアリエルを怒るという記念すべき出来事が起こっている。これは完全な余談だ。
そんな旅ももうすぐ終わり。ついに領地であるバンドゥに入り、領主館がある街カマークを目指しているリオンたちだったが、その気持ちはこれまでとは一変していて、暗く沈んでいた。その原因は領地の雰囲気にあった。
進んでいる街道は、全く整備がされている様子がなく、道はデコボコ、いくつかあった橋も渡る事に不安を感じるくらいに傷んで見える。それだけではなく、すれ違う人々の顔はどれも暗く、そもそも行き交う人々の数自体、あまりに少なかった。
国王から税収は少ないとは聞いていたが、ここまで荒れた領地だとは思ってもいなかった。騙されたかもしれない、こんな思いがリオンの頭によぎった。
ただ国王は騙したわけではない。知らなかったのだ。それをリオンが分かるのは、もう少し時が経って、領地の事を知ってからになる。
そして辿り着いたカマーク。その姿を見て、リオンたちの心は益々重くなる。元々国境に近いカマークは城砦都市で、王都にはない武骨な雰囲気を持つ街だ。
だが、それでは納得出来ない事に、今リオンたちが見るカマークの防壁は、つい最近戦争があったのかと思う位に傷んでいる。王都しか知らない二人には廃城の様にも見えてしまう。
とんでもない所に来てしまった。これが二人の共通した感想だ。
それでも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。このままどこかに逃げるという選択肢はあるが、それは今でなくても出来ると、カマークの街に入る事にした。
西門をくぐると、更に奥に防壁が見えた。規模は全く違うが王都と同じ二重防壁。カマークが戦争の為の街である故だ。
それも今では無用の長物、カマーク周辺で戦争があったのは、すでに記憶を持つ者もいない昔の話だ。それもあってか、防壁と防壁の間にある軍事施設であった建物も又、随分とさびれた様子だ。
とにかく、この街は訪れた者の気持ちを暗くする佇まいなのだ。
「この街に何の用だ?」
内側の防壁にある門に辿り着くと、すぐ脇にある小屋から門番の兵士が出て来て誰何された。さすがに内壁の中に入るには検閲があった。
「リオン・フレイ。陛下のご命令でバンドゥの領主となった者だ」
「えっ? 貴方が?」
門番の反応はリオンを落ち込ませた。自分でも領主に見えないのは分かっていたが、実際にこの反応を示されると自分が情けなくなってしまう。
「……そう、俺が」
「あっ! 失礼いたしました! ご来着を城に伝えますので、少々、お待ち頂けますか?」
リオンの不満そうな態度に、自分の失敗を悟った門番は、途端に慇懃な対応に変わった。
「分かった」
「おい! ご領主様のご到着だ! すぐに城代様にお伝えしろ!」
この門番の声に、小屋に居た別の兵士が慌てて駆けて行った。それを見て、リオンは心の中でため息をついた。門番の兵士たちの振る舞いは、王都の門番はもちろん、ウィンヒール侯家の屋敷を守っていた護衛騎士にも劣る。これで国境を守れるのか、こんな感想をリオンは持った。
「先に進みたいのだが?」
「城代様がご案内しますので」
「その城代が、ここに来るまでただ待っていろと?」
「……それは」
「城に向かえば良いのであれば、勝手に行く。まさかどれが城か分からないという事はないよな?」
「あっ、はい。もちろんです」
「では門を開けてくれ」
「はっ!」
命令を聞いてくれるのは良いのだが、初めて会った自分を言葉だけで領主と信じるのはどうなのか、こんな意地悪な気持ちも湧いてきた。自分の部下だと思うと、細かい事が一つ一つ気になってしまうリオンだった。
門が開くと、通りの正面に城が見える。これでは迷うほうが難しい。エアリエルを馬上に残したまま、リオンは地面に降りて轡を引いて歩きはじめる。
内壁の内側はさすがに建物がびっしりと並んでいるが、やはり活気があるようには見えない。この世界にはない言葉だが、いわゆるシャッター通りという状況だ。
「大変そうね?」
「ああ。街までこんな状況だと、税収は少ないどころか全くないと言われても驚かないかも」
「それは、さすがに驚くわ」
「……まあ」
たまに冗談がうまく通じないエアリエルであった。
通りのあちこちに視線を向けながら城に向かって進むリオンたち。いきなり現れた二人を見た住民たちは驚き、そして二人から目が離せなくなっている。
エアリエルはもちろん、リオンも、このさびれた街では滅多にお目に掛かれない美形だ。一体何者が現れたのかと、住民たちは興味津々になっている。
その住民たちの疑問はすぐに解ける事になった。城の方から急ぎ足でやってきた一人の男によって。
「えっと、貴方がご領主様?」
やはりこの反応だった。
「そう。リオン・フレイ。馬に乗っているのは、妻のエアリエルだ」
この男が城代だろうと思って、エアリエルも紹介したリオン。
「そうですか……」
門番とは違って、男はあからさまに落ち込んで見せている。城代でさえこれ。リオンの気持ちの方も沈むばかりだ。
「私は城代を務めております。カシス・ロートと申します。城内にご案内します」
「……頼む」
◆◆◆
城は一体どんな事になっているのかと不安を抱いていたリオンだったが、意外にも、きちんと整備が行き届いている様子で、さびれた雰囲気は感じられなかった。
それはエアリエルも感じている。
「ふうん。意外と良い物を揃えているわね?」
部屋に置かれている調度品を眺めて、エアリエルはこんな感想を述べる。
「分かるんだ?」
「ある程度、目利きが出来ないと恥をかく事になるわ」
目利きは貴族として必須ともいえる能力だ。偽物の美術品を掴まされて、しかもそれを周囲に自慢なんてしたら、恥かしくて社交界に顔を出せなくなる。
実際は、それに気付く事なく、陰で笑われている貴族は多いのだが、ウィンヒール侯家に生まれたエアリエルに、それが許される訳がなく、徹底的に仕込まれていた。
「俺には良く分からないから何でも良い。財政厳しそうだから、良いものなら売って金にしようか?」
「リオン、それは違うわ」
「だって」
「良い物は長く使えるから高いのよ。結果として安い物をいくつも買うより安くなるわ」
「……それは分かる」
「中には高い物が良い物なんて思っている人がいるわ。それは目利きが出来ない愚か者の考えだわ」
「……すみません」
リオンは目利きが出来ない愚か者だった。
「あの、そろそろ話をさせてもらってよろしいですか?」
存在を忘れられていると思った城代が、リオンに声を掛けてきた。
「ああ、どうぞ」
「では……何から話をすれば良いのですか?」
「えっ?」
自分から話をと言っておいて、これだ。からかわれているのかと、リオンは思うくらいだった。
「私は前任者が居なくなったから、急遽、城代になっただけですので、あまり詳しい説明が出来ませぬ。まずは、ご領主様がお知りになりたい事を伺って、それから調べようかと」
「……前任者は?」
「王都に戻りました」
「何の引き継ぎも終わっていないのに? それおかしくないか?」
「それは、前任者に申されたほうが」
「……そうか」
前任者はもちろんだが、この城代もリオンは気に入らない。ポッと出の領主にいきなり忠誠を向けろとは言わないが、それでもこの態度は酷過ぎる。仕える立場を経験している、それも強い忠誠心を持って仕えていたリオンには、どうしても城代の態度は人に仕える者のそれには見えない。
結果、リオンの心の中から、この城代に頼るという選択は消えた。
「じゃあ、今から言う資料を用意してくれ」
「はい」
「前々年から今年までの収支報告書。税収と支出について内訳が詳しく記されている資料は必ず付けて。それと、この土地の産物が何で、それの市場価格。これはここ三年の平均で良い、直近があれば尚良し」
「……はっ?」
「ああ、そうだ。それ以前に、領政の組織図。業務の分担がはっきりと分かるもので。それぞれの組織の長は……後で紹介してもらえるのか?」
「あっ、それはもちろん」
「では個別に状況の聞き取りもするから抱えている問題を纏めて報告するように、各人に伝えてくれ」
「……はい」
「今言った資料はいつ受け取れる?」
「……確認します」
「資料の確認は急ぎたいから明日の朝までに。各人との面会は、相手の仕事の都合を優先して適当に調整して」
「……分かりました」
「じゃあ、これで。街の地図はあるか?」
「あると思いますが」
「今すぐに持ってきてくれ。これから外に出る」
「はっ?」
「どこに何があるか知っておかないと、この先の生活に困る」
「……分かりました」
「一応言っておく。案内役は必要ない。必要なのは地図だけだ」
「護衛を」
「護衛は要らない。門番を見る限り、護衛の兵士より俺の方が強そうだ」
あまり自分の力を誇示する事のないリオンが、こう言ったのは、かなり腹を立てているからだ。リオンはお前達には頼らないと宣言しているつもりだった。
バンドゥ領に対するリオンの第一印象は最悪という結果で終わった。
◆◆◆
それから一時間も経たないうちに、リオンの姿は城の外にあった。
地図を片手になんてことをせずに、リオンは街の中を歩いている。リオンの帰る場所は城。どこからでも見える城では迷う心配はない。それに今、リオンが目指しているのは地図に書いてあるような場所ではなかった。
(……エアリエルを連れて来ても平気だったかも。失敗した)
しばらく歩き回ったところで、リオンの頭にこんな思いが浮かぶ。
自分も行くというエアリエルを強引に置いてきたのだが、どうもリオンが心配していたような事は起こりそうもない。そうなるとただエアリエルを怒らせただけになる。
(これって、つまりこの街には悪党が住みつく魅力もないって事か?)
リオンが探しているのは王都における貧民街、そこに居る裏社会の人間たちだ。街の事情を知るには、そういった者に聞くのが一番である事を、リオンは知っている。王都の裏社会で流れていた情報には驚くようなものも混じっていたのだ。玉石混合が実際のところだが、今のリオンにはそれで充分。とにかく、領地について、ありとあらゆる事を知りたかった。
特に何故、これほど荒れ果てているのか。リオンは、城代を筆頭に役人たちを疑っている。だから、そこから遠くもあり近くもあるかもしれない裏社会の情報を求めたのだが、それらしき者と一向に出会う事が出来ない。
これはリオンにとって大誤算だ。
いかがわしい繁華街が見つからないどころか、裏街には人が住んでいる気配がほとんどない。この街はそもそも住人が圧倒的に少ない可能性がある。そうなると裏社会が生まれる事もない。金を生まない所に悪党は寄り付かないのだから。
自分が思っていた以上にこの街の状況は酷い。領地全体がこうだとすれば、何をどうやって領地を治めろと言うのか。
到着初日からリオンは逃げ出したくなった。
◆◆◆
そして二日目、やはりリオンは逃げ出したくなった。約束の朝になっても、頼んだ資料が一つも届かないのだ。
どういう事かと城代であるカシスを呼んで問い詰めてみれば。
「資料がない?」
「いえ、ある事はあります」
「……じゃあ、出してくれ」
「正しい資料ではありませぬ」
「それでも良いから出せ!」
自分たちの不正を誤魔化そうとしている。そう思ったリオンは、資料を出すようにカシスを怒鳴りつけたのだが。
「誤解を生みます!」
カシスから返ってきた答えは思っていたのと少し違っていた。
「……誤解とは?」
「今ある資料は偽造された資料です」
「誰が偽造なんて?」
「前城代とその部下たちです」
「どうしてそんな真似を?」
「自分たちの着服を誤魔化すために」
やはり不正役人は居た。それが分かったところで、リオンは嬉しくはない。状況がより複雑であると分かっただけだ。
「そんな事を前城代が?」
「前城代だけではありません。前々代の城代、その前の城代、もっと前から。それこそ、この地域が王国の領地になってからずっと続いてきた事です」
あり得る話ではある。役人の不正なんて珍しい事ではないのだ。それはそれとして、リオンはカシスの言い方が気になった。
「お前は関与していないのか?」
「当たり前です。我等は領政には関わらせてもらえぬ立場の者ですから」
そして又、気になる言い方をされる。
「我等?」
「この地で代々生きていた者たちです」
「……詳しい話を聞こうか」
リオンに促されて、カシスはこの地域の事情を話し始めた。
こういう事だ。バンドゥの地は、かつていくつかの豪族が割拠する、国とは言えない土地で、それでも外部からの侵入者に対しては、豪族たちが協力して事にあたって長く独立を保っていた。その豪族たちはバンドゥ六党と呼ばれ、城代はそのうちの一つ、ロート党の今代の党首だ。
だが、そんなバンドゥの地も時代の勢いには逆らえず、西から勢力を拡大してきたグランフラム王家の軍門に下る事となった。その時の抵抗があまりに激しかった為に、どこかの貴族の領地になる事はなく、国王の直轄地とされた。
それは豪族たちにとっても、文句を言うどころか、歓迎すべき出来事だった。だが実際に直轄地になると思っていたものとは異なる事態となる。豪族たちは誰一人として直臣にしてもらえなかったのだ。
中央から役人が派遣されてきて、領地の政治は全て、その役人たちが行なう事になった。豪族たちは、その下で働かされるだけ。王国の直臣でも、貴族の臣下、陪臣でもない。何とも微妙な立場だ。
更に最悪だったのは、中央の役人からは、東のはずれであるバンドゥに送られる事は左遷と見なされ、ロクな者が送られてこなかった。それだけではない。
元々能力の低い者が、文句を言う者が誰もいない環境で好き放題を始め、仕事など放ったらかしで贅沢三昧。
バンドゥの地はどんどん荒れ果てて行った。
だがバンドゥの不幸はまだ終わらない。いつしかバンドゥは左遷の地から、引退前の役人へのご褒美の地へと変わっていた。何もしないで老後の財産を稼げる。こんな良い勤務地はない。
ある時から、これがずっと続いているのだ。それは領地も荒れるし、人もいなくなる。
ところが何と驚くことに、このバンドゥに領主がやってくるという。財産稼ぎの腰掛け役人ではなく、この土地を自分のものとして治める領主だ。
バンドゥは変わるかもしれない。この地に残った数少ない領民たちは多いに新領主に期待していた。
「……そこに現れたのが、まだ子供で、しかも不吉の象徴のオッドアイを持つ領主。落胆もするだろうと」
カシスたちの事情を聞いてもリオンの機嫌が直る訳ではない。それどころか、更に悪くなっていた。
「……申し訳ございませぬ」
「別に。未熟なのは事実だ。それに瞳の事で蔑まれるのには慣れている」
「……申し訳ございませぬ」
不機嫌さを思いっきり表に出しているリオンに対し、ただ謝罪の言葉を繰り返す事しか、カシスは出来なかった。
「だから、別に良い。つまり今ある財政に関する資料は、自分たちの着服を俺の目から誤魔化す為に作った物で、辻褄の合わない所は、全てこの地に残った者たちが使った事になっていると?」
「はい」
「それ以外の資料はない?」
「はい」
「税収が実際にいくら入ってくるかも分からない?」
「……はい」
「支払がいつ幾らあるかも分からない?」
「…………はい」
「それで俺はどうやってこの地を治めれば良い?」
「…………」
「すぐに調べろ!」
「はっ!」
リオンの命令を受けて、カシスは早足で部屋を出て行く。命令を下したが、正直、リオンは期待していない。領政に全く関わった事がない者では、調べろと言われても調べ方が分からないだろう。
リオンはただ城代を部屋から追い出したかっただけだ。
「もっと疑うべきだった。男爵に領地なんて普通はあり得ないよな」
「そうね」
困った表情で話してくるリオンを見て、エアリエルは嬉しそうだ。従者の時は、リオンは全て一人で抱えて弱音なんて見せる事はなかった。こういう顔を見せられると、夫婦になったのだと、エアリエルは実感出来るのだ。
「さてどうするか?」
「どうするってリオンはもう決めているでしょ?」
「……苦労するけど?」
「言ったはずだわ。リオンと一緒なら何でも良いって」
「そうか。じゃあ、少しだけ頑張ってみるかな」
「ええ」
この程度の事でリオンが、へこたれるはずなどない。リオンは、もっと理不尽で、もっと残酷な、この世界そのものに抗っていたのだ。