街道を力ない足取りで南下する人々の列。その最後尾には、前を歩く人々とは異なり、きちんと隊列を整えて歩く軍人たちの姿がある。リリエンベルク公国の中心都市シュバルツリーリエから逃れてきた人々だ。
今のところ魔人軍の襲来はない。だからといって、それを喜ぶ余裕は人々にはない。暮らしていた街を捨てて、逃れてきた人々だ。前途には不安しか感じていない。
それは住民たちを守っている軍人も同じ。彼等は魔人軍の襲撃がないことは喜んでいる。だからといって残ったリリエンベルク公爵率いる軍が勝利しているなどとは考えられない。そんな楽観的な希望を持てる状況ではないことを皆知っているのだ。
いつ魔人軍が追いついてくるのか。その時が来れば、次に命を捨てて戦うのは自分たちだ。命懸けで戦っても住民たちが逃れられる保証はないというのに。先に希望が見えない。住民たちのようにあからさまには出さないが、彼等の心も暗く沈んでいる。
「……どこで足を止めるのですか?」
リリエンベルク公爵の息子マクシミリアン・テーリングに問い掛けたのは、さらにその息子であるヨアヒムだ。重苦しい雰囲気の中、答えの難しい問いを発せられるのは息子としての甘えがあるから。今はその甘えが周囲にはありがたい。皆、聞きたくて聞けなかったことなのだ。
「……止めなくて済むのであれば止めたくない。公国領を抜けて、王都に辿り着くまで行きたいところだ」
王都まで、は無理であってもせめて公国領を抜けられれば。マクシミリアンがそう思っている。そこまで魔人軍に侵攻されれば、王国も軍を出さないではいられないはずなのだ。
「それは……さすがに無理ではないですか?」
「分かっている。住民たちの体力だけでなく、物資も保たない」
シュバルツリーリエから持ち出せるだけの物資は持ち出してきた。それはかなりの量で次の街に辿り着くまでには充分以上だ。だがそれでは足りないとマクシミリアンは考えている。
「……結局、どこまで南下するか次第です」
次の街も放棄することになれば、さらにそこから逃げる住民たちの分の物資が必要になる。出来るだけ領民たちは遠くまで逃がしたい。だがそれを行えば雪だるま式に逃亡する人々の数が増え、必要となる物資量も増えてくる。
「我々はブラオリーリエに留まる。そこで前線から後退してきた軍勢を待つ」
突破された第一防衛線、第二防衛線を守っていた軍勢は全滅したわけではないはずだ。後方に逃れてくる軍勢、の体はなしていないかもしれないが、いるはずで、それを南部では比較的大きな街であるブラオリーリエで再結集させようとマクシミリアンは考えている。
「領民たちはどうなさいますか?」
「お前が守って、さらに南まで逃れさせろ。軍勢は当然割く」
「……分かりました」
父はそのブラオリーリエで死ぬつもりなのだとヨアヒムは理解した。シュバルツリーリエから逃れると決まった時から分かっていたことだ。
父親が失敗した場合、次は自分が死ななければならないことも。
「すまない。お前も逃れさせることが出来れば良かったのだが……」
「戦いが始まる前から逃げるわけにはいきません。それで生き残っても、誰も私をリリエンベルク公爵家の後継者だとは認めないでしょう」
リリエンベルク公爵家の血は妹のリーゼロッテが残してくれる。長男はラヴェンデル公国を継がなければならないとしても、次男が生まれればラヴェンデル公爵家はリリエンベルク公爵家を名乗ることを否定はしないはずだ。王国と他の公家がどうでるかは別にして。
「そうだな……まだこんなことを考えるのは早いな」
魔人軍との戦いはまだ終わっていない。今の段階でリリエンベルク公国が滅びたあとのことを考えるべきではないとマクシミリアンは考えた。その通りだ。まだ戦いはこれからなのだ。
「……飛竜です!」
「何!? 王国か!?」
ようやく待ちに待った援軍が来たのか。そう思ってマクシミリアンの胸は高鳴ったのだが。
「……いえ、我が公国の旗に見えます」
「公国の飛竜……前線から、いや情報収集にあたっていた飛竜騎士か」
リリエンベルク公国は情報収集の為に広く飛竜騎士を展開していた。その一騎が戻ってきたのだとマクシミリアンは考えた。
降下してくる飛竜。乗っているのは確かにリリエンベルク公国軍の騎士と同じ服装だ。実際に公国軍の所属であることは間違いない。
「……彼は……まさか?」
飛竜から飛び降りたのはマクシミリアンにも見覚えのある人物。だが当初考えていたような騎士ではなかった。
「リリエンベルク公国軍特別遊撃隊所属ジグルス・クロニクスであります!」
軍人らしい名乗りをジグルスは行ってきた。彼は軍人であり、今は戦時なのだから当然ではある。
「君は……まさかリゼも戻ってきたのか?」
「いえ。俺一人が偵察として送られて来ました」
「そうか……しかし、何故?」
何故たった一人で偵察に戻るような真似をしたのか。マクシミリアンとしてはジグルスにはリーゼロッテの側にいて欲しかった。それはリリエンベルク公爵も望んでいたことだ。
「状況がまったく分からなくてはどう動くべきか判断出来ません。まずは侯爵様のご意向を確認することが先かと考えました」
「そうか……」
リーゼロッテをリリエンベルク公国に戻さない為。ジグルスのかなり遠回しな説明をマクシミリアンはそう理解した。
「目的地はブラオリーリエでよろしいですか?」
「何故それを?」
「南部で守りに適した都市がどこかとなればブラオリーリエしかありませんので」
ブラオリーリエは南部の守りの要。ローゼンガルテン王国に併合された以降は、王国の都に近い南部の防衛力は大幅に削られているがそれでも城壁などはかつてのものが残っている。
「その通りだ。ブラオリーリエで軍を再結集しようと考えている」
「ではブラオリーリエに物資を集めてもよろしいでしょうか?」
「何だって?」
「どれだけのものが集められるか分かりませんが、調達を試みようと考えております」
「本当に出来るのか?」
いままさに物資の心配をしていた。それをジグルスは解決しようと言うのだ。
「今申し上げた通り、どれだけ集められるかは分かりません。それとブラオリーリエの住民たちはどうされますか? 先行して退避してもらいますか?」
「……ああ、そのほうが良いだろうな」
「では、どなたかに同行して頂きたいと思います。ああ、騎士の方々にもいてもらったほうが良いか……運輸の一部を回しますので、それに乗ってきて下さい。いや、領民の人を優先すべきか……それについては検討願います」
「ち、ちょっと待ってくれ。何を検討するのだ?」
次から次へと話を進めるジグルスにマクシミリアンは付いていけない。運輸、という言葉が何を意味するかも分からないのだ。
「……えっと、飛竜で人を運びます」
「ああ、君の知り合いの商人か」
「はい。飛竜の数が増えたので輸送力が少し増えました。物資の輸送に使う予定だった一部をこちらに回します。ただそれでも一度に運べるのは百人くらいですので混乱が起きないようにお願いします」
ラヴェンデル公国から借りた飛竜をジグルスは人の運搬に使おうと考えている。これで魔道コンテナの数がもっとあればというところだが、それを今求めても意味はない。あるものでやるしかないのだ。
「それは助かる」
「公国の飛竜は?」
「手元にいる飛竜は部隊の捜索に回した。北部に展開していた飛竜も合流してくるだろう」
どれだけが無事に生き延びているかは分からない。それでも全滅ということはないはずだとマクシミリアンは考えている。
「……そうなれば、いや周辺の街や村に回すのが先ですか。それはお任せします」
リリエンベルク公国の飛竜が合流すればさらに輸送力は増すと考えたのだが、まだこの事態が伝わっていない街や村もあるはず。そういった場所に飛竜を送るほうが優先だとジグルスは考え直した。
「では……どなたに同行して頂けるのですか?」
「ヨアヒムを連れていってくれ」
マクシミリアンは息子であるヨアヒムを向かわせることにした。彼を助けたいというだけではなく、リリエンベルク公爵家の人間が健在だということを領民に知らしめることも大切だと考えたのだ。
「承知しました。では――」
「ああ、ちょっと待て!」
ヨアヒムを連れて出発しようとするジグルスをマクシミリアンは引き止めた。
「君の両親だが……シュバルツリーリエに残って戦っている」
「……そうでしたか」
「驚かないのだな?」
ジグルスの反応はマクシミリアンが思っていたものではなかった。もしかして話を聞いていたのかと考えたのだが、それは勘違いだ。
「なんとなく予感はしていました。俺たちの為に鍛錬を手伝っているというより、自分たちが鍛えているように感じましたから」
「そうか……」
「……では行きます。ヨアヒム様、よろしいですか?」
「ああ、行こう」
やや緊張した面持ちのヨアヒムを連れて、ジグルスは飛竜に乗って宙に舞い上がった。南に向いた飛竜の首。そのまままっすぐに飛び去っていく。
「……なるほど。あれがジグルス・クロニクスか」
ジグルスはこちらの行動を先読みして、必要な手当てを行っていた。もっと話す時間があれば、さらに先のことまで考えていることが分かっただろうとマクシミリアンは思う。
リーゼロッテの側にいて欲しいと思っていたジグルスだが、今この時にここにいてくれるのは心強いとも思える。自分が死んでも、ヨアヒムの側に彼がいてくれれば心配はない。そうも思える。
「……さて準備をしよう。移動しながら領民たちの説明を。混乱しないようによく言い聞かせておかなければならない」
「はっ」
騎士たちが前方に駆けていく。まだまだ安心は出来ないが、それでもやるべきことがはっきりしたことで騎士たちの動きは軽くなっている。
そう見えるのは自分の心が軽くなったからか。両方だろうとマクシミリアンは思った。
◆◆◆
シュバルツリーリエでは激闘が続いていた。戦死が定められた圧倒的に不利な戦いに臨んだ多くの老騎士、老兵たち。彼等の奮闘がリリエンベルク公国側を支えていた。それだけではない。リリエンベルク公国には戦力差を補う強力な助っ人がいるのだ。クロニクス男爵夫妻だ。
「うぉおおおおおおっ!」
魔人軍との最前線で大剣を振るうクロニクス男爵。その強さはリリエンベルク公国軍で群を抜いている。一対一で魔人と向き合って対等かそれ以上に戦っているのだ。
さらにそのクロニクス男爵を支えているのが、すぐ後ろから切れ目なく放たれる矢。実際は矢のように見える魔法だ。
「ぐっ……んぐっ……」
苦しそうにうめき声をあげながら魔法を放っているのはジグルスの母。次々と魔人を射貫いていくが彼女のほうが傷ついている。目に見える傷ではない。狂わんばかりの激しい痛みが彼女を襲い、目、口だけなく鼻や耳などからも血が流れ出ている。
満身創痍。敵の攻撃を受けていないはずなのに、そんな状態だ。
「ヘル! 下がれ!」
「へ、平気よ! や、休んだ、から、って、楽にはならないわ!」
夫のクロニクス男爵が休憩を取るように言っても、彼女は受け入れない。実際に戦闘を中断したからといって傷が癒えるわけでも、痛みが消えるわけでもないのだ。
「……そろそろ限界か」
「あ、貴方の、ほうが……な、泣き、言?」
「私はまだ戦える。だが……軍としては負けだ」
クロニクス男爵夫妻がどれだけ奮闘しても戦いの勝敗までは変えられない。命を捨てて魔人に立ち向かった老戦士たち。その覚悟通りに命を失い、戦死の数が減っていけばそれだけ戦力差が開いていく。軍としての戦いはそろそろ限界に近づいているのだ。
「……どう、する、つ、つもり?」
「それを決めるのはリリエンベルク公爵だ。聞かなくても分かるがな」
「……あ、あら、そうね」
リリエンベルク公国の公主であり、この戦場の最高指揮官であるリリエンベルク公爵は戦闘継続が不可能に近くなってどういった決断を下すのか。
それは後方から近づいてくる旗を見れば分かった。
黒地に剣に巻き付く百合の花の図柄。リリエンベルク公国の旗が近づいてきている。その旗の下にはリリエンベルク公爵がいるはずだ。それを示す旗なのだから。
「敵の、大将首くらいは、ほ、欲しかったわね?」
「まだ終わっていない。これからの戦いでとればいい」
「そう、ね」
リリエンベルク公国の旗はまっすぐにこちらに近づいてきている。その意味を悟ったのはクロニクス男爵夫妻だけではない。他の人々も最後の決戦に向けて、旗の周りに集まり始めた。
「……そろそろ年寄りには限界が来そうなのでな」
クロニクス男爵の前に現れたリリエンベルク公爵の言葉はこれだった。共に戦えという言葉は出てこない。
「それは丁度良かった。我々はこれから敵本陣に向けて、突撃をかけるところでした。よろしければご一緒にいかがですか?」
クロニクス男爵が口に出さないのでクロニクス男爵から同行を申し入れることにした。
「敵本陣に突撃か……それは勇壮だな。燃えかすとなったはずの火がまた燃え上がったかのような気がする」
「公爵様もまだまだお若い。ただ……そろそろ若い世代に任せても良い時だと思います」
「そうだな。頼りない息子だが、あとは任せてみるか」
誰一人として生き残れるとは思っていない。生き残るつもりもない。残っている全ての命の火を燃やし尽くして戦うつもりなのだ。ほとんどの戦士たちがその為に、この場に残ったのだ。
「さて……なるほど、魔人も戦場の礼を知るか」
いつの間にか魔人軍の攻撃は止んでいた。引いたのではない。集結しているリリエンベルク公国軍の前に整然と並んでいる。
リリエンベルク公国軍が最後の決戦に打って出ると見て、正面からそれを迎え撃つ体勢を取っているのだ。それをリリエンベルク公爵は礼儀と見た。確かにそうかもしれないが、目的の本陣に辿り着くことも難しくなっている。
「皆の者! 準備は良いか!」
「「「おうっ!!」」」
そんなことはどうでも良い。老戦士たちの目的は命燃え尽きるまで戦い続けることなのだ。
『……突撃っ!!』
『『『うおぉおおおおおおっ!!』』』
リリエンベルク公爵の号令で一斉に前に駆け出していく戦士たち。シュバルツリーリエでの最後の戦いが始まる。