いよいよ先軍が国境を越える日となった。
予定からは二日遅れているが、その理由は公表されていない。知っているのは、一部の将だけだ。前日に総大将であるハドスン将軍の名によって密やかに通達された内容は、ゼクソンが裏切る可能性がある、いざという事態に備えておくこと、といったものだ。
二日の遅れは、この通達を発する為にハドスン将軍の到着を待つ時間だった。
早朝の野営地では、出立する先軍の騎士や兵たちが動き回っている。準備は整っているが、それでもいざとなると色々とやることがあるのだ。
そんな中で、相変わらずグレンたちは暇を持て余していた。自分の荷物をまとめれば、それで終わりなのだ。
だがグレンに限っては、また放っておかれることはなかった。
「はっ?」
「だからハーリー千人将がお呼びだ」
「この様な状況の中で? もうすぐ出立ですよね?」
この出立する先軍を率いるのはハーリー千人将だ。話をしている暇はないはずとグレンは考えた。
「その出立の際に、側にいるようにとのことだ」
「はい?」
更に使いの騎士はグレンが驚く発言をする。自分が何故その場にいなければならないのか、グレンにはさっぱり分からない。
「……とにかく来てくれ。ご命令なのだ」
「はあ。えっと、じゃあ、出立の時にはいないから。勇者親衛隊に付いて行くだけだから大丈夫だよな?」
「はい」
従卒たちに、これだけを告げてグレンは騎士の後を追う。隊列の先頭となる騎士団第一大隊はすでに野営地を出て街道に集結していた。ハーリー千人将も当然そこにいる。
「お呼びと聞きましたが?」
「ああ。少し話したいことがある。時間がないので行軍を進めながらと考えた」
「そうですか。分かりました」
呼ばれた理由は分かった。問題は何の話かだ。
「馬には乗れるか?」
「…………」
行軍しながらハーリー千人将の隣で話すとなれば、こういうことになる。グレンとしては、別に徒歩で問題ないのだが。
「乗れるな」
「返事していませんけど?」
「少しお前の反応が分かってきた。都合の悪い時は黙ることが多い。そして、お前は私の側に長くいたくない」
「……もう何年も乗っていません」
図星を指されたグレンはとりあえず乗れることは認めた。
「そうか。では大人しい馬を用意させよう。予備の馬を連れて来てくれ」
「そういう意味では……」
グレンの文句を聞くことなく、ハーリー千人将の命を受けて、一人の騎士が馬を連れにいった。時間は必要としない。予備の馬はすぐ近くで、従卒たちに手綱を引かれているのだ。
その中の一頭を連れて騎士が戻ってくる。
「どうぞ」
騎士から手綱を手渡されたグレンは、しばらく、じっと馬の顔を見詰めていた。
「……まあ、平気か。じゃあ、よろしく」
やがて納得したように呟くと、グレンは一気に馬に飛び乗った。
「お、おい!」
何年も乗っていないと言いながら、荒っぽい騎乗の仕方をしたグレンにハーリー千人将は驚いている。
「はい?」
「そんないきなり。危ないだろ?」
「大人しい馬だと聞きましたが?」
「だからと言って、初めて乗る馬だ。暴れたらどうするつもりだ」
「大丈夫です」
ハーリー千人将の忠告を、グレンは全く気にする様子がない。
「その自信はどこから来るのだ? 何年も乗っていないと言ったではないか」
「相性が悪くなさそうだったので」
「相性?」
「馬は気性がどうこうではなく、相性で判断しろと言われました。気性が荒い馬でも気に入られれば大人しく乗せてくれるそうです」
自信の根拠を説明するグレン。他人に教わったことをそのまま信じての行動は。グレンにしては珍しいのだが、付き合いの浅いハーリー千人将はその珍しさに気付かない。
「……それは分かるが、どうやって判断するのだ? お前はただ見ていただけではないか?」
「見つめ合って笑ってくれれば相性は良いそうです」
「はっ……?」
まさかのグレンの説明にハーリー千人将は呆気に取られてしまう。
「そう聞きました」
「……笑ったのか?」
「自分にはそこまでは分かりません。長く馬と付き合っていれば分かるそうです」
「では、どうやって?」
グレンの説明が正しいとしても、笑ったかどうか分からないのでは相性が良いかは分からない。
「気性が大人しい馬の場合は、見詰めて顔を背けられなければ平気だそうです。この馬は自分をずっと見つめていたので大丈夫だと判断しました」
「……お前、それは誰から教わったのだ?」
ハーリー千人将は騎士だ。馬についての知識はそれなりにあるつもりだが、グレンの話は聞いたことがなかった。
ただ馬の世話をする者は別にいることが多いので、騎士だからといって必ずしも詳しいということではないが。
「小さいころに近所に住んでいたおじさんです。ちなみに乗り方もその人に」
「そうか……」
何となく腑に落ちないものを感じながらも、ハーリー千人将はグレンの説明を受け入れた。
「まだ時間はありますか?」
「少しであれば」
「じゃあ、ちょっと練習します。跨っただけでは不安なので」
「……そうだな」
「さて……じゃあ、少しの間だけど、よろしく」
馬の首筋を軽く叩きながら、グレンは馬に話しかけている。そのまま足で軽く馬の腹を叩くと、ゆっくりと進み始めた。
並足から速足、そして駈足へと速度を上げていく。ある程度、進んだところで大きく旋回。また駈足で戻ってくる。
更にそこからグレンは前傾を強める。それに合わせて馬が飛ぶように駆け始めた。
全速力でハーリー千人将たちの前を通過していく騎馬。少し行ったところでグレンは馬足を徐々に緩めて、ゆっくりと戻ってきた。
「いやあ、体って覚えているものですね。小さい時にしごかれた甲斐があったな」
「お前……」
グレンがいきなり飛び乗ったのは相性の問題などではないとハーリー千人将は分かった。少々、暴れても平気だという自信がグレンにはあったのだと。
「マントが邪魔かと思っていましたけど、気にならなかったです」
「そうか」
「この切れ込み、動き易いようにというだけでなく、これも考えていたのですかね?」
グレンが纏うロングコートの裾は両脇と真後ろに深く切り込みが入っている。グレンはそれを言っている。
馬を駆けさせたのが楽しかったようで、グレンは少し饒舌になっているようだ。
「まあ、騎士服だからな」
「これを全て考えたとすれば王女殿下は才能をお持ちですね。素材も皮なのに軽くて柔らかくて、それでいて丈夫なのです。何度か剣で叩いてみたのですけど皮鎧程度の強度はありそうで」
「…………」
グレンの説明にハーリー千人将が絶句してしまっている。周りの騎士たちも大きく目を見開いて、驚いていた。
「……何か?」
「お前な……恐らくその素材は、ツインホーンブラックベアードの皮だ」
「熊ですか?」
ハーリー千人将のいう獣がどういう獣かグレンは知らない。
「……双角黒熊。確かに熊だが、古の魔獣に劣らない凶暴な獣で、人が踏み入らない山の奥深くに住んでいる滅多に見られることのない獣だ」
「珍獣ですね?」
ハーリー千人将たちの驚きの理由を、まだグレンは分かっていない。
「……こう言えば分かるか? その騎士服一着で、庶民であれば一生暮らせる」
「はあっ!?」
「それだけ貴重な素材なのだ」
「……知りませんでした」
メアリー王女の贈り物だ。それなりに価値のあるものだとは思っていたが、そこまで貴重なものだとはグレンは分かっていなかった。
「それを剣で叩くとは……まあ、戦場で着る以上いつかは傷つくものだが」
「まあ」
「ちなみに、お前の鎧。確かめたわけではないが、あれも相当な代物だな」
「何年程暮らせますか?」
「さあな。見当もつかない。あれは染めているのではなく、元々が黒色の金属なのだ。オーツ綱と言う。ミスリル綱には劣るが、現在手に入る金属としては、もっとも貴重な物だ」
「そうですか……それは凄い物を頂いてしまいました」
武具職人にタダで作ってもらった剣の刃も黒光りしているのだが、グレンはそれについては黙っておくことにした。
「まあ、余談だな。全く馬に乗るだけで、これだけ時間を食うとは。そろそろ出発だ。隊列を整え直せ」
「「「はっ!!」」」
何人もの騎士たちが一斉に後方に馬を駆けさせていく。出立の指示が、騎士たちの口から発せられる。先軍は隊列を整え終わると、ハーリー千人将の号令一下。ゼクソンの国境に向けて進軍した。
◆◆◆
ハーリー千人将の隣で馬を進めるグレン。鐙の上に立ちあがったり、座り直したりと落ち着かない様子だ。そうかと思えば、馬の首筋を叩いたり、撫でたり、話しかけたりしている。それを呆れた様子で、横目で見ていたハーリー千人将だったが、進軍が落ち着いたと判断して、グレンに話し掛けた
「尻が痛いのか?」
「あっ、いえ。鞍とか鐙は付けないで教わっていたので。乗り易いなと」
「……どんな教わり方だ」
きちんと習ったハーリー千人将にしてみれば、それでどうして乗れるのだと思ってしまう。
「ただ持っていなかっただけじゃないですか? 鞍も高価なのですよね?」
「ピンキリだと思うが……詳しくは知らないな」
性能というよりも、彫刻など装飾によって値段は随分と変わる。騎士はそれなりに飾られたものを使っているので、安い鞍の値段をハーリー千人将は知らない。
「お金がかかるのは確かです。庶民が持つ物ではありませんね」
「そうかもしれないな」
遠出をすることのない村人では、そもそも馬を持っていることが珍しい。その金があるのであれば、牛や豚などを購入するだろう。これをグレンもハーリー千人将も分かっていない。
「落ち着かれたのですか?」
「ああ」
「では、お話というのは?」
「通達が出たのは知っているな?」
「はい。出立を遅らせてまで、それをして頂いたようですね?」
自分の話を信じて手を打ってくれた。これについては、グレンはハーリー千人将を評価している。
「出立を遅らせたのは私だが、ハドスン将軍に進言したのは私ではない」
「えっ? では誰が?」
「ケンだ」
「……どうしてそのような状況に?」
怪訝そうな表情を見せて、グレンはハーリー千人将に問いを返した。自分の想像通りの理由だとすれば、かなり驚くべき事態だとグレンは考えている。
「お前ではなかったか。てっきりお前の入れ知恵だと思って、それで話を聞きたかったのだ」
「自分ではありません。入れ知恵する必要性がありません」
「そうか……」
グレンの説明を聞いて、ハーリー千人将は顔をしかめている。ハーリー千人将にとって、健太郎の行動は大問題だ。グレンとは違い、自身に影響が出るからだ。
「自分で思いつくとは考えられません。そうなると」
「盗み聞きされたな」
「……百歩譲って盗み聞きは良いとして」
「良くはない。あれも軍議の一つだ。それを盗み聞いて、しかも他に話すとは」
健太郎の行動は。軍では考えられない非常識さだ。軍法会議にかけられても、おかしくない。盗み聞きだけではない。直接の上役であるハーリー千人将を出し抜くような行動は、軍組織を乱すことになる。
「でも証拠はない?」
「調べてみなければ分からんが、人払いをしたからな」
「追及出来ない以上は、考える必要はありません。それよりも問題は、勇者がそれを行ったという事実です」
「……そう思うか?」
グレンが問題視しているのは、自分と同じ点だとハーリー千人将は分かった。
「自分は別に気にしません。でもハーリー千人将を始め、軍部にとっては大問題だと思います。この場合の問題は軍事ではなく政治ですが」
「その通りだ」
健太郎の行動は簡単に言えば、手柄を横取りしようとしたということだ。だが問題は何の為にそれをしたのかにある。
「このような行動は初めてですか?」
「騎士団の調練の在り方を言ってきたことはあるな」
「異世界の知識ですか?」
「お前が考えた調練だ」
グレンが知らないところで、健太郎は同じようなことをしていた。
「なんとまあ……それで?」
「閣下に一蹴された。進言と言っても中身は乏しいものだ。ただ形だけを説明してきた。その意味を閣下に問われて、それで終わり。閣下は良くご存じだったな」
「独房に入っている間、彼らを預かって頂きましたから」
「そうか」
トルーマン元帥はグレンの調練のやり方を事細かく従卒たちから聞いていた。そのトルーマン元帥に健太郎は進言したのだから、ただの愚か者だ。
「勇者はそういうことには興味がないのだと思っていました」
「それは間違いだな。人に認められたいという欲求は人一倍あると私は前から思っていた」
「それはハーリー千人将も」
「私は自分の能力を認められたいのだ」
本人の能力を認めてもらうのと、他人の手柄を横取りするのとでは全然違う。
「大きく違いますね。しかし、二度目……周りの影響が大きいのではないですか?」
「そうだと思う」
グレンが指しているのは勇者親衛隊だ。従卒たちの話を聞く限りは、いかにも彼らが考えそうなことだ。
「閣下に以前、こう言ったことがあります」
「何だ?」
「勇者親衛隊に危険な任務を与えて磨り潰してはいかがかと。今回は良い機会だと思いますが?」
盗賊討伐とは比べものにならない危険な、本物の戦争だ。二百程度の部隊が全滅してもおかしくはない。
「案外過激なことを言うのだな。それで閣下は何と?」
「今も彼らは健在です」
「そうだろうな」
ハーリー千人将は納得した様子を見せている。それがグレンは気になった。
「もしかして倫理的な問題以外に、出来ない理由があるのですか?」
「何故、あのような奴らが無役とはいえ、騎士団にいられると思うのだ?」
「……貴族家ですか」
騎士団の規則を無視する存在となれば、貴族しかいない。入団試験さえ捻じ曲げているとグレンは以前、聞いていた。
「そうだ。あの中には何人か有力貴族家の人間がいる。その家柄に胡坐をかいて、騎士としての誇りも義務も忘れて、のうのうと居座っているのだ」
貴族への嫌悪感。どうやら、これも数少ないグレンとハーリー千人将に共通する事柄の一つのようだ。嫌悪感を抱く理由は違うにしても、
「貴族家というのは軍にも影響力があるのですか?」
「軍への直接関与はない。閣下が、いや、閣下だけでなく、大将軍もそれを許さないからな。だが……」
ハーリー千人将は続きを口にしなかった。それでもグレンには十分だ。
「言い辛ければ結構です。なんとなく分かりました」
元帥、大将軍以外にハーリー千人将が批判出来ない人物がいるとすれば、それは王族くらいしか考えられない。
「勇者を利用して軍への影響力を強めようとしているのだな」
「……自分は勘違いしていたようです。勇者親衛隊が出来たのはつまり?」
グレンは、勇者親衛隊はゴードン大将軍派の思惑で出来上がったと思っていたが、そうではなかったようだ。
「元は貴族のゴリ押しだ。もっとも勇者に大事な部隊を預けたくないという軍の思惑がそれを許したとも言える」
「そうですか。自分などが知らないところで問題はあるのですね」
ゴードン大将軍派だけでなく、貴族派と言えるような存在が軍にある。事態はグレンが思っていたよりも複雑だった。
「お前の地位で知られるようでは困る。国の恥と言えるものだからな」
「確かに……まあ、結局この戦い次第ということですか。ゼクソンが裏切らなければ、勇者は恥をかくことになりますし」
「そうなるとは思っていないのだろう? どう出ると思う?」
「はい?」
「何も考えていないわけではないだろう?」
「それは自分の台詞です」
先軍を率いるのはハーリー千人将。現場での戦術の立案はハーリー千人将の責任で行われるべきだ。グレンが出る幕ではない、と本人は思っている。
「考えを擦りあわせたいのだ。戦場はどこだと思う?」
「……恐らくはアシュラムの城塞」
少し考えてグレンは答えを口にいた。今、戦場がどこか考えたわけではない。言うべきかどうか少し悩んだ結果だ。
「そうだな。私もそう思う」
「途中で待ち伏せるのであれば、山中に引き込んで時間を稼ぐ必要はありませんから。それと、アシュラムの得手は騎馬部隊です。山中では得意な騎馬が使えません。戦場にするにはどうかと思います」
「そうだな」
「ただ、こちらが敵の動きを把握するのを防ぐ意味もあるかもしれません。馬も走れない山中では斥候なんて満足に出せません。気が付いたら周りを囲まれていたなんてことになりかねません」
グレンは別の可能性も口にした。一つに決めつけて、別のリスクを見逃すようなことはしたくないのだ。
「……確かに。野戦になると思っているのか?」
グレンの説明に少し考える素振りを見せたハーリー千人将。
「そういう言い方をするということは違うと思っているのですね?」
「そうだ」
「我が軍に一旦砦を奪わせて、包囲殲滅ですか?」
野戦ではない場合の想定を、すぐにグレンは口にする。これもあらかじめ考えていたことだ。
「各個撃破を狙うなら、そうすると考えた」
「自分もそう思います。中途半端な勝利では意味がありませんから」
自国に攻め込ませての迎撃だ。中途半端に討ち漏らすような真似は出来ない。続けて襲撃する予定の後軍に情報を知らせるわけにもいかない。そうであれば砦に押し込めて、包囲殲滅が一番だ。
「ただ砦にこもった我らを殲滅するのには時間が掛かる。それが分からない」
「最初から奪われるつもりの砦です。自分なら、見えない所に山ほど薪でも隠しておいて、砦ごと我が軍を焼きますね」
「…………」
これはハーリー千人将の頭の中にはなかった。
「過激でしたか?」
「ああ。だが、あり得ない話ではない」
「それを我が軍が警戒すると、今度は野戦になります」
「そうか……」
「その野戦で勝つ方法を考える」
考えるべきは敵がどうするかではなく、自軍がどういう戦いに持ち込むかだ。グレンはこれを考えていた。
「そうだな」
「必要はありません」
「なっ?」
「敵が各個撃破を狙っているのに、それに乗る必要はないと思います。ゼクソンの裏切りが明らかになった場合は、恐らく退路を塞ぐだろうゼクソン軍を全力で突破して、後軍に合流するべきです。ゼクソンが全軍でそれも不意を討たれた場合は後軍一万では分が悪いかと」
不利な状況で無理に戦う必要はない。勝てる場所で戦えば良いとグレンは考えている。
「……そうか」
「ただ」
「グレン殿」
グレンの声を遮る様にして、すぐ後ろにいる騎士が声を掛けた。名を呼ばれて、グレンが振り返ってみれば、最初に目に映ったのは声を掛けてきた騎士ではなく、その斜め後ろにいた健太郎だった。
「……自分に御用ですか? それともハーリー千人将でしょうか?」
「あっ、ああ。エリックに」
「何か用か?」
自分に用があるというので、ハーリー千人将が健太郎の相手を引き取った。
「休憩所まであとどれ位かな?」
「まだ進発したばかりだ」
「尻が痛くて」
「……もう行軍は二か月以上。慣れた頃ではないのか?」
そうでなくても、健太郎は馬に乗る練習は、ずっと前から行っている。
「でも痛くて。尻当てを着けようかと思う」
「……つければ良いではないか?」
「それをしている間に行軍に遅れる。それでも良いかな?」
「構わない。それほど急いだ行軍ではない。すぐに追いつくはずだ」
「分かった。そうさせてもらう」
これで健太郎は後ろに駆け戻っていった。ハーリー千人将は完全に呆れ顔だ。一方でグレンは何か腑に落ちないという感じで、考え込んでいた。
「それで?」
「えっ?」
「何か言い掛けていたではないか」
「ああ。それでは中軍がどうなるのかという問題があります。先軍が引けば、アシュラムは矛先を中軍に向けるでしょう。ですが、その時はまだ中軍は裏切りに気付いていない」
正直、これを説明するのをグレンは馬鹿馬鹿しいと思っている。裏切りがはっきりするまで行動を変えられないという制約は、兵を危険に晒す愚かな見栄だと考えている。
「……中軍を見捨てることになるか」
「合流出来ませんか?」
「中軍とか?」
「城塞の位置関係が分からないので、何とも言えませんが、合流出来るのであれば、全力でそれをする手もあります」
「合流出来れば一万三千」
「ゼクソンが全軍を我が軍に向ける可能性は少ないと思います。後軍との戦いに向けて備えている可能性の方が高いのではないかと。逆に数でこちらが優ることになります」
「個別に戦えば兵数でアシュラムに分がある。無理にそれをする必要はない。それは中軍を置いて、後軍と合流しても同じか。ゼクソンには勝てても、その間に中軍が負ける可能性があるな」
ハーリー千人将がこれを言葉にするのは、周囲に聞かせる為。グレンの策の採用に考えが傾いている証拠だ。
「そういうことです。それに、そうなった場合は早さの勝負になります。アシュラムが中軍との戦いに勝って南下してくれば、兵数はこちらが又、分が悪くなる。その前にゼクソンを倒せれば良いのですが」
「時間稼ぎに出るのは間違いないか。なんといっても、敵の領土内だ。地の利は敵にある」
「はい」
「なるほど。検討に値するな。中軍に伝令を送れ。城塞に辿り着いたら、東方に移動するようにと、我軍との合流を図るように伝えるのだ」
「ああ、それなら合流の日数を短く出来るかもしれませんね」
「そうだ。とにかく合流を優先する」
「……最初からそれをすれば良いのに」
最後にグレンは本音を口にする。初めから先軍、中軍が合流してしまえば、ほとんどの問題は解決なのだ。うまくすれば、ゼクソン王国が裏切りを諦める可能性だってある。
「それが出来れば苦労はしない。ゼクソンの裏切りが確定するまでは、計画は変えられんのだ」
「面倒ですね。まあ、それが外交というものですか」
外交に関しては、グレンは自分の考える範疇とは思っていない。それを利用して、不満を紛らわす言い訳にしていた。
「そういう事だ」
「偉そうに言わせてもらえば、連合の可能性は高いと前に閣下に言ったのですけど」
「ほう。何故、そう思った」
「過去の二国との戦闘報告です。それを読む限り、アシュラムは騎馬部隊に力を入れています。一方でゼクソンは歩兵に力を入れています。何故、そんな偏った軍の鍛え方をするのか。それはもう数十年も前から共闘を約束していたからと考えられませんか?」
「……そんなところまで考えていたか。また癪だが、お前が味方で良かったと思った」
「それはどうも」
「やはり、私に仕えないか?」
「遠慮させて頂きます。自分は戦争に縁のない世界で暮らしたいので」
「…………」
それは無理だろう。これは周りで話を聞いていた全員の共通した思いだった。それに気がついているのかいないのか、グレンはまた楽しそうに馬との語らいを始めた。