ローゼンガルテン王国の西、ラヴェンデル公国の西端にも、東の大森林地帯ほどの規模ではないが森が広がっている。隣国との国境となる山岳地帯から広がっている森だ。
戦場はその森の中に移っている。一進一退の攻防を繰り広げた結果、なんとかここまで魔人軍を押し込んできたのだ。ただ「押し込んできた」という表現を使う人は、今はほとんどいなくなっている。
「戦場を後方に戻すべきではありませんか?」
森の中での戦いは思うように行っていない。進軍しては魔人軍の奇襲を受けて大きな被害を出し、森の外まで引き下がる。これの繰り返しだ。
誘いであることは分かっていたはずなのに、魔人軍の術中にまんまと嵌まっているのだ。
「……戻すといってもどう戻すのですか?」
タバートの意見にラードルフ西部方面軍総指揮官は苦い顔だ。後方に下がって戦えるのであれば、そうする。それが出来ないから、この場所で戦っているのだ。
「後方に下がってみなければ分かりません」
「それで魔人軍が動かなければどうするのです?」
「……出てくるまで待つ」
タバートにも現状を打開出来る確かな策があるわけではない。ただ今よりはマシな状況にしたいだけだ。
「出てくるまでずっと張り付いていると? 戦場はここが全てではないのですが?」
二万五千、死傷者が出て今はそれよりも減っているが、大軍と呼べる数をこの場所にとどめておくわけにはいかない。魔人との戦いはまだこれからもっと激しくなるはずなのだ。
「ではどうするのですか? これまでのように森の中での戦いを続けると? ただ犠牲を出すだけの戦いを続けると言うのですか?」
「だから犠牲を出さない! いや、勝てる作戦を考えようとしているのです!」
その為の会議だ。といってもこういった会議はこれまで何度も行われており、勝てる作戦は生まれていない。
「……では勝てる作戦を教えて下さい。それがあるのなら我々はいつでも動く」
投げやりな言葉を吐くタバート。この軍の指揮権はローゼンガルテン王国騎士団にある。ラヴェンデル公国軍が何を言っても、最後はローゼンガルテン王国軍が決めるのだ。
「……それを皆で考える為の会議です」
「いまさら」
「…………」
呟きを返したのはタバートではなく、リーゼロッテだ。戦いが始まってからずっとリーゼロッテは強攻を訴えてきた。魔人軍に容易に下がることを許さないだけの激しい攻撃を続けるべきだと。
だがそれは一切受け入れられなかった。途中からその意見に同調するようになったタバートの意見も。タバートが投げやりな言い方をしたのも、これが理由だ。
「……森に火をかけるのは?」
沈黙を破ったのはユリアーナ。周囲の雰囲気を無視出来る彼女だからこそだ。
「……どこまで燃え広がるか分からない。それとは逆に燃え広がるかも怪しい」
この森の森林資源はラヴェンデル公国にとって重要な財源。公国を通じて、ローゼンガルテン王国の財源でもある。それを全て駄目にして良いのかという懸念がある。
それだけではない。火計を仕掛けても通用するのか。あっさりと消されてしまう可能性だってあるのだ。
「やってみなければ分からないわ」
「結果が分からない策を実行に移すわけにはいかない」
「……じゃあ、せめて木を切り倒してしまうのはどう?」
苦戦しているのは木々で視界を遮られているから。見晴らしが良くなれば、戦況はひっくり返せるとユリアーナは考えている。
「それはもう行っている。森の奥に続く道を広げているところだ」
「……それを待つ」
「その道を拡張している部隊が襲われ、戦闘が起きている。我々はただ闇雲に森の中に突入しているわけではない」
道を広げるだけでなく、森の中に拠点を作る。そこを起点にさらに奥に道を延ばし、また拠点を作る。魔人の本拠地である大森林地帯に攻め込む時を想定した作戦をこの場所で実行しているのだ。
だが拠点を作るどころか道を広げることも魔人軍は簡単に許してはくれない。
「そう……じゃあ、頑張って戦うしかないわね」
「頑張るだけで勝てるのであれば苦労はしない」
「…………」
平民出身のユリアーナに対しては、ラードルフ総指揮官も遠慮はない。身分でも軍の職位でも上なのだ。
「部隊編成を見直すのは?」
ずっと黙っていたエカードがここで口を開いた。
「……具体的には?」
部隊の再編はラードルフ総指揮官も考えていたこと。エカードの口からそれが出てきたことを、表情には見せないが、喜んでいる。
「道の拡張を行っている部隊の護衛。それを精鋭で固める」
「なるほど。精鋭というのはつまり?」
「我々が護衛する。今の小隊メンバーだけでなく、ラヴェンデル公国軍からも選抜を。それと……リリエンベルク公国軍の全てを参加させてもらいたい」
エカードが考えているのは三公国から同世代の精鋭を集めること。リリエンベルク公国軍に関しては全てと言ったのは、彼等の強兵ぶりをこれまでずっと見てきたからだ。
「およそ千……規模としては大隊か」
ローゼンガルテン王国軍は一小隊十名、十小隊で百名の中隊だ。さらに十中隊で一大隊。六大隊で一軍という編成になっている。エカードの提案で集まるのは丁度、一大隊程度の数だ。
「どうだろう?」
精鋭、といっても個人の力量差はまだあるが、が千人集まれば、万の敵でも互角以上に戦える。その部隊を配置すれば、道の拡張工事は敵を引きつける罠に出来るとエカードは考えている。
「編成となると私だけでは判断出来ない」
三公国軍を所属関係なしに編成するとなると、いくら全軍の指揮権を持っているとはいえ、独断では出来ない。だからエカードの口から言わせたかったのだ。
キルシュバオム公爵家からの提案だ。あとはラヴェンデル公爵家、リリエンベルク公爵家が了承するか。
「どうだろう? 同意してもらえるか?」
エカードは問いをタバートとリーゼロッテに向けた、それに対してタバートは同意。リーゼロッテも強い抵抗感はあるが、勝つ為であれば仕方がないと考えている。
二人の口から同意の言葉が発せられる、その前に。
「失礼いたします!」
会議を行っている天幕に騎士が入ってきた。
「……どうした?」
悪いタイミングで、と思っていても急ぎの報告はすぐに聞かなければならない。ここは戦場。対応の遅れが敗戦に繋がる可能性がある。
「リリエンベルク公国のリーゼロッテ殿に伝言が」
「リーゼロッテ殿に?」
リーゼロッテに向けた伝言。何故、そんなものがこのタイミングで伝えられるのかラードルフ総指揮官は疑問に思う。
「何かしら?」
「はっ。失礼いたします」
騎士はリーゼロッテに近づき、手に握っていた細くたたまれた紙を渡す。それを開いて中を読み始めるリーゼロッテ。何が書かれているのか、と周囲に尋ねる間を与えることなくリーゼロッテは席を立ち、外に飛び出していった。
「……どういうことだ? 何があった?」
リーゼロッテの反応がさらに伝えられた内容に対する興味を強める。
「リリエンベルク公国軍の援軍が先ほど到着しまして……それを伝える内容だと思うのですが……」
中身を聞かれても騎士には分からない。盗み見るような真似はそれが誰からの、誰宛のものであっても許されていないのだ。
「援軍。ようやく増援か。それでどれだけの援軍が到着したのだ?」
「それが……百くらいです」
「なんだって……?」
「百名くらいです。そんな数ですのでこちらもこれまで接近に気付かず、いきなり現れて驚きました」
援軍が近づいてくれば普通は気付く。後方をまったく警戒しないほどローゼンガルテン王国軍の指揮官は間抜けではないのだ。
「たった百……いや、リリエンベルク公国軍が小数精鋭であるのは、もう分かっているが……」
それでも百は少なすぎる。戦況に影響を与えることは、まずあり得ないとラードルフ総指揮官は思う。援軍の到着と聞いて喜んだ周囲の人たちもがっかりした、ラヴェンデル公国軍の指揮官など呆れた表情を見せているくらいだ。
「ちょっと聞くが」
「はい……あっ、はっ!」
問いの主がカロリーネ王女だと知って、騎士は慌てて姿勢をこれまで以上に正した。
「その百人の指揮官、指揮官とは限らないか、その百人の中に小柄な、薄い銀とも金とも見える髪の男はいたか?」
リーゼロッテが会議を放り出して、飛び出して行く理由。ただ援軍が来たというだけで、そんな行動に出るはずがない。
「……小柄とまでいえない体格ですが、伝言の紙を渡してきた兵士が王女殿下の仰る通りの髪の色をしていました」
「なるほど。リリエンベルク公爵が送ってきた援軍はその男だな」
「あの、殿下……それはどういう意味でしょうか?」
「いずれ分かる……分かるはずだ」
戦場に現れるはずのない男が現れた、現れるべき男がようやく現れたとい表現が正しいか。何かが起きる。それはきっと味方にとって良いことだとカロリーネ王女は確信している。
◆◆◆
カロリーネ王女に期待を持たせた男。ジグルスはローゼンガルテン王国軍の陣営の一番端。リリエンベルク公国軍に割り当てられた陣地で、じっと先のほうを見ていた。
森も、その奥にある山も、見慣れた風景に比べればかなり近い。だがその壮大さは地元のそれには遠く及ばない。
「そうだとしてもな……」
思わず呟きが漏れる。よりにもよってどうしてこんな場所で戦っているのか。そう思ったのだ。
「ジーク!」
そんなジグルスを呼ぶ声。確認する必要などない。それが誰か間違えることなどない。
「……来てしまいました」
「あ……いえ、大丈夫だったの?」
「会いたかった」の言葉は飲み込んだ。周囲にいるのは全員信頼出来る人々。だからといって気持ちのままに言葉を発して良いというものでもない。
「大丈夫というのでしょうか? 心から認めているというわけではないはずですが、とにかく俺はここにいます」
約束を破って戦場に向かう。親は当然それに反対した。ただその反対はジグルスが思っていたものではなかった。強硬だったのは父親のほうで、これまで強く反対する立場だったはずの母親がその父親を説得してくれたのだ。
「……ごめんなさい。私は何も出来なかったわ」
「ああ……いえ、そんな簡単なことではありません。分かっていても引きずり込まれる。だからこそ策と呼ぶのです」
「そうね……」
実際にジグルスの言う通りなのだ。ローゼンガルテン王国軍の指揮官たちは皆、これが陽動だと分かっていた。分かっていたのに、ここまで進むしかなかった。
「それに俺の、だけじゃないですね。考えが甘かったと思います。西に引きつけて、その反対から。これも決めつけでした」
「別の策があるということ?」
「たとえばさらなる大軍を投入して、西に目が向いているこの軍の背後を襲う。これを思い付いたら、どうにもじっとしていられなくて」
「それって……」
敵が狙うとすれば完全包囲の上での殲滅だ。魔人軍の数があれば、間違いなく包囲は出来る。さらに、完全殲滅は無理でも壊滅状態には出来る可能性がある。ローゼンガルテン王国軍から二万五千の兵力が消えるのだ。
「ここまで来る途中ではその気配は見つけられませんでした。だからといって安心は出来ません。くまなく調べてきたわけではありませんので」
「……どうするの?」
「どうしましょう? どう見てもこの戦場は魔人側が有利ですよね?」
森の中での戦いは魔人が有利。ただでさえ強力な敵と、その敵のホームといえるような戦場で戦うのだ。
「ええ。奇襲ばかりを受けているわ」
「奇襲ですか……かなり厳しい戦いになりそうです」
「それでも勝てるのであれば」
厳しい戦いになる。それは戦えるという意味だとリーゼロッテは受け取った。リーゼロッテだけでなく、周囲で二人の話を聞いている兵士たちも。
「では頑張りましょう」
「ええ。そういえばさっき、エカードが一緒に戦おうと言っていたわ」
「戦っていますよね?」
「一つの部隊となって戦おうという話よ」
「ああ……いずれその機会は来ると思いますが、今はまだ早いのではないですか?」
決戦という時になればそれも必要かもしれないと思う。前方の森の中に潜んでいる魔人軍。その中にどれだけの魔人が、どれだけ強力な魔人はいるか分からないが、その全てを兵だけで討てるはずがないのだ。
だがそれはもう少し先のことだとジグルスは考えている。魔人たちに決戦を挑まなければと思わせるのが先だと。
「では断っておくわ」
「次の戦いはいつか決まっていますか?」
「奥に続く道を物資が運べるくらいに広げようとしているわ。その工事をする部隊は毎日のように森に入っていて、毎日のように奇襲を受けているわ」
「では明日も?」
「そうだと思うわ」
「分かりました。では明日からですね。厳しくなりますよ?」
最後の言葉は兵士たちに向けたもの。それに兵士たちは苦笑い。何を今更。教官が楽をさせてくれた時があったかと皆思っているのだ。
いよいよ本格的な戦いが始まる。ジグルス・クロニクスが、自分たちを育てた、自分たちを誰よりも良く知る真の総指揮官が戦場に現れたのだから。兵士たちの胸には新たな決意が湧き上がっていた。
◆◆◆
戦場に夜の帳が下りる。ローゼンガルテン王国軍の軍営はあちこちで焚かれている篝火で照らされているが、その対面の森は夜の闇に包まれている。
その闇に視線を向けて、ジグルスは剣を振っていた。鍛錬の時のような鋭い振りではない。一振り一振り、剣の重さを確かめながらゆっくりと動かしている。
黒光りする剣身が珍しい以外は、飾り気のない剣。まだ使い始めたばかりであるのに、妙に手に馴染む。ここに向かう時に母親から渡された剣なのだ。
魔人軍が各個撃破、それも殲滅を狙う可能性に気が付いた時、じっとしていられなくなった。リーゼロッテが殺されるなんて事態は決してあってはならないことなのだ。
残していた百人が、完璧とはいえないが、形になったのを良い機会として、一緒に戦場に向かおうとした。だが、そのジグルスの考えは両親に見抜かれていた。
父親が力ずくで止めようとしてきた。殴られたのは生まれて始めてのことだ。立ち合いではボロボロにされてきたのに、そういえばそうだったと、緊迫した場面であったのに心のどこかで冷めたことを考えていた。
父親の説得は正直意味が分からなかった。理解出来たのは母親のことを思っての説得だということだけだ。母親が、自分が戦いに関わるのを嫌がっているのは、ずっと前から知っていた。そのことを言っているのだろうかと初めは思った。
だが父親はジグルスに「お前はきっとこの決断を後悔する」と告げてきた。「何もしないでいることのほうが後悔する」とジグルスは返した。
「そういうことではない」と父親は言った。「意味が分からない」と返した。「大切な人を守る為に、大切な人を失うつもりか」と言われた。やはり意味が分からなかった。
こんなすれ違うやり取りがしばらく続いた時だ。母親が割って入ってきたのは。母親も後悔について口にした。ただ母親が言ったのは「私は間違った決断をして後悔したくない」だった。「これ以上、ジークの人生を歪めたくない」「それでは何故、ジークを生んだのか分からない」とまで言った。それを聞いた父親は沈痛な表情を浮かべたまま、何も言わなくなった。
母親は何者なのか。この疑問がその時も頭に浮かんだ。今も浮かんでいる。
(……英雄と呼ばれた元王国騎士と正体不明のとてつもなく強いエルフの息子)
ジグルス自身でも分かるのはこれだけだ。こんな両親から生まれて何故、自分には才能がないのか。さすがに無能とまでは思わなくなったが、主人公たちとは違うのだろうかは今も思っている。
実際にはジグルスも薄々感じていることがある。ただそれを受け入れられなくて、思考に上らせるのを無意識のうちに拒絶しているだけだ。
(……勝てるか。勝つしかない)
今もそう。両親のことを考えるのは止めて、戦いに思考を向けた。
(……魔人、それも強い魔人相手でなければいけるはずだ)
それだけの準備はしてきた。実戦経験という点ではジグルス自身、そして遅れてきた兵士たちは足りていないが、父親と、たまに兵士たちの相手もしていた母親の凄みは、それを補うに充分以上であったはずだ。
(とにかく明日だ。それで手応えを感じられるかだな)
明日の戦いに気持ちを向けたところで、ジグルスは剣を振るのを止め、自分に割り当てられた天幕に向かった。そのジグルスの背中を森の中から見つめている目。その気配を感じながら。