リリエンベルク公国の都市シュバルツリーリエ。公国領のほぼ中央にあるリリエンベルク公国の政治、軍事、そして商業の中心となる都市だ。その場所に公主であるリリエンベルク公爵家の本屋敷がある。
リリエンベルク公爵家は四公爵家の中でも、もっとも芸術や文化に造詣が深い家、とされており、その中心都市であるシュバルツリーリエには、公爵家の後援目当てもあって、多くの芸術家が集まっている。
その彼等が創った芸術品が街のあちこちで見られるシュバルツリーリエは芸術の街とも呼ばれ、他の公爵家の街にはない華やかさを備えている。
ただその雰囲気も常の時であればこそ。ローゼンガルテン王国同様、どころかそれに先駆けてリリエンベルク公国は戦時体制に移行している。中心都市であるシュバルツリーリエでも頻繁に軍が移動する姿を見かけるようになり、軍事色が濃くなっていた。
「北東部への部隊の展開はひとまず終えております」
リリエンベルク公爵屋敷の会議室でも軍議の数が増えている。今も公国軍の騎士団長から報告を受けているところだ。
「ひとまず、の意味は?」
普段はローゼンガルテン王国の都にいるリリエンベルク公爵も領地に戻ってきている。
「大森林地帯は広大です。北東の領境全体に部隊を配置しても防衛戦が薄くなるだけ。現地の状況を確かめた上で、再配置が必要と考えております」
「なるほど」
リリエンベルク公爵家もローゼンガルテン王国と同様に、魔人の本拠地は大森林地帯の奥地だと考えている。初期の戦いは北東部の領境を守る戦いになるはずだと。
だが大森林地帯との境界線は長大で、その全てに万遍なく部隊を配置することが難しい。一旦、配置を行った上で守りに適した場所、さらに左右、後方に配置する部隊と上手く連携が取れるような形を考えようとしているのだ。場合によっては砦を新設したり、地形を守りやすいものに変えることなども行いながら。
「……敵がどれだけの数になるかの情報は入っておりますか?」
検討に検討を重ねても、これで絶対に大丈夫という確信は得られない。魔人側の情報が少なすぎるのだ。
「正確な数は分からない。推測では、魔物と呼ばれる存在も含めれば、十万の単位になるものと見積もられている」
「十万の単位ですか……」
味方は全てをかき集めても二万に届かない。ただ数を集めるだけであれば、もっと増やせるがロクに訓練も行わずに戦場に投入しても死傷者の数を増やすだけだ。
「魔物と呼ばれる存在の多くは強くはない。それはリゼの実際の経験から証明されている」
「たしかリーゼロッテ様は三十人ほどで三倍以上の魔物を倒したのでしたか」
「その後では二十人ほどで千体の魔物の包囲を突破した。もちろん、全てと戦ったわけではないが、それほど恐れる敵ではない。あくまでも魔物はな」
リリエンベルク公爵は敵を侮っているわけではない。可能な限り正確に敵の強さを評価しようとしているのだ。魔物はそれほど恐れる存在ではない。これは事実だ。ただその魔物の大群に魔人が加わった時にどうなるのか。この評価が難しい。
「……砦にこもって戦うにしても、果たして最終的に突破出来るのか。それ以前に敵が兵糧攻めを仕掛けてくるようなことがあれば、籠城は厳しいものになります」
「兵糧攻めはあるだろうな。魔人には我々と同じように戦略、戦術を考える頭があり、それを実行に移す能力がある。こう考えておくべきだ」
「……はい」
話をすればするほど悲観的な思いしか湧いてこない。軍を統率する身として、この数ヶ月間、騎士団長は胃が痛くなく毎日を過ごしている。
「情報網の構築のほうはどうだ?」
「飛竜の数を増やすことで情報伝達にかかる期間は短縮出来ました。ただ……本当に飛竜を伝令だけにお使いになるつもりですか?」
飛竜は強力な戦力。だがリリエンベルク公爵はその全てを伝令に回すように指示しているのだ。
「飛竜を戦場に投入することで確実に魔人に勝てるというのであれば、考えは改める」
「……敵に空を飛ぶ魔人がいるというのは、本当に間違いのない情報なのでしょうか?」
人が、魔人といえども人が空を飛ぶことなどあり得るのか。話を聞くだけでは、それが公主であるリリエンベルク公爵の言葉であっても、騎士団長には信じがたい。
「残念ながら事実のようだ。数はそれほど多くないと聞いている。決戦をして勝ち、空を制することが出来れば戦いは少し楽になるか」
一方でその決戦に負ければ制空権は敵方に奪われる。その賭けに出られるかだが。
「……前線に飛竜がいなければ、無条件で空は敵のものになります」
騎士団長は決戦を行うかどうかではなく、それ以前の問題を口にした。
「それはあるな。では空から攻められることの脅威はどれほどのものだ?」
「それは……もう少し分析してみます」
実際に空から攻められることがどれほどの脅威となるのか。手が出ないというのはある。だが敵の攻撃はそれだけの被害を味方に与えることになるかとなると、細かな内容を騎士団長は説明出来なかった。
空を飛べるというだけで重宝される飛竜だが、その戦術はそれほど確立されたものになっていない。石を降らすか、火のついた薪を落として陣地を焼くか、などがあるがそれで敵に壊滅的な打撃を与えられるかとなると、そうは言えない。そう言えるだけの数はリリエンベルク公国には揃っていないのだ。
「頼む。あとは何があったかな?」
「兵士の鍛錬についてですが」
全ては無理でも、せめて基礎体力向上の訓練くらいはリリエンベルク公国軍全体に展開したい。そう考えて特別遊撃隊の鍛錬内容を他の兵士に行わせているのだ。
「ああ。どのような様子だ?」
「正直申し上げて、あれを継続するのはかなり危険だと考えます」
「危険?」
「兵士の不満が高まっております。ただ厳しい鍛錬を課していれば軍が強くなるわけではありません。士気というものも軍を強くするには大切なのです」
厳しい鍛錬に耐えきれず、不満を持つ兵士が多く出ている。騎士団長が危険と判断するくらいの数だ。特別遊撃隊の鍛錬を他部隊に適用することは上手くいかなかった。
ただこれは兵士の質が劣るわけでも、鍛錬を担当する騎士が悪いわけでもない。特別遊撃隊は百人に対して教官が一人、先輩兵士を加えれば十一名もの教官および補佐役がついて鍛錬を行っている。一人一人に目を配れる特別遊撃隊と同じようにいかないのは当然だ。
「そうか……訓練を元に戻すことについては分かった。ただ脱落した者の中から百人を選んで、遊撃隊に送れ」
「まだ遊撃隊の数を増やすのですか?」
「遊撃隊の半分はもともと数に入っていなかった者たちだ。それにさらに落伍者百人を加えるだけのこと」
辛い鍛錬に耐えられず不満を持った兵士たち。その彼等を特別遊撃隊に送り込むとどうなるのか。深く考えてのことではない。ただ興味を引かれただけだ。
「……承知しました」
「さすがにもう時間はそれほど残されていないはずだ。難しい部分は多いと思うが、出来るだけの備えをしておかなければならない。頼むぞ」
「はっ!」
開戦はそう遠くない時期。ずっとそう思ってきたのだが、これまでとは違う予感がリリエンベルク公爵にはある。こちらの戦う準備はかなり整ってきた。それは相手も同じはずなのだ。
戦気は高まっている。たとえその気配は露わになっていなくても、リリエンベルク公爵はそう感じていた。
◆◆◆
特別遊撃隊では魔法士を加えての訓練が始まった。といってもこれまでと大きく変わる点はまだない。まずは魔法士たちの体力を、兵士たちに付いていけるまでに高めること。基礎鍛錬の訓練内容は同じものだ。
リーゼロッテにある程度は鍛えられてきた魔法士たちだが、やはり特別遊撃隊の兵士たちのようにはいかない。訓練が始まって、それほど長い時間を必要とすることなく地面に転がることになった。
「……こ、これは……確かに……き、きついわね」
リーゼロッテもすぐに帰ることなく、残って一緒に訓練を行っている。それなりの鍛錬を続けてきたつもりであったが、やはり兵士たちには付いていけなかった。
「……地面に寝転がったほうが楽ではありませんか?」
「い、いえ……これは……い、意地よ」
「意地、ですか」
何に対する意地なのかジグルスには良く分からない。公爵家令嬢としての誇りか、学院時代から厳しい鍛錬を行ってきたという自負か。どちらにしてもリーゼロッテらしいとは思う。
「……ジ、ジークは、これ以上を、行っているのよね?」
「これ以上……ああ、両親のしごきのことですか。子供の頃からのことなので、それほど大変とは思いません」
ジグルスにとって両親との立ち合いは日常。特別なことを行っているという意識はない。毎朝、顔を洗うのと同じ、は言い過ぎかもしれないが、似たような感覚なのだ。
「お父上は……」
「ああ……陛下の勘違いと言い切ることは出来なくなりました」
「そう」
ジグルスの父親は元王国騎士。これは間違いないとジグルスは思っている。前回の魔人戦に参加した英雄と呼ばれる騎士かどうかは、はっきりしていないが、状況証拠はそうであることを示している。今、王国に追及されたら惚けきる自信はジグルスにはない。
「さて、この先はどうされますか?」
「決まっているわ。魔法の訓練よ。走れなくても魔法は使えるもの」
「そうですね。では……とりあえず的は用意しましたけど?」
魔法士用に準備したことが一つだけある。魔法で狙う的だ。兵士たちが訓練をしている場所から少し離れた位置に、木で作られた的がいくつも立てられている。
「学院の時と同じ。始めるわ」
息が整ったところで魔法の訓練を始めようとするリーゼロッテ。本当はその前に始めるべきなのだが、ジグルスとの話を中断したくなくてそうなってしまったのだ。
的に向かって無造作に魔法を放つリーゼロッテ。そう見えるだけで実際にはかなり緻密な魔法だ。初級魔法である火の玉、ファイア・ボールをただ放つのではなく、魔力を極限まで集約し、ビー玉程度の大きさになった火の玉が的に向かって飛んでいく。
火の玉は見事、的に命中。的を燃え上がらせる、のではなく突き抜けた。
「……あっ!?」
「えっ!?」
いきなり発せられたジグルスの声に驚くリーゼロッテ。何が起こったのかと慌てて駆け出していくジグルスを見ていると、的の先のほうで炎が燃え上がるのが見えた。
急いで的を用意したので、その後ろのほうに生えている草などを処理するのを忘れていたのだ。
「……仕方ないわね」
小さな呟きと共に、リーゼロッテの手の上に現れたのは水の玉。今度は、集約は行われていない。バレーボールよりもさらに大きな水の玉だ。
それをリーゼロッテは軽く放り投げるような仕草で前に放つ。
大きな弧を描いて飛んでいく水の玉。それは燃える草を消そうとしているジグルスの頭上で破裂した。
「冷たいっ!?」
ジグルスの驚く声。
「火は消えたかしら!?」
そのジグルスにリーゼロッテは笑顔を向けて叫んだ。
「……消えました! 消えましたけど、俺まで濡らす必要ありましたか!?」
ジグルスの不満そうな声。それを聞いてリーゼロッテだけでなく兵士、そして地面に転がったままの魔法士たちも笑い声をあげている。
辛い鍛錬の日々であっても、そうだからこそ笑顔になれる時は必要だ。皆が笑える機会がなくてはならない。自然にその機会が生まれないのであれば作らなければならない。それをリーゼロッテは知っている。学院での経験がリーゼロッテにそれを教えていた。
◆◆◆
さすがにリーゼロッテは兵士たちと一緒の部屋で雑魚寝するわけにはいかない。本人は構わないと思っていても、護衛として付いてきた騎士たちがそれを許さない。
結果、宿泊場所となったのはクロニクス男爵の屋敷だ。それ以外の選択肢などない。そうなるとジグルスも実家に戻ることになる。自分のいないところで両親が、特に母親がリーゼロッテに余計な話をしないか心配だからだ。ただジグルスが同席しているからといって、母親が黙るわけではない。
予想通り、夕食の席でジグルスの母親は余計なことを話しまくった。もっぱらジグルスが幼い頃の恥ずかしい話ばかりだ。リーゼロッテはその話を楽しんでいたが、ネタにされたジグルスは恥ずかしいのと、かなり盛られている内容を否定するのに必死だった。
精神的にかなり疲れているジグルス。だが部屋のベッドで横になっていても眠気は襲ってこない。久しぶりに自分の部屋の窓から眺める夜空。それによって浮かんでくる記憶が眠りを妨げていた。
(……転生か。結局、何なのだろうな)
自分が転生者であったと気が付いたのもこの部屋だ。ベッドは大きくなっているが、枕元に置かれていた本を、読めるはずのない本を読めたことがきっかけで、記憶が蘇ったのだ。
その時の高揚感をジグルスは今も忘れていない。それから何年か後に襲ってきた絶望感も。
絶望はおおげさだと今は思う。反則的な能力を与えられていなかったからといって、それで人生が終わるわけではない。特別な能力などなしに生きている人のほうが、世の中の圧倒的多数なのだ。
(……恵まれているよな。元の人生を考えれば、この世界での俺は遙かに恵まれている)
元の世界でも才能なんてなかった。平凡な暮らし、それさえも許されなかった。何事もなすことなく、元の世界での自分の人生は何者かによって、あっさりと幕を閉じた。恨んではいない。苦痛の毎日から解放された。楽になれたと転生を自覚した時に思ったくらいだ。
(もし元の世界で生きていれば、俺は今頃、何をしているのだろう?)
元の世界への感傷はない。これはただの興味だ。死ななくても苦痛の日々からはいずれ解放されたに違いない。その時、自分はどういう生き方を選んだのか。ふと思っただけだ。
(……今、気付いた。俺、同じようなことしているな。馬鹿なのか?)
この世界でも元の世界と同じような行動をとっていたことに、今になって気が付いた。馬鹿だと思う。元の世界ではそれが原因で酷い目にあったのだ。
だがこの世界では、そうではない。
(もしかして彼女と重ねているのか……違うよな……違わないほうが良いのか)
リーゼロッテへの想い。これ以上、募らせても良いことなどない。錯覚であったと分かったほうがきっと気持ちは楽になる。そう思うのだが。
「……あっ、えっ、何?」
物思いに耽っているジグルスを邪魔したのは扉を叩く音。少しイラっとしたが、いつものように、いきなり扉を開けられるよりはマシかと思いながら入り口に向かう。
「何の用……えっ?」
母親が立っていると思っていた扉の先に、リーゼロッテがいた。
「……ご、ごめんなさい。寝ていたかしら?」
「い、いえ、起きてました。えっと……何かありましたか?」
「……話があるの。ここを離れる前にどうしても伝えておきたくて」
「……えっと……中に?」
こういう時間に女性を部屋の中に誘って良いものか。この辺りの礼儀はジグルスには分からない。
「そうね。立ち話では話しづらいわ」
「じゃあ、どうぞ」
リーゼロッテを部屋に迎え入れるジグルス。明かりを点けようとしたのだが。
「このままで良いわ。このほうが話しやすいから」
「……分かりました」
何の話かはまだ分からないが、自分が思っていた以上に難しい内容のようだとジグルスは理解した。
窓に近づき外に視線を向けたまま動かないリーゼロッテ。ジグルスも話を促すような真似はしない。そんな雰囲気ではない。
沈黙の時が流れる――
「……嫁ぎ先が決まったわ」
しばらく経って、ようやくリーゼロッテが口にしたのは結婚の話。それを聞いた瞬間、ジグルスの胸が痛んだ。
「……そうですか」
「ラヴェンデル公爵家……タバートが相手なの」
「…………」
いずれは、卒業してそう遠くない時期にリーゼロッテは結婚する。それは分かっていたことだ。だが相手が自分も良く知るタバートだと聞かされると、なんとも言えない複雑な思いが湧いてくる。
「ジーク」
「はい」
振り返ってジグルスと向き合うリーゼロッテ。窓から差し込む月明かりが影を作っているが、ジグルスにはその表情が見えてしまう。
両の瞳に今にもこぼれ落ちそうな涙を湛えて、真剣な表情で自分を見つめているリーゼロッテの表情が。
「それでも私は貴方が好き」
「リーゼロッテ様……それは……」
自分も好きとは、嬉しいとも言えない。リーゼロッテは別の男性と結婚するのだ。その想いを受け止めるような言葉を発するべきではないとジグルスは思う。
「貴方への想いを口にしてしまう私は公爵家の人間として失格だわ。でもどうしても想いが抑えられないの。自分でもどうにもならないの」
「……今はそうでもそれが永遠に続くわけではありません。そんな時もあったと笑える時が来ます」
本当に笑えるのだろうか。実際にそうなった時、それを知った時、自分も笑えるのだろうか。ジグルスは自分の言葉に空しさを感じている。
「……いつか貴方への想いも思い出に変わるというの?」
「そうであるほうが幸せになれます」
「ジーク、貴方も思い出にしてしまうの? それでも良い。思い出であっても私のことは忘れないで。忘れて欲しくないの……」
我が儘と受け取れなくもない言葉。だがジグルスにはそう聞こえなかった。リーゼロッテは自分の気持ちを素直に言葉にしている。二人の想いとは別のことを考えて、言葉を誤魔化している自分のほうが不誠実だとジグルスは思った。
「……忘れません……忘れられません」
言葉にしてはいけない。そう考えることをジグルスは放棄した。
「ジーク……」
リーゼロッテはさらに大胆だ。言葉だけでなく行動に移した。
ジグルスの胸に飛び込むリーゼロッテ。以前も感じたお互いの熱が二人を狂わせる。ゆっくりと重なる唇。ジグルスの腕がリーゼロッテの腰に回り、強く体を引きつける。
ジグルスの頭を両手で抱え、愛おしそうに抱きしめるリーゼロッテ。耳元で何度も「ジーク」の名を呼んでいる。まるでそれを止めてしまった時が二人の別れであると思っているかのように。
そんな二人を月明かりが照らしていた――