ローゼンガルテン王国が戦時体制に移行して半年以上が過ぎているが、魔人との戦いは始まっていない。それは王国にとって良いことばかりではない。今はもう悪いことのほうが多くなったという状況だ。あくまでも、平和であるという、どれだけ悪いことが増えても決して超えることが出来ない良い点は別にして。
軍を鍛える時間が多く得られる。これは良いことではあるがそれ以外には色々と問題が出てきている。
物資の調達はすでに必要量を集め終えているのだが、それで十分という確信がない以上、調達は続いている。その結果、市場の物不足は解消することなく、国民は物不足で困ることになる。
また多くの人手が徴兵によって失われたことで、国全体の生産性が落ちている。戦時であれば当然のことだが、戦いがいつまでも始まらないことで諦める気持ちは薄れ、不満が国民の中に生まれてきてしまっているのだ。
戦いのない日々が続いていることは本来喜ぶべきことなのだが、長く続く何もない日々は喜びよりも不満を生み出してしまっていた。
「現時点では大きな騒動に発展する気配はありませんが、不満が全国に広がっているのは間違いありません」
「そうか……」
モーリツ宰相の報告を聞いた国王は苦い顔だ。自分たちの苦労も知らないで、という不満が顔に出てしまっている。
「一時的に物資を放出することも考えておりますが、いかがでしょうか?」
「そして魔人が動き出したら、また慌ててかき集めるのか? 無駄だ」
物不足の不満を緩めたとしても、それはわずか、そしてほんの一時のことだ。再度、物資を調達する労力のほうが勿体ないと国王は判断した。
「……承知しました。ただ調達は打ち切ろうと考えております」
「ああ、それはかまわない」
「徴兵した民を繁忙期だけ戻すという案もございますが?」
「……再招集にどれだけの期間を必要とするかは見積もられているのか?」
農作業はこれから繁忙期。その期間、労働力を戻すことについては国王も検討の余地を感じている。ただ、いざ魔人が動き出したという時になって、再招集にどれだけの日数が必要か次第だ。
「まだ算出出来ておりません。ただ各地に招集場所を定めることで期間を縮めることは出来るかと」
一旦、実家に戻った兵士は一番近い収集場所に集まり、そこで部隊を編成する。再招集としては期間短縮を図れるかもしれないが。
「部隊の集結には時間がかかるな」
「はい。しかし今現在も最短で戦場に赴けるわけではありません」
軍の多くがローゼンガルテン王国領のほぼ中心にあたる都周辺に展開している。どこに魔人が現れても部隊を迅速に送れるように、ということだが、中心にいるということはどこに行くにも最短ではないということでもある。
「各地に分散か……騎士団長はどう考える?」
「……均等に分散させるとなれば、賛成は致しかねます」
「北部に集中させろと?」
王国騎士団長は魔人との戦いは北部で起こると考えている。魔人の本拠地は大森林地帯、その先の大山脈だと考えているのだ。
「はい。それ以外の地の初動対応は各公国軍に任せればよろしい。王国騎士団は北部に展開するべきです」
「公国軍か……対応出来るのか?」
「大丈夫です……と言えれば、北部に展開などとは申しません。これまで通り、中央で待機することを進言致します」
リリエンベルク公国軍では魔人の侵攻は止められない。王国騎士団長はそう考えているから、初動から王国騎士団で対応しようとしているのだ。
「そうだとすれば王国騎士団を北部に集めることに他の公国が何と言うか」
王国騎士団長の意見に宰相が懸念を伝えてきた。
「リリエンベルク公国だけを守ろうとしていると文句を言うと? そんな馬鹿なことは考えないだろう?」
王国騎士団長はそうは思わない。北部から魔人が侵攻してくることは、誰もが予想していること。王国騎士団が主戦場となる北部に集中することは当然で、他の公爵家が文句を言ってくるはずはないと。
「そういう馬鹿なことを考えるのが公爵家なのです」
「仮に文句を言ってきたとしても戦術上、必要なことだ。無視すれば良い」
「では仮に他の方面で戦いが起きた場合には、どう言い訳するのですかな?」
「言い訳など……」
言い訳など必要ない。王国騎士団長はこう考えている。言い訳が必要な事態になれば、自分が責任を取らなければならなくなるはずなのだ。
「挙国一致で事に当たらなければならない状況で、不和を生じさせるような選択は取るべきではありません」
「……ではこれまで同様、中央に配置。兵士に暇をとらせることはしない」
ここまで宰相に言われてしまっては、王国騎士団長は強弁出来ない。もともと国政上の地位は宰相のほうが上。国王の支持がなければ意見を通すことなど出来ない。
「そうなりますか……戦争に勝つことが一番の大事。仕方がないでしょう」
国民の不満は戦いが勝利に終われば解消する。優先すべきは速やかな勝利を得る為に必要なことなのだ。
「結局、物資の調達を一時、止める以外はこれまで通りか」
戦いが起こらないで倦んでいるのは国王も同じ。軍議を重ねても、何も変わることがない毎日に飽きてしまっている。
「王国軍は確実に強くなっております。時の経過は我々の味方です」
「……魔人の数は十や二十ではない。それでも確実に勝てると?」
もっといえば百や二百でも収まらない。これは極一部の重臣しか知らされていないことだ。
「魔人の全てが一対一では勝ち目のない強者ではありません。恐れるのは一握りの魔人だけです」
魔人にも、当たり前だが、強弱がある。恐れるべき魔人が百や二百もいるわけではない。王国騎士団長が強気でいられるのはこれを知っているからだ。
「……その一握りに勝てるのであれば良い」
だが国王は王国騎士団長のように楽観視出来ない。前回の戦いでは、その一握りの魔人を一人倒す為に選び抜かれた精鋭部隊は壊滅したのだ。
「幸いにも若い力が育っております。彼等の力は、前回の戦いで頑張った部隊に勝ることはあっても劣ることはありません」
エカードたちのことだ。王国騎士団長がここまでの評価を口にするくらいに彼等は成長している。前回の英雄を否定したいという思いが王国騎士団長にはあるとしても。
「……彼等に期待するか」
「期待出来るから無理をして、王国騎士団に入れたのではありませんか」
宰相もエカードたちを高く評価している。彼等を王国騎士団に入れる為に動いたのは宰相なのだ。
「ふむ……」
国王には、王国騎士団に今いない中で気になっている人物がいた。いきなり学院からいなくなってしまったことで、手を回す機会を得られなかった人物、ジグルスだ。そのジグルスは何をしているのか。ふとそれが気になった。
「戦場になるだろうリリエンベルク公国はどんな様子だ?」
だからといってジグルスは何をしているのかとは聞けない。リリエンベルク公国軍について尋ねてみた。大きな動きがあれば、公国軍に変化があるはずだと考えたのだ。
「戦争準備は早くから始めているようです。ただ、それ以外のことはあまり伝わってきません」
「そうか……」
ジグルスだけでなく彼の父親の動向も国王は気になっている。だが求める情報はまったく得られていなかった。
「軍事以外では少しばかり驚く情報が届いております」
「どのような情報だ?」
「リリエンベルク公の孫娘がラヴェンデル公爵家に嫁ぐようです。もちろん正式に決まったわけではなく、王国に伺いを立ててきたところです」
「……リリエンベルク公爵家とラヴェンデル公爵家の婚姻か」
公爵家の結び付きが強くなることはローゼンガルテン王国の望むところではない。ただ公爵家間での婚姻はこれまでもあった。反対する理由も見つからない。
「何故この時期にという疑問がございます」
これから魔人戦争が始まるという状況で、あえて婚姻関係を結ぶ理由を宰相は勘ぐっている。
「……協力関係を結びたいということではないか?」
対魔人戦において協力して事に当たる。普通に考えれば、理由はこれだ。
「王国を無視してですか?」
「……頼りにならないと思われた理由に心当たりはないと?」
国王にはある。そう思われるリスクを覚悟して事を動かしている。それについては宰相も分かっているはずなのだ。
「王国とキルシュバオム公爵家に特別な約定はございません」
キルシュバオム公爵家のエカードに繋がる学院生たちを、まとめて王国騎士団に入れた。宰相は特別な約定はないと言い切るが、裏取引があるのではないかと疑われてもおかしくはない。
「それをきちんと知らしめる必要があったのではないのか?」
「しかし……何もないことをわざわざ伝えることは、かえって怪しさを感じさせるのではないかと」
宰相の言う通り、「疑われるようなことは何もありません」などと各公爵家に伝えるのもおかしな話だ。それは国王にも分かる。分かるから他の公家への伝達を強く指示することはしなかった。
「それはそうだが……」
だが結果として二公国、もしかすると三公国に不信感を持たれてしまっているのであれば、それは大問題だ。国王に公国と争う意思はない。魔人戦に向けて、信頼関係を強めるべき時だと考えている。
「いざ戦争が始まれば誤解は解けます。王国が各公国領の守りに全力を尽くす姿を見せればそれで良いのです」
中央の王国軍を強化して、四方の公国領を守る。エカードたちを王国騎士団に入れたのはこの為で、キルシュバオム公爵家はそれに協力してくれただけのこと、となっているのだ。
「……軍の迅速な配置には情報収集が欠かせない。何事も起きないからといって気を緩めることなく、魔人の動きを掴むことに全力を傾けるのだ」
宰相の説明に国王は納得しきれていない。中央に王国軍を置いておくことの問題は、ついさっき議論したばかり。最善策ではなく、折衷案なのだ。それを最善に近づける為には、少しでも早く魔人の情報を得て、行動に移すこと。その実現は情報収集の成功にかかっている。
「不覚を取ることのないように情報部を総動員して情報収集にあたらせております」
「頼んだぞ」
◆◆◆
窓一つない城の地下資料室。閲覧することなどまずない用済みの資料を置いておくだけの部屋なので、訪れる人など滅多にいない。
だがその場所に今、人の気配がある。暗い部屋にぼんやりと浮かぶ影は、高くあげられた二本の白い足とそれを抱えている男の体。肌と肌が激しく打ち合う音が部屋に響いている。昼日中、しかも城内で男女が人目を忍んで行為に及んでいるのだ。
恍惚とした表情を見せているのは大きな机の上に横たわっている女性、ではなく男のほう。虚ろな瞳。だらしなく開いた口からは涎まで流れている。
(……ああ、気持ち悪い。さっさと終わらないかな?)
そんな男を冷めた目で見ているのはユリアーナ。彼女にとって、これは望んだ状況ではない。いや自ら望んでこういう状況になっているのだが、それは理由があるからだ。
(こんな爺を相手にしなければならないのも、あの女のせいだわ)
ユリアーナにとって最大の後ろ盾はエカード。そのはずだったのだが、今は自信を持ってエカードを虜にしているとは言えない。自分の言うことを何でも信じてくれるかつてのエカードではなくなったのだ。
そうなった原因は、いつの間にかエカードに急接近していたクラーラだとユリアーナは考えている。間違いではない。ただ原因はそれだけではないのだが、それはユリアーナには分からない。
(どうせなら国王を落としたいけど……二人きりになれる機会はないかしら?)
どうせ爺を相手にするなら、は爺呼ばわりされている宰相が可哀想だ。宰相は国王と同世代で働き盛り。今はユリアーナの誘惑に完全に心を支配されて正気を失っているが、普段は爺呼ばわりされるような見た目ではない。
(……楽しめないな)
今の行為は宰相を利用する為。エカードよりは宰相のほうが遙かに権力を持っており、利用する価値は十分以上にあるのだが、それによって満たされる欲求は別のもの。ユリアーナは全ての欲求を満たされたいのだ。
(最近、皆真面目だから。あそこまで必死にならなくても勝利は決まっているのに)
魔人戦争に向けて、仲間たちは厳しい鍛錬に明け暮れる毎日を過ごしている。ユリアーナの相手をする人はほとんどいない。レオポルドでさえ、まったく何もないとは言えないが、鍛錬を優先しているくらいだ。
だがユリアーナにとっては、それは無駄な努力。魔人戦争の勝者は決まっている。勝利をもたらすのは自分たちと決まっているのだ。
(……こんなことならリーゼロッテも引き込めば良かったかしら? 彼女ならきっと我が儘を言って、今のつまらない雰囲気を壊してくれたわ)
ユリアーナのリーゼロッテに対する評価はゲーム知識のまま。実際のリーゼロッテの言動を見て、考えていない。シナリオが狂っていることにも気付いているようで気付いていない。最後の結末は変わらないと信じ込んでいるのだ。
(同性愛の気はないつもりだけど彼女とはしたかったな。プライドの高い彼女を狂わせて、私の従順な僕にしてやったら……やったら……何だっけ?)
ことごとく自分の邪魔をしてきたジグルスは、さぞ悔しい思いをするだろう。好きな女性が自分の言うがままに従う姿を見せつけたらどんな反応を見せるだろう、なんて思いは、ぼやけたままだ。ユリアーナの中で、ある時期以前のジグルスの印象は薄いままなのだ。
(せめて、あの生意気なクラーラに……あの男にバレると……でも、もういないし……でも……)
クラーラにまた手を出して、それがジグルスにバレたらどうなるか。すでにジグルスは実家に帰っている。心配は無用だと思いながらも、ユリアーナの心から不安は消えない。
ジグルスにはクラーラを襲わせた秘密を握られている、という事実からだけ生まれた不安ではないのだが、それもユリアーナには分からない。
(……彼女に何かあったらエカードが怒るか……くっだらない。結局、男ってああいう女が良いのよね)
原因が分からない不安を、今クラーラに何かあったらエカードが怒るという理由に置き換えて誤魔化すユリアーナ。実際にユリアーナがクラーラと関係を持つようになればエカードは怒るだろう。それでクラーラとの関係が上手く行かなくなってもユリアーナとの距離が縮まるわけではない。今よりも更に遠ざかる可能性のほうが高い。
(……う~ん、やっぱり今のままではつまらないわ。なんとかして関係を再構築しないと)
エカードを含めて周囲の男たちをもう一度、籠絡する。その必要性をユリアーナは強く感じている。これから先、巻き起こる魔人との戦いが決着するまでには、それなりの期間を要する。あちこち転戦する旅から旅の毎日が続くのだ。楽しみは多いほうが良い。
魔人戦争に向けてユリアーナが一番気にしているのはこれだ。彼女にとっては戦争など、勝ちが約束されているどうでも良いもの。大切なのは毎日をいかに楽しく過ごすかだけなのだ。
(つまらない毎日……早く終わらないかな……)