周囲に広がるのはのどかな風景。わずかな畑地とそれの何倍もある牧草地の中を、都市部とは異なり整備が行き届いていない荒れた道が遠くまで伸びている。遠くに見えるのはローゼンガルテン王国の北東に広がる大森林地帯、それに繋がる大山脈だ。すでに大山脈は雪で白く染まっている。人を寄せ付けないその場所も、こうして遠くから見ている分には美しい風景の一部となる。
だが視線を間近に戻すと、のどかな風景は一変する。
死屍累々の有様、といっても実際に死体が積み重なっているわけではない。百人ほどの人が動けなくなって地面に転がっているのだ。
さらにその悲惨な状況をそのままにして、立ち合いを行っている人たちがいる。
「何だ、今の動きは!? 都に行って鈍ったな!」
がっしりとした体つきの、いかにも軍人という体格の男。ジグルスの父であるクロニクス男爵だ。そのクロニクス男爵の相手をしているのはジグルス。
もの凄い勢いで振られる剣を、懸命に避けている。
「動きが大きい! そんな雑な動きで避けきれると思っているのか!?」
小さい頃から数え切れないほど繰り返されてきた鍛錬。父親であるクロニクス男爵の攻撃を、ひたすら避け続けるという鍛錬だ。
「もっと速く! もっと小さく! バランスを崩すな!」
ただ避けているだけではクロニクス男爵は満足しない。ギリギリのところで躱すことを要求してくる。
「どこから攻撃されても躱せる体勢を維持しろ!」
わずかな動きで攻撃を躱し、すぐに次の攻撃に備える。タバートやユリアーナが立ち合いでジグルスを捉えきれなかったのは、この鍛錬があってのことだ。
「はい、もっと小さく! もっと速くね!」
さらにジグルスの母親が無造作に矢を放ってくる。その動きは速い。父親の攻撃を超える速さで、次々と矢がジグルスに襲い掛かった。
それをギリギリで躱すジグルス。実際には方向さえ間違えなければ躱せるギリギリのところを母親のほうが狙っているのだが、それは周りで見ている人たちには分からない。
「……相変わらず、えげつないな」
地面に横になりながら立ち合いの様子を眺めている兵士たち。もう見慣れた光景ではあるが、それでも毎回、ぞっとしてしまう。
「鈍っているのではなくて、疲れているだけだろ?」
ジグルスは兵士たちと同じ鍛錬をこなし、その上で立ち合いを行っているのだ。兵士たちが動けなくなるほどの鍛錬を行ったあとでは動きが鈍くなるのは当たり前だと兵士たちは思う。
「僕たちも頑張れば、あれくらいになれるのかな?」
「いや、それは……」
無理だ、とは口にしない。最初の頃はそう即答していたのだが、長く訓練を続けていて、兵士たちはそれを口に出来なくなっていた。ジグルスの前でそれを言ってはいけないと思うようになったのだ。
「……終わったみたいだな。さあ、休憩は終わりだ」
ジグルスが立ち合いを終えて、歩いてくる。兵士たちの休憩時間は終わりだ。次々と立ち上がっていく兵士たち。ジグルスが目の前に来た時には整列まで終えていた。
「お待たせしました」
待ってはいない。休めるものなら、もっと休みたい。ただこの本音も口にして良いことではない。
「では行きましょう。三回目ですから自分のペースで」
始まるのは走り込み。すでに二度、行われている。疲労が蓄積してからの走り込み、というのもあるが、精神的にもこの三回目が一番辛い。
ジグルスは自分のペースで、と言うがそれはそれぞれの限界までという意味だ。その点ではこれまでの鍛錬ですでに限界に来ているのだが、この三回目が辛いのは、簡単に言うと、どこまで意地を張れるかなのだ。
もう限界とあっさりと終わらせることも出来る。その誘惑に負けずに、本当の限界まで頑張るにはかなりの精神力を必要とする。強制されないことの厳しさを味わうことになるのだ。
ただ唯一の救いがある。それはジグルスだ。兵士たちよりも多くの鍛錬をこなしているジグルス。そのジグルスは本当に限界だろうというところまで走り続ける。その姿を見て、自分も頑張ろうという気持ちが芽生えるのだ。その気持ちが兵士たちの支えになる。
さらにそれだけではない。
「大丈夫ですか? もう少しだけ、あとちょっとだけ頑張ってみましょう」
辛そうになっている兵士にジグルスはこうして声を掛けている。これは兵士たちにとっては、いつの頃からか行うようになった行動だ。最初はほぼ完全な放置状態。自分の精神力だけが頼りだったのだ。
そうなったのはジグルスが方針を変えたから。集められた兵士はジグルスが考えていた以上に質が悪かった。ほとんどが公国軍の落ちこぼれ、その公国軍に正式採用されないような兵士未満までいた。
そういった人たちに根性論では通じない。通じる人も中にはいるが、落ちこぼれたちの集まりからさらに落ちこぼれが出てしまう。
ジグルスはそれではまともな部隊にならないと考えた。部隊行動は、もっとも劣る兵士を基準に考える。そのもっとも劣る兵士の能力が最低限の水準にも満たないとなれば戦える部隊にならない。
ではどうするかとなると、落ちこぼれを出さないようにするしかない。ジグルスは一人一人の能力を把握し、鍛錬の時の様子にも気を配り、今のようにフォローするようにしたのだ。
「……ほんと、どこでああいうのを覚えたのかしら?」
今のジグルスの様子は母親にとっても驚きだ。リリエンベルク公爵の申し入れを受け入れたが、ジグルスに教官など務まらないと考えていた。失敗が見えているから受け入れた部分もあるのだ。
「学院に決まっているだろ? ジークから話を聞いたではないか。学院にいた時から、ジークはああして人を引っ張っていた」
「……それは知っているけど、それでもね」
「リリエンベルク公爵家のご令嬢の信頼を得たのが大きかったのだろうが、それだけではない。それだけでは本当の意味で従わない。貴族とはそういうものだ」
爵位としては最下位の男爵家であるジグルスに従う。同じ男爵家の生徒であっても抵抗を覚えるはずだ。まして上位となれば、本気で従うはずがない。だがジグルスの話を聞く限り、そうではなかったようにクロニクス男爵には思える。ジグルスを実質的な指揮官として認めていたと思えるのだ。
「では何故?」
「ひとつは結果を残したのだろうな。ジークの言うことであれば間違いないと思ってもらえるだけの結果を」
実際はクロニクス男爵が考えているのとは少し違う。リーゼロッテの為であれば、エカードに対してでさえ立ち向かうジグルスの気持ちに心を打たれ、信頼を向けたのが大きい。もちろん、その後に自分の考えは間違いではなかったと思わせる結果を残してもいるが。
「他には?」
「……才能だな」
「才能……」
そんな才能を母親は求めていない。そんな才能などないほうが良い。
「君と私の息子だ。驚くほどの才能を持っているのは当然だな」
「……そうね。それは仕方がないわね。それで……その才能を受け継がせた父親は手伝ってあげないのかしら?」
ジークが及ばない分は父親であるクロニクス男爵が補う。それはリリエンベルク公爵への最低限の礼儀だと考えていた。だが、最初の頃こそ口出ししていたクロニクス男爵だが、今はまったく兵士たちを指導しようとしない。
「……正直、ジークのように上手くやれる自信がない」
「はあ? 貴方それ、本気で言っているの?」
兵士の指導においてクロニクス男爵は息子のジグルスに及ばない。そんなはずはないと母親は思う。
「一応、言い訳をさせてもらうとだな、私が指導していたのは一定の水準に達している騎士たちなのだ。見習い騎士であっても選ばれた者たち。彼等とは違う」
つまり、クロニクス男爵は王国騎士団に所属していた。そういうことだ。
「……でもその酷い兵士たちをジークは鍛え上げようとしている。つまり、成功すると思っているのね?」
「そこまでは言わない。だが私にはジークのようなやり方は思い付かない」
「やり方……ああ、飴と鞭ね」
厳しいだけでなく優しさを見せる。たまにごちそうを用意したり、料理そのものは領地の人々にお任せだが、休養日を作って川に遊びにいったりということをジグルスは行っている。
「それだけではない。そういった方法は一般的なものだ。ジグルスのやり方は、もっと一人一人に対してきめ細かい」
「……分かった。あの定期試験ね」
定期試験。毎週末、休養日の午前中に行われる体力テストのことだ。そこで一人一人の体力を測定する。優劣をつける為ではない。自分の成長を実感させ、鍛錬への意欲を高める為だ。伸び悩みを実感させ、鍛錬への向き合い方を見直すきっかけになる時もある。
これもまた落ちこぼれを出さない為にジグルスが考えたこと。他者との比較ではなく、自分自身と競わせようと考えたのだ。
「公国軍でもお手上げの兵士を、もし一人前に鍛え上げることが出来たとしたら……リリエンベルク公爵が何故、ジークに期待したかようやく分かった」
クロニクス男爵はまだリリエンベルク公爵の期待が分かっていない。公爵の期待は凡人以下を一般人にすることではない。凡人以下を精鋭にするという奇跡を期待しているのだ。
「……困ったものね」
ジグルスの持つ才能を押し隠そうとしてきた。だが、少し自由にさせるとすぐに表に現れてしまう。抑えきれないほどの何かがあるのだと思ってしまう。
「ただじっと見ているだけも辛いものがある。心が騒いでしまうな」
「貴方は生粋の戦士だから」
その生粋の戦士も本来の性質を隠して暮らしている。それを申し訳なく思う。
「剣の鍛錬でも始まればな。私の出番も増えるのだが……まだまだ先なのか」
「ジークに言って、やってもらえば良いじゃない」
「いや、頼んでもやらないだろう。ジークの計画ではまだそれを行う時ではない」
クロニクス男爵はジグルスが作った訓練計画を見ている。何故、そういった訓練を必要とするのかが書かれている資料も。
「……兵士が剣を学ぶのを先延ばしする意味あるの?」
「剣だけが武器ではない」
「どういうこと?」
「ジグルスは騎士を育てようとしているのではない。部隊を育てようとしている。剣士としての強さではなく、集団戦で力を発揮する兵士を育てようとしているのだ」
資料を読んでジグルスが目指しているものをクロニクス男爵は理解している。そしてそれは正しいと考えた。特に凡人にも劣る兵士を戦わせようと思うなら。
「……でも剣は必要じゃない?」
「どういう剣が必要かを理解した上で学ばせたいのだ。剣だけではないな。槍も弓も」
「……ジークって意外と欲張りなのね?」
「剣が適している時は剣で、弓が適している時は弓で戦いたいだけだ。それに一流の剣士、一流の弓士を必要としていない」
飛び抜けた能力を身につける必要はない。普通に扱えるレベルの兵士を集団にすることで、普通ではない部隊にしようとしている。大切なのは剣や弓の技量ではなく、部隊の動きを理解すること。
「……さっきから聞いているとこういうこと? ジークには戦術を考える頭があって、その戦術を実現出来る部隊を育てる統率力があり、恐らくはその部隊の能力を最大限に引き出す指揮能力がある」
「……困ったな。私たちの息子は戦争の天才かもしれない」
「親馬鹿。であることを願っているわ」
馬鹿親の贔屓目であることを母親は願う。そんな才能は息子には必要ないのだ。
「……何か来た」
「えっ」
「……旗はリリエンベルク公爵家ね」
遠くから近づいてくる黒い影に目をこらす。母親の目には馬車が、その馬車の上に翻っている旗がはっきりと見えるのだ。
「もう増員か?」
「どうかしら? 増員にしては、馬車は一台だけよ」
「それは少ないな」
大型の馬車であっても、しかも屋根を取り払った荷台だけであっても二十名がいいところ。だが父親の目にも見えるようになった馬車には屋根がある。そうなるとさらに半分。十人以下だ。
まっすぐに近づいてくる馬車。旗があるからといって本物とは限らない。だが馬車一台であればそれほど警戒する必要はない。十名が二十名でもクロニクス男爵夫妻は不覚をとるつもりはない。
――やがて馬車はすぐ近くまで来て、停止した。扉を開けて降りてくる人たち。それぞれ大きな荷物を抱えている。
「……あれ?」
その人たちにジグルスは見覚えがあった。
「……ジグルス? ジグルス・クロニクスだな」
相手はジグルスを知っている。不安そうに尋ねてきたのは、記憶があやふやなのだ。目の前に立っているのがジグルスだとは分かっている。だがその容姿の記憶はぼんやりとしている。
「フェリクスさん、それにブルーノさん、イザーク、えっ、もしかして皆?」
やってきたのは学院時代を共に過ごした生徒たち。リリエンベルク公爵家の従属貴族家で、リーゼロッテの側に最初に戻った七人の生徒たち、今は元生徒たちだ。
「ああ、全員……合宿に参加した者たちは全員いる」
リリエンベルク公爵家の従属貴族家の生徒は他にもいる。一度は離れ、臨時合宿が終わったあとにリーゼロッテの側に戻ってきた生徒たちが。そういった生徒たちは、ここに来ていない。
「……どうしてここに?」
「リーゼロッテ様に命じられてきた」
「卒業前なのに?」
リーゼロッテに従うのは学院にいる間だけ。もちろん、公爵家令嬢として敬うことは続けなければならないが、卒業後は命令をきかなければならない立場ではない。そんな彼等が、学院を中退してまで、ここに来る理由がジグルスには分からない。
「学院で学ぶのはリリエンベルク公爵家に仕えるのに必要だからだ。ここでさらに自分たちを鍛え上げ、リリエンベルク公国軍を支えられるようになる。これはリーゼロッテ様のご命令ではあるが、俺たちの望みでもある」
魔人戦争が起こるのが分かっているのであれば、その戦争で役立つ自分になるべき。その為に必要なのは残り数ヶ月、学院で学び続けることではなく、すぐに戦闘訓練に入ること。彼等はそう考えている。
「……分かりました。でも……鍛錬は学院の時よりも辛くなりますよ?」
「……えっ?」
ある程度は覚悟していたつもりだったが、はっきりと言葉にされるとやはり不安に感じてしまう。
「先にいる人たちよりは体力はあると思います。サボっていなければですけど」
「鍛錬を怠ったつもりはない」
「ではかなり前からのスタートですね。その分、他の人よりも辛いということです」
「……ああ、そうだった。学院の時と同じだな」
これで十分という基準がない鍛錬だった。今よりは少しでも上に。それを目指し、一回一回の鍛錬にも妥協を許さないものだった。フェリクスはそれを思い出した。
「でも助かります。百人を一人で見るのはやっぱり大変で。どうしても自分の鍛錬が疎かになってしまいます」
「「「えっ?」」」
驚きの声をあげたのは少し離れた場所で話を聞いていた兵士たち。自分たちが見ていたジグルスの鍛錬が疎かになっているというのなら、本気の鍛錬はどのようなものなのか。皆、そんな風に思っている。
「今よりももっと充実したものになりそうです。楽しみですね?」
「お前はな」という言葉は声に出さない。いや、本当は声に出してジグルスに聞かせたいのだが、衝撃が大きすぎて声にならなかったのだ。
これから先しばらくは「頑張れば自分も教官のようになれるかな」という言葉を発する兵士はいなかった。目標はあまりに遠くにあり過ぎると、追いかける気力を失うものだ。
幸いなのは兵士たちにもう少し手前の目標が出来たこと。遅れてきた教官補佐の若者たちは、兵士たちが追いかけるには丁度良い実力だったのだ。