校舎の中を貴族の使用人たちが慌ただしく動き回っている。今日行われる舞踏会の準備の為だ。女子生徒たちは特に晴れの舞台を前にして、準備に余念がない。使用人たちが忙しくしているのはその為だ。
学院開催の舞踏会は、貴族としての嗜みを身に付ける為の授業の一環との位置づけではあるが、内容が内容だけに、実態はお祭りごとであり、学院における最大のイベントとなっている。
そしてそれはゲームでも同じ。主人公が攻略を進める中での大きな転機となるイベントの一つだ――
珍しく校内を一人で、それも物陰に隠れるようにして立っているアーノルド王太子は、そんな事は分かっていない。ただの学院のお祭りイベントとして、今日の舞踏会を考えている。そんなアーノルド王太子ではあるが、このイベントを一つの転機にしたいという思いは持っていた。
その為に目的の人物を探しているのだが、中々姿を見つけることが出来ずに困っていた。女子生徒たちは着替えや化粧の為に、この日の為に用意された更衣室に籠りっきりなのだ。アーノルド王太子もそれは分かっているので、普段であれば顔も見たくない従者を探しているのだが、その姿も見つからなかった。
これはアーノルド王太子らしくもない考え違いだ。着替えや化粧の準備となれば、それは当然、侍女の役目。従者が手伝うはずがない。目的の従者はここではなく、本来の主の手伝いの為に男子生徒用の更衣室に居る。そしてアーノルド王太子は侍女の顔を知らない。これでは舞踏会が始まる前に探し出すのは、ほぼ不可能だ。
ただ時間ばかりが過ぎ、どうやら無理のようだとアーノルド王太子が諦めた時、その声は聞こえてきた。
「今頃、あの女、どんな顔をしているかしら?」
「きっと真っ青になっているのではなくて? それとも泣いているかしら?」
「あれが、こんなことで泣く様な女かしら? 今までだって、何をしても泣くどころか、ニヤニヤしていたじゃない?」
「そうね。本当に人を馬鹿にしているわ。自分には助けてくれる素敵な男子が沢山居るの、貴女とは違うのってね」
「……そんなこと言われたかしら?」
「そう言われている気がするのよ」
「そうね。確かに、見下されているような気分にはなるわ」
「でしょう?」
なんとも物騒というか、表では見ることが出来ない女性の怖さを知らしめる会話を聞いて、アーノルド王太子は茫然としてしまっている。
だがすぐに女子生徒たちの会話の意味を理解した。彼女たちは誰かに、相手が泣きたくなるほどの酷いことをしたという内容だ。
それが誰なのか。その答えもすぐに分かった。
「……アーノルド様?」
ふいに背中から掛けられた声に、アーノルド王太子はびくりと肩を震わした。女子生徒の更衣室の近くで物陰に隠れているなど、どんな誤解を受けるか分からない。
と思うなら、しなければ良い、もしくは逆に堂々と訪ねれば良かったのだが、それは今更だ。
「あの……マリアです」
マリアだから見つかっても良い、ということではないのだが、まったく話したこともないような女子生徒に見つかるよりはマシだ。
アーノルド王太子は少しホッとして声が聞こえた方向に視線を向けた。
「……何をしている?」
アーノルド王太子の目に映ったマリアは、小さな窓から体を乗り出しているところ。肩も腕もむき出しで、パッと見、何も着ていないように見えた。
「あっ、ドレスに着替えようとしていたのですけど、そのドレスが……」
急にマリアの顔が憂いを帯びたものに変わる。これだけで、アーノルド王太子は事情を察した。先ほどの女子生徒たちの会話の相手はマリアだったのだ。
「駄目にされたのか?」
「……はい」
「そうか……」
アーノルド王太子もマリアが虐められていると話には聞いていた。ランスロットが盛んに伝えてきていたのだ。だがアーノルド王太子は、マリアへの虐めの黒幕がエアリエルだと聞かされた時点で、事実ではないと、まともに受け取っていなかった。
だが少なくともマリアへの虐めは本当に存在していたことが分かった。アーノルド王太子にとっては、正直知りたくなかった事実だ。
「あの……」
気持ちが落ちこんで、下を向いてしまっているアーノルド王太子にマリアが恐る恐るといった様子で声を掛けてくる。
「……何だ?」
「それはもしかして私の為に?」
「えっ?」
「手に持った箱の中はドレスですね?」
「あ、ああ。そうだが……」
アーノルド王太子が脇に抱えていた大きな箱。その中身は確かにドレスだった。何故、マリアにそれが分かったのか。
そういうイベントだからだ。ゲームでは新しいドレスを買えないマリアを気遣って、舞踏会で恥をかかないように用意されたドレスとなっている。マリアとアーノルド王太子の仲が大いに進展するきっかけとなるイベントだ。
「嬉しい。アーノルド様が私の為にドレスなんて……」
ゲームの内容を知っているマリアは、ドレスが自分の物だと決めつけている。
「あっ、いや、これは」
「表に回って下さい。二番目の扉ですから」
こう告げて、マリアはさっさと体を引っ込めてしまった。思わぬ事態にしばらく呆然としていたアーノルド王太子だったが。
「このドレスは……はあ……仕方がないか……」
こんな呟きを残しながら、マリアが待つ更衣室に向かった。
◆◆◆
舞踏会の開始の時間はとっくに過ぎている。肝心の主役が現れないのだ。
王国の王太子とその婚約者が揃っている。この二人でファーストダンスを、と思うのは、運営する側としては当然だ。
だが、開始の時間になっても一向にアーノルド王太子は現れない。しかもパートナーであるエアリエルはとっくに会場に姿を現しているというのに。エアリエルへの悪意がなくても、参加者の心には波乱の予感が広がっていった。
――そして、その予感が現実となる。
会場に現れたアーノルド王太子の横には、どう見ても揃ってしつらえたと思えるドレスを着たマリアの姿があった。
黒地に、所々を赤で彩った王族としての正装姿のアーノルド王太子と、白一色のドレスを纏ったマリアが並ぶ姿はまるで絵画から抜け出てきたよう。誰もが息を呑むほどの美しさだ。それはそうだろう。乙女ゲームの主人公と、その攻略相手なのだ。不似合いであるはずがない。
そんな二人の登場を受けて、自然と会場に演奏が流れ始める。マリアに軽く腕を引かれて、恥らいながらもアーノルド王太子は中央に進み出ていった。実際は戸惑っているのだが、周りから見ていると恥らっているようにしか見えないのだ。
演奏にのって、ゆっくりとアーノルド王太子とマリアによるファーストダンスが始まった。その見事さに、自然と会場のあちこちからため息が漏れだす。会場のある一角を除いては。
エアリエルの居る一角は、ため息どころか、周囲にいる全員が息を詰めていた。ファーストダンスを奪われたエアリエルへの同情、それを行ったマリアへの怒り。思いは様々だが、周囲の生徒たちの中にエアリエルに声を掛けられる者は誰もいなかった。
こんな状況でエアリエルに声を掛けられる者は二人しかいない。その内の一人は舞踏会の場に参列できる身分ではないので、残った一人がそれを行うことになる。
「……久しぶりに踊ろうか?」
「えっ?」
ヴィンセントの第一声は、見事にエアリエルの不意を突いたようだ。
「いや、エアルとは随分と長い間、踊っていないと思って」
「そうね……でも、お兄様……大丈夫ですの?」
「それは……」
地道な努力で、様々なことを克服してきたヴィンセントだったが、努力ではどうにもならない程、才能がないものがある。
それがダンスだ。あまりの下手さ加減に、エアリエルのダンス練習の相手は、ずっとリオンが務めることになったくらいだ。
「良いわ。お兄様にとっては、良い実践練習になるわね」
「そうか。では、愛する妹よ。僕と踊って頂けますか?」
「ええ。喜んで」
気取った様子でエアリエルの手を取って、中央に進み出ていくヴィンセント。残念ながら、兄として恰好良いところを見せられたのはここまでだった。
相手がエアリエルでなければ、転んでしまったかもしれない程、ステップはバラバラ。相手をリードするどころか、エアリエルに一つ一つの動きを注意されている始末。
あまりの情けなさに、堪らず周囲からもクスクスと笑い声が漏れ出す。会場の緊張は一気に解けることとなった。
終いには、ダンスの途中であるのにエアリエルが怒りだし、這う這うの体で引っ込むことになってしまった。
ウィンヒール侯家にとって屈辱の時間、と周囲は捉えるのだが、本人たちはというと。
「もう、お兄様のせいで、大笑いしてしまうところだったわ」
「別に良いではないか? 楽しければ笑えば良い」
他の人とは違う意味で、思う存分にダンスを楽しんでいた。
「淑女は人前で口を開けて笑うことなどしないわ。この場は、学院のイベントとはいえ社交の場よ?」
「そうだな。こんな堅苦しい場では思う様に楽しむことは出来ないか」
「そうね……」
いつの間にか二人は社交の場を堅苦しいと思ってしまうようになっていた。建前だけの交流では得られない、楽しさを知ってしまったからだ。
「では堅苦しくない場所に行くか?」
「えっ?」
「この場に参加出来ない者たちは、別の場所で勝手に盛り上がっているそうだ。僕も誘われているから、一緒に来るか?」
「でも……」
「王太子殿下のパートナーはあの女に任せておけば良い。どうせ、結婚すれば嫌でも相手をしなければならなくなる」
「お兄様、それはちょっと問題発言だわ」
「そうか? そうだとしても俺は……楽しければ良い」
「お兄様ったら」
おどけてみせているのは自分の為。内心ではヴィンセントがかなり怒っていることにエアリエルは気付いている。
婚約者を放置して別の女性の相手をする。これはエアリエルを辱める行為以外のなにものでもない。大切な妹に向けられた悪意をヴィンセントが許せるはずがない。
それでも相手が王太子であるから何も言わないでいるだけだ。そして、何も言えない分、怒りは中々収まらない。
収める方法は一つ。気の置けない仲間と楽しい時間を過ごして、気を晴らすしかない。舞踏会の開始早々に、二人の姿は会場から消えることになった。
◆◆◆
エアリエルとヴィンセントが会場から姿を消した後も、当たり前だが、舞踏会は続いている。成り行きでマリアと踊ることになってしまったアーノルド王太子は、途中から、ようやく自分が仕出かしてしまった失態に気が付いて、大いに焦っていた。
ヴィンセントに手を引かれて、ホールに出てきたエアリエルを見る周囲の目に気が付いたのだ。同情、嘲笑などなど、とにかくどれも、王太子の婚約者に向けられて良い視線ではない。
最後にはエアリエルが怒って、途中でダンスを止めて引き上げてしまった。それが益々周囲の視線を嫌なものに変えていた。
これらは全て自分のせいなのだ。
すぐにエアリエルの所に向かうべきなのは分かっていても、ダンスはすぐには終わらない。ようやく終わったと思っても、どこからともなく湧きあがったアンコールの声に、更にもう一曲踊る羽目になってしまった。周囲の期待に応えようとする身に沁みついた習慣、ただの優柔不断、とにかく、二曲目については言い訳のしようもない完全な自業自得だ。
そのアンコールも終わって、ようやくエアリエルの所へ向えるかと思ったが、肝心のエアリエルの姿が見つからない。どこに居るのかと探しているうちに、今度はシャルロットに捕まって、踊ることになった。捕まっては少し酷い。エアリエルを避けていた時は、アーノルド王太子のパートナー役は、ずっとシャルロットが務めていたのだから。
そんな経緯もあって、断ることも出来ずにシャルロットと踊り、さらにエアリエルのことは後回しになる。
これもゲーム設定の強制力なのかもしれない。このイベントはマリアとアーノルド王太子の関係を、ついに周囲も認めるきっかけとなるイベント。一方でライバルキャラであるエアリエルは、マリアに嫌がらせをしたつもりが逆に自分が恥をかくことになるという、典型的な設定だ。
ただゲームと異なるのは、アーノルド王太子の気持ちはエアリエルにあり、未だにマリアには向いていないということ。世界はこのズレの矯正に動くことになる。
◇◇◇
舞踏会の会場を離れて、アーノルド王太子は、学院の裏庭に向かって歩いていた。
なんとか周囲を振り切って、エアリエルの居場所に心当たりがありそうな者に聞いてみれば、ヴィンセントと共にどこかに行ったと言われた。
具体的な場所は分からないが、二人の会話の様子から、舞踏会とは別に何かイベントが行われているのだと分かり、これも又、今度は運営者に尋ねてみれば、毎年身分の低い者たちが非公式で宴を開いていると聞かされた。
ウィンヒール侯家の二人と平民の生徒たちの関係を考えれば、これはもう間違いない。二人はそちらに向かったのだと分かった。
教えてもらった宴会が行なわれているはずの場所に向かって歩いていると、確かに賑やかな音楽が聞こえてきた。平民たちの宴の会場はもうすぐ。アーノルド王太子の足は自然に速まった。
そして見えてきたのは、焚火の炎に照らされて浮かび上がった、エアリエルとリオンが楽しそうに踊っている姿だった。
(又だ! どうしていつもあの男ばかり!?)
エアリエルを怒らせてしまったという焦りが、自分がこんなに焦っているのに、どうして楽しそうに踊って居られるのだ、という怒りに変わる。
理不尽な怒り、とは言い切れない。アーノルド王太子のエアリエルへの想いは真剣なものだ。どうして自分の想いが届かないのか嘆くことは決して間違っているわけではない。
ただ、問題はその責任の全てを相手だけに押し付けようとしていることだった。
アーノルド王太子は、腰に差してあった剣を抜いて、人々の輪の中に進み出て行った。その様子はすぐに生徒たちの認識することとなる。楽しげだった人々の歓談の声は止み、何が起こるのかという恐れが言葉にならない声を生む。
アーノルド王太子はそんな生徒たちなど目に入っていない様子で、ただ真っ直ぐにリオンを睨みつけている。リオンもとっくにアーノルド王太子に気付いている。そして、アーノルド王太子が何をしようとしているかも。
それに対して、リオンが出来る対処は何もない。何かしてはいけない。リオンはそっと覚悟を決めた。
振り上げられた剣。その剣が真っ直ぐにリオンの頭上に振り下ろされる。引き起こされる惨劇を想像した誰かの口から悲鳴があがった。
その悲鳴の後に続いたのは、アーノルド王太子のうめき声だった。
「……貴様等」
振り下ろされた剣は、横から差し出された棒によって止められている。ヴィンセントがとっさに差し出した棒切れだ。剣といっても、所詮は儀礼用の剣であったことが幸いした。
そして、もう一人、アーノルド王子の剣を遮る者が居た。
両手を広げて、リオンを庇う形でアーノルド王太子の前に立ち塞がったエアリエルだ。
「そこを退け、エアリエル!」
「退きません!」
「俺の命令が聞けないのか!?」
「……聞けません!」
「お前は俺の婚約者だ! どうして、そんな男を庇う!」
「それとこれは別ですわ! アーノルド王太子殿下こそ、どうしてリオンに剣を向けるのですか!?」
「それは……!」
嫉妬からだと、アーノルド王太子は口に出来なかった。もし、恥を忍んでこれを口に出来たら、先の未来は変わったかもしれない。
いや、それはなかっただろう。この世界がそれを許すはずがない。
「ヴィンセント」
アーノルド王太子が口にしたのは、ヴィンセントの名だった。エアリエルと向き合うことから逃げたのだ。
「……はい」
「その従者を斬れ」
「それは……出来ません」
「俺が命令している」
「そうであったとしても、理由もなく使用人を斬ることは出来ません」
「理由は王族への不敬だ。充分に斬り捨ての理由になる」
「しかし、リオンが何を……」
「ウィンヒール侯家は王家に刃向うのか!?」
「そ、それは……」
さすがにこれは理不尽というものだ。実家の名を出され、王家への反抗とまで言われるとヴィンセントは何も言えなくなってしまう。
だが、この場には他にも口がある。それがヴィンセントにとっての不幸。
「何が不敬だ。リオンが不敬ならお前は不粋って罪だ」
「誰だ!? 今言ったのは!?」
怒鳴り声をあげたのはヴィンセントだ。これは、これ以上、何も言うなという周囲へのメッセージ。それが分かった生徒たちは、ヴィンセントたちから目を逸らして、知らない顔をしている。
だが、それでアーノルド王太子が済むはずがない。今の言葉は疑いようもなく、王族である自分への嘲りの言葉、本当の意味で不敬罪に問われるべき出来事だ。そしてアーノルド王太子は、周囲からこのような仕打ちを受けたことがなかった。
「今言った者をすぐに差し出せ」
「……誰か分かりません」
「そんなはずがあるか!?」
「お願い致します。ここは、王太子殿下の度量をお示しください」
「何故、俺がそのようなものを見せねばならん!?」
「そこを何とか……」
そのままヴィンセントは地面に跪くと、地につくまで深々と頭を下げた。ヴィンセントだけではない。続いてエアリエルも、もちろん、リオンも同じ姿勢になっている。
「この様なことで王太子殿下のお怒りが収まるとは思えませんが、それでもどうか、お許しくださいませ」
これに驚いたのはアーノルド王太子ではなく、周りで成り行きを見守っていた生徒たちだ。親しく付き合っているといっても、ヴィンセントはこの国の貴族の頂点である三侯家の人間だ。自分達の中の誰かを庇う為に土下座までするなんてことは、目の前で見ても何が起きているのか信じられなかった。
さらにそこに自分達の憧れの的、気高きエアリエルまで加わったとなると。感動とともに、エアリエルにこの様な真似をさせたアーノルド王太子への怒りが、ふつふつと湧いてきてしまう。
ヴィンセントたちの行動は明らかに逆効果となった。
「……許す」
それでもアーノルド王太子が、こう口にしたのは、周囲の様子が、あまりにも不穏なものに変わったことを感じ取ったからだ。
「ありがとうございます」
ヴィンセントが礼を告げて頭を上げた時には、アーノルド王太子は背中を向けて、去っていくところだった。
これで一件落着、で済むはずがない。自分の意に反して許すことを強いられた。そんな思いはアーノルド王太子にとって屈辱でしかない。そして、そんな屈辱を自分に味合わせたヴィンセントたちを恨むことになる。
この日、マリアはようやく待望の言葉をアーノルド王太子から聞けることになる。エアリエルとの婚約解消、この言葉だ。
それだけではない。ウィンヒール侯家の二人は王家に不穏な気持ちを抱いているとまでアーノルド王太子は言い放ってしまった。それを聞いたランスロット、そして、もう一人のウィンヒール侯家であるエルウィンがどれほど喜んだことか。
――学院最後のイベントへ向けて、世界は段取りを着々と進めていく。