会場にいるほぼ全ての生徒たちが踊りに参加している。その様子を壇上から眺めているエカードは満足そうだ。これがエカードの望んでいた形。学院行事のお祭りは貴族の生徒たちと平民の生徒たちとの間にあった垣根を取り払い、全員が楽しめるものになっている。
その予感は、ダンスの前に行われたミス・ミスター王立学院の発表会の時点で感じていた。今年のミスター王立学院はエカード。ジグルスの存在がなければ前回二位の自分が繰り上がるのは当然かもしれないが、それだけではない手応えをエカードは感じた。壇上に昇って挨拶をしている自分に向けられている視線の多くは温かいもの。公爵家だからということではなく、この日の為に尽力してきたことを労われているように感じられたのだ。
二位は同じく、主に平民の生徒たちに今回の趣旨を説明に回っていたウッドストック。一部の貴族の女子生徒との話もウッドストックは担当している。三位はタバート。彼も周囲に不満を感じている生徒がいれば、その説得に動いていた。
一方でミス王立学院はクラーラ。今回の企画を考えたのは彼女であり、積極的に行動もしていた。さらに二位にリーゼロッテが選ばれ、三位にはカロリーネ王女。
壇上にいる全員が学院行事の企画内容の変更に賛同し、その実現、というより成功の為に行動してきた生徒たちだ。彼等が壇上にいるのは、彼等の活動に対する生徒たちの感謝の表れ。エカードはそう感じており、実際にそうであって欲しいと願っている。
「さあ、そろそろ私たちも行きませんか?」
エカードに自分たちも踊りに参加しようとクラーラが提案してくる。今の状況にはクラーラも満足しているが、お祭りをさらに盛り上げようと思えば、いつまでも壇上に置いておいて良い面子ではないのだ。
「そうだな。行こうか。ではミス・クラーラ。お手を」
クラーラに向かって手を差し出すエカード。その行動にクラーラは少し驚いた様子だったが、これも場を盛り上げる為と考えて、求めに応じて手を差し出した。
クラーラをエスコートして壇上を降りるエカード。いよいよミス・ミスターが踊りに参加してくるのだと分かって、生徒たちから歓声があがった。
エカードとクラーラにならって、リーゼロッテとウッドストック、ウッドストックはかなり緊張した様子で、どちらがエスコートされているのか分からない感じだが、の二人も踊りの輪に加わる。さらにカロリーネ王女とタバートも。
一通り踊るとパートナーが代わることになる。エカードと踊ることになった女子生徒の喜びの声。それが続いていく。
「貴方もこういう踊りは出来るのね?」
「えっ?」
「まさか、私のことを忘れたの?」
ウッドストックのパートナーとなった女子生徒。かつてリーゼロッテが主催した食事会で知り合った女子生徒だ。
「い、いえ、覚えています。ただ質問の意味が……」
「踊りと貴方が結びつかなくて」
「ああ……小さい頃から踊っていた踊りですから」
「私は小さい頃から社交ダンスを習っていたわ」
「そうですか……」
「今度、貴方にも教えてあげましょうか?」
「えっ?」
またウッドストックは女子生徒の言葉に驚くことになった。
「この踊りが踊れるなら社交ダンスも平気よ。貴方が思っているより、ずっと簡単なのよ」
「ああ……」
どう答えれば良いのか。せっかくの誘いを断るのは申し訳ないと思う。だからといって社交ダンスを踊っている自分が想像出来ない。
ウッドストックにとってはかなり困った状況なのだが、この踊りの良いところは相手が代わるところ。返答に困っている間に、次の人に移ることになった。
返答を得られなかった女子生徒のほうは不満顔だ。だが女子生徒にとってこの踊りの良いところは、また順番が回ってくるということ。その時に返事を求めれば良いと考えて、踊りを楽しむことにした。
「あっ……」
「えっ?」
相手がクラーラと知って、気まずそうな反応を見せたのはレオポルド。クラーラのほうはレオポルドが踊りに参加していることに驚いた。
「……参加してくださったのですね?」
相手がレオポルドだからといって無言のまま、時を過ごすわけにもいかない。レオポルドだからこそ、きちんと話そうともクラーラは考えている。
「ここで不参加を選んでは……あれだからね」
周囲との溝は深まるばかり。気まずい思いをするのを覚悟で、レオポルドは踊りに参加したのだ。
「喜ぶ女子は多かったでしょう?」
「いや、そうは感じなかったけど……」
「それは照れているのですよ。レオポルド様に憧れている女子生徒は大勢いますから」
「それは……いや、それはないよ」
クラーラの言っていることが本当であれば、自分は壇上に昇っていたはずだ。彼女の言葉は嘘だとレオポルドは考えた。
「私たちが選ばれたのはお疲れ様の意味です。本来のミス・ミスターではありません」
レオポルドの思いを読み取って、クラーラは今回のミス・ミスターの選抜は人気投票ではないと説明した。
「……そうされるだけのことを君たちは行ったからね」
クラーラの言葉は嘘であっても自分を気遣ってのこと。否定するのは申し訳ないと考えて、レオポルドは受け入れることにした。
「このほうが楽しいからです。そう思いませんか?」
「……そうだね。いがみ合っているよりは楽しいと思うよ」
「レオポルド様からその言葉を頂けたことで、私は報われた気がします」
「君は……いや、それは言い過ぎだ」
クラーラは人たらしだとレオポルドは思った。こういう魅力が自分たちには必要だとも。それと同時に、エカードが彼女を近づける理由が分かった気がした。
「では、また」
「ああ、また」
素直にこの踊りは良いとレオポルドは思えた。普段ではあれば話しづらい相手ともこうして話すことが出来る。短い時間で、また順番が回ってきて欲しいと思えるようになれる。
もちろん、この状況を受け入れる気持ちがあってこそ。それを持てた自分は幸運だったとレオポルドは思えた。
「ジークはおらんのか?」
「えっ? 王女殿下は知らないのですか?」
カロリーネ王女の問いにアルウィンは驚きを見せている。
「妾は何を知らないのだ?」
「ジグルスは今日で学院を去ります。丁度、今頃に出発する予定です」
「なんだと!?」
思わず大声をあげてしまったカロリーネ王女。その声に周囲の生徒が驚いているが、それを気にしている場合ではない。
「あいつ、王女殿下に伝えていなかったのか……」
「何故? 何故、ジークは卒業前に学院を去るのだ?」
「……これ話して良いのかな? すみません、判断出来ないので、事情があって実家に帰るということしか言えません」
リリエンベルク公爵の命令で部隊の教官になる。これをカロリーネ王女に伝えて良いのかアルウィンには分からない。ジグルス本人が話していない以上は、自分も話すべきではないと考えた。
「そんな……リーゼロッテは? リーゼロッテも知らないのであろう?」
「それは……そうだと思います」
「知らせなくて良いのか?」
「……記憶がないのですから。知らないままのほうが良いのではないですか?」
ジグルスとの別れを知らないままにリーゼロッテも学院を卒業する。それがジグルスが望んでいたこと。話す必要はない、話すべきではないとアルウィンは考えている。
「リーゼロッテはジークのことが好きなのだ」
だがカロリーネ王女は違う考えを持っている。
「それは知っています。でもそれは以前の話で」
「違う。ジークがジークであると知らないままに、リーゼロッテは再び、好きになったのだ。忘れたはずなのに、また同じ相手を好きになったのだ」
「そんな馬鹿な……」
そんなことがあり得るのかとアルウィンは思う。もしそれがあるとすれば、それは運命だと思う。
「知らせるべきだ。知らせなければならない。リーゼロッテ! リーゼロッテ、どこにいる!?」
大声でリーゼロッテを呼ぶカロリーネ王女。その声に驚いて周囲の人たちの動きが止まった。だがそれに対しても、気にしている余裕はカロリーネ王女にはない。
とにかくリーゼロッテを見つけ、ジグルスが学院を去ることを伝えなければならないとだけ考えている。
そのカロリーネ王女に呼ばれたリーゼロッテは、すぐに踊りの輪の中から姿を現した。
「王女殿下? どうなさいました?」
「……ジークがいなくなる」
「えっ……?」
「ジークは今日、学院を去る! 早く追いかけるのだ!」
「……そ、そんな……どうして……?」
いきなりジグルスが学院を去ると告げられて、リーゼロッテは混乱している。
「考えていないで早く追いかけろ! もう二度と会えなくなるかもしれんのだ!」
ジグルスが領地に戻って何をするのかカロリーネ王女は知らない。だが、学院を卒業してしまえば、二人が会う機会はまずないはずだ。少なくともジグルスにリーゼロッテと会うつもりはない。
カロリーネ王女の二度と会えないという言葉に、リーゼロッテの感情が反応した。忘れたままの振りをするはずだったが、それを感情が許さなかった。覚悟を決める時を許されず、別れの日を迎えたことが大きかった。
駆け出すリーゼロッテ。ただジグルスにもう一度会いたい。その想いだけでリーゼロッテは動きだした。
◆◆◆
ジグルスは今、まさに学院を出ようとしていた。それほど大きくもないカバンをひとつ抱えて、校門に向かうジグルス。その耳には聞き覚えのある音楽が届いている。今頃、生徒たちは踊りに興じている頃。自分がいないことなど気にすることなく。
あえてこの日を選んだのは未練だとジグルスは思う。行事などない普通の日に学院を去っても、それに気付く人などいない。それが自分は寂しいのだと。だから行事の日を選び、皆が気付かない理由を作ろうとしたのだと。
こんなはずではなかった。人々の記憶に残らないことなど、リーゼロッテを除いて、何とも思っていなかったはずだった。それなのに、いざ学院を去る今になって、思い出が消えてしまったことが悲しくなった。
校門に続く道。振り返って目に映る校舎。学院生活の思い出がジグルスの頭に浮かんでくる。だがその思い出の中の多くの人たちは、それを思い出すことはない。思い出を共有出来る人はいないのだ。
モブキャラである自分は、ただの生徒としても名も無き存在で終わる。空しさが胸に広がった。
「……駄目だ。一人で湿っぽくなっても、さらに辛くなるだけだな」
別れの悲しみを共有する人はいない。一人で寂しさに心を沈ませていても、それを慰める人はいない、はずだった。
「……ジーク」
「……リーゼロッテ様」
一番会いたくて、一番会いたくなかった人がそこにいた。
「どうして? どうして、行ってしまうの?」
「……実家に戻る必要がありまして」
詳しい事情をリーゼロッテに話すわけにはいかない。話せばリーゼロッテは疑問に思うはずだ。まだ学生であるジグルスに、教官をやらせるなど普通ではない。
「卒業を待たないで?」
「……待てない事情が出来ました」
「その事情を、私は聞けないのかしら?」
「……家庭の事情です」
「…………」
母親の指示なのか。リーゼロッテはその可能性を考えた。そうであるなら、リーゼロッテは何も言えなくなってしまう。ただ涙を流すしか出来なくなってしまう。
「……えっと……お世話になりました。ありがとうございます」
涙を流すリーゼロッテに、ジグルスも掛ける言葉が見つからない。まさか、以前のように抱きしめるわけにもいかない。
「……御礼を言うのは私。私はジークに何も返していない。返したいのに、私は求めることしか出来ない」
「リーゼロッテ、様……?」
何故、その言葉がリーゼロッテの口から出るのか。それをジグルスは疑問に思う。
「……貴方が好きなの」
「…………」
リーゼロッテの口から飛び出したのは、まさかの言葉。それでいて心の奥底で期待していた言葉だった。
「好きになってはいけないと分かっていても、この気持ちを抑えられなかったわ。口に出してはいけないと分かっているのに、今この時、気持ちが抑えられないの」
「どうして……?」
何故、自分への想いを口にするのか。何故、その想いを覚えているのか。理由は分からない。理由など分からなくても良い。それを知った自分の胸の中が温かくなるのをジグルスは感じている。
「思い出せて良かったわ。おかげで自分の想いを信じることが出来た。ジークへの想いは何によっても妨げられるものではなかった。それが私は嬉しい」
「……嬉しいと言ってくださるのですね?」
「もちろんよ。貴方への想いを後悔するような真似はしない。今の自分があるのはジークに出会えたから。好きになれたからだと自信を持って言える生き方をするわ」
「……俺もリーゼロッテ様に出会えて良かった。今も思っていますが、この先も思い続けられるような生き方をしようと思います」
リーゼロッテに出会えたことで生きる意味を得られた。自分が何者かなど関係なく、やるべきことをやろうと考えることが出来るようになった。この想いを忘れることなく、この先も生き、死んでいこうとジグルスは思った。
「ジーク……」
「ジークフリート・クロニクスです」
「えっ?」
「俺の本当の名前。真の名を貴女に預けます」
ジグルスは通称で、ジークは愛称。エルフが真の名を明かすことはない。ごく限られた、自分の命さえ捧げても良いと思える相手だけに自らの口で伝えるものなのだ。
「名前を私に……」
「……押し売りのようで申し訳ないのですが、エルフにとって真の名は特別なものです。だからそれに見合うものをリーゼロッテ様からも頂きたいと思います」
「ジークが望むものなら……わ、私は……」
何と聞く前にジグルスが求めているものがリーゼロッテは分かってしまった。縮まる二人の距離。それはジグルスがリーゼロッテの背中に回した腕に力を込めることで、さらに近くなる。
頬に添えられた手。その手の微妙な動きに応えて、リーゼロッテの顔がわずかに上を向く。ジグルスの瞳が目の前に迫っている。その瞳に見つめられたリーゼロッテは、ジグルスの母親に魔法をかけられた時のように、思考が麻痺していくのを感じた。
もちろんそれは魔法のせいではない。触れ合う唇。ジグルスのそれは思いの外、激しくリーゼロッテを求めてきた。恥ずかしさに耳まで真っ赤に染めているリーゼロッテ。だが反応はそれだけ。嫌がる素振りを見せることはなく、ジグルスに身を任せている。
リーゼロッテにとっても、来ることなど決してないと思いながらも、心の奥底で求めていた瞬間なのだ――
「……あやつら、完全に己を忘れているな」
その二人とは少し離れた場所で、少し違った気持ちから顔を真っ赤に染めているのはカロリーネ王女。
公爵家令嬢と男爵家の息子が白昼堂々、校舎の前で抱き合い、キスをしている。ちょっとしたスキャンダルだ。そんなことは分かっているはずの二人なのに。
「……これが最後と思うと我慢出来なかったのではないですか?」
二人の気持ちを想像しているのはアルウィン。自分たちも見送ろうとリーゼロッテの後を追ってきたのだが、この状況では出て行くことが出来ない。
「妾もそれなりに寂しいのだがな。ここは邪魔するわけにはいかんか」
「あれを邪魔出来たら、それはそれで感心しますけど」
この二人の会話もまた周囲を驚かせるものだ。王女と平民の会話にはとても思えない。
「ふむ、たまには王女の権限というものを使ってみるか。この件を口外することは許さない。もし妾の命令を破るものがいれば、王家の命に逆らうことがどれほどの罪か思い知ることになるだろう」
この場にいるのは二人だけではない。二人とは異なり、記憶は途絶えたままだが、その状態でも新たにジグルスを認識したエカードとクラーラ。そして何故か巻き込まれたウッドストックもいる。
この三人に脅しは必要ない。カロリーネ王女も本気で脅しているわけではない。目の前の出来事を広めるような三人ではないのだ。ただこの光景を忘れることは出来ないだろう。学院生活の思い出として心に刻まれることになるのだ。