授業中は以前と同じように自身の存在感を消し去っているジグルス。だが実技の時間である今は、さらに強く意識して気配を消している。立ち合いなどに参加させられことなく、授業の見学していたいからだ。
怠けたいからではない。授業はサボっているが、見学しているジグルスの目は真剣だ。ユリアーナ、そしてその仲間となった生徒たちの様子をじっと見つめている。
彼等の授業への取り組みは、以前よりも真剣味が増している。ジグルスの認識は薄れているが、臨時合宿で起きた出来事まで思い出せなくなったわけではない。魔人が現れ、それに対して何も出来なかった詳しさはしっかりと覚えているのだ。
厳しい訓練を行ってきた彼等は、さすがに数ヶ月では見違えるほど強くなったとまでは言えないが、それでも着実に成長している。肝心のユリアーナを除いて。
ジグルスにユリアーナの実力を見極める力はない。だが他の生徒たちに比べて、真剣味が乏しいのは分かる。ユリアーナと剣でまともにやり合えるのはエカードくらい。そうであるのに、明らかに自分より弱い相手としかユリアーナは立ち合おうとしないのだ。しかもその中からさらに見た目の良い生徒を選んでいるのも、ずっと様子を見ていれば分かる。
これで本当に魔人を倒せるのか。多くの犠牲者が出るだろうことは別にして、主人公であるユリアーナは仲間たちと共に全ての魔人を打ち倒し、戦争を終わらせてくれる。本当にこのストーリー通りの結末を迎えられるのか、ジグルスは不安になる。
何かが狂っている。自分の存在が影響している可能性は高いが、それが全てではないとジグルスは思うようになっている。主人公であるユリアーナもまたイベントを歪めていると思うのだ。
最初の合宿がそうだ。ユリアーナは間違いなく、ゲームを知っている。彼女の行動は明確にそれを示している。そうであれば最初の合宿で魔物と戦うのは自分たちだと分かっていたはず。だが結果はそうはなっていない。
直近の臨時合宿もジグルスは疑っている。カロリーネ王女やワルター副団長に情報を提供する代わりに、ジグルスも二人から無理のない範囲で情報を得ている。臨時合宿のコースはエカードの強い申し入れで決められたことを知ったのだ。それはストーリーに沿ったことなのか。主人公であるユリアーナが、まったく魔人と接することなくイベントが終わることが、ゲームストーリーなのか。それではイベントにはならないとジグルスは思う。
ユリアーナがイベントを歪めていることに対して、確信があるわけではないが、別の行動も疑いを強めている。
集まっているユリアーナの仲間。ゲームではここまでの人数にはならない。タバートとカロリーネ王女を除く全員、主要とはいえない登場キャラまで揃っている状況なのだ。
ゲームの制約に従う必要はないとジグルスも思うが、それを実現することによってユリアーナは怠けようとしているのではないかと思ってしまう。数を集めることで、自分が辛い鍛錬を行う必要がないようにしているのではないかと疑ってしまうのだ。
もし、自分の考えが正しければ。ジグルスの思考は昨日の出来事に飛ぶ。リリエンベルク公爵との二度目の対話だ。ジグルスはリリエンベルク公爵に呼び出されて、話をした――
「……おっしゃっている意味が良く分かりません」
リリエンベルク公爵の話をジグルスは、すぐに理解出来なかった。
「教官となって部隊を鍛えろと言ったのだ」
聞き間違いではなかった。それはそうだ。受け入れたくないので、話を理解することを無意識に拒否しただけのことなのだから。
「……部隊というのはどこの部隊でしょうか?」
「新設する。集められる兵たちを一から鍛えることになる」
「……何故、私がそれを行うのですか?」
何故まだ学生である自分が教官なんてものをやらなくてはならないのか。ジグルスには理由が分からない。
「お前にはそれが出来ると思ったからだ。そして我々は少しでも多くの戦力を必要としている」
「教官が私である必要はないと思います。いえ、私であってはいけません。公国軍にそれを行うに相応しい人がいるはずです」
「お前が考えた鍛錬方法で鍛え、お前が考えた戦術を教えるのだ。お前以上の適任者がどこにいる?」
「はい?」
ジグルスはまた自分の耳を疑うことになった。
「リゼの資料を見た。皆で考えたことになっているが、ほとんどはお前が考えたものだな? 惚けるなよ? お前の戦術を知る騎士には確認済みだ」
「……母上」
思わず呟いた言葉。何故、リリエンベルク公爵家の人々の記憶も断ち切ってくれなかったのかという思いが口に出させた言葉だ。
「我々の記憶を奪うわけにはいかないのだ」
「……それも知っているのですね?」
リリエンベルク公爵はジグルスの母が行ったことを知っていた。思っていた以上に、両親とリリエンベルク公爵の関係は深いのかとジグルスは考えた。
「事情を知らないと、リゼとの接し方を誤るかもしれない。他にも色々と事情があってのことだ」
「そうですか。しかし、その母が教官なんて許すでしょうか?」
母親はジグルスが戦争に関わることを嫌がっている。教官なんて許すはずがないとジグルスは思う。これは断るのには良い口実だ。
「あくまでも教官としてであって、将になれと言っているのではない……いや、この説明には無理があるな。お前の両親は難色を示すだろう。ただこれについては了承してもらう。きちんと説明して納得してもらうつもりだ」
「……話を戻しますが、私よりももっと適任者がいるはずです」
母親の反対は断るのに最高の理由だと思っていた。だが、リリエンベルク公爵は諦めようとしない。これで本当に母を説得出来れば、ジグルスは教官をやることになってしまう。それは困ると思って、また自分の適性に話を戻すことにした。
「先ほど言った通りだ。お前が考えたことをお前が教える。これ以上の適任はない」
「……その考えたことが間違っている可能性が高いです」
「だから新設部隊なのだ。兵の質は正直悪い。お前の指導が上手くいって戦力になれば幸運だ、くらいのものだ」
さらにリリエンベルク公爵はハードルを低くする.失敗しても元々と言われては、適性について論じることは出来なくなってしまう。
「……部隊の新設となれば、費用がかかります。無駄金になる可能性が高いです」
それでもジグルスは諦めない。今度はお金の話を始めた。
「ただ鍛えるだけであれば、それほどの経費にはならない。戦力になると分かった時点で、装備などを揃えれば良いのだ」
「……時間が」
「開戦に間に合う必要はない。理由は説明するまでもないな」
初めから戦力として考えていない部隊だ。開戦時に参戦出来なくても影響はない。
「……えっとですね」
それでもまだ足掻こうとするジグルス。
「どんな理由を並べても私が考えを変えることはない。私には公国を、領民を守る責任があるのだ。その為に出来ることの全てを行うつもりだ」
「……そのお気持ちは分かりますが、私の力では守り切れません」
「だから言った。私は出来ることの全てを行うと。この話はその中の一つに過ぎない」
ジグルスだけに頼るつもりなどリリエンベルク公爵にはない。それで大丈夫などと事態を楽観出来るのであれば、ジグルスにこのような話をする必要がそもそもないのだ。
「……戦争はどこまでの規模になると思いますか?」
「答えが必要か? 兵士を強くすることで戦力を高めようと考えたお前は、想像出来ているはずだ」
「そうですか……」
戦争はかなりの広範囲に及ぶことになる。ジグルスが考えた通り、精鋭部隊に頼る戦いでは、それ以外の戦いで大きな被害が出てしまう。
「もっと言えば王国も頼れない。王国は有望な戦力を独り占めしようとしている」
「えっ? 王国ですか?」
有望な戦力がユリアーナたちを指すのであれば、独占しようとしているのはキルシュバオム公爵家であるはず。だがリリエンベルク公爵は王国だと言った。
「……変わった反応だな? 何を知っている?」
「……有望な戦力が学院の生徒たちを指すのであれば、独占しようとしているのはキルシュバオム公爵家だと思いました」
「そうか……表向きはそう見えるだろうな。だが実際は違うと考えている。いくつかの情報がそう示しているのだ」
「……キルシュバオム公爵家が納得しますか?」
エカードの下に集まった形の生徒たち。それをローゼンガルテン王国に奪われることを許すとは思えない。
「キルシュバオム公爵家が納得した上でのことだ。確たる証拠は得られていないが、恐らくは何らかの密約がある」
「王国とキルシュバオム公爵家が……」
それを言われるとジグルスにも心当たりがある。エカードたちだけに許した王国騎士団施設での訓練。しかも王国の騎士が教官になっていたのだ。特別扱いされる何かがローゼンガルテン王国とキルシュバオム公国の間にはある。
「下手をすれば他の公国は自国だけで戦うことになるかもしれん。そういった最悪の状況を考えて、対策を考える必要があるのだ」
「……そこまで……いや、可能性はゼロではないか」
魔人との戦争を利用して他の三公国の力を弱める。そんな危険な策謀を実行するか、という思いはあるが、完全には否定出来ない。そうであれば公爵として最悪の事態に備えるのは当然だとジグルスも思う。
「次の戦いでは何が起こるか分からない。出来ることの全てを行ったつもりでも、きっと十分とは言えないのだ」
「……考えさせてください。もちろん両親が認めれば、私は断れません。でも、少し考えたいのです」
多くの期待はされていない。それは分かっているが、それでも引き受けるとなるとそれなりの覚悟がいる。兵士や領民の死に対する責任の一部を自分も背負うことなるとジグルスは考えているのだ。
「今ここで返事をもらおうとは最初から考えていない。お前の両親を説得出来なければここで了承を得ても意味はないからな。ただ、先に伝えておくことで引き受けた後について考える時間が増える。そう考えたのだ」
「はい。それも含めて考えます」
何も為せないと分かっていて、引き受けるのは無責任。どこまでのことが出来るかについては、リリエンベルク公爵に言われなくても考えるつもりだった。
「……お前にも謝罪しておこう。私はお前の両親の想いを知っていた。戦いに巻き込むことはしないと約束していたのだ。それなのに、こうしてお前を間接的とはいえ、戦争に関わらせようとしている。申し訳ない」
「……謝罪は無用です。元々、公国の貴族家の一員として、私には参戦する義務があります。それを免除されることは特別扱い。謝罪は、私が他の従属貴族家の人たちに対して行うべきものです」
「ふむ……」
本人には貴族家の一員としての責任感がある。ただこれは分かっていたことだ。そういった考えがまったくないのであれば、鍛錬方法や戦術を、時間を費やして考えるはずがないのだ。
「……王国についてですが……関係を悪化するようなことがないことを願います。最悪の想定を自ら現実にする必要はありません」
「……忠告はありがたいが約束は出来ない。私が守るべきは公国の民。その為であれば、この身を滅ぼすことなど恐れはしない。ただ……万が一そうなった場合は、頼む」
「……はい」
何を頼まれたのか。公国の人々かそれとも……いずれにしても、ここは了承する以外の選択肢はない。リリエンベルク公爵の想いを拒絶するような反応は、ジグルスには出来なかった――
「リーゼロッテさん。久しぶりにお手合わせをお願い出来るかしら?」
ジグルスの思考は、この声で引き戻された。
「……貴女と立ち合いをする理由は私にはないわ」
ユリアーナからの申し出をリーゼロッテは拒絶する。立ち合いを行って、リーゼロッテに良いことなどない。それが分かっているのだ。
「『井の中の蛙、大海を知らず』って言葉を知っているかしら? 身内の中だけで一番になって喜んでいても、先々苦労するだけよ?」
「一番だなんて思っていませんわ。当然、喜んでもいない」
「……逃げるの?」
「逃げるのではなく、貴女との立ち合いに意味を見出せないだけだわ」
「リーゼロッテさん、その言い訳は恥ずかしいわ。リリエンベルク公爵家令嬢である貴女が、負けて恥をかくのが嫌だからって、逃げるのはどうかしら?」
わざわざ周囲に聞こえるように声を大きくしてユリアーナはこれを言う。リーゼロッテを挑発して、自分との立ち合いを引き受けさせようとしているのだ。
「リーゼロッテ様。私にご命令を」
「フェリクス……」
その挑発に乗ったのはリーゼロッテではなくフェリクス。
「いえ、私にこそお命じください」
「いえ、私に」
フェリクス以外の従属貴族家の生徒も次々と我にこそと申し出てくる。リーゼロッテに恥をかかせようとするユリアーナが許せないのだ。
「まあ、その健気さは褒めてあげるけど、貴方たちでは……私にとって何の鍛錬にもならないわ。時間の無駄」
「「「なんだと!?」」」
さらなるユリアーナの挑発に激高する生徒たち。だがユリアーナの言葉は事実だ。彼等ではまったく太刀打ち出来ない。
「お止めなさい。貴方たちが無駄な時間を使う必要はないわ」
仕方なくリーゼロッテは、ユリアーナが挑発していると分かっていながらも、立ち合いを受けることにした。仲間の生徒たちに恥をかかせたくない。恥だけで済めば良い。大怪我をさせられるような事態もないとは言えないのだ。
「じゃあ……痛っ!」
リーゼロッテがようやく引き受ける気になったと分かって喜んだユリアーナだったが、不意に襲った痛みに声をあげることになった。授業用の剣を頭に受けたのだ。
「……お前、いつまで待たせるつもりだ。さっきから俺はずっと待っていたのに」
ユリアーナの頭を剣で叩いたのはジグルスだった。
「……はあ? 貴方を待たせた覚えはないわ」
「リーゼロッテ様に立ち合いを申し込んだだろ? 主の手を煩わせるわけにはいかない。俺が相手をしてやる」
「貴方相手じゃあ、何の鍛錬にもならないわ」
「そうか? 俺は魔人と戦ったことがある。お前が持たない経験を俺は持っているけどな」
「貴方……大怪我をした……」
魔人と戦ったことがあると教えられて、ようやくユリアーナは相手が何者か分かった。といってもリリエンベルク公爵家の従属貴族家の生徒だということくらいだ。
「お前、口ばっかりだな。本当に強いのか?」
「何ですって!?」
今度はユリアーナが挑発に乗ることになった。
「本当に強いならわずかな時間で終わるはずだ。無駄とも言えないくらいの短時間でな」
「……良いわ。口ばかりがどちらか思い知らせてあげるわ」
結局、こういうやり取りではジグルスのほうが上手。ユリアーナはジグルスと立ち合いを行うことになった。挑発が効きすぎていて、気合い十分なユリアーナ。
ジグルスとしては厳しい状況だが、今回はこれで良い。勝ち負けは関係なく、ユリアーナの本気をジグルスは見てみたいのだ。
「……行くわよ」
「いつでもどうぞ」
ジグルスが言い切るとほぼ同時に、ユリアーナが鋭い踏み込みで一気に距離を詰め、剣を振るってきた。本気で秒で終わらせるつもり、だったのだ。
「えっ……」
だが手応えはない。ジグルスはユリアーナの間合いの外にいた。
「井の中の蛙って誰のこと?」
「…………」
さらにジグルスに挑発されて、ユリアーナは顔を真っ赤に染めている。その屈辱がさらに彼女を本気にした。
無言で動くユリアーナ。ジグルスとの間合いを十分に測って、剣を振るう。その剣をジグルスはまた避けて見せた。だがユリアーナに動揺はない。剣を素早く切り返すと、ジグルスの腹部に向かって剣を薙ぐ。
さらにそれを避けられたところで、ユリアーナは一度、大きく間合いを取った。
「……逃げてばかりでは勝てないわよ?」
「それを言う前に、逃がさないようにすればどうだ?」
「……そうね」
一足跳びで間合いを詰めたユリアーナ。そのまま剣を振ることなく、間合いを広げたジグルスを、踏み込んだ足で地を蹴って追いかける。
体が触れ合うほどの距離に近づいたところで剣を振るユリアーナ。この近距離で避けられるはずはない、と考えたのだが。
「えっ……」
確かに剣を受けたはずのジグルスの体は、そこにはなかった。
大きくその場にしゃがみ込むユリアーナ。その頭上をジグルスが振るった剣が通り過ぎる。床を転がるようにして、ジグルスとの距離をとったユリアーナ。
「……少しはやるわね?」
「いや。剣についての自信はまったくない。お前が弱いだけじゃないか?」
「…………」
この世界にきて弱いなどと言われたことは初めて。挑発の言葉だと頭では分かっているが、感情をユリアーナは抑えきれない。どす黒い感情が心に広がっていく。
声にならないユリアーナの呟き。それが途絶えると同時に、ジグルスに向かって小さな竜巻が襲い掛かる。小さなとはいっても人の体を切り刻むには十分な威力を持つ、魔法の竜巻だ。だが。
「……そんな」
「何を驚いている? 今は授業中。魔法判定の魔道具を身につけているのは当たり前だろ?」
魔法を使った立ち合いにおいて勝敗判定に使う魔道具。といっても主な目的は魔法で怪我をしないように直撃を防ぐ為の魔道具だ。ユリアーナがもっと強力な魔法を使えば、その魔道具では防げないだろうが、それを行えば怪我を負わせようとしていたことが周囲に知られてしまう。
「……でも俺の負けか。立ち合いは終わりだ」
「ち、ちょっと待ちなさいよ」
立ち合いの終了を宣言して、その場を立ち去ろうとするジグルスを呼び止めるユリアーナ。このまま去らせては恥をかいて終わり。そう考えて、特に何をするという考えはないが、ジグルスを引き留めようとしているのだ。
「待つ必要はない。俺の用は終わった」
「何それ?」
「……お前には頼れない。それが良く分かった」
ユリアーナは強い。だがそれはジグルス自身と比べてのこと。臨時合宿でジグルスが戦った魔人と比べると、あくまでも魔法抜きでの戦いでの評価ではあるが、飛び抜けて強いとは感じなかった。
以前、ワルター副団長が言っていた通り、ユリアーナの実力は現時点では英雄となれるレベルではないのだとジグルスは判断した。そして、この先はどうかと考えれば。ユリアーナの鍛錬に対する態度がジグルスに期待することを許さない。
リリエンベルク公爵の命令を受け入れる。この時点でジグルスは決断した。リリエンベルク公爵と同じように、たとえ自分自身が出来ることはわずかであっても、努力を怠ってはならないと考えたのだ。
そうと決まれば考えることは山ほどある。これ以上、ユリアーナの相手などしていられない。ジグルスはまだ授業中にもかかわらず、訓練場を去って行った。
「……助けられた……また、貴方は私を助けてくれた。そう考えて良いわよね? ジーク」
その背中に向かって呟かれた声。その声はジグルスには届かない。