リオンの行動を観察している者がいれば、その精力的な活動に驚愕するだろう。そう思える程、リオンは色々なところに手を伸ばして、様々な工作を行っている。一従者が、それも自家の力も借りずに、やれるようなことではない。
それを可能としているのは、ただリオンが勤勉であるというだけ。今やれること、やらなければならないと思ったことは、それがどんなに些細な物事であっても手を抜かずに行ってきた。小さなことからコツコツと、正にこんな感じだ。
その積み重ねがここに来て、ようやく実を結んできた。
ヴィンセントの評判は、最初の目標とはかなりずれてしまったが、それでも以前に比べれば格段に良くなってきている。三侯家の嫡子という立場にありながら、気さくで、誰とでも分け隔てなく接する好人物。もちろん、これは食堂で多くの平民や下級貴族の生徒と接している効果だ。
当然、エアリエルの評判も上々、どころか飛び抜けている。
ゲームの中では、大貴族である実家の威光を笠に着た高慢ちきな、嫌な貴族令嬢の典型というエアリエルなのだが、この世界では凛として、近寄りがたい雰囲気を持っているかと思えば、笑うと笑顔がとても愛らしくて親しみを感じてしまう、そんな二面性を持った魅力的な女性となっている。
更に成績も優秀で、才色兼備といえるエアリエルは、女子生徒から見ても理想の女性像、憧れの存在ということになる。
これは学院全体で見れば、一部の生徒たちの評価に過ぎないが、それでもリオンにとっては、自分のやってきたことが少しでも結果を残せたと思える、たまらなく嬉しい状況だった。
この世界を変えられる。そう思って、益々張り切るリオンであったが、浮かれている彼は忘れている。何よりも自分が恐れていたのは、主人公補正に代表されるゲーム設定の強制力であり、それはこの世界には確実に存在するという事実を。
そして、ぶれが大きければ大きい程、それを戻そうとする揺り戻しは大きくなってしまうことを。
――試験が終わり、いつもの様に成績が廊下に貼り出されている。上位四人の名は相変わらずだ。トップはアーノルド王太子、それにマリアが続き、ランスロットとシャルロットの名が並ぶ。不動のフォートップ。入学してから、ずっと変わらない顔ぶれだ。
それが当たり前過ぎて、見る者も当人たちも、もはや何とも思わなくなっている。
「又、駄目だった」
次点であったマリアが残念そうに呟くが、その表情は本気で落ち込んでいるようには見えない。成績を競うのは、アーノルド王太子との距離を縮める為。常に近くで行動出来るようになった今となっては、それほど重要ではない。
それでもこの成績を維持出来ているのは、マリアが元々、かなり勉強が出来るからだ。マリアはありがちな設定である、元の世界ではブスで虐められていた、というような女性ではない。それとは正反対。某有名国立大学に現役合学し、一年生のときから断トツでミスに選ばれるような、才色兼備を謳われる、周囲の憧れの存在だった。
それは子供の時からで、周りから常に可愛い、綺麗と称えられ、やがて、それを当たり前と考える様になり、誰に何を言われても、物足りなく感じるようになった。
そんなマリア、当時は別の名だが、の唯一人に言えない趣味が、乙女ゲームに嵌っていること。
現実ではあり得ない設定、あり得ない高レベルな男たち、そんな世界でモテまくる主人公に自分を重ねて楽しんでいた。そして、ゲームに嵌れば嵌るほど、現実の世界が益々物足りなくなる。元々白馬の王子様の登場を本気で信じるような夢見がちな女の子だったのだ。
そんな風に現実の世界に飽き飽きしていたマリアに訪れた驚くべき転機が、この転生だった。正に自分は、夢に見ていた乙女ゲームの主人公になった。マリアはこの転生に心から感謝している。
だが、待ちに待ったゲーム本番の学院生活は、ある時点から思う様に進んでいない。自分の引き立て役のはずの二人が、何故か一部の生徒の間で人気者になっている。もっとも重要な攻略キャラであるアーノルド王太子は、完全に落ちるどころか、今になってライバルキャラとの距離を縮めようとしている。
その原因は今やはっきりしている。生きて帰れるはずのないイベントから生還してきたイレギュラー、リオンの存在だ。
レアキャラと思ってチョッカイを出してしまったことで、この世界は自分の知るゲームのストーリーとずれてしまっている。そうであればと、イベントでリオンを殺そうと思ったのだが、それも失敗。リオンは完全にゲームの主要キャラに位置付けられてしまったようだ、とマリアは思い込んでいる。
自分の望む方向にストーリーを戻すには、どうすれば良いのか。このところ、ずっとマリアは、リオンへの対処を考えているが、良い案が思い浮かばない。
「ちょっと失礼します」
「えっ?」
今まさに頭に浮かべていたリオンの声が後ろから聞こえてきた。
「あっ、すぐ済みます。成績表を確認したいだけですので」
「あっ、ああ。ごめんね、ここに居たら邪魔よね?」
「いえ、平気です。すぐ終わりますから」
と言いながら、リオンは貼られている順位表を眺め続けている。徐々に右に流れた視線が又、戻ってくる。そして又、右へ。首を傾げながら、目的の名を探すリオン。
「……七番だ」
そのリオンに向かって、ランスロットが忌々しそうに順位を告げた。
「えっ? あっ、本当だ!」
一番左に貼られている順位表の上から七番目。そこにはヴィンセント・ウッドヴィルの名が記されていた。
「やった……」
順位表に記されているヴィンセントの名を指でなぞりながら、リオンは感慨にふけっている。
それもわずかな間。急ぎ足でその場を離れて行った。
「侯家の出来損ないと言われたヴィンセントが七位……ちょっと感動したわ」
シャルロットもリオンの感激が移ったかのように、しみじみとした口調で感想を口にしてきた。
「まだ七位だ。三侯家の一員であるなら四位以内、いや、マリアがいるから五位以内か、そこまでに入って初めて及第点だ」
ランスロットは納得がいっていない様子だ。ランスロットのヴィンセントに対する悪感情は、決して和らぐことはない。
「そうかもしれないけど。それでも私は羨ましいわ」
「どこがだ」
「あれが」
「何?」
シャルロットの視線の先には、リオンが伝えた結果に大喜びしているヴィンセントの姿があった。
その喜びは、周囲に居た生徒たちにも伝染していく。食堂で知り合い、今ではヴィンセントの家庭教師のようになっている平民出身の生徒たちだ。ヴィンセントの結果は、彼らの力が大きい。ヴィンセントと同じくらいの喜びを彼らも表している。
喜びの輪はそこで止まらない。ヴィンセントを中心に抱き合って喜ぶ生徒たちを囲むようにして、その周りにも生徒たちの輪が広がる。ヴィンセントたちの騒ぎを聞いて集まってきた、これも食堂で馴染の生徒たちだ。
やがて、その中心にいたヴィンセントの体が宙に舞いあがる。それを見て、益々喜ぶ生徒たち。そこには兄の歓喜の様子を、同じくらいに嬉しそうな笑顔で見ているエアリエルの姿もあった。
「又だ。どうして俺には見せない?」
このアーノルド王太子の呟きに気が付いた者は、誰もいなかった。
◆◆◆
アーノルド王太子はここ最近心が落ち着かない。原因は分かっている。エアリエルの態度が気に入らないのだ。
アーノルド王太子と話すエアリエルは礼儀正しく、貴族の令嬢という枠から一切はみ出さない。その態度はエアリエルの立場では仕方のないことだと頭では分かっているが、心が納得していない。どうしても気持ちが苛立ってしまう。
そうであるなら、以前のように近づけなければ良いのだが、今のアーノルド王太子にその選択肢は存在しない。
アーノルド王太子は、エアリエルの心からの笑顔が見たいのだ。それを自分に向けて欲しいのだ。婚約者である自分にはその資格があると思っている。
最後の思いはアーノルド王太子の自分自身に対する言い訳だ。その言い訳がエアリエルとの距離を縮める邪魔をしていることにアーノルド王太子は気が付いていない。
「今日は、あれはいないのか?」
「あれ、ですか?」
「従者の男だ」
「ああ、リオンですか。リオンは兄と一緒ですわ。元々は兄の従者ですから」
「そうか……」
そうであれば尚更、どうしてエアリエルとあれほど親しげな関係なのかとアーノルド王太子は気になって、胸がざわついてしまう。
アーノルド王太子の心の動きを誰かが覗いてあげれば、これは嫉妬というものです、と教えてあげられるのだが、そのような者は当たり前だがいない。
「このような場所で本当に宜しかったのですか?」
二人がいる場所は、ヴィンセントとエアリエルが懇意にしているケーキ屋だ。ウィンヒール侯家御用達ということではない。あくまでも個人的な馴染で、リオンと三人で自家も含めて、周囲の目を気にすることなく過ごす為の場所だった。
「ああ。こういう気取らない、普段使いの場所が知りたかったのだ」
アーノルド王太子のたっての願いとあって、この場所に連れてきたのだが、エアリエルは、既に後悔している。
王太子の外出の面倒さは、エアリエルたちのそれの比ではなかった。お店にいた客は全て追い出され、何者も近づけない様にと周囲は大勢の近衛騎士によって固められている。
お店に迷惑を掛けたという気持ちはあるが、迷惑料として、食事代とは別に何らかの謝礼は払われるはずだ。エアリエルが後悔しているのは、その事ではなく、これでこの店は王太子が訪れた店として一躍有名になり、隠れ家として利用することなど出来なくなると考えているからだ。
甘味に目がない貴族にあまり知られていないのが不思議なくらいに、この店のデザートは美味しい。味と人目を忍ぶことの両方を満たせる貴重な店だったのだ。
(仕方ないわね。又、リオンに探させましょう)
心の中でエアリエルは考えていた。
「良く来るのか?」
「最近はあまり来なくなりましたわ」
「どうしでだ?」
「ここは元々、兄とリオンと三人で好きなことを語らう為に見つけたお店なのです。今は学院の食堂がここに変わっていますわ」
「そうか……」
リオンの名が出たことでアーノルド王太子の視線が、無意識のうちにきつくなる。
「それでも、このお店のデザートが好きなので、時々は訪れるようにしていますわ」
だが、その視線にエアリエルが気付くことはない。王太子の顔を正視するのは礼儀に反すると、エアリエルの視線は常にアーノルド王太子の首元くらいを向いていた。この礼儀正しさも、今のアーノルド王太子には焦れったくて仕方がない。
「確かに美味しいことは美味しいな。城で食べるデザートにも負けていない」
「まあ、それは良かったわ」
自分のお気に入りを褒められて、エアリエルは嬉しかった。その顔に自然に笑顔が広がった。
「あっ……」
完璧とは言わないが、アーノルド王太子が求めていた笑顔が、すぐ目の前にあった。それに見惚れて茫然とするアーノルド王太子。
「……どうかされましたか?」
言葉を失くしたアーノルド王太子にエアリエルは怪訝そうな顔で問い掛けてきた。アーノルド王太子は内心で。笑顔を消してしまった自分の失敗を大いに悔やんでいる。
「いや……何でもない」
ここでリオンであれば、「エアリエル様の笑顔に見惚れていました」などと平気で口にして、エアリエルを喜ばせるのだが、アーノルド王太子にそれは出来ない。いや、普通の神経を持った人には恥ずかしくて出来ない。
「一つ聞いて良いか?」
「私がお答え出来ることであればなんなりと」
「どうして学院の食堂を使うのだ?」
「先ほど、少し申し上げました通り、他人を気にせずに好きなことを話す為ですわ」
「だから、どうして、他人を気にするのだ? 人に聞かせられないような話をしているのか?」
アーノルド王太子の質問には遠慮がない。その通りであれば、答えを返す方はかなり困る事になる。
「聞かせたくないのではなく、見られたくない、ですわ」
困ることなど何もないエアリエルは、質問に素直に事実を答えた。
「……あの従者か」
「はい。貴族とその従者が親しく話していると、それは奇異の目で見られますわ。正直、私は気にしませんが、それで兄の評判が落ちるのは困ります」
兄の為、この言葉はアーノルド王太子の気持ちを少し落ち着かせた。
「ふむ。近頃、頑張っているようだな」
「ええ。ですが、兄は元々優秀ですわ。偏見の目が邪魔をしていたに過ぎません」
「偏見の目とは?」
「そうですわね……たとえば、侯家の嫡子であれば出来て当然。こういった見方ですわ」
「それは……」
「最初から全てが完璧に出来る人などいませんわ。私はそう思っています。でも、兄は最初から出来ることを求められた。そして、それが出来ないと、蔑みの目で見られました。何をしても自分が認められることはない。そう思って兄は、全てを諦めてしまいました」
「そうだったのか」
ヴィンセントに向けられた偏見は、自分の経験したそれと同じ。アーノルド王太子はそれを知った。
アーノルド王太子は、その出来て当然のことを出来るように、あらかじめ努力した。ヴィンセントはそれをせず失敗して、その先を諦めた。
当然、努力しなかったヴィンセントは悪いのだが、アーノルド王太子の気持ちからヴィンセントに対する、それこそ偏見の気持ちが薄れた。
エアリエルはここで話をやめるべきだった。
「その兄を立ち直らせたのがリオンですわ」
「…………」
途端にアーノルド王太子の表情が曇る。エアリエルの口からリオンの名が出るだけで、アーノルド王太子は不機嫌になってしまう。リオンの名を呼ぶエアリエルの声に込められる信頼感が、アーノルド王太子をそうさせていた。
リオンの話になった途端に、エアリエルは惜しげもなく、アーノルド王太子の求める笑顔を振りまいている。
だが、求めていた笑顔を向けられてもアーノルド王太子は嬉しいどころか、苛立ちが募るばかり。その笑顔が、この場にいないリオンに向けられているものだと分かっているからだ。
「男の従者など城に連れて来られないからな」
「えっ?」
「侍女であれば、数人は城に上げることは許す。だが、男の従者を城に入れることは出来ない」
「……それは当然ですわ」
「分かっているのなら良い。卒業したら、すぐに結婚だ。そのつもりでいろ」
「……はい、分かりました」
アーノルド王太子は、この日、はっきりと自覚した。自分はいつの間にかエアリエルを好きになっていたのだと。自分の気持ちが分かると今度は、エアリエルに対する独占欲が益々強く心の中に吹き上がってくる。
リオンという存在が刺激しているのか、それに関係なく自分はこういう性格だったのかは、アーノルド王太子本人も分かっていない。
分かっているのは、エアリエルが自分以外の男に笑顔を向けるのは決して許せないという思いだけだ。
ゲームのストーリーは大きく流れを変えていた。変わらないのは、最後に不幸になる人物が誰かということだけ。