五日間の独房送りを終えて、グレンは宿屋に戻っていた。
真っ先に行ったのは体を洗うことだ。久しぶりの帰宅に抱きついてきてグレンをどぎまぎさせたフローラも、さすがに五日間の汗の匂いには辟易したようで、すぐに離れて水場への直行を命じた。
何度も水を被っては体をこする。こんなことを繰り返している内に、ローズが近寄ってきた。
「……まあ平気かな?」
グレンの体に鼻を近づけてから、ローズはこれを口にした。
「匂い嗅ぐなよ」
グレンとしては、あまり気分の良いものじゃない。ゴミ扱いされている気分だ。
「だってフローラちゃんが自ら離れるくらいよ。相当臭かったのよ」
「独房内では体洗えないからな」
「それだけで?」
毎日風呂に入るという習慣はこの世界にはない。大量の水を温める風呂というものは、贅沢であり、庶民では滅多に用意出来ることではないのだ。
水で体を洗うのがせいぜいだが、寒い冬ともなれば、それも誰もが毎日行うことではない。
「退屈だからずっと体を動かしていた。多分そのせいだな」
「……鍛錬馬鹿」
「しかたないだろ? ずっと寝ているわけにもいかないから。さてと、さっぱりしたし」
グレンの腕がローズの腰に伸びる。五日ぶりの帰宅で抑えが効かなくなっている。
「ちょっと、こんな所で」
「じゃあ、部屋で」
「……すけべ」
「だって、ずっと」
「私もそうしたいけど駄目」
グレンの腕を払いのけて、ローズはグレンの誘いを断ってきた。
「どうして?」
それに少しショックを受けているグレン。
「お祝いみたいよ。人が集まっている」
「へっ? お祝いって何の?」
「君の出所祝いだって」
「……まるで犯罪者だ」
犯罪者の巣窟である裏町だ。出所祝いは度々行われている。グレンに対しても、それを行おうというのだ。
「犯罪者でしょ? 傷害罪って言うのかしら?」
「…………」
全く否定が出来ないグレンだった。
「さあ、食堂に行くわよ。皆待っているから」
ローズに連れられてグレンが食堂に行ってみると、確かに人が集まっていた。
その中で一際目立つ、大柄で強面の壮年の男がグレンに声を掛けてくる。裏町の組織の親分だ。
「お勤めご苦労だったな」
「……どうも」
親分にお勤めご苦労と言われても、どう答えて良いかグレンは分からない。そっけなく返したが、特に親分に気にする様子はない。それどころか。
「これで、お前も立派な前科持ちだ。どうだ、そろそろこっちの世界に来ないか?」
グレンを裏社会に誘う始末だ。
「親分さん。軍での処罰であって前科とは少し違う」
「似たようなものだろうが? とにかく座れ。待ちくたびれたぞ」
「はい」
食堂の半分は、グレンの出所?を祝う客たちで占められている。もっとも他の席には誰も客は座っていない。貸し切り状態だ。
グレンがテーブルの席につくと、そこには親父さんまでがすでに席についていた。
「親父さん、仕事は?」
「仕事になんかなるか。裏町の親分と取り巻きがどっかりと居座っている店に来る客なんていない」
「確かに」
それなりに裏町に深く根を張っている組織だが、それでも普通の住人は好んで近づこうとはしない。恐れられる対象なのだ。
「そう言うな。今日はお祝いなのだ。それにちゃんと金も払う」
「頼みますよ? どうせ、今日の売り上げは他にないのだから」
「強欲だな。知っているのだぞ? 食堂が儲かって儲かって仕方がないのは」
「きっちり上がりは納めているでしょうが」
大将の所も組織に上納金を収めている。揉め事が起きたときに色々と便宜を図ってもらえるからという理由だが、裏町で揉め事を起こすのは大抵が組織の人間だ。
払わなければ商売をさせてもらえないので仕方なく収めているに過ぎない。
「まあな。しかし、それもお嬢のおかげだ。その兄の祝いなのだ。うるさい事を言うな」
「まあ、たまの休みと思えば悪くはないですけど。でも、どういう風の吹き回しで」
「だからグレンの祝いだ」
「またまた」
グレンは組織の人間ではない。ここまでのことをする理由がない。
「まあ口実だな。久しぶりにお嬢の顔も見たくなった。これでも気を使っているのだぞ? 頻繁に店に来ては迷惑だと思ってな」
「それはどうも」
親分と親父さんがこんな会話をしている間に、フローラと女将のマアサがグラスを抱えてテーブルにやってきた。
「お待たせ!」
「おお、お嬢! 待っていたぞ。久しぶりだな!」
フローラを前にして親分のいかつい顔が、一気に好々爺のように変わってしまう。
「いやだ、おじさん。さっき顔を会わせてるよ」
「まあ、そうだな」
「はい、ビール。テーブルに置くから皆に回してね」
「おお、分かった」
二人の会話を聞いている周りの者たちの頬がわずかに引きつっている。組織の親分に、ビールを配ることを頼める者などフローラしかいない。そして親分が素直に受け入れる相手もフローラしかいない。他の者がこんなことを親分に言えば、ボコボコにされて終わりだ。
「親分、あっしが回しやす」
「ん? そうか、じゃあ頼む」
さすがに本当に親分にやらせるわけにはいかないと、部下の一人がビールを配り始める。
「しかし、お嬢はいつ見ても可愛いな」
「もう、おだてたって何も出ないよ」
「何もいらん。お嬢をこうして見ているだけで俺は嬉しいのだ」
「ありがと!」
満面の笑みを浮かべてフローラは食堂に戻っていった。その笑顔を見て、周囲でハラハラしていた者たちの顔もほころぶ。
「全く、俺の娘も少しはお嬢を見習ってほしいものだ」
さっきまでニヤニヤしていた親分の顔が娘の話になった途端に苦いものに変わった。
「ああ、親分さんには娘さんがいましたね。何度も会ったわけではないですが、可愛らしいお嬢さんだったと思いますが?」
グレンは親分の娘と面識がある。お世辞ではなく、可愛い女性だ。
「見た目はともかくとして性格が。一人娘ということで甘やかし過ぎたな。我儘一杯に育ってしまった」
「それは親分さんが」
「俺は厳しく育てたつもりだ。だが、こいつらが甘やかすから」
こう言って親分は、じろりと周りの部下たちを睨む。睨まれた方はたまらない。首をすくめて小さくなってしまった。
「ある程度は仕方がないと思いますけど」
「しかし、あれも年頃で。あんな調子では嫁に行けるのかと心配になる」
「もうそんな年ですか」
親分の娘はグレンと同じ年頃だ。女性であれば、とっくに結婚していてもおかしくない年齢なのだが、自分にそういう気持ちがないので、グレンはピンと来ていない。
「どうだ?」
やや前のめりになって、親分はグレンに問い掛けてきた。
「何がですか?」
「娘を貰ってくれんか?」
「はい?」
まさかの言葉にグレンはすぐには何を言われたか分からなかった。
「お前と娘が一緒になれば、俺も安心だ。良い後継ぎが出来るからな」
「……あっ、いえ、親分さん、そういう訳には」
裏町の親分の頼みとはいえ、これは受け入れるわけにはいかない。
「どうしてだ? 面倒な仕事が多いが、暮らしには不自由せんぞ」
「そういうことではありません。ぽっと出の俺が後を継ぐなんてあり得ませんから。ちゃんと、これまで尽くしてきた方たちの中から選んだ方が良いのではないですか?」
「……全く、そういうところは本当にそつがないな。俺としてはお前にはもう少し可愛げを見せて欲しいところだ」
「どうせ、可愛げなんてありません」
「そもそも最初の」
「親分さん!」
「おっ、そうか。さて、まずは乾杯するか」
グレンの視線で親分は、いつの間にかフローラが戻ってきていたことに気付くと、すぐに話を変えた
「そうですね」
「では、グレンの出所を祝って。乾杯!」
「「「乾杯!!」」」
親分の音頭で一斉にグラスが高々と掲げられる。次々とグレンに労いと祝いの言葉を述べる客たち。それを受けるグレンの顔は複雑だ。完全な出所祝いの体になっている。
「じゃあ、食事持ってくるね」
「ああ、頼む」
乾杯を終えて、フローラはまた、マアサと共に厨房に戻っていった。それを見て、すぐに親父さんが親分に声を掛ける。
「親分さん、さっき言い掛けたのは?」
「聞いてないのか?」
「いや、何のことやら、さっぱり分からないので、聞いているのかも分からなくて」
「ああ。グレンと最初に会ったときの話だ」
「そう言えば、きっかけは何だったので?」
グレンが、それにフローラも何故、ここまで親分に気に入られているのか。その理由を大将は知らない。
「聞いていないのだな?」
さっき話そうとしたのはグレンとの出会いに関わる内容。親父さんが聞いていないことが分かった。
「親分さんと約束しましたから」
ここでグレンが口を挟んできた。
「そうだった。グレンはな、最初、うちに殴りこんできたのだ」
「はあっ?」
「うちの者がお嬢にちょっかいを出してな。まあ、うちの者がやることだ。ちょっかいでは済まないか」
「それは……」
フローラがどんな目に合わされたのかを考えて、親父さんの顔に苦悩が浮かぶ。
「そんな顔するわ。何もしていない。何かする前にグレンにコテンパンにやられた」
「ああ……それなのに坊主の方から殴り込みですか?」
「二度とお嬢に手を出すなと言ってな」
「無謀な真似を」
裏町を仕切っている組織に殴り込みをかけるなど自殺行為でしかない。よく無事でいたものだと、親父さんは感心し、呆れてもいる。
「まだ子供だったから」
「何が子供だ。その子供にうちの者たちはボコボコにやられたのだ」
「なんとまあ。しかし親分さんのところの数は」
正確な数は親父さんにも分かっていない。だが十や二十ではないことは分かっている。
「ああ。事務所にいた者だけだ。それで、さすがに面子が立たないからな。手下を集めて、グレンに落とし前をつけさせようとしたのだが」
「やらなかったので?」
グレンが今、五体満足で生きているということは、こういうことだ。
「その時はお嬢がいて。グレンを取り囲むうちの者の前に立って、可愛い小さな手を広げてグレンを庇っていた。その姿が可愛くて可愛くて。お嬢は声も可愛いくてな。お兄ちゃんに手を出すな、なんて言って。俺もあの声でそんな事を」
その時の光景を思い出して親分は、とろけそうな表情を見せている。
「ちょっと脱線しています」
「……そうだな。まあ、そんなことで、俺はすっかりやる気を削がれて、その場を収めた。まあ、だからと言って何もなしではあれなので一仕事してもらって」
「仕事?」
「詳しくは聞くな」
「……なるほど」
親分が話せない仕事。それは碌でもない仕事だ。納得の言葉を口にしながらも、親父さんは内心では子供であったグレンにそれをやらせた親分とそれをやってしまったグレンに呆れている。
「それで手打ちだ。グレンはさっきのようにそつがない。その後は、ボコボコにした相手にも目上の者としてきちんと接していて、恨みを残す者は誰もいなくなった。まあ、そういうことだ」
「そんなことがあったわけで」
「口外するなよ? 親父は半分二人の親代わりと思って話したのだ」
「しませんよ」
「どうだかな?」
親分の瞳の奥に、これまで見せなかった厳しさが宿った。
「……何か?」
それを敏感に感じ取って、親父さんは緊張の色を見せている。
「親父もただの宿屋の親父ではないようだ」
「……何故、そう思うのですか?」
親分の言葉に親父さんの警戒心が一気に高まる。
「この街を誰が仕切っていると思っているのだ? 見かけない怪しげな者が出入りしていれば、すぐに分かる」
配下を何人も抱えて、この街を仕切っている親分だ。裏町の大抵の情報は耳に入る。
「それは客ではないですか?」
「そうであれば良い。だが、このところは随分と出入りが多いようだ。この街に厄介事は持ち込まれたくない」
親分は裏社会の人間ではあるが、この混沌とした街では、逆に秩序を守る存在でもある。親分の配下にも家庭があり生活がある。その生活は守ってやらなければならないのだ。
「……そんな真似はしません」
「なんだか物騒な話になっています。今日は自分のお祝いではなかったですか?」
二人の間に不穏な空気が流れるのを感じて、グレンが話を止めに入った。
「そうだった。ただ、もう一つ物騒な話をして良いか?」
「……何ですか?」
親分の視線はグレンに向いている。自分にかかわる物騒な話は正直遠慮したいのだが、そうも言えない。
「戦争が始まるのか?」
「もう親分さんの耳にまで入りましたか?」
戦争の話と分かって、グレンはホッとしている。
「事実だったか」
「それが何か?」
「少し儲けさせてもらおうと思ってな。戦争が始まるなら、物の仕入が増えるのだろ?」
戦争となれば大量の物資が必要となる。商売で儲けるには絶好の機会ではある。
「まあ。でも、どうですかね?」
だが、グレンは親分に否定的な反応を返した。
「駄目か?」
「親分さんの耳にまで入ったとなると、もうとっくに仕入は始まっていると思います。仕入というか買占めですね」
軍部と繋がっている商人は多い。小隊長、中隊長と経験したグレンもそれなりに懇意にしている商人はいる。
軍の上層部と繋がっている大商家などは、ずっと前に情報を入手しているはずだ。
「まだ物の値段は上がっていないようだが?」
「恐らくは地方から始めているのです。王都の物価が上がれば、他の商人も気が付きますから。地方から流れる物が減りますから、王都の物価はこれから上がっていきますね」
「……遅かったか」
グレンの話を聞いて、親分は自分たちが完全に出遅れていることを知った。
「軍とズブズブの関係の商人は何人もいますから。さすがにそれらを出し抜くのは無理です」
「そう、うまくはいかんか」
「ただ」
諦めかけた親分にグレンは何か言おうとしている。
「何だ?」
「どこが相手と聞いていますか?」
「ゼクソンと聞いたが」
「……なるほど。うまく行く保証はありませんが、一つ提案を」
対戦国の名を聞いて、グレンの頭の中に一つ考えが浮かんだ。
「何だ?」
「しばらくは何もしないで待つことです。そのうちに慌てて集めた物を吐きだす商人が現れるかもしれません。それなら安く仕入れられるのではないかと」
「……何故、それが分かる?」
「さすがに理由は言えません。機密事項ですから」
「それだけではな」
商売をするには、それなりの投資が必要だ。曖昧な情報で動いて、失敗すれば大損ということになる。
「じゃあ、簡単な流れだけを。今は戦争の噂が流れています。でも、やがて、それが無くなったという噂が流れるかもしれません。それを知った商人は買い占めた物資を放出するでしょう。ただ問題はどの商人がそれを知るかです」
「軍と繋がりの深い商人だな」
「いえ、違います。軍と繋がりはあるが、それ程でもない商人です」
「どうしてそうなる?」
「実際に戦争は行われますから」
戦争は間違いなく起こる。ただウェヌス王国はそれに外交という名の策謀を絡めようとしている。商人に広がる情報は、その為のもの。真実ではない。
「……複雑だな」
「戦争が無くなるという噂は機密になります。それを知る人は限られるでしょう。しかし、それも又、真実ではありません。その辺の見極めですね」
「それをうまくやれば」
「放出した物資を安く買い取り、高騰したところで高く売れます。まあ、色々な時期がうまく合えばの話ですので、保証は出来ません」
偽情報を掴まされて、買い集めた物資を売りに出る商人も出るかもしれない。それを上手く利用出来れば、儲けることが出来る。
但し、タイミングを誤れば、逆の結果になる可能性もある。
「……気に留めておこう」
「その程度にしておいてください」
「坊主はその戦争に参加するのか?」
真剣な表情でグレンと親分の話を聞いていた親父さんが問いかけてきた。その表情がすでに宿屋の主人のそれではなくなっている事に親父さん自身は気が付いていない。
「今の状況だと参加すると思う。勇者の参陣が決まっているので俺も同行しなくてはならない」
「そうか……」
「ただ今回揉め事を起こしたのは、その勇者の親衛隊とだから。親衛隊だから、そいつらも当然参加するはずで、それと一緒にさせられるかは分からない」
「ああ、それはあるな」
「まあ俺としては密かにそれを期待しているのだけど、あまり期待し過ぎて結局一緒じゃあ嫌だから、考えない様にしている」
勇者付き騎士を外れるという期待は叶えられるが、戦争には同行することになる。この事実をまだグレンは知らない。
「長くなるのか?」
「さあ? どこまでのつもりか知らないし。攻め滅ぶつもりなら何年もかかるだろうし」
戦争についてグレンは様々な予測を立てているが、それはあくまでもグレンの勝手な予測だ。実際の作戦計画をグレンは知らない。
「ウェヌスはそこまでやるのか?」
「だから分からないって。要所を押さえて終わりかもしれない。それに、あっという間に逃げ帰ってくる可能性もある」
「……戦争だからな」
何が起こるか分からない。これが戦争というものだ。
「そう。という事で、もう少し先の話だけど、よろしくお願いします」
「何を?」
いきなりお願いされても親父さんには何のことか分からない。
「フローラとローズのこと」
「……おい?」
続くグレンの言葉を聞いて、親父さんの顔色が変わった。
「留守の間をよろしくって意味。俺は死ぬつもりはこれっぽっちもない。死ぬくらいなら逃げてくるから」
「……そうだな。任せろ」
「それは俺の台詞だ。俺の目の黒いうちはお嬢には指一本触れさせない」
親分もグレンの頼みに応えようとしている。恐らくはフローラに限ってのことだが、それでも頼もしいことだ。
「お願いします」
真面目な話はこれで終わり。後は部下たちの、少し物騒で、それでいて面白おかしく着色された話で場は盛り上がっていく。
そんな食堂の宴は夜が更けるまで続いて行った。
◆◆◆
宴が終わって深夜のローズの部屋。二つの裸体が絡み合っている。
「あっ……ねえ……んっ……ねっ、ねえ……」
「何?」
ローズの途切れ途切れの呼びかけにようやくグレンは胸にうずめていた顔を上げた。
「まだするの?」
「あっ、じゃあ、もう一回だけ」
こういってまた、顔をローズの胸に向けるグレン。その頭をローズは思いっきり引っ叩いた。
「痛いけど……?」
「君は獣か? またおかしくなっているの?」
「いや、失われた五日間を取り戻そうと」
五日間、独房での禁欲生活を強いられたグレン。それを一晩で晴らそうとしているのだが、それをされるローズの方は堪らない。
「この馬鹿」
「駄目?」
「もう夜も遅いわよ。それにシーツが……」
恥ずかしそうに、ローズはシーツの汚れを指さす。
「……じゃあ、綺麗なのに代えよう」
全く止める気のないグレンだった。
「そうじゃない! こんなに汚していたら恥ずかしいでしょ?」
「じゃあ、俺が洗っとく」
「……あのね」
何をいっても止めようとしないグレンにローズは呆れ顔を見せている。
「嫌なのか?」
「そういうことじゃない。でも、考えたら君が仕事でいない時以外は私たち毎晩しているわよね?」
「まあ……」
ちなみにグレンは、その仕事でいない時にもしていたりする。別の女性と。
「何だか私、淫乱な女みたい。子造りしているわけでもないのに、毎晩なんて」
「えっ……?」
ローズの文句にグレンは驚いた顔を見せている。
「子供欲しいって意味じゃないから。子供なんて無理。万一、君がそうしたいって言っても私が断るわよ」
「そう……」
グレンも今は子供を育てるなど出来ないと思っている。ただローズから言われると、何とも複雑な気持ちになってしまう。
「でも、こんなにしていたら、いつか出来ちゃうかもしれないよ」
「その時はちゃんとするから」
こういう台詞をあっさりと口にするのがグレンの駄目なところだ。ローズはグレンがフローラを好きなことを知っている。それで、こんなことを言われても、本心から喜べない。
「そうじゃないから。子供が出来たからっていうのはね。それに、やっぱり今じゃない」
「まあ。でも、もうしないってのは……」
「そうは言っていないわ。もう、自分でも何を言いたいのか分からなくなった」
元はただ今晩は終わりにしようというだけのはずが、こんな気まずい話になってしまっている。
「何それ?」
「良く分からない。とにかく今日はもうお終い。又、明日」
「……分かった」
ようやくグレンはローズの上から退いて、ベッドに横になった。隣ではローズがもうベッドの下に落ちていた服を拾って身に着け始めている。
それを楽しそうに見つめるグレン。
「さっきまでは……」
「その先は言わないの。最中は良いの。恥ずかしい気持ちはあるけど、それでも没頭していたいの」
「あっ、俺と同じだ」
「同じって?」
「何も考えないで夢中でいられる」
ローズとの時はグレンが頭の中を空っぽにしていられる唯一の時間だ。
「君は私の体に夢中だからね」
「そっち?」
グレンが好きなのは、私は君に夢中のほうだ。これを言われると、グレンはいつも胸が温かくなる気がしている。
「今日は言ってあげない。又、迫られたら困るもの」
「残念」
「今日はもう寝る?」
いつもであれば、ここから、その日にあっ出来事などを話している。だが、今日はお祝いの宴があって、かなり遅い時間になっている。
「寝たい?」
「少し。でも良いよ。君が話したいなら」
「じゃあ、少しだけ話そう」
「でも、何を話すの? ずっと独房だったのよね?」
「確かに」
グレンはこの五日間、独房で体を鍛えていただけ。話すことは何もない。
「……じゃあ、こっちから聞いて良い?」
「どうぞ」
「さっきの戦争の話。あれ親父さんの前でして良かったの?」
「ん?」
「もう親父さんの正体は分かっているわよね?」
「……俺の両親の傭兵仲間」
ローズの方から聞いてきたので、グレンは知っていることを白状した。これについて話すとローズの秘密に触れることになりそうなので、黙っていたのだ。
「そうよ。そんな親父さんに情報を提供するような真似して。わざとだったの?」
「いや。親分さんに話そうとしただけ」
「だったら」
「あれじゃあ、分からないから。戦争をする。止める。実はする。どの国とは言っていない」
「……ゼクソンじゃないの?」
話の流れからローズは相手はゼクソンだと思っていた。だが、グレンの言い方はそうでないと示している。
「ゼクソンと戦争をする。ゼクソンとの戦争を止める。でも本当は戦争をする。どこと?」
「他国もあるってこと?」
「そう。そしてゼクソンもある。ゼクソンと戦争をすると思わせて他国を油断させて、そこに攻め込む。ゼクソンに戦争はしないと油断させて、やっぱり攻め込む。ウェヌス王国の選択肢は複数ある」
「でも戦争をすることが分かっていれば」
あらかじめウェヌス王国の侵攻や裏切りに備えることも出来る。こうローズは思った。
「警戒は強まるだろうな。でも攻められる可能性のある国はすでに警戒していると思う。逆にちょっと混乱するかもしれない」
「つまり親父さんを嵌めたのね?」
「そんなつもりはないから。別にウェヌス王国の為に俺は行動しているわけじゃない」
「それにしては色々と熱心ね」
勇者付き騎士にされてからも、グレンは真面目に仕事をこなしている。その結果は、間違いなくウェヌス王国の為になる。
「不審を抱かせない様にしないと。トルーマン元帥は真実を知っているみたいだ。俺も知らない隠れた真実をね」
「嘘!?」
グレンの話にローズは思わず大きな反応を見せてしまう。これではローズも、グレンが知らないグレンの秘密を知っていると白状しているようなものだ。
「……ただ公言はしないと約束してくれた。その代わり俺にも両親のことは詮索するなとも言ってきた。それは俺の父親には王国を敵視する傭兵団の団長以上にやばい何かがあるってことだ」
「そう……」
グレンの話を聞いても、ローズは何も言おうとしない。だが、今はもう、グレンはローズを信頼している。言わないのは自分の為だろうと考えて、気付いていない振りを続けることにした。
「トルーマン元帥は信頼できる人だ。ただウェヌス王国と俺のどちらを守るかと言えば、当然、王国を守る。だから不審なところは見せられない」
「そうね。やっぱり逃げないとね」
「結局そうなる。でも案外、今回の件は物事が動くきっかけになるかもしれない」
「どうして?」
「勇者との仲は間違いなくこじれた。それで俺が勇者付騎士のままでいるかどうか。食堂では期待しないと言ったけど、本当は外れるだろうと思っている。トルーマン元帥も同じように良い機会だと思うはずだから」
「じゃあ、国に追われないで逃げられるのね?」
勇者付き騎士でなくなれば、グレンを縛るものはなくなる。ローズはこう考えたのだが。
「ただ外れた後が。閣下はしばらく軍の仕事を続けろと言っていた。だから、何かはさせるはずだ。それが何かが分からない」
「変な仕事かもしれないのね?」
「でもあの言い方だと、用が済んだら国を離れて良いような感じだったからな。そうでもないのかも。一番の問題はいつまでだな。何年も先かもしれない」
「……でも危険がないのであれば、それも有りね」
先が見えない状況だが、ローズはポジティブな言い方をしてきた。今の暮らしも、ローズにはそれほど悪いものではないのだ。
「……ローズは平気なのか?」
「私は君といられればどこでも良いわよ」
「そうじゃなくて、盗賊の方。戻って来いと言われていないのか?」
それなりに何かを抱えている様子のローズだ。いつまでもこの暮らしを続けていられるとはグレンには思えない。
「それは……でも私の自由よ」
「そうか。じゃあ、ちょっとだけ支援を」
「支援って?」
「情報をあげる。これを伝えれば、俺の側にいることに利点があると考えてもらえるかもしれない」
「でも……」
情報を漏らしたことがばれれば、グレンは罪に問われることになる。ローズはそんなことは望んでいない。
「大した情報じゃない。機密でもない。ただ外に漏れないだけだ」
「機密じゃないのに、外に漏れないって何よ?」
「例えば、今の王は話を聞く限り愚王だ。そして王太子も暗愚、いや性格が悪いのかな? とにかくウェヌス王国は二代続けて、良くない王を戴くことになる」
「……確かに喜びそうな話ね」
機密度は別にして、敵視しているウェヌス王国の王が暗愚であるという事実には喜ぶだろう。
「だろ? ただし、トルーマン元帥はそれが分かっているから動き出した。軍を改革し、他国を侵略して領土を広げようとするのは王国の将来を憂いてのことだ。数年先じゃない。トルーマン元帥が目指しているのはこの先数十年の王国の基盤を整えることだ」
グレンは正確にトルーマン元帥の意思を理解していた。グレンの気持ちは別にして、やはりグレンとトルーマン元帥の関係は特別なのだ。
「基盤……」
「分かりやすく言うと、暗愚な王が二代続いても、ちゃんとその次の代に王国を受け継げるようにすること」
「なるほどね。分かりやすいわね」
「だがそれを邪魔する者がいる。ゴードン大将軍だ。これは元帥の座を奪いたいが為に動いている。軍の改革なんて二の次だ。王国を乱したければ、この大将軍を使う手もある。出来るのならだけど」
国を相手に戦う一番の方法は敵の内部を混乱させること。軍部の権力争いは、それの恰好のネタだとグレンは思っている。
「無理ね。少なくとも私のところは王国内に手を伸ばす力はないわ」
ただ残念なことに、ローズの組織にはそこまでの力はないようだ。
「そう。ただ大将軍は暗愚ではない。頭は回るし、決断も大胆だ。勇者を平気で切り捨てる決断が出来るくらいだから」
「……元帥よりも曲者なのね?」
「そうだな。閣下は真っ直ぐなところがあるから。でも今は困るけど、先々は閣下を早めに失脚させるのも手だな」
「良くしてもらっているのに」
ローズから見るとグレンはとても優しいのだが、時々、こういう非情なことを平気で口にすることがある。今のローズには向けられない、もう一つのグレンの顔だ。
「別に俺がするわけじゃない、一つの案として言っているだけ」
「でもどうして? 軍の改革を止める為?」
「閣下と大将軍の対立という構図が崩れる。ところが大将軍で一本にまとまるかと言えば、そうならないような気がする」
「どうして?」
「上同士の対立は分かりやすい。でも実際は下の方でも対立している。閣下支持、大将軍支持という単純な構図じゃなくて、軍の改革を望む人、現状維持を望む人、自身の立身だけを考えている人、色々だ」
「ん、ちょっと分からない。それが?」
「閣下がいなくなれば大将軍の下で、新たな対立が始まる可能性がある。それらはまだ扱いやすいと思うな。どれか一つと手を組むのではなく、どれとも手を組んで、どれをも裏切れば良い。それで王国の軍は混沌とする」
トルーマン元帥の存在が実は軍内部の争いを抑えているともグレンは考えている。トルーマン元帥がいなくなった時、共通の敵を失った大将軍派は分裂し、親トルーマン派は過激さを発揮するかもしれない。そうなれば軍部は大混乱だ。
「王国は弱体化する」
「後は王太子の対抗馬だな。それで王家も二つに割れて内紛なんてなれば完璧だけど、ただこれは難しいな」
「エド?」
「その気はないのはあの時に分かっていたけど、徹底している。城内で見たことは一度もない。公の場に出ない。会う者も極々一部の側近だけ。噂ではすでに臣籍降下を願っているなんて話もある」
「駄目ね。それにあの人は、周りに動かされるような人には見えなかったわ」
「それが正しい評価だと思う。王国を脅かす側としては、間違っても表舞台に出してはいけない人だな。メアリー王女はエドワード王子を名君になると評価した」
敵にとっては暗愚の王のほうが良い。優秀なエドワードをわざわざ引き出す必要はない。
「仲悪くないのね? グレンを羨ましがっていたくせに」
「少なくともメアリー王女の方は慕っているように思えた。でも王族は兄妹でも親しく話す機会はない。それに母親が違う。この対立があるから本人同士は仲良くしたくても出来ない。エドワード王子はこう言いたかったのかもしれない」
「それはあるわね」
「こんな情報。どうかな?」
王国の内部事情。内容としては決定的なものはないが、盗賊もどきの叛乱勢力では入手出来ない情報だ。
「喜ぶと思うわ。でも活かすことは出来ない」
「そうじゃないと困る。俺を自由にしてくれるのは閣下しかいない。失脚は、それが終わってからでないと」
「そうね……ありがと」
今思いついたことではない。きっと、自分の為に何か出来ないかとグレンは考えていてくれたのだとローズは思った。
「ローズにはずっと側に居て欲しいから」
グレンのこの言葉が、ローズの考えが正しいことを証明している。
「グレン……」
「ローズ……」
「……さあ、寝よ」
「えっ?」
雰囲気はかなり盛り上がっていたはずなのに、ローズは乗ってこなかった。
「危ない、危ない。又、のせられるところだったわ」
「……ちぇっ」
こんな夜もある。というか、もう十分だろ。