――新学期が始まった。
エカード派とリーゼロッテ派の激突を予想した生徒たちによって作り出された学院の緊迫した雰囲気は、かなり和らいできている。激突といえるような出来事がいつになっても起きないことが理由だ。
嵐の前の静けさ、と捉えていた生徒たちも当初はいたが、それもリーゼロッテ派、という派閥の存在自体が生徒たちの思い込みなのだが、が閉鎖的といえるくらいに仲間内だけで行動している様子が明らかになるにつれて、そういう考えは薄れていった。
多くの生徒たち、とくに貴族家の生徒たちにとってはこの状況は望むところだ。公爵家が真っ二つに分かれて争う状況になって中立など許されるはずがない。どちらかに付かねばならず、どちらを選んでも逆の派閥からは恨まれることになってしまう。これも思い込みだ。少なくともリーゼロッテの側は、派閥という意識がそもそもないのだが、仲間も増やそうとはしていない。
学院生活も残り一年。卒業までとにかく目立つことは避け、平穏な日々を過ごすこと。このジグルスの考えが徹底されているのだ。
「……ということですのでお帰りください」
「帰れって……誤解しないでもらいたいが、それは俺の実家がどこであろうと失礼な態度ではないか?」
部室を訪れたタバートは、ジグルスに帰れと言われて不満そうだ。
「タバート様お一人であれば、俺もこのような真似は致しません。実際にこれまでしてこなかったはずです」
「それは……少し多かったか?」
今日のタバートには同行者がいる。タバートの実家であるアスカン公爵家の従属貴族の子弟。つまりタバートの取り巻きたちだ。
「数の問題、いえ、まったくないとは言いませんが、とにかくタバート様が従属貴族家の生徒の方々を連れて、この場所に来ることが問題なのです」
タバート一人であればまだしも、取り巻きの生徒たちまでリーゼロッテの部室に出入りするようになれば、周囲から派閥の形成を疑われてしまう。ジグルスとしては絶対に避けたいことだ。ようやくそういった話題が生徒たちの口に上ることがなくなったところなのだ。
「……気にするのは分かるが、勉強会に参加させたいだけだ」
「勉強会って」
政治の世界でも、ニュースなどで見聞きしただけの知識だが、聞く言葉。まさに派閥だ。
「何度も連れてくるつもりはない。こういうことをしている生徒たちもいるということを皆に教えたいだけなのだ。頼む」
ジグルスに向かって、頭を下げるタバート。この行動には、ジグルス以上に、タバートの取り巻きの生徒たちが驚いている。公爵家のタバートが男爵家のジグルスに頭を下げるなど普通ではない。ましてタバートがこのような真似をしたことを彼等は初めて見たのだ。
「……リーゼロッテ様」
ジグルスはリーゼロッテに判断を仰ぐことで、自分ではなくリーゼロッテに頭を下げたという形に変えようとしている。タバートの取り巻きたちの反発を恐れてのことだ。
「タバート殿にそのような真似をされて、どうして断ることが出来るでしょう?」
「承知いたしました。ではタバート様、そして皆様、すぐに席を用意しますので、お掛けください」
ジグルスがタバートたちにこれを告げた時には、すでに仲間たちは椅子を運ぶ為に動き出している。タバートに頭を下げさせてしまったのだ。これ以降は、非礼はあってはならないと皆分かっているのだ。
「……このような真似はこれっきりにしてください」
椅子が揃うまでの間に、ジグルスはタバートに小声で二度と同じような真似をしないように頼む。
「ものを頼むのだ。当然の行為だと思うが?」
これを言うタバートの顔には笑みが浮かんでいる。それを見てジグルスは、自分の言いたいことが分かっていて、あえて惚けているのだと分かった。
「人の上に立つというのは大変ですね?」
「楽ではない。だがこれについては俺の力不足だ」
タバートが頭を下げたのは自分の本気度を取り巻きの生徒たちに知らしめたいからだ。リーゼロッテたちの勉強会では時に平民の生徒が教える側に立つ。どちらといえばその場合の方が多い。それに納得していない生徒が、タバートに面と向かって文句を言うことはないが、中にいることを分かっているのだ。
「力で従わせるよりはマシだと思います」
「……そうか」
実際には実家の力関係で生徒たちは従っている。ジグルスの言葉は胸に痛い。
「仕えるに値する。そう思えることは幸せだと思います」
タバートの反応から言葉足らずであったと気が付いたジグルス。フォローの言葉を継ぎ足した。
「君にとってのリーゼロッテのように、か?」
「……まあ、そうですね」
自分のリーゼロッテへの想いはそういうものなのか。少し違うとジグルスは考えている。大袈裟に表現するなら、自らの意思でリーゼロッテの為に行動することで、自分の存在意義を確かめている。そういうことになる。
「俺もそう思ってもらえるようになりたいものだ」
「もうなっているのでは? 仮に今はそうでなくても必ずなれます」
「……何故そう思う?」
タバートの真意をジグルスは間違って捉えている。だがそれを指摘することなく、タバートは話を進めた。
「タバート様が頭を下げたのは、彼等に本気で学んで欲しいから。彼等の為です。それが分かっていて何も感じないような人であれば、下にいないほうが良いと俺は思います」
「……なるほどな」
声量をあげたジグルスの言葉は、自分に向けたものではないとタバートは受け取った。自分の取り巻きの生徒たちに、その中でも分かっていない生徒に、さりげなく伝える為の言葉だと。
やはり欲しい。タバートはこう思う。それを実現する方法も頭にはある。ただ、実行することには躊躇いを覚えている。手に入ることと、忠誠を得られること。これが両立出来るという自信がないのだ。
◆◆◆
エカード派、本人はそんな派閥の存在は認めていないが、も部室を持っている。リーゼロッテのそれよりもさらに大きな部屋だ。そこに集うのはエカードとレオポルド。それにエカードの実家であるマルク公爵家の従属貴族家の子弟たちと、エカードのそれに比べれば数は少ないが、レオポルドの実家ミレー伯爵家の従属貴族の子弟たちだ。
以前はレオポルドの婚約者であるマリアンネもたまに出入りしていたのだが、今その姿を見ることはない。代わりに、ほぼ毎日訪れているのが主人公のユリアーナだ。
「おや? ユリアーナ、一人なのかい?」
部屋に入ってきたユリアーナに真っ先に声を掛けたのはレオポルド。いつものことだ。ただ今日に限っては、掛けた言葉が違っている。あらかじめ、他の生徒を連れてくると聞いていたのだ。
「……先約があったみたいで」
「全員が?」
ユリアーナが誘った生徒は一人ではない。レオポルドはそう聞いていた。
「そうみたい」
「……まさか、まだ嫌がらせを受けているのか?」
全員に予定があるというのは不自然だ。レオポルドは、誘われた生徒たちはリーゼロッテに脅されて嘘をついているのだと考えた。
「……そうかもしれない」
根拠があっての言葉ではない。そういうことにしたほうが都合が良いと考えただけだ。
「性懲りも無く……分かった。僕が文句を言ってやるよ」
「そ、それは……!」
「大丈夫。今度はきちんと証拠を揃えてからにするから。誘った生徒たちの名前を教えてくれるかい?」
証拠もなしに追及しても、また煙に巻かれるだけ。これはレオポルドの思い込みなのだが、真実を知らない、ユリアーナの言葉を鵜呑みにしている彼には分からないことだ。
「……彼等に悪いわ」
ユリアーナは生徒の名を告げられない。嫌がらせなどないことを彼女は知っている。生徒たちに真実を語られては困るのだ。
「ユリアーナ。周りを気遣うその優しさは美徳だ。でもその為に君が傷つくことに僕は耐えられ……いや、納得出来ない」
二人の近すぎる距離を感じさせる台詞。つい口走ってしまったそれをレオポルドは言い直す。今は二人きりの時間ではないのだ。
「……ありがとう。その気持ちだけで嬉しいわ。でも大丈夫。本当に予定があっただけかもしれないもの。また機会を見つけて、誘ってみるわ」
本当にリーゼロッテから脅されていたとしても、断られるはずがない相手も中にはいる。今日は、理由はまったく分からないが、何か調子が悪いのだ。ユリアーナはそう考えることにした。
「そうかい……分かった。問題があるようだったら遠慮なく言ってくれ」
「分かったわ」
ユリアーナの嘘によって費やされた無駄な時間も、ようやく終わり。終わったからといって、何かがあるわけではないが。この部室では、個人的に勉強などをしている生徒はいても、全体で何かをするという予定はないのだ。
「……エカード。熱心に何を読んでいる?」
エカードは個人的に勉強をしている一人。少し離れた位置にある机に座って、熱心に何かを読んでいるエカードにレオポルドは声を掛ける。ユリアーナが部室に入ってきたのに、何の反応も示さなかったことが気になっているのだ。
「……少し調べ物を」
今、エカードが読んでいるのは勉強の為の本ではなかった。
「調べ物? 何について?」
「領地のことだ。悪いが話せない」
読んでいた紙の束をもともと入っていた封筒に入れると、エカードは机から立ち上がり、レオポルドが座るテーブルに向かって歩き出した。
ユリアーナが現れてはもう放っておいてもらえない。そう考えた結果の行動だ。
「学生のうちから領地についての調べ物か。公爵家となるとやはり違うな」
レオポルドの実家は伯爵家。同じ王国に臣従する貴族家であっても、独立国に近い自治権を持つ公国を治める公爵家とは事情が違う。
「たまたまだ」
ただ今回の件はそういうことではない。調べ物は事実だが、領地に関わることというのはその中身を隠す為の嘘なのだ。
「……そうか」
話が弾まない。ただこれは珍しいことではないので、レオポルドが疑問を抱くことはない。
「そうだ。そういえば今度、王家主催のパーティーがあるのよね?」
エカードがテーブルの椅子に座ったところで、ユリアーナが別の話題を持ち出してきた。
「……よく知っているな?」
平民であるユリアーナに伝わる情報ではない。誰かが彼女の耳に入れたのだ。
「レオポルドに聞いたの」
「だろうな」
分かっていた答えだ。貴族家の生徒であれば誰もが知れるという情報ではない。一定以上の爵位の貴族だけが招待されるパーティーなのだ。
「……エカードは誰を同伴させるつもりだ?」
続けてレオポルドが同伴者を誰にするか尋ねてきた。招待者は異性の同伴者を連れて行くのが、絶対ではないが、ルールなのだ。
「何故、そんなことを聞く?」
「それは……あれだ、僕はその、困っている」
「……マリアンネに断られたのか?」
レオポルドの同伴者は、婚約者であるマリアンネが務めるはず。そうであるのに、レオポルドが困っているなんて言うというのは、そういうことだ。
「まあ……」
「よく彼女の実家がそれを許したな?」
マリアンネの感情だけで決められることではないはず。婚約は家と家が決めたこと。まして爵位はレオポルドの実家のほうが上なのだ。
「許す許さないは関係ないよ。当日、具合が悪くなれば参加は出来ない」
「……えっ?」
「はっきりと言われたわけじゃないけど、そんな風なことを匂わしてきた」
「それで納得したのか?」
仮病を使うということだ。それを許す気持ちがエカードには理解出来ない。
「それも関係ない。それに当日に知らされるよりはマシだ。事前に言ってきたのは、マリアンネの良心だと僕は受け取っている」
ドタキャンとなればパートナー不在で過ごすことになる。エガートもいるはずなのでまったく一人ということではなく、困るのはダンスの時くらいだが、同伴者なしで参加するという結果が恥ずかしいことなのだ。
「…………」
「……エカード。まさかリーゼロッテが同伴してくれるなんて思っていないよな?」
黙り込んでしまったエカードに、まさかの質問を投げるレオポルド。何度もパーティーに参加する機会があったわけではないが、これまではずっとエカードの相手はリーゼロッテが務めてきた。だが、さすがに今は、それはあり得ないとレオポルドは思う。当たり前の考えだ。
「……しかし家と家の」
「いやいや。正式に婚約していたわけじゃないよね? 婚約していたとしても僕みたいなことになるのは明らかだよ?」
実家が同じ公爵家で同い年の幼馴染み。エカードとリーゼロッテの関係はそれだけだ。ただ当人同士は、いずれは婚約という話になるのだろうと考えていた。少なくともリーゼロッテにとっては過去形だ。
「……話をしてみる」
「それも冗談だよね?」
「冗談?」
「意外だ。君にそういう面があるとは思っていなかった」
今、リーゼロッテとは話を出来る状況でもない。そうであるのにパーティーについて話そうとするエカードを、レオポルドは図々しいと感じた。エカードに対して、初めて感じたものだ。
「しかし……話をしないと分からない」
「何が分からない? 彼女は君とは同伴しない。これは聞かなくても分かることだ」
「それで彼女の実家が納得するか?」
エガートは図々しいわけではない。リーゼロッテは、私情を優先して、実家の意向に逆らうことは出来ないと考えているのだ。自分がそうであるように。
「……だから体調不良だ。具合が悪いという娘を無理矢理参加させられないだろ?」
「それは推測だ。実際にどうするつもりかは確かめないと分からない」
「……じゃあ、好きにすると良い。その代わり、あとで文句を言うなよ?」
「文句?」
何故、自分がレオポルドに文句を言うことになるのかエカードには分からない。
「僕はユリアーナに同伴をお願いするつもりだ。他に頼める女性はいないからね」
「彼女を王国のパーティーに?」
エカードの眉が潜められる。レオポルドの話を良く思っていない証だ。
「エカードに優先権があると思っていたけど、それを放棄するつもりなら構わないよね?」
こんな言い方をしているが、これがレオポルドの最も望ましい形だ。エカードを差し置いてユリアーナを同伴者にするのはマズいと考えて、すぐに言い出さなかっただけなのだ。
「……彼女は平民だ」
だがエカードが不満そうな表情を見せたのは、平民であるユリアーナを王国のパーティーに参加させるということに対してだった。
「……同伴者が誰であろうと問題ないはずだ」
「そうだったか? それが事実であれば、俺が文句を言うことではないが」
参加してはいけないと決められていないのであれば、エカードに止める権利はない。それでも場違いであるという思いは消えない。差別しているつもりはなく、場を乱すのではないかと心配なのだ。
「大丈夫だ。僕の立場では挨拶に回ることはないからね」
レオポルドも問題があることは分かっている。だが国王の御前に出るわけではなく、上級貴族家の人々に挨拶することもない。ユリアーナの身分が明らかになることはないと考えているのだ。
「……まあ、そうだな。そうなると当日、俺は近くにいないほうが良いな」
「えっ?」
「相手のほうから挨拶に来るかもしれない。隣にいて知らない振りは出来ないだろ?」
エカードは公爵家の嫡男。次代の公爵だ。今のうちに誼を通じておこうと近づいてくる人がいないとは限らない。そうなった時にレオポルドとユリアーナが側にいれば、彼等も挨拶することになってしまう。
「……そうか……そうだね」
確かにその通りだとレオポルドも思った。
「あ、あの……私は……」
自分が望まない方向に話が進んでいる。それをなんとかしようとユリアーナが割って入ってきた。
「どうした?」
「……出来ればエカードの側にいたいわ」
レオポルドの前で、少し思い切った発言。だがここは引くわけにはいかないと彼女は考えている。
「そう言われても……レオポルドがいる。問題ないはずだ」
だがエカードがユリアーナの望む通りにしようとしない。これはユリアーナには誤算。レオポルドがいる場で媚びてみせたのに、エカードの反応は求めるものではなかった。
「一人でも多く側にいてくれたほうが安心だわ」
「そうか……レオポルド。彼女に無理をさせないほうが良いのではないか?」
ユリアーナが不安を感じているのであれば、パーティーに参加させないほうが良い。エカードはそう考えた。これもユリアーナの思惑から外れている。
「そうなのかい?」
「……い、いえ。パーティーにはすごく興味があるわ。こんな機会は二度とないと思っているから、是非行ってみたい」
一人でも多くの有力者に会いたい。ユリアーナはこれを望んでいる。その為にはエカードが側にいてくれたほうが有難いのだ。ましてエカードの反応が自分の思うそれとは違っているとなれば尚更だ。
完全にエカードを捕らえたと考えていたが、それは甘かった。やはりエカードはもっとも手間がかかる攻略相手なのだ。ユリアーナは自分の甘さを反省し、この先の方針をもう一度考え直すことに決めた。