城内の食事室は重苦しい雰囲気に包まれていた。
この場にいるのは、グレンとメアリー王女。そして健太郎と結衣の四人だ。
メアリー王女に呼び出されて食事室に来た健太郎は、隣の席にグレンが座っていたことで、何の用件か分かったのだろう。少しふてくされた様子で、正面の椅子に座ったまま口を開かないでいる。
一緒に来た結衣の方は、何も行動しなかった自分を恥じているのか下を向いたまま、これも又、一言も話さないでいる。
呼び出したメアリー王女も同じようなものだ。口を開くことなく、拗ねた感じで軽く健太郎を睨んでいる。自分の言うことを聞かない健太郎に腹を立てているのは、確かめなくても分かる。
こうなるとグレンが話を切り出すしかない。
「その様子だと用件は分かっているようですね?」
「何の事かな?」
「勇者様の評判が最近すこぶる悪いと耳にしました」
「あっ、そう」
グレンの話を聞いて、健太郎がメアリー王女に視線を向ける。メアリー王女が告げ口をしたと思っているのだ。
「王女殿下からではありません。自分の耳に自然に入るくらいに、評判が広まっているということです」
グレンはすぐに健太郎の考えを否定する。実際にグレンが聞いたのはトルーマン元帥からだ。
「……僕は何も悪い事をしていない」
「調練をさぼるのは悪い事ではないのですか?」
「それは……親衛隊の皆と親交を深めているだけさ。隊の結束を強めるのも大切な事だろ?」
調練をすることでも隊の結束は強まる。グレンはこう思うのだが、指摘するのは止めておいた。目的は健太郎に考えを改めさせることであって、追及ではない。
「それは調練の時間以外でも出来る事です。違いますか?」
「そうだけど……」
「では何故?」
「……僕は強い。騎士団の誰よりもね。調練に出たってまともに相手が出来る人がいない」
これは事実だが、さぼる理由にはならない。以前、懸念した通り、健太郎は驕っている。だが、この驕りを指摘することもグレンはしない。
「勇者様はそれで良いかもしれません。でも、親衛隊の方々はどうなのですか?」
「えっ?」
「親衛隊の方々は勇者様と共に戦うのです。彼等は勇者様の戦いに付いて行けるだけの実力があるのでしょうか?」
健太郎を責めても拗ねるだけと考えたグレンは、親衛隊の騎士たちを口実にする事にした。
「どうかな? ちゃんと戦った事はないな」
「実力がなければ彼等は戦場で命を落とす事になります。これはお分かりのはずです」
「……まあ」
「親交を深めるのは良いことだと思います。隊の結束の強さは、そのまま隊の強さに繋がりますから。ですが、それも実力があってのこと。実力の劣る人が勇者様と行動を共にしては、早死にするだけだと思います」
「確かに」
健太郎は持ち上げ、騎士たちは大きく劣る存在として庇護の気持ちを湧かせる。グレンの作戦の基本はこれだ。
「上に立つというのは大変だと思います。時には嫌われるような真似もしなければいけない。ですが勇者様は親衛隊の騎士たちの為にそれをしなければいけません。それが結果として彼等の為になるわけですから」
「そうだね。彼等もちゃんと鍛えてあげないと」
「はい」
何とか鍛錬を行うという言葉を健太郎から引き出せた。
「でもどうすれば良いのかな?」
「……勇者様はこの世界に来て、どの様な鍛錬をされましたか?」
鍛錬の方法を聞かれるとはグレンは思っていなかった。それが分からないほど、健太郎は鍛錬をしていないのかと心配になる。
「……同じ事をすれば良いのか?」
一応は健太郎も鍛錬をしている。剣を持ったこともない人間だったのだ。基礎の基礎から学んでいた。身についているかは別だが。
「全く同じは難しいでしょう。何と言っても貴方は勇者なのですから。少し緩くするくらいで丁度良いのではないでしょうか?」
勇者と同じはさすがに無理だろうと判断したグレンは、少し内容を落とす提案をする。
「そうだよね。僕と同じはさすがに無理だ。ちょっと緩くか。分かった」
健太郎に上手く通じたようだ。
「ご理解が早くて助かります」
「グレンは手伝ってくれないの?」
「……自分は従卒の方たちの調練がありますから」
これは口実。落ちこぼれの、しかも怠け者の騎士の相手などグレンはしたくない。鍛錬以前に、嫌な気持ちになるのが目に見えている。
「一緒にやれば良いじゃないか」
「一人前の騎士の方たちと見習いの彼等とでは元々の力が違いすぎます。騎士の方たちでさえ、勇者様の鍛錬に付いて行くのは大変でしょう。見習いの騎士では、鍛錬にならないうちに終わってしまいます」
「そう……」
まだ完全に納得した様子ではない。更にもうひと押しが必要だ。
「まだまだ先の事になりますが、彼等も一人前の騎士になれば、親衛隊の一員となる人も出てくるでしょう。その時を楽しみにしていてください」
「分かった。じゃあ、早速話をしてこようかな」
もうひと押しが功を奏して、健太郎は納得した。ただ、その言葉がグレンは気になる。
「……騎士の方たちはこの時間でも残っているのですか?」
怠け者の騎士たちが、どうして帰らないで残っているのか。何となく、ろくでもない理由であるようにグレンには思える。
「さすがに全員じゃないよ。数人だけ。小隊長ってところかな」
「……そういう事ですか」
「じゃあ、僕は部屋に戻りたいのだけど?」
「……どうぞ」
食事室に来てからのふてくされた感じはすっかり消え去って、健太郎はご機嫌な様子で食事室を出て行った。
「グレン、ありがとう。さすがね。私の言うことは全然聞かないのに」
「…………」
メアリー王女が感心した様子で、グレンに話しかけてきた。だが、グレンはムスッとした顔をして何も答えない。
「……どうしたの?」
「……全然駄目です」
「えっ?」
「話していて理解しているように感じませんでした。あれでは戻って騎士たちに別のことを言われれば、それで又、考えを変えてしまうでしょう」
「そう……」
「何故ですか?」
グレンの問い掛けは食堂室に残ったままでいた結衣に向けられたものだ。
「……何故って」
「戦争はそう遠い先の事ではありません。それなのに、何故、今あんな風でいられるのですか?」
健太郎の危機感のなさがグレンには信じられない。
「でも健太郎は勇者で」
「それが何ですか?」
「だって勇者が死んだら」
「……聖女様も同じですか? 根拠のない自信を持っている」
結衣が何を言いたいのか、グレンにはさっぱり理解出来ない。理解出来ない、その自信が無性に腹立たしかった。
「聖女様って。結衣って呼んでよ」
「理解しあえない相手とは名を呼びあっても、距離は近づかないと思いますが?」
「どういう意味?」
「勇者だって死にます。聖女だってそうです。それとも試してみたのですか?」
「そんな事は出来るはずないじゃない」
「死ぬという点において自分もお二人も同じです。そんな当たり前の事でさえ、考えが異なっている。それでどうして理解し合えるのですか?」
人は死ぬ。これを否定する者はまずいない。この常識を否定する者がいるとして、その人と理解しあえることはない。
「……そうだけど」
「この際ですから、きちんと教えてください。何故、死なないと思えるのでしょうか?」
結衣たちは異世界人だ。自分たちが知らない何かがある可能性もグレンは考えてみる。
「死ぬとは思っているわよ。でも、それは決着がついたあとの話で」
「決着とは?」
「強敵を倒すとか。世界を統一するとか」
「……やっぱり、分かりません。戦いに負ければ死ぬ。何故、そう思わないのですか?」
ちゃんと話を聞いても、やはり理解出来ない。そして、更に結衣はおかしなことを口にしてくる。
「負けないわよね?」
「はい?」
「だって健太郎は勇者よ? 勇者が負けたら物語にならないじゃない。もちろん、何度かは負ける事もあると思う。でも最後は必ず勇者は勝つ」
「…………」
どちらともなく視線を向けあったグレンとメアリー王女。お互いに何とも言えない表情で首を傾げている。
「何?」
「自分は生きていますけど?」
「何、当たり前の事を言うのよ」
「物語の中ではなく、現実に生きていると言っているのですが?」
物語は成り立たないと結衣は言った。では、その物語は何なのかということになる。
「それは……そうね」
「それとも自分は聖女様の夢の中で生きている人間なのでしょうか?」
「…………」
グレンの問いへの答えを結衣は持っていない。この世界のことを結衣は分かっているわけではないのだ。
「そうなのかも知れませんが、自分は自分が生きていると信じます。そしてお二人も。現実の中で生きている以上、負けることもあれば、死ぬこともあります。それが普通だと思いますが?」
結衣が何を知っているのかグレンには分からない。分からないのであれば、自分の分かっている知識の中で生きるしかない。
「でも私たちは選ばれて召還されたのよ」
「……そうなのですか?」
これはグレンには分からない。問いをメアリー王女に向けた。
「分からないわ。召喚の儀の仕組みは解明されていないのよ。失われた太古の魔道ね」
「でも実際に御二人は召喚されています」
「使える状態で残っているってだけよ。それが壊れてしまえば、新しいものを作るどころか直す事も出来ないわ」
この世界には解明できていない過去の魔道がいくつか存在する。召喚の魔道はその代表的な、もっとも未知な魔道だ。
「そういう事ですか。では御二人は選ばれた可能性はあるわけですね?」
「何に?」
「……確かに」
選ばれたと言われても選ぶ者が思い当たらない。
「でも、この世界の神様とかが」
結衣は神様が選んだのだと主張してきた、のだが。
「カミサマ? それって何ですか?」
「えっ!? この世界には神様はいないの!?」
「少なくとも自分は初めて聞いた言葉です」
「私も。異世界にはいるのね?」
グレンもメアリー王女も神様という存在を知らなかった。
「……いるという事になっています」
メアリー王女の問いに結衣は自信なさげに答えた。
「何だか曖昧ね。見たことはないのかしら?」
「神様には会えません」
「じゃあ、何でいると分かるのかしら?」
「それは古くからの言い伝えとかで」
神様の存在を説明することなど結衣に出来るはずがない。
「……ああ、何かそういう話があったかもしれない。太古の昔に、この世界にいた存在だったわね。でもカミサマなんて呼んだかしら?」
言い伝えという言葉を聞いたメアリー王女には心当たりがあるようだ。
「呼び方は違うかもしれない。でも、きっとそれ」
「この世界から去ったはずね」
「えっ!?」
「私も詳しい話は知らないわ。だって、きちんと記録がある訳ではないもの。ただ、おとぎ話みたいに何となく、そういう話が今の時代にも伝わっているのよ」
「でもいるのよ」
神様がいないという事実は結衣には受け入れられないものだ。単に色々と前提が崩れしまうという理由からだが。
「……いたとしてどうなの?」
「神様は人間が持たない凄い力を持っていて、召喚者にその力を与えるのよ。だから勇者は異常に強いの」
「ケンは会ったのね?」
力を与えられたと聞けば、会ったと考えるのが普通だ。
「会っていない」
「分からないわ。会ってもいないのに、何故、そんな風に思えるの?」
「召還とか転生ってそういうものなの」
全く根拠のない思い込み。これをいくら説明しても理解されるはずがない。そもそも説明しようがない。思い込みなのだ。
「……異世界の知識ね」
「そうよ」
「らしいわよ?」
全く理解出来ていないのだが、異世界の知識と言われれば。もうこれ以上聞きようがない。半ば諦めてメアリー王女は、グレンに問いを向けた。
「……でも少なくとも評判を操作する力はないようです。今の様な真似を続けていれば、いずれ多くの人たちにそっぽを向かれる事になります。調練をさぼる理由にはなりません」
グレンも理解出来ていない。そうとなれば、理由は無視して、とにかくその気にさせるしかない。
「それは分かってる」
「分かった事はいくら話を聞いても理解できないという事ですか。ちなみに、その物語の結末を教えてもらえませんか? そうすれば、余計な心配をしなくて済みます」
グレンも説得を諦めかけている。勇者たちとの間には深い溝があることを、この会話で思い知ってしまった。
「それは色々なストーリーがあるから」
「ストーリー?」
「筋書きかな。……どうしてシスコンは分かるのに、ストーリーは分からないの?」
グレンは自らシスコンと認めている。それでストーリーが分からないはずがないと結衣は思っている。
「どうしてと言われても、ストーリーは知らない言葉です」
「でもシスコンも同じよ」
「シスコンは知っています」
「だからどうして?」
また一つ、これは小さな溝だが、見つかった。
「同じ異世界語でも伝わっているのと伝わっていないのがあるからよ」
ただ、この溝はすぐにメアリー王女が埋めてくれる。
「えっ? シスコンって異世界語なのですか?」
グレンの知識にはない話だ。
「そう」
「どうして異世界の言葉が?」
「昔、ある勇者が広めたからよ。ちょっと変わった勇者だったみたい」
「どう変わっているのですか?」
「知りたい?」
グレンの興味を引けて、メアリー王女はちょっと喜んでいる。また楽しい会話が出来るかもと考えたのだ。
「少し興味があります」
「じゃあ説明するわ。その勇者は怪我をして戦えなくなったの。そうなるともう勇者としての待遇は受けられなくなった。それでも生活に困らない程度の手当は与えられていたのだけど、それでも我慢出来なかったのね」
「我儘ですね」
生きることで精一杯の人たちばかりのこの世界。健太郎や結衣もそうだが、勇者の要求はグレンには我儘にしか思えない。
「王族並の暮らしをしていていきなり庶民の生活だから」
こう言いながら、メアリー王女はちらりと視線を結衣に向けた。だが、結衣は何も感じていないようで、ただ話をぼんやりと聞いているだけだった。
「……何もしないで生活出来るだけマシです」
グレンもわずかに嫌味を込めてこう言ったがやはり結衣の反応はなかった。
「とにかくお金を稼ごうとした勇者が思いついたのは自分の経験を本にして売ることだったの。勇者の物語だから、結構売れたそうよ」
「確かに少し読んでみたい気もします」
健太郎の物語であれば読みたいとは思わない。だが、この勇者は戦えなくなるくらいの怪我をしている。何者と、どのような戦いをしてそうなったのかが気になった。
「それは無理ね。手に入らないから」
「古い本なのですね?」
「それもあるけど、すぐに発行禁止になったの」
「どうしてですか?」
「日々の生活まで詳しく書きすぎたのね」
「……それが問題になるのですか?」
自分の経験を書いたということは自伝だ。生活を詳しく書くのは当然だとグレンは思った。
「だって王女との恋愛まで書いてしまったのよ? それも王女との関係のかなり詳しい内容まで」
「それは……」
「しかも、本が出された時、その王女はすでに他国に嫁いでいたの。一国の王妃の若い時の赤裸々な内容が載っている本。問題にならないほうがおかしいわ」
「それはそうですね」
勇者と王女のゴシップ。自伝というより暴露本だ。売れれば売れるだけ、書かれた人にとっては堪らない。発行禁止にもなるというものだ。
「それで体験談では思ったより稼げなかった勇者が考えたのは、架空の物語を本にする事。それが爆発的に、国に関係なく売れたの。その本の中には異世界語が山ほど載っていた。その中の多くが、この世界に広まったという訳よ」
「それも読んでみたいですね」
「読めるわよ。図書室にあるから」
「何て本ですか?」
「確か……『シスコン勇者のどきどきハーレム創造』だったわね」
「はい?」
「題名はちょっと趣味を疑うけど、娯楽本としては面白いわよ。実は私も何度か読んだわ」
少し悪戯っぽい笑みを浮かべながら、メアリー王女は告白してきた。
「ちなみに内容は?」
その表情を見ると、グレンとしては内容が気になる。
「勇者が妹と一緒に召喚されるのだけど、その妹に異常に執着していて妹以外、目に入らないの。戦いより妹って感じなのだけど、それでもドタバタの中で活躍していくって物語」
「ハーレム創造のハーレムって?」
グレンの視線は結衣に向かう。
「自分で調べてよ。私はちょっと」
結衣は答えを拒否した。またグレンにからかわれると思って、警戒している。
「言えないような内容かしら? 要は、多くの女性を妻にするって事よ」
それを聞いたメアリー王女はあっさりと答えを口にした。
「側妻ですね」
この世界では当たり前のことだ。グレンも何とも思わない。
「そうよ。妹しか目に入らないくせに主人公の勇者は、色々なきっかけで女性に好きになられるの。鈍感な主人公の反応が面白くてね。特に王女……とのやりとりは」
本の内容を説明していたメアリー王女は言葉を詰まらせる。その視線は真っすぐにグレンに向けられていた。
「純粋な娯楽本ですね?」
「鈍感……」
「はい?」
「何でもないわ。そういう本なの。題名にあるシスコンは誰でも知っている言葉になった。他にも幾つかあるわね」
「でも、広まらないのと広まったのがあるのですね?」
「……こういうことだと思うわ」
少し考えてメアリー王女は持論を展開する。
「例えばシスコンは本の注釈にこう書いてあるの。姉もしくは妹に異常な執着、好意を持つ兄もしくは弟。多くの場合は、その感情は恋愛とは似て非なるもの。正確じゃないと思うけどこんな感じだったわ。これはこの世界の言葉では短く説明出来ないわ。だから異世界語のまま広まった」
「そうか。ストーリーは筋書き。変える必要はありませんね?」
「そうよ」
グレンが自分の説明に納得している様子を見て、メアリー王女は満足気だ。
「勉強になりました」
「私も勉強というか、気がついたわ」
「何をですか?」
「ねえ、私の話は?」
グレンの問いにメアリー王女が答える前に、結衣が割り込んできた。放ったらかしにされているようで、気に入らないのだ。
「何の話でしたっけ?」
「物語の結末がどうこうって」
「ああ。えっと……あっ、そうそう。聖女様が言っている話はまるで小説の中の出来事のようです。でも、悲劇で終わる小説も世の中にはあります」
「別に小説の話なんてしてないもの」
「そうですか……自分はもう聞く事はありません」
グレンは完全に諦めた。この世界に生まれて生きてきたグレンたちに、空想小説と現実を混在させている結衣の言葉が理解出来るはずがない。
「私もないわ。最初からなかったけど」
「じゃあ……私はこれで失礼します」
話が終わったとみて、結衣は部屋に戻ろうとする。ここにいても責められるだけで気分を悪くするだけだ。
「グレンは残ってね」
「はい?」
「残って」
「また愚痴ですか?」
「王女に向かってその口の利き方はどうかしら?」
「謹んで拝聴致します」
「それでよろしい」
わざとらしく胸を張って応えるメアリー王女。
「……偉そう」
それに対してグレンは素直に感想を口にする。
二人の間には以前はなかったなれ合いがある。一緒に過ごした時間が、そのまま二人の距離を近づけたようだ。
「王女ですもの。文句があるのかしら?」
「跪きましょうか?」
「それも良いわね。前のあれ良かったわ」
演習場で見よう見まねでグレンが行った古めかしい騎士の礼。メアリー王女は案外気に入っていた。
「冗談ですけど」
「跪きなさい!」
「だから冗談……」
こんな二人のやり取りを横目で見ながら結衣は席を立った。すこし物言いたげな素振りを見せたが、二人がそれに目を向けることはない。
結局何も言わないまま食事室を出て行った。
食事室の扉が閉まる音が聞こえた途端に、ふざけ合いを止めて、グレンはひとつため息をついた。
「……理解不能です」
「そうね。でも思っていた通りね。二人は物語の主人公。主人公は物語の最後まで死ぬことはないのよ」
「この世界が物語であればの話です」
「それじゃあ、悲しいわね。私は脇役になってしまうわ」
真剣な話をしようと思っていたグレンに対し、メアリー王女はまた冗談で返した。もう重苦しい話は嫌だと言う意思表示だと思って、グレンもそれに合わせていく。
「思ってもいないくせに」
「何よ?」
「いえ。王女殿下は間違いなく物語の主人公です。それだけのお美しさで脇役では主人公が霞んでしまいますから」
「あら、ありがとう。じゃあ、二人で主人公になってみない? 一国の王女と平民出身の騎士の恋物語なんて素敵だわ」
「その話は終わったはずでは?」
恋愛ごっこはごっこに過ぎない。これにメアリー王女も納得したはずだった。
「では夢の中で生きている勇者を相手にして恋物語を紡げと言うのかしら?」
「……あまりお勧めしません」
「でしょう? じゃあ、今度は何が欲しい?」
「はっ?」
いきなり話が飛んで、グレンには何のことか分からない。
「贈り物」
これを言うメアリー王女は嬉しそうに笑みを浮かべている。
「……あのですね」
グレンの方は喜ぶことなど出来ず、ただただ戸惑っている。
「何かしら?」
「それでは自分は女性に養われているみたいです」
「王女相手なのよ。仕方ないわよ」
「そうじゃなくて」
「だって騎士服の時も結構楽しかったのよ。グレンにはどういう騎士服が似合うかなんて考えてね。衣装担当と相談しながら一つ一つ決めて行ったの」
「そんな手間を?」
演習の前にメアリー王女から贈られた騎士服。愚痴を聞いてくれた礼と言われていたので、そんな手間がかかったものだとは思っていなかった。
「面白かったの。まるで恋する男性への贈り物を考える少女のようだったわ」
「少女って……」
こうして話していると初々しさは感じられるが、メアリー王女は少女と呼べる年齢ではない。
「ちょっとくらい付き合いなさい」
「あっ、はい」
「だから、今度は何が良いかしら?」
「お気持ちだけで結構です」
「私はグレンの喜ぶ顔が見たいの。それが私の幸せよ」
「……ちょっとやり過ぎでは? 他の人に聞かれたら大騒ぎになります」
今の台詞だけを聞けば、恋人への告白みたいだ。さすがにこれにはグレンも焦る。
「そうね……さすがに今の台詞はね」
メアリー王女もさすがにやり過ぎたと感じている。
「でも考えておくわ。それで何か思いついたらグレンにあげる」
「……また焦っています?」
今日のメアリー王女は冗談にしても、やけに積極的過ぎる。何かがあるのかとグレンは心配になった。
「どうして?」
「何となく。そう言えば王女殿下は御幾つなのですか?」
「女性に年齢を聞くの?」
「失礼になるのは年を召された女性に対してだと思いますけど?」
「十分に年よ」
「それで御幾つ?」
「……しつこいわね。二十才よ」
グレンより年上だ。これが分かっているから、言いたくなかったのだ。
「二十才で?」
ただグレンは特に何も感じていないようだ。聞くまでもなく年上であると分かっていたこともある。
「結婚適齢期はとっくに過ぎているわ」
「それを言えばそうですけど。でも、どうしてですか? これを言うのは失礼かもしれませんが見た目は、かなりの美人ですし、性格は……ともかくとして」
「後半はかなり失礼ね。行き遅れの原因は勇者のせいよ」
「勇者?」
どうして健太郎が出てくるかが分からない。婚約者候補になったのは最近のことで、メアリー王女が成人したころには、まだ召喚されてもいない。
「そうね。知らないわよね。勇者の召喚って何年もかけて行うものなの」
「そうだったのですか。でも何にそんなに時間が掛かるのですか?」
「一番の理由は召喚日を見極める事ね。夜空の星が動いているのは知っている?」
「意識した事がありません」
星が動いている。これをグレンは初めて聞いた。様々なことを勉強したグレンだが、さすがに天文には手を出していない。他に学びたいことは山ほどあるのだ。
「動いているの。じっと見ていても分からない位の動きで」
「それと勇者の召喚に関係があるのですか?」
「あるのよ。その星の中でまれに他の星とは違う動きをする星が現れるの」
「流れ星ですね」
「違うわ。流れ星のように一瞬で消えるような星ではなくて、何年も夜空に見え続けるのよ」
「はあ」
彗星だ。勇者の召喚には彗星の動きが関係している。彗星がもっとも近づく時。それが召喚の魔道が発動する時だ。
「その星は少しずつ輝きを増して、大きくなっていくの。それが一番大きくなる日が召喚日。だから何年も前からずっと観察を続けて、それがいつか見極めるの」
「……それで行き遅れ?」
「人に言われるとちょっと頭にくるわね」
「すみません」
「勇者に嫁がせようという考えが、その当時からあったという事よ。そして、ずっと待ち続けて今になった。あげくがあれね」
「……お察しします」
何年も待ち続けた結婚相手が健太郎。無条件に同情出来る。
「でも、さすがにどうかという話になっているのよ。勇者というだけであの態度なのに、王家に列する事になれば、どうなるのかってね」
「まあ、想像はつきます」
ろくな事にはならない。勇者という曖昧な立場ではなく、明確に多くの臣下の上に立つことになるのだ。
「だから、その話は無くなりそうなの」
「良かった、のでは?」
健太郎を嫌がっているメアリー王女にとって朗報と思えたのだが。
「他に行く事になるわ」
メアリー王女は寂しそうにこれを告げた。
「……それも、良かった、のでは?」
何と言って良いか分からずに、とにかく前向きなことを言ってみた。
「……まあ行き遅れでずっと居るよりはね」
やはりメアリー王女は寂しそうに答える。グレンの言葉は励ましにはならなかった。
「ちなみに相手の候補は?」
「ゼクソンかアシュラム」
「……戦争相手ではないですか?」
嫁ぎ先の候補を聞いてグレンは驚いた。二国のどちらか、もしくは両方が、これから戦争を始めようという相手国だ。
「どちらかよ。私は一人しかいないから」
「……それはそうです……外交ですか」
「そう」
メアリー王女の言葉をグレンは正確に理解した。
両国を同時に相手にしない為に片方とは婚姻という外交を使って友好関係を築こうという方策だと。
「……でも、いずれは両方ともだと思います。そんな所に行っては戦争になった時に」
「これでも私、臣下に人気があるの」
「ああ、厄介払いですか」
また正しい意味でグレンは話を受け取った。
「……遠回しに言ったつもりなのに」
「あっ、すみません。でも王女です。継承争いには関係ないのではないですか?」
「愚兄だから」
「……確か、もう御一方」
少なくとも、もう一人は愚兄には程遠い人物だとグレンは知っている。
「エドワード兄様は王位になんて興味ないから。でも大きな声では言えないけど、私はエドワード兄様が王になれば良いと思っているわ。エドワード兄様なら、名君になれると思っているの」
「そうですか……」
エドワード王子が周囲の目をかなり気にしていたことをグレンは思い出した。継承争いを戦う気がないのであれば、当然だ。
「そうだ。一度会ってみる? グレンとなら話が合いそうよ」
「いえ、これ以上、王族の方と関わりになるのは。それに王子殿下となると色々と」
エドワード王子本人から自分には近づくなと警告されている。わざわざ危険を招き入れるつもりはグレンにはない。
こう思いながら、いつも危険を自ら引き寄せていたりするのだが、本人は本当にその気はないのだ。
「そうね。ちょっと残念な気がするけど仕方がないわね」
「具体的な時期は決まっているのですか?」
「婚約はもうすぐ。それが決まったら、もう一方と戦争という事でしょ?」
「そうですか。順当にいけばゼクソンですね?」
「どうして分かるの?」
二国のどちかとしか本人であるメアリー王女も聞いていない。
「軍事ですから。両国とも国境は険しい山脈で隔てられています。両国に侵攻するには、その間にあるそれ程広くない街道を進まなければいけません」
「……それと嫁ぎ先に何の関係があるの?」
「その街道を塞ぐ砦があるのですが、我が国が押さえているのはゼクソンとの国境だけです」
「まだ分からないわ」
「王女殿下の婚約は、軍事的な意味合いが強く、恐らく領内の軍の通行を許させるものになります。ゼクソンとアシュラムの国境は、我が国とのそれと比べれば、軍を進めるのが容易ですから」
この話を聞けば、トルーマン元帥は軍を離れることを許さなくなるかもしれない。戦略に近い内容で準騎士が考えるようなことではない。
「だから片方と同盟を結んで、その領内からもう片方に攻め込むのね。でもまだゼクソンである理由は分からないわ」
メアリー王女にはそんなことは分からないので、単純にグレンの考えを面白いと思って聞いているだけだ。
「同盟を結んだからと言って完全には信用出来ません。アシュラム側の領内を通過している最中に国境の砦を閉じられたら?」
「やっと分かったわ」
「はい。ゼクソンであれば砦は我が国のもの。それでも裏切られれば大事になりますが、敵の領内に完全に閉じ込められることは避けられます」
「そう……ゼクソンね。どんな人なのかしら?」
思わぬ形で嫁ぎ先を知ってしまったメアリー王女。こうなると、その先の相手が気になる。
「さあ? 他国の王族の知識までは持ち合わせていません」
「調べて」
「どうして自分が?」
「興味あるでしょ?」
「……別に」
話したこともただ個人的な興味だけで考えていたことだが、軍事には興味はあっても他国の王族には興味がない。
「……貴方にはそれくらいの事をする義務があるのよ」
グレンの返事を聞いて、メアリー王女は一気に不機嫌そうになる。
「……分かりません」
ここで馬鹿正直に本心を口にするのがグレンの人とずれたところだ。このせいでメアリー王女の気持ちを刺激することになる。
「何よ!? 私の結婚相手の話なのに冷静に分析なんてして!」
「はっ? いや、知りたいのかと思って」
さっきまで興味ありげに聞いていたはずが、いきなり文句を言われて、グレンは戸惑っている。
「もう少し、他に考える事はないの!?」
「何かとは?」
「私もうすぐ婚約するのよ! こうして気軽に話せる事なんて出来なくなるのよ!」
「……そうですね」
メアリー王女の言う通りだが、何故、それでここまで怒られるのかが分からない。
「そうですね、じゃないわ! もう、貴方なんて嫌いよ!」
「はっ?」
「…………」
青い瞳を大きく見開いたまま、メアリー王女は固まってしまった。
「……あの?」
「恋愛ごっこは最後まで付き合いなさいよ」
「あっ、そうでした。えっと、王女殿下とこうしてお会いできなくなるかと思うと……何だか白々しいですね」
恋人っぽい台詞を口にしようと思ったのだが、口から出たのは、自分でも今ひとつに感じてしまうものだった。
「そうね。今の台詞は気に入らないわ」
案の定、メアリー王女も不満そうだ。グレンは期待に応えようと、もう一度台詞を考える。もっと気持ちのこもった台詞を。
「じゃあ……怒らないで下さい。貴方と結ばれなくても、貴方が幸せになってくれれば俺はそれで良いのです。貴方の幸せが俺の望みですから。だから……幸せになってください」
「…………」
「えっと……駄目、ですか?」
無言で自分を見詰めているメアリー王女に恐る恐るといった感じで、グレンは問い掛けた。その問いにわずかに首を振って応えるメアリー王女。その体がゆっくりとグレンに向かって傾いてきた。
「えっ?」
自分に体を預けてくるメアリー王女にグレンは小さく驚きの声を上げた。それにも構わず、メアリー王女はグレンの肩に額を乗せて、体重を預けてくる。
「接触はマズイです。接触は」
王族の、それも女性の体に触れることなど許されることではない。
「…………」
焦るグレンだが、メアリー王女は黙ったまま離れてくれない。
「王女殿下?」
「……メアリーと呼んで」
「……無理です」
「恋愛ごっこに付き合ってよ」
「さすがにそれは。いや、今の状況もかなり……」
奴隷騎士に落とされるどころではない。見つかればこの場で切り捨てられても文句を言えない状況だ。
「恋愛したかったな」
メアリー王女がぽつりとつぶやいた。
「……そうですか」
呟きを聞いた途端に、グレンは不思議と気持ちが落ち着いた。
「グレンは好きな人いるの?」
「……います」
少し躊躇いながらも、本当のことを口にした。もう恋愛ごっこを演じる状況ではないような気がしたのだ。
「そう……もしかして、さっきの台詞はその人に向けたものかしら?」
「……そうかもしれません」
強く想いながらも、自分が幸せに出来るとは思えない。グレンの想いは口にした台詞と同じだ。
「私は駄目ね。好きな人と結ばれないのは悲しいわ」
「悲しむのは変わらないと思います。でも、自分が幸せに出来ないと分かっているので。相手の悲しむ顔を見るほうが辛いです」
「……そう。我儘を言って良いかしら?」
「何ですか?」
「ちゃんと抱きしめて」
「いや、それは……」
「泣き止むまでで良いから……ひとりで泣くのは……寂しいの……」
「……はい」
メアリー王女の背中に腕を回すと、グレンは少し力を入れてその体を引き寄せた。もう片方の手は頭だ。優しく髪を撫でている。
食事室からはしばらくの間、グレンの胸の中ですすり泣くメアリー王女の声が聞こえてきていた。