グレンの指導の下、従卒たちの厳しい調練は続いていた。
そんなある日。グレンに近づいてきたのは、いつもの通り、トルーマン元帥だった。
「調練はどうだ?」
「正直、思うようには進んでおりません」
「ほう。そう、うまくはいかんか」
グレンの泣き言を聞けて、トルーマン元帥は少し嬉しそうだ。
「一人で二百人を見るのは容易ではありません。一人一人個性がありますから、それを頭に叩きこむだけでも一苦労です」
「……なるほど。そういう鍛え方か。国軍とは違うな」
国軍の兵士に対する指導とは異なる方法をグレンはとっている。予想通りではあるのだが、それが出来るグレンにトルーマン元帥は感心した。
「兵と騎士の違いは大きい。そう思います」
「そうだな。しかし……それでもまあまあと思うがな」
懸命に調練を続けている従卒たちを見て、珍しくトルーマン元帥の顔もほころんでいる。若い見習い騎士が必死に鍛錬を続けている様子が見ていて嬉しいのだ。
「珍しくお世辞ですか?」
「見習いに厳しくしても仕方ないであろう?」
「見習いだからこそ、厳しく基礎を叩き込むべきだと自分は思います」
「ふむ。参考にしよう」
これはお世辞ではなく、トルーマン元帥は本気で参考にしようと考えている。
「それでご用件は?」
「用件がなければ近づいてはいかんのか?」
「従卒たちが緊張しています。彼らにとって閣下は雲の上の存在ですから」
よく見れば、熱心に鍛錬を続けながらも従卒たちの視線はちらちらとトルーマン元帥に向けられている。これを叱る気にはなれなかった。元帥とはそうなるだけの存在なのだ。
「全く。こういう時は元帥などという職が疎ましく感じるな。用件はちゃんとある。一つ相談があって来た」
「……何ですか?」
相談と聞いて、グレンは露骨に顔をしかめて見せる。
「その様な顔をするな」
「今までの経験からこういう時はろくな話ではありません。閣下に限らずです」
今の勇者付き騎士という立場も、相談という言葉から始まっている。
「それがお前の宿命だ」
「宿命という言葉は嫌いです」
「何故だ?」
「何かに縛られているような気になります」
「……なるほどな。まあ、それは置いておいて話は聞け」
グレンの顔に一瞬、はっとした表情を見せたトルーマン元帥だったが、すぐに表情を引き締めて話を戻した。
「はい。それで?」
「勇者親衛隊の騎士は鍛えないのか?」
「……無理です」
グレンは先ほどよりも更に顔をしかめている。
「何故だ?」
「もう出来上がっています。それを変えようと思えば全てを壊す可能性もあります。それに気持ちの方も。自分の言う事など聞かないでしょう」
「それが理由か」
「それに、自分が教えられる事はありません。今、彼らに教えているのは子供の頃に自分が学んでいた事ですから。子供の鍛錬を一人前の騎士に伝えても役に立つとは思えません」
「……子供の頃? それは、いつからだ?」
騎士を教えられない理由より、子供の頃から学んでいたという言葉にトルーマン元帥は興味を持った。
「さあ? 物心付いた時には剣を握っていました」
「……とんでもないな」
トルーマン元帥は驚いているような、それでいて納得しているような複雑な表情を見せている。
「今だからそれが異常だと分かりますが、当時はそれが普通だと思っていましたので」
「そうか」
その表情が気になったグレンだが、理由を聞いても話してくれないだろうと考えて触れることは止めておいた。
「こんな理由で、ご期待には応えられません」
「ふむ。無理か」
少し考え込むような素振りを見せるトルーマン元帥。これについては聞いてみることにした。
「どうかしたのですか?」
「勇者親衛隊を作ったは良いが、中身はボロボロだ。親衛隊などと呼ばれているせいで、大きな顔をする者までいる」
「自業自得という言葉を返させて頂いてもよろしいですか?」
自業自得は、勇者親衛隊の創設に対して文句を言った時にトルーマン元帥から言われた言葉だ。
「よく覚えているな」
「記憶力はまあまあ良い方だと思います」
「だろうな」
まあまあどころではないことをトルーマン元帥は知っている。
「肝心の勇者は何をしているのですか?」
「話をしておらんのか?」
「調練を考えるのに忙しくて最近はほとんど。それが分かっているのか、向こうも何も言ってきません。自分としてもその方がありがたいので、当然こちらからも」
「話をしろ。勇者の方も問題なのだ」
「何がですか?」
問題は以前から山ほどある。だが、トルーマン元帥が言っているのは、そういうことではない。
「落ちこぼれにも得手があるようだ」
「何ですかそれは?」
「勇者にすっかり取り入っている。煽て上げられた勇者も良い気分になって、厳しくするどころか一緒になって調練をさぼる始末だ」
「……最悪だ」
もともと怠け者の勇者に、さらにそれを助長させる存在が加わった部隊。この最低部隊と、もしかするとグレンは戦場で一緒に行動することになるかもしれないのだ。
「何とかせねばならん」
「それを自分にしろと?」
「まあな」
グレンは皮肉を込めて聞いたのだが、トルーマン元帥にあっさりと肯定されてしまう。
「そんな事は簡単です。親衛隊を解散して、どうにもならない騎士は処分すれば良いのでは?」
これはグレンの仕事ではない。
「それが出来んから、こうして来ておるのだ」
「何故ですか?」
「作ったばかりの部隊を何もさせずに解散など出来ん」
「失敗を認めない。悪癖ですね」
軍の過ちをどうして自分がフォローしなければならないのかという思いがグレンにはある。トルーマン元帥からの依頼とはいえ、グレンは少し腹が立ってきた。
「そう言うな」
「では、こういうのはどうですか?」
「何だ?」
「少し厳しい任務に親衛隊を当てる。そうすれば、いらない騎士は相手が殺してくれると思います」
やや投げやりな態度でこれを話すグレン。とはいえ問題解決にはなる。良心を無視すれば。
「……過激な事を。だが、悪い策ではないな」
「おっ?」
トルーマン元帥の言葉にグレンは驚きを示す。
「何だ?」
「まさか受け入れると思っておりませんでした」
トルーマン元帥も非情さを持ち合わせていることをグレンは知った。
「悪い策ではないと言っただけだ。それを行うには一つ問題がある」
「何ですか?」
「ここにいる彼らも任務に同行する事になる」
やはり、優しさをトルーマン元帥は優先させた。従卒たちを巻き込むのを不憫に思ったのだ。
「……無理です」
それはグレンも同じ。
「すぐにではない」
「彼らにこの年で人を殺せと言うのですか?」
「お前はやったであろう? 国軍に入ったのは十五だ。それから三年は立ったのか?」
「もう少しで」
「「「えっ!?」」」
驚きの声をあげたのは後ろで調練を続けている従卒たちだ。
「何だ?」
グレンは従卒たちが何を驚いたのか分かっていない。
「……自分と年が変わらない事を驚いているのだ」
「えっ?」
トルーマン元帥の説明を聞いて、今度はグレンが驚きの声をあげる。
「それは何の驚きだ?」
「自分が年上に思われたことが一つ。年下に見られることの方が多いので。もう一つは彼らが自分と変わらない年であるという事実です」
「なるほどな。お前が年上に見られたのは、外見ではなくお前の力ではないか? それと彼らの年が変わらないのは当然だ。見習い騎士は十五から十八までの三年間を従卒としての雑用と基礎鍛錬に当てることになっておる。そこから二年が新騎士、二十になってようやく一人前の騎士だ」
「見習いが長いのですね」
国軍兵士は、実際に戦うかは別にして、入隊後は、すぐに任務に就くことになる。それに対して、騎士は随分と過保護だとグレンは思った。
「軍の仕事を覚える期間と、あれだ、戦場に慣れる時間が必要なのだ」
「従卒として従軍することで?」
「そうだ」
「そこで人の死に慣れて、新騎士で自ら人を殺すと。それで一人前ですか」
「表現が直截過ぎるが、まあ、そういうことだ」
「であれば、尚更です。彼らにはまだ早い」
従卒たちには、心構えさえ出来ていない。トルーマン元帥の話を聞いて、グレンはこう思った。
「非情の策を採るつもりはない。とにかく、勇者にきちんと話をしてくれ」
「……それはしますが。そろそろ本気で考えて頂けませんか?」
「何をだ?」
「勇者付騎士から外す事をです」
「そう来たか」
トルーマン元帥は渋い表情を見せている。事あるごとに勇者付騎士から外れようとするのはいつもの事だが、そのしつこさには少々辟易してきている。
「別にこの機会にうまくやろうなんて考えだけではありません。今回はそれなりの理由があります」
「その理由とは何だ?」
「勇者との関係です。甘言に耳を傾ける者は諫言に耳を塞ぐ。甘言を近づける者は諫言を遠ざけると思いませんか?」
「うまい事を言うものだな。まるで古の偉人の言葉のようだ」
「冗談で言っているわけでは」
「分かっておる。だがお前の言葉でも耳を傾けんか?」
グレンと健太郎の関係は決して悪いものではないとトルーマン元帥は見ている。一方的に健太郎が頼る関係だが、だからこそ、グレンの言葉であれば聞くと思ったのだ。
「知り合ったばかりの者の甘言に踊らされるような勇者です。一緒にいた時間は関係ないのではないでしょうか? それにメアリー王女殿下であれば、既にそれをしていると思うのですが」
「……その通りだ」
「それで改まらないのです。自分の言葉で直るとは思えません」
「そうかもしれんな」
グレンの指摘はもっともだ。王族の言うことを聞かない者が、自分の騎士の言うことを聞くとは思えない。
「強くそれをすれば間違いなく勇者は自分を疎ましく思うでしょう。そうなれば自分の立場は面倒なものになります」
「ふむ……ひとつ条件がある」
「ここで条件ですか?」
「まあ、聞け。すぐに軍を離れる事はしないと約束してもらいたい。それであれば、本気で動く事をこちらも約束しよう」
トルーマン元帥が初めて具体的な話をしてきた。だが、これだけではグレンは信用出来ない。
「……期限はあるのですか?」
「正直、具体的な日付は言えん」
「それでは約束になりません」
期限の定めがなければ、完全な空約束だ。期待は全く出来ない。
「これはお前のせいでもあるのだぞ?」
「どうしてですか?」
「さんざん力を見せつけられて、簡単に手放せるか。そろそろお前の能力に気がつく者も、将の中に出てきた。それだけの事をお前はやったのだ」
「何かしましたか?」
ばれているとしても、自らの口でそれを認めるつもりはグレンにはない。
「儂が思う事はいくつもあるが、それをここで話して良いのか?」
「……止めましょう」
二人の会話にそれとなく聞き耳を立てている人は大勢いる。わざわざ知られたくないことを知らせる必要はない。
「そういう事だ。一つだけ時期を約束出来るとすれば儂が引退する前には必ずという事だな」
「……死ぬまで引退しないのでは?」
これは冗談でも嫌味でもなく、本気で言っている。こう思うだけの熱量がトルーマン元帥からは感じられるのだ。
「お前な。儂だって後進に道を譲るくらいはわきまえておる。だが、引退の前にもう少し軍を何とかしたいだけだ。お前が手伝えば、それも早まると思うがな?」
「それも甘言というのでは?」
「正しい評価だ。これがこちらの条件。それを受け入れるのであれば、勇者付騎士を外す方向で動く」
「ちなみに可能性は?」
トルーマン元帥はどうやら本気で行動するつもりのようだ。これが分かると、今度はその結果が気になる。
「かなり高い」
「おや?」
「お前の実力に気付きだした者にも色々いる。お前がいる事で、勇者の評価が高まっているのではないかと思う者もな。この件は利害が一致しているのだ」
勇者に反感を持つ者にとっても、グレンを健太郎と引き離したいという考えがある。そうなると軍部では邪魔する者はほとんどいないだろう。
「そういう事ですか。分かりました。とにかく勇者付きなんて面倒な立場を捨て去る事が最優先です。それでお願いします」
「分かった」
「まずは軽く話すところから始めます。それで言うことを聞かなければ、厳しく言うことになりますが、それは騎士を外れる内諾を頂いてからにさせて頂きます」
「……隙のない男だ」
「当然です。何だかんだで、ずっと嵌められている感じですから」
「まあ良い。とりあえず話は頼む。ではこれで引き上げる。いつまでも調練の邪魔をしては見習い共が可哀想だ」
「はい」
グレンに背を向けて去っていくトルーマン元帥。少し離れた所で、グレンは従卒たちに向き直った。
従卒たちの視線がグレンに集まっていた。
「調練をサボるな」
「あっ、申し訳ありません。しかし、教官」
「何だ?」
「元帥閣下と親しいのですね」
「はあ? あれは親しいとは言わない。無理難題を押し付けられているだけだ」
「しかし……」
グレンは無理難題と言うが、内容がどうであろうと、元帥から直々に頼み事をされる状況は普通ではない。
「良いから、調練を続けろ! 手を休めている余裕はないはずだ!」
「「「はい!!」」」
◆◆◆
従卒たちの調練を終えた後、早速グレンは健太郎の様子を伺いに城内に向かった。
健太郎の部屋を覗いてみたが姿は見えない。そうであればと食事室に来てみたのだが、そこにいたのはメアリー王女だけだった。
「あら、久しぶりね」
「御一人ですか?」
「誰かいるように見えるかしら?」
「……いえ。ただ御一人というのは珍しいですね。何かありましたか?」
メアリー王女の周囲には常に身の回りの世話をする侍女が控えている。一人でいる姿など、グレンは初めて見た。
「別に。ちょっと一人になりたくて、人払いをしたのよ」
「あっ、それはお邪魔でしたね。では、失礼」
理由は分からないが一人でいたいのは間違いない。グレンは慌てて、部屋を出て行こうとした。
「待って!」
だが、その背中に声がかかる。
「……はい」
こういう状況にはあまり良い予感はしないグレンだった。
「せっかく来たのだから座りなさい。少し話をしましょう」
「はい……」
まずは軽く予感的中。メアリー王女と話をすることになった。話をすること自体は、それほど嫌がることではないのだが。
「嫌な顔をしない。私は王女よ?」
グレンがわずかに顔をしかめたことに、メアリー王女は文句を言ってくる。普段とは少し違う印象をグレンは感じている。
「……やっぱり何かありましたか?」
「どうして?」
「ちょっと投げ遣りな感じというか、苛ついている感じというか」
グレンの話を聞いて、メアリー王女は表情を曇らせた。グレンの考えた通り、何かあったのだ。
「……座って」
「はい」
メアリー王女の正面に回ろうと歩を進めたグレンだったが、席につく前に声がかかる。
「そこでは遠いわ。隣に来て」
「ええっ?」
「命令よ」
グレンがわざと大げさに驚いて見せても、メアリー王女は表情を緩ませることなく、冷静な声で命じてくる。
「……何が?」
いつもとは違う反応に、何があったのか、グレンも本気で気になり始めた。
「それを聞いて欲しいの。もっと近くに来てよ」
「あっ、はい」
仕方なくメアリー王女の隣の席にグレンは座った。座ったはいいが落ち着かない。王女とこれだけ近い距離に座っているところを人に見られては、と心配なのだ。
「人払いをしたと言ったでしょ。私が良いと言うまで誰も来ないわ。だから落ち着きなさい」
グレンの心情を読み取ってメアリー王女は心配は無用だと言ってくる。
「……はい。それで話というのは?」
「……話しづらいわ。こっち向いて」
隣には座ったがグレンの体はテーブルに真っ直ぐに向いている。顔も前を向いたままだ。
「……はい」
最後の抵抗もグレンは放棄した。体ごと横を向いて、メアリー王女と正対する。メアリー王女の青い瞳がグレンを真っ直ぐに見詰めていた。
「無理なの」
メアリー王女の形の良い唇から洩れてきたのは、この一言だった。
「あの何が?」
「ケンを好きになるのは無理なの」
「ああ、そういう事ですか」
メアリー王女が悩んでいたのは健太郎のことだった。婚約者候補を好きになれないという、グレンにとっては、気が楽な話だ。
「良い所を見つけようと思っているのに、見つかるのは嫌な所ばかりよ」
「……最近の勇者の話を?」
健太郎の評判はトルーマン元帥に聞いたばかり。それをメアリー王女も知っているのだとグレンは考えた。
「聞いているわ。それで改めるように言ったのだけど、聞かないのよ」
「王女殿下のお言葉でもですか?」
予想通りではあるが、王族の言うこと聞かないでいられる神経はグレンには分からない。
「何か変な話を吹きこまれたみたいね」
「変な話ですか?」
「私と結婚するかもしれないって話よ」
「……分かりません。そうであれば尚更」
王女の婚約者となれば、それなりの礼節が求められる。健太郎の行動は真逆だ。
「もうすっかり夫気取りなの!」
怒りを我慢しきれなくなったのか、メアリー王女の声が大きくなる。
「はあっ!?」
「もう最悪よ! そもそも仮にそういう事になっても、私は王家の血を引いているのよ! 夫だからって、きちんとその辺はしなければならないの! それなのにあの男は!」
メアリー王女の文句は止まらない。体を前に乗り出して、物凄い勢いでグレンに訴えている。
「そ、それはそうでしょうね。自分でも分かります」
間近に迫るメアリー王女の顔。息を感じるくらいの近さにグレンはかなり困惑している。
「あっ……ごめんなさい」
グレンの態度でメアリー王女も自分のしていることに気が付いた。椅子に座り直して、グレンと距離を取ったが、その頬はまだ赤く染まっている。
「……それで続きは?」
気まずい雰囲気を解そうとグレンは先を促した。
「ケンには分からないの。異世界ってそういう身分とか厳しくないみたいね」
「……そういう部分で問題が出るわけですか」
この世界の常識が異世界の常識ではない。逆も同じだ。
「なんだか馴れ馴れしくて、それで頭に来てね。怒鳴りつけてやったの」
「……あの?」
「分かっているわよ。そういう感情に任せたような態度は王族にあるまじきものだってくらいは」
「いえ、そうじゃなくて、王女殿下が怒鳴りつけている姿が想像出来なくて」
グレンの知る限り、メアリー王女は常に凛とした雰囲気をまとっている。健太郎を怒鳴りつけている光景が、どうしても頭に浮かばない。
「……それだけ頭に来てたの」
またメアリー王女の頬が赤く染まっていく。
「今もですか?」
「えっ? まあ、少しは頭に来ているけど、どうして?」
あれだけの勢いで文句を口にしたのだ。少しのはずがない。
「何だか口調が違う感じがします」
「……ごめんなさい。ちょっと普段口調だったわね」
人前に出るメアリー王女は、それなりに王女というものを演じていたということだ。それが今は素に戻っている。
「いえ、自分として話しやすいので。何というか、親しみがもてます」
「そ、そう」
「あっ、自分も馴れ馴れしいですね」
王女に対して親しみを感じるは、必ずしも褒め言葉ではないとグレンは気付いた。
「別に。グレンは嫌な気持ちにならないわ」
「そうですか。それは良かったです。それでどうなったのですか?」
「怒鳴りつけたら、途端に卑屈な態度に変わったわ。それも許せなくて」
「それは又、勇者らしいというか」
普段は大口を叩くくせに、何か問題が起きると小心なところを見せる。グレンは何度か、そういう場面を見ていた。
「あれのどこが勇者よ」
「それを言ってしまったら。召喚したのはこの国なのですから、王女殿下にも責任の一端はあります。まあ、わずかですけど」
「……そうね。でも、伴侶としては考えられないの」
「それは決定事項なのですか?」
グレンは婚約者候補だとしか聞いていない。
「まだ正式には」
「ではそうならない可能性もありますね?」
「でも可能性はあるわ」
グレンの慰めの言葉はメアリー王女に通じなかった。余程、嫌なのだ。
「そうだとしても、あまり悩まない方が良いと思います。嫌なことを考えて時間を潰すのはもったいないですから」
「……そうね」
納得したわけではないが、悩んでいても何も解決しないことは分かる。
「では、今ここで嫌なことを全て話してしまいましょう」
「えっ?」
「すっきりした方が良くないですか?」
「そうだけど……グレンは聞かされるのは嫌よね?」
今の状況もメアリー王女が無理やり従わせた結果だ。
「正直言えば、他人の愚痴は聞いていて楽しくないですけど。王女殿下の為ですから」
「……そう」
自分の為というグレンの言葉に、メアリー王女は困惑している。臣民として王女である自分の為と言っていると分かっていても、別の意味を考えてしまうのだ。
「えっと、卑屈になるところが嫌。後は何が?」
「……侍女に手を出したの」
「あっ、えっと、それは……」
自分にも思いっきり心当たりがあるグレンだった。
「それも無理やり」
「嘘!? それって犯罪ですよね?」
自分とは違う事に内心はホッとしながらも、口では大げさに驚くグレンだった。
「さすがに勇者をそんな事で罪には問えないわ」
「でも、それでは図にのって」
「未遂だったから」
「あっ、そうですか」
「それでも酷いのよ。侍女の方がそれを望んでいるなんて言い訳して。自分はそういう存在だからって」
「それは……」
この話にも心当たりがあるグレンだった。
「親衛隊の騎士たちにそそのかされたの」
「それは酷いですね」
又、ほっとしたグレンだった。
「そうでしょう? 別に合意の上でそうなるのは良いのよ」
「そうですよね?」
更にほっとしたグレンだった。
「何?」
「えっ?」
「何だか嬉しそう」
グレンの心情をメアリー王女は敏感に感じ取った。女の勘というものかもしれない。
「そんな事はありません」
「そう? じゃあ良いわ。侍女たちもね。不自由な生活をしているのは私も分かっているわ。それに彼女たちも私と同じ様なものだから。先が決まっていて、出来れば今の内に恋愛をしたいって気持ちを持っている」
「そうですか」
侍女の気持ちはグレンもよく知っている。本人から聞かされているのだ。
「だからお互いに好きでそうなったのなら文句は言わないわ」
「お互いにですね……」
少し落ち込むグレンだった。
「それを無理やりなんて。侍女を娼婦か何かと勘違いしているのよ」
「……それは少し違います」
「えっ?」
「自分が住んでいる宿屋の近くには娼館も多くありますから、彼女たちの事は少し知っています」
「…………」
話を聞いたメアリー王女は目を細めて、まるで睨むかのようにグレンを見ている。
「ただの知り合いです! 娼館には一度も行った事はありませんから!」
そのメアリー王女を見て、慌ててグレンは誤解を解こうとした。それを聞いてメアリー王女の表情もホッとしたものに変わる。
「そう。なら良いわ」
「……行っては駄目なのですか?」
「駄目」
「あっ、そうですか。別に行きませんけど。話を戻しますと、別に彼女たちは男たちに抱かれたくて娼婦をやっている訳ではありません。生活の為に仕方なく、仕事としてそれをやっているのです」
「……そうね。酷い言い方だったわ」
「普通に恋愛もしています。それも又、難しい恋愛ですけど」
「難しいの?」
平民であれば自分よりはマシではないかとメアリー王女は思ったのだが、これは勘違いだ。
「結婚までは難しいですよね? 言いたくありませんが、元娼婦を娶る人は滅多にいません。それに相手の方は必ずしも恋愛とは考えているわけではないでしょうし」
「金で買っただけの相手。これも酷いわね」
「いえ、それは事実ですから。そんな相手でも店に来ることを心待ちにしている。その時は仕事ではないのです」
グレンの住んでいる宿屋にはたまに近くの娼館の娼婦がやってくる。日頃のうっぷんを晴らすために飲みにくるのだ。だが、うっぷんを晴らすどころか、寂しい思いを胸いっぱいに抱えて帰っていく姿を、グレンは何度も見ている。
「……ちょっと切なくなってきたわ」
「変な話になりましたね。勇者に戻しましょうか?」
「……良いわ。このまま続けましょう」
「娼婦の話をですか?」
「それはちょっとね。じゃあ別の話。グレンってそんな所に住んでいるの? あっ、そんな所って」
「そこまで気にしない下さい。実際にあまり治安の良い場所ではありません」
「危険ではないの? まあ、グレンなら大丈夫そうだけど、妹が居るのよね?」
「話しましたか?」
自分の話をメアリー王女にした覚えはグレンにはない。
「ユイに聞いたわ。すごく綺麗な妹だって」
「まあ」
グレンの予想通りの犯人だった。
「……私よりも?」
「それ聞きます? 自分がすごく綺麗だって言っているのと同じですよ?」
「あっ、違うの。そういうことを聞きたいわけじゃなくて」
メアリー王女はグレンの言うような気持ちで聞いたわけではない。結衣がグレンは妹を溺愛していると聞いて、どういう女性なのか気になっただけだ。美人という点では結衣もかなりのもの。その結衣がすごく綺麗だという妹を。
「実際、メアリー王女は凄く綺麗ですけど。少し妹に似ていますね」
「えっ、そうなの?」
「容姿が似ているというのではなく、王女殿下も妹も、笑顔がすごく良いのです。特に声を出して笑う時が」
「……それ少し恥ずかしいわ」
人前で声を出して笑うなど、王女としては恥ずかしいことだ。それも男性の前でそれをしたとなると尚更だ。
「そうですか?」
「家の話をしましょう。妹は大丈夫なの? 治安が悪い場所で、それで綺麗だなんて」
「あの場所ではまず大丈夫です。それもあって住む場所を移らないのです」
「どうして?」
「親分に気に入られていますから」
「親分?」
親分と言われても、メアリー王女には分からない。王族が使うような言葉ではない。
「あまり大きな声では言えませんが、裏であまり良くない事を仕切っている人です」
「そんな人に?」
グレンの話にメアリー王女は大きく目を見開いている。メアリー王女の常識では理解出来ない話だった。
「別に狙われているとかではありません。娘……孫かな? そんな感じです」
「……それは良いことなのよね?」
「まあ。変な事をしてくる奴はそうそう出ませんから。そんな事をした日には相手はただでは済みません」
「どうしてそんな風に?」
相手は要は犯罪者だ。そんな人物と、どうしてグレンたちが知り合ったのかがメアリー王女には気になる。
「色々ありまして。まあ、妹は悪人を善人に変えてしまう魅力があるようです。これも大きな声では言えませんが、裏で仕切っているくらいですから、相当酷い事をして恐れられている人です。そんな人に普通に接する妹が相手には堪らないようですね」
「……悪人にもそういう気持ちがあるのね?」
「そういう事だと思います。そういう人たちだって結婚して、子供を育てているわけですから。常に悪人という訳ではありません」
「そう。何だか驚きだわ。自分の常識を覆された感じ」
それはそうだろう。メアリー王女には、これからも縁のない世界の話だ。
「大げさです。城中でも同じではないですか?」
「そう? 私には分からないわ」
「逆だからです。悪人が悪人に見えない。ちょっと違いますか?」
「……いえ。分かるような気がするわ」
グレンが何を言いたいのかメアリー王女にも分かった。城内にも様々な悪意が飛び交っている。しかも、それは常に影に隠れたままだ。
一見、華やかな城も裏に回れば薄汚いことが沢山ある。グレンはこれを皮肉っている。
「これは楽しい話ではないですね?」
「そうね。他にはどんな人が住んでいるの?」
「そうですね。孤児も多いですね」
「そう……どうやって暮らしているの?」
孤児と聞いて、メアリー王女の顔が曇る。同情心が心に湧いたせいだが。
「スリ、かっぱらい。あとは……」
「ちょっと? 全部犯罪よ」
グレンの話で一気に同情心は吹き飛んだ。
「まあ。でも、そうでもしないと生きていけません。子供が働ける場所はありませんから」
「グレンも……」
グレンも孤児だ。さらりととんでもない事を言い出すのは、グレンも同じだったからではないかとメアリー王女は思った。
「幸い自分には両親の蓄えが少しありました。だから、そういう事をしなくて済み、成人になってすぐに国軍に入れた。それが無かったら、同じになっていたと思います」
「そう。それは国が……」
犯罪に手を染めないと生きていけない社会。それは国の政治が悪いからだとメアリー王女は思ってしまう。そして、その政治を行っているのは自分の父親だ。
「それを考えたら暗くなります。そんなに酷いものではありません。それなりにたくましく育っていますよ。まあ、そういう事をしないで済むならそれが一番ですけど」
「どうすれば良いのかしら?」
「そこまでは考えた事はありません。分かるのは仕事が必要だと言う事。それと勉強ですね」
「勉強?」
「文字が書ける。計算が出来るはやっぱり強いです。自分が国軍に入れた理由の一つだと思っています」
実際にそうだ。国軍兵士のほとんどは文字も計算も出来ない。グレンの能力は貴重だったのだ。
「教育。そういえば異世界は誰もが教育を受けられるそうよ」
「貧しくてもですか?」
「そう。そういう子供は国が支援するって言っていたわ」
「それは凄いですね」
実際には貧富の差による教育格差は存在しているのだが、ちょっと話を聞いただけのメアリー王女には分からない。
「豊かな国みたい。二人が生まれ育った国は」
「結局、国が豊かにならないとですか」
「そうね」
国が豊かになったからといって、それが民衆に還元されるとは限らない。だが、今の二人は、そこまでの悪意を国に感じていない。
「でも、その為に戦争をするのは少し違うと思います」
「そう思うの?」
他国を侵略し、国を大きくすることで国は豊かになる。これが公で言われていることだ。これをグレンは否定してきた。
「これも大きな声では言えませんね。でも、国軍の中隊長をやって分かりました。軍には金がかかります」
「ああ、そうよね」
「その金を別の所に回すだけでと思いますけど。まあ、そう簡単にはいかないのですね」
「…………」
メアリー王女は無言でグレンを見つめている。これをグレンは国政の不備を指摘されて落ち込んでいると受け取った。
「また、暗い話にしてしまいました。駄目ですね」
「そんなことないわ。国のことを考えているつもりで考えていないことがよく分かった」
王女として、それなりに国を思っているつもりだった。だが、そんな自分以上にグレンは国について考えているようにメアリー王女は感じた。一兵士に過ぎなかったグレンが。
「そうですか」
「グレンって政治の話も出来るのね?」
「はっ? そんなことはありません」
「でも、今の話は政治よ。グレンの話に私は感心しているの」
「……そうだとしたら、多分、それは自分が求める立場だからだと思います。不満が多すぎるのです」
「不満が多いと考えるの?」
「問題があれば、それを何とかしたいと思う。こういう我儘な気持ちがきっと強いのです。考えても何も出来ないないのに」
「そう……」
グレンが求める立場であれば、メアリー王女は与える立場。与える立場である自分は、どうすればグレンのように色々なことに思いを巡らすことが出来るのかとメアリー王女は考えた。
「どうされました?」
「……次は何の話をする? グレンは他に気になっていることあるかしら?」
思いつかないのであれば聞けばいい。グレンの話は、自分に色々なことを教えてくれる。こんな存在に出会ったのはメアリー王女は初めてだった。
「そうですね……」
そして、グレンも。メアリー王女の言う政治的な話をする相手は初めて。とにかく考えることが好きなグレンは、こうして考えていたことを話せるのが少し嬉しかった。
こうして思いは一致し、二人きりの会話はいつまでも続いていった。