草原を駆ける魔獣の群れ。その周囲をそれよりも一回り小さな人影がいくつも動き回っている。ヒューガたちが鍛錬を行っているのだ。
「左翼遅い!」
「すみません!」
「謝っている間があったら体を動かせ! 進路を塞ぐんだ!」
「はっ!」
響き渡る声はヒューガの、そしてその命令に応える人たちのもの。
「良し! その調子! 漏れた奴には構うな! 今だ! 右から押し込め!」
「「はっ!」」
ヒューガの指示の下、部下たちが馬型の魔獣の群れを追いこんでいる。三方から魔獣を追い込み網を張った罠の所に誘導しているのだ。
まさに一網打尽という感じ。実際に動いているのはたった十人。それでここまでの事ができるのかとハンゾウは感心している。
「すごいですな」
「何がですか?」
「関係は変わらないのでしょう?」
「そっちの話ですか?」
ハンゾウの問いに呆れ顔、は見えないが、の先生。ただハンゾウもまったく関係のない話をしているつもりはない。
「いつこんなことを学んでいるのですかな?」
直接、顔を見ることのないハンゾウたちには詳しい様子は分からないが、部屋から漏れ聞こえてくる怒声で想像はつく。あんな状態の女性の面倒をみていて、よく鍛錬や他のことを考えている余裕があるものだ。ハンゾウの感心はこれだ。
「そんなことに感心している暇があったら動きを良く見ていなさい。本来はハンゾウくんが率いる部隊なのですよ?」
「……そうでした」
今、行っているのは鍛錬は連携を取って、うまく魔獣の群れを追い込むというもの。少しでも穴があれば魔獣は逃げてしまう。実際、ハンゾウが指示した時は逃げられた。それを見て先生はヒューガに代わるように命じた。
部隊を率いたことがないヒューガに指示を任せても、さすがに無理ではないかとハンゾウは考えていたが、結果は見ての通り。見事に魔獣の群れを追い込んでいる。
「何が違うか分かりましたか?」
「……私は全ての魔獣を捕えようとした。ヒューガ殿はそれにこだわらなかった。それが理由でしょうか?」
「三十点」
「三十点ですか……」
予想外に低い評価。落ち込む以前に、ハンゾウは何故そこまでの評価なのかが分からない。
「見逃している点があります。まずは初期の配置。ヒューガくんは初めにどういう流れで魔獣の進路を変えさせるか、それを考えてから人員を配置しています。次にタイミング。魔獣がその方向にしか進路を変えられない。正面に立たせるのではなく、常に横から追い込んでいる。当然先頭にいる魔獣は逃げます。これはハンゾウくんが言った通りですね。とにかくタイミングも考えて指示を出しています。あとは細かい指示のあり方。このことを分からなかったので三十点です」
「……すみません」
細かく駄目なところを指摘された。そうなると落ち込む以外にない。
「さて息抜きは終わりです。厳しい鍛錬に――」
「うわぁああああっ!!」
「なんだ?」
突然、部下たちの叫び声が響いた。何が起こったのかと辺りを見渡せば、一際大きな体の魔獣が見えた。姿形は追い込んでいる魔獣と変わりない。だがその大きさは、離れた位置で見ていてもはっきりと違いがわかるほどの巨体だ。
「大将の登場ってとこですね」
「先生! 何を落ち着いているのです!? さすがにあの巨体はまずいでしょう!?」
「それはヒューガくんの活躍を見てから判断しましょう」
「ヒューガ殿が?」
ハンゾウが視線を戻すと、先生の言うとおり、ヒューガはすでに現れた魔獣のすぐ近くまで迫っている。何を始めるのかと息を詰めて見ていたハンゾウだが。
「……まったく」
「どうしました?」
「ヒューガくんはまだ息抜きのつもりみたいですね?」
「はっ?」
先生の言葉の意味はハンゾウにもすぐに分かった。魔獣に近づいたヒューガは、あっという間にその背中に飛び乗ってみせた。
「……あれは、何をしようとしているのですか?」
「乗ろうとしているのでしょう?」
「それはわかります。背中に乗って何を?」
「操ろうとしているのではないですか? ヒューガくんの世界でも馬に乗る習慣があったそうです。彼が生まれるずっと前の話らしいですけど」
「魔獣を……いや、それよりもヒューガ殿の世界というのはどの国ですか?」
先生の話は少しおかしい。馬に乗る習慣が過去のものであるかのように聞こえる。実際にそう言っているのだが、ハンゾウにはそれを理解する情報が足りていないのだ。
「あれ? 聞いていませんか? ヒューガくんはこの世界の人間ではありません。異世界人ですよ」
「異世界人……まさかパルス王国で召喚された勇者ですか?」
「いえ、勇者は別にいます。考えれば分かるでしょう? なんで魔族の私が敵である勇者を鍛えるのですか」
「そうでした」
パルス王国と魔族は敵対関係にある。勇者とは魔族に対する切り札のようなものだ。その勇者を魔族である先生が鍛えることなどあるはずがなかった。
それを考えた時、ハンゾウは今の状況を不思議に思った。先生は魔族、自分たちは人族。エルフ族がいて、さらにヒューガは異世界人だ。他ではまずあり得ない状況。
ハンゾウがそんなことを考えている間もずっと。
「……すごい。まだ乗っている」
「見ていなかったのですか? 一度振り落とされましたよ」
「あっ、すみません。少し考え事をしていました」
「減点ですね。間者にあるまじき行いです」
「すみません」
「おっと。ああ、あれは無理ですね」
魔獣は後ろ脚を高々と跳ね上げて、ヒューガを振り落とそうとした。一瞬、耐えたと思われたが、すぐに逆の足を振り上げられたところでヒューガは地面に転がり落ちた。
「まだ?」
それでもヒューガは諦めずに馬の背中に飛び乗った。たてがみを握りしめて体勢を整えると、また魔獣が暴れ出す。
「はは、どうやら魔獣のほうも正々堂々と勝負するつもりですね」
「魔獣がですか?」
「だってそうでしょ? あの動きは明らかにヒューガくんが背中に乗るまで待っていましたよ」
確かにヒューガが背中に完全に乗るまで魔獣は暴れなかった。魔獣が正々堂々と勝負。この大森林という場所は、次から次へとハンゾウが驚くことばかりが起こる。
厳しいだけではない。最近なんとなくそう思えるようになってきた。
「ん?」
不意に魔獣の動きが大人しくなった。上に乗ったままのヒューガは、魔獣の顔に自分の顔を近づけている。
「あれは何をしているのでしょう?」
「話しかけているのではないですか?」
「魔獣にですか?」
「魔獣だって上位種は言葉を理解することが出来ますよ。それを魔族である私は良く知っています」
魔族には魔獣を操る者も多い。先生の言い方だと魔法で操っているだけではないということだ。それを知ってハンゾウはまた驚いた。
「あの魔獣はそんな強い魔獣ということですか?」
「強さと知性が必ずしも一致するわけではありません」
「そうですか」
「おっ、始まりましたね。第二回戦というところでしょうか?」
今度は、魔獣はその場で暴れるのではなく、とてつもない勢いで駆け始めた。それに振り落とされないように必死にしがみついているであろうヒューガ。
「先生、何気に楽しんでいませんか?」
「楽しいですよ。たまには息抜きも必要でしょう?」
「まあ、そうですけど」
「……速いですね」
「ええ、足の速い魔獣のようです」
馬型の魔獣。見た目通り、足の速い魔獣であったが、その速さは馬の比ではない。跳ぶがごとく、凄まじい勢いで草原を駆け回っている。
「ハンゾウくんは足に自信は?」
「先生に聞かれると自信があるとは言えません」
「ああ、すみません。愚問でした。ふむ……」
「どうしました?」
「ヒューガくんは何であんなことを始めたのでしょうかね?」
「それを私に聞きますか? 先生の言うとおり、息抜きのつもりではないですか?」
「そうですかね。おっとあれは……ふむ、よく耐えましたね」
魔獣は勢いをほとんど殺さないまま、急転回を何度も行っている。それを耐えているヒューガもたいしたものだ。
しばらく、それが続いていたが、やがて魔獣は速度を落として、ゆっくりと歩み始めた。その歩みが完全に止まったところでヒューガはその背中から飛び降りると、魔獣の首や背中を叩いている。
やがて魔獣はゆっくりと森林の中に進んでいった。その後に続く魔獣の群れ。その様子を見て確かにあれは群れのボスだったのだとハンゾウは思った。
「いやぁ、面白かった。久しぶりに何にも考えずに一つのことに集中した感じだ」
ヒューガが戻ってきての第一声がこれ。それを聞いてハンゾウだけでなく周囲の皆があきれた顔をしている。そうでないのは先生くらい。彼だけが真剣な表情を見せていた。
「何故、あのような真似を?」
その真剣な表情のまま、先生は先ほどまでの行動の理由をヒューガに尋ねた。
「なんとなく。姿形は馬と一緒だから乗れたら良いなと思って」
「そうですか……それで?」
「馬以上に頭が良いな、あいつ。馬に本格的に乗ったことはないから実際は分からないけど」
「最後に何か話していましたね?」
ヒューガが魔獣と別れる直前のこと。顔を近づけていたそれを先生は会話していると見ていた。
「約束してみた。また乗せてくれって」
実際にヒューガは魔獣に語りかけていた。
「それで、魔獣はなんと答えましたか?」
「魔獣は話せないだろ? でも、なんとなく了解してくれたみたいな雰囲気だった」
「そうですか。それは良かったですね?」
「ああ。皆も試してみたらどう?」
周囲の人たちにも勧めるヒューガ。
「いやいや無理ですよ」
声に出して答えたのはハンゾウだけだが、皆の気持ちも同じだ。うんうんと頷くことで、そうであることを示している。
「でも、あれに自由に乗れるようになれば」
「戦争で圧倒的に有利になる、ですか?」
ヒューガに最後まで話させることなく、先生は問い掛けた。
「そう。この世界で不思議に思っていたことのひとつだ。どうして馬に乗って戦おうとしないんだろ? 機動力という点では走るよりよっぽど上だろ?」
ヒューガが不思議に思っていたことの一つ。この世界では、あくまでもヒューガが知る限りだが、戦闘に馬が使われていない。実際にその通りなのだ。
「必ずしもそうとは言えません」
「そうなのか?」
「まずは魔法の存在です。遠距離攻撃には大きな体である馬は恰好の標的になります」
「確かに。でもそれは馬をどう操るか、どう守るかだろ?」
弓が使われていた元の世界、ヒューガにとっては過去の歴史だが、でも馬は使われていた。機関銃、そこまででなくても鉄砲であればまだ分かるが、弓は大丈夫で魔法が駄目という理屈はヒューガには理解出来ない。
「そうですね。でも今の時代、戦術として確立している人はいません」
過去にはいた。騎士が馬上で活躍していた時代があった。だからこそ騎士という呼称があるのだ。
「確立させれば良い。馬のことを良く理解して、最適な方法を」
「それをやると?」
「必要であれば。実際には、そんな予定はないけど」
予定はない。それは具体的な考えがあるからこその否定。先生はそう受け取った。
「ふむ……もうひとつは、身体強化を行えば、馬には劣るかもしれませんが、かなり近い速度を得られます」
「……それは考えてなかった。そっか、そうであれば確かに必要ないな」
これについてはヒューガの頭の中にまったくなかった。馬と同程度の速さで人は走れる。誰もが出来ることではないが、騎士となる人であれば出来る。だからこそ騎士なのだ。これが、騎馬隊が不要となった理由だ。
「そういうことです」
「でも」
「……なんですか、カルポくん?」
「エルフにとっては強い武器になるかもしれません」
「ああ……気付いてしまいましたか?」
これを言う先生はカルポよりも先にこの可能性に気付いていたのだ。だからヒューガの行動に警戒心を抱いたのだ。
「どういうこと?」
そのヒューガは気が付いていなかったのに。
「エルフの精霊魔法の弱点は詠唱時間。二重詠唱なんてやっていたら、あっという間に敵に間合いを詰められてしまいます。平地での戦いをエルフが得意としていないのはそういうことが原因にあるのですよ。でも馬があれば? 遠距離から馬に乗りながら詠唱を行う。馬の速度で距離を詰めたところで精霊魔法の発動です。とっさに考えたことなので実際にうまくいくかは別ですが、検討するに十分な戦法です」
「「「…………」」」
精霊魔法の弱点は詠唱時間の長さで、強みは影響範囲の大きさと威力。大規模魔法といえるのが精霊魔法だ。それに機動力を持たせると、どのような戦い方になるのか。
「なるほどね。じゃあ考えてみようかな」
それを具体的にするのはヒューガだ。
「あの、ヒューガ殿はどこにそんな余裕が?」
「……そんなに僕は余裕がなさそう? なんか心配かけてるみたいだけど、皆が思っているよりは上手くやってるつもりだ。ただ……」
ヒューガが口ごもった理由は皆が分かっている。いつまで彼女が生きられるのか。もう間もなくであることはハンゾウには分かっている。彼が愛した女性、リースと同じなのだから。
◆◆◆
「お前、馬に乗ったことあるか?」
エルフの女性の部屋にやってきたヒューガの第一声異。鍛錬の時の楽しみが、まだ残っているのだ。この問いだけでなくヒューガは、その時の様子を嬉しそうに話した。
驚くほど大きくて賢く、風のように速く走る魔獣の話を。
「馬鹿じゃない? それ馬じゃなくて、魔獣でしょ?」
いつものように彼女の口から出るのは憎まれ口。
「魔獣だって一緒だろ? とにかく速いんだ。魔獣だから馬よりも速いかもな」
それに対してヒューガはまったく気にした様子もなく、普通に話している。無邪気な彼の言葉。それに対する彼女の感情は……こともあろうに魔獣への嫉妬。
ヒューガをこんな風に楽しませる魔獣が彼女は妬ましかった。自分との時間よりも、魔獣に乗っていた時間のほうが彼には楽しかったに違いないと思ってしまう。
「どうした? なに、黙り込んでる?」
「別に。何でもないわよ」
「お前も乗りたいのか? だったら――」
「そんなこと思っていない!」
「……そうか」
いつもと同じ。ヒューガが楽しませようと話をしても、それを彼女は喜ばない。実際は喜んでいないのではなく、それ以上の感情が彼女を支配しているのだ。
「そんな話はいいから、早く隣に来てよ」
「お前さ、もう無理しないほうがいいんじゃないか?」
「……無理なのは貴方のほうじゃないの? どうせ、もう私に飽きたのでしょ?」
「そんなことは言ってない」
「じゃあ、この体が気持ち悪い? そうよね。女としてどころかエルフとしてもどうかと思うわ。こんなのに比べたら魔獣のほうがよっぽど綺麗な体しているものね」
「だから、そんなこと言ってないだろ? 自分で自分を傷つけるような真似はやめろよ」
こう言いながらヒューガは彼女の隣に座る。やさしく髪をなでるヒューガの手。それを受けて彼女が目を閉じると、やがて二人の唇が重なる。いつもと同じ始まり。そのままベッドに倒れ込む。
「……どうしたのよ?」
いつもであればこのまま行為が始まるはずなのに、今日のヒューガはじっと動かないまま。
「お前、まだ死にたいのか?」
「…………」
突然の彼の問いかけに彼女は黙り込んでしまう。
「……即答できないってことは、少しは考えが変わったのか?」
「……そんなことない」
「でも以前なら……いや、それはいいや。お前がどう考えているかはどうでも良い。生きてみないか?」
彼女の気持ちは実際のところどうでも良い。とにかくヒューガは彼女に生きて欲しいのだ。
「言ってる意味が分からない」
「生きることを真剣に考えないかって言ってる」
「無理よ。どんなに死にたくなくても……私は助からないわ」
仮定の話。それに彼女の本心が表れた。
「死にたくないんだな?」
「……答えたくない」
「何で?」
「私が死にたくないって言ったら、もう貴方は私を愛してくれないでしょ?」
「……そんなことない」
彼女の問いにヒューガはこう答える以外にない。だがそれが嘘であることを彼女は気付いているのだ。
「……違うの。そうじゃない。分かっているのよ、貴方が私を愛してるわけじゃないことは。貴方の心の中には別の人がいるのよね?」
ヒューガの心の中には別の人がいることも。彼女が一度だけ聞いてしまったのだ、ヒューガの寝言を。「ディア、ごめん」と呟いた彼の本心を。
「…………」
「否定してくれないのね?」
「そうだな。否定することは出来ない」
「偽善者にはなってくれないの? 私を喜ばせる為の一時しのぎの嘘でいいのよ?」
「ディアに対して、それは出来ない」
ディアへの想いを否定したくない。それが今、ヒューガが強くなろうとしている理由。生きる目的なのだから。
「ひどい男ね。貴方のしていることは浮気よ?」
「そうだな」
「その人は何処にいるの?」
「知らない」
「……どこにいるかも分からない人に義理立てしてるわけ?」
それだけヒューガの想いが強いということ。彼女にとっては辛いことだ。
「義理立てはしてないな。こうなってるわけだし」
「そうね。じゃあ、私はその人の代わりかしら?」
「ディアの代わりは何処にもいない」
「最悪! じゃあ私は何!? ただの性――」
ヒューガの指が彼女の口を塞ぐ。力を込めているわけではない。そっと触れているだけ。それだけで彼女はその先を続けられなくなる。事実はそうでないことを彼女は知っている、理解しているのだから。
「その先は言うな。そんな風に自分を卑下するものじゃない」
「……ごめん。私が無理やりこうさせてるのにね?」
「素直なんだな。謝るのを初めて聞いた気がする」
「どうせ私は素直じゃないわよ」
「素直なんだな、って僕は言ったのに……どうせならもっと素直になってくれればいいのに」
「何よ、それ?」
「自分の気持ちを正直に言ってくれればいいのにってこと」
自分の気持ちに正直に。ヒューガが求めている答えを彼女は分かっている。死にたくない。この言葉を聞きたいのだ。だからこそ、彼女はそれを口にしない。
彼女の口からはヒューガを喜ばせる言葉なんて出ない。いつも彼を困らせるだけ。
「じゃあ、教えてあげる。私の気持ちを知りたいのよね?」
「ああ」
「……貴方が好き。最初は嫌がらせのつもりだった。欲にまみれさせて、最低の男にしてやろうと思った。でも貴方は優しくて、私には優しすぎて、そんな貴方が愛おしくて、でも貴方は別の人を想っていて、それでも私は貴方が好きなの。渡したくないの。だからお願い。せめて私が死ぬまでは、私だけを見て。偽善者で、お人好しで、私よりもずっと年下のくせに生意気で、そしてやっぱり誰よりも優しい私のヒューガ。私は貴方のことを忘れない。だからお願い。嫌っても、憎んでも、恨んでもいい。私のことを忘れないで。私が死んでも……私のことを忘れないで」
「…………」
一気に自分の気持ちを吐露した彼女。ヒューガを困らせることになるが、これが彼女の本心だ。
「これが私の気持ちよ」
「……お前」
「お前と呼ばないで。私の名前はエアルよ。テミスの裔、タロの娘のエアル。これが私の名前」
「……いいのか?」
エアルの名乗りは正式な名乗り。彼女は自分の想いをヒューガに預けたのだ。かつてリースがハンゾウにそうしたように。
「貴方に預けないで誰に預けるのよ?」
「そうか……ありがとう」
「礼を言うのは私のほうよ。貴方は私の最後の時を幸せなものにしてくれた。私は貴方に出会えたことを感謝している。これまでの辛い出来事も貴方に会うためだった、貴方とこうしていられる為に必要なことだと思えば、もう何とも思わない」
エアルは、ヒューガに名乗った途端に頭の中の霧が晴れたような気がした。自分が自分である感覚。過去の辛い記憶が頭に浮かんでも、何故か苦しみが薄れた気がする。
これは残り少ない私の時間の為に与えられた恩恵なのか。エアルはすぐ近くにいるヒューガにも聞こえないような小さな声で感謝を告げた。月の女神ティアへの祈りを。
「エアル」
「何?」
「もしかしたら、これを望むのは残酷なことかもしれない。それでも僕は言う。生きることを諦めないで欲しい」
「……ヒューガ」
分かったと答えたい。ヒューガの想いに応えたい。だが、それが叶わないことをエアルは知っている。それを自分が望んでしまうことを、実際は強く求めているのだが、それを認めてしまうのが怖いのだ。未練を残して死んでいくことを恐れているのだ。