朝からずっと待っているのにあいつは現れない。もう来るなって言ったのは私なのにね。
来ないかな……来るわね。あいつはそういう奴よ。筋金入りの偽善者。でも……怒らせたかな。
あいつが悪いのよ。せっかく私が女を教えてやろうと思ったのに、別の女の話を出すなんて。どんな相手だろう。私とは違うのでしょうね。私みたいな薄汚れた女じゃなくて、きっと……。
許さない。私の気持ちを踏みにじるなんて。自分からあんな事をしたのは初めてなのに……ふっ、あの時のあいつの顔。何が一応経験はあるよ。そんな顔じゃなかったわ。顔を真っ赤にして慌ててたわ。
経験なんていってもキスだけ。私だったら本当の快楽を教えてあげられるわ。その欲に溺れればいいのよ。そうすればあいつも本性を現すに違いないわ。
偽善者の仮面をはずしたあいつはどんな男だろ。楽しみだわ……来ないな……もう来ないのかな……私はまた見放されたのかな……嫌。捨てないで。貴方に捨てられたら私は。
私は何を考えているの? 相手は子供よ。その子供に何をしようとしてるの?
狂っている。私は狂っている。こんなの私じゃないわ。お願い、もう死なせて。
「元気? あれ、寝てるのか?」
来た!
「うるさいわね。せっかく寝てたのに起きちゃったじゃない」
「ああ、悪い。じゃあ出直してくる」
「いいわよ! もう寝られないわ!」
去ろうとする彼を必死で呼び止める。どうして私はこんなに必死なのだろう。
「そっか。それで? 元気なのか?」
「……元気じゃないわ」
「えっ? なんだ? どこか悪いのか?」
「なんだか熱っぽいの」
「熱? じゃあ水枕……なんてないか。水持ってくる」
「いいわよ」
そういうことじゃない。私が求めているのはそれじゃない。
「……熱っぽいんだろ?」
「そうだけど……気のせいかもしれないし」
「熱が気のせいって……そんなわけないだろ?」
呆れ顔。また彼にこんな顔をさせている。仕方がない。私は彼を楽しませることなんて出来ない。私に出来るのは。
「……ねえ」
「何?」
「ちょっと確かめてみて。熱があるかどうか」
「はぁ? いい大人が何言ってるんだ? 子供じゃあるまいし」
「どうせ私は我が儘よ」
「子供って言っただけだろ? そう言うってことは自覚があるってことだ」
「いいから! 早く確かめてよ!」
「やっぱり我が儘だな。まったく……」
文句を言いながらも彼は、私が寝ているベッドの脇に来て額に手を当ててきた。冷たい手。でもその冷たさが何故か心地良い。
「あるような無いようなだな」
「何よ、それ? ちゃんと確かめてよ」
「確かめただろ」
「額じゃないわ。体全体が熱っぽいの」
「……お前、何か企んでるだろ」
「何も……何も企んでいないわよ」
「動揺してるのが見え見え。それだけ見事に反応するのもめずらしいな」
じっと私をにらむ碧色の瞳。その目は軽蔑? それとも憐み?
どっちでもいいわ。とにかくそんな目で私を見ないで。
「ふん。ばれたんじゃ、仕方がないわね。そうよ。私は貴方を誘惑しようとしたの」
「……馬鹿な真似を」
「どうせ私は馬鹿よ。正気じゃないことは分かっているわ」
「……とりあえず休め」
「嫌!」
「無理したら死んじまうかもしれないだろ!」
「別にかまわないわ。どうせ私は死ぬのだから」
私は死ぬ。これは間違いない。だからせめて残りの時間を楽しいものにしたいのに……それだけなのに。
「……自殺はしない約束だろ?」
「契約でしょ。貴方はせっかく自由になった私をまた契約で縛っている。でも無駄よ。私は貴方の言いなりになんてならないわ」
「…………」
「契約を破ったらどうなるの? 私は死ぬのかしら? それこそ私が望むことよ」
「自殺は許さない」
「……そんなに私に死んでほしくなければ私の言う事を聞きなさい」
「何を?」
「……抱いて」
「はぁ?」
「抱きなさい! 死んでほしくなければ私を抱くのよ!」
「お前……」
馬鹿なことを言ってる。死んでほしくなければ抱けだなんて……こんな馬鹿な話で彼が言うことを聞くはずないのに……そんな事は分かってる。でも誰かに縛られるなんて私はもう嫌なの。
ベッドから降りて、何ともいえない表情で立ちすくんでいる彼の前に立つ。服は脱いでいる。痩せ細った手足。アバラの浮いた胸元。女としての魅力なんて欠片もない体が彼の前にさらされている。そんな私の体を彼は無表情に見ている。
「抱きなさい!」
「自分が何を言っているか分かってるのか?」
「分かっているわよ! ふっ、無理よね。こんな醜い体の、穢れた女なんて抱けるわけないわね。綺麗事を言っても所詮そんなものよ」
「怒るぞ」
「怒ればいいじゃない。怒鳴りなさいよ。叩きなさいよ。そうやって今までの男たちみたいに、私を虐げればいいのよ。綺麗事を言われるよりも私にとってよっぽどその方が気が楽よ」
「…………」
彼が一歩前に出てきた。普段からきつい目つきを一層険しくして。
彼の腕が上がる。殴られる。そう思って思わず目を閉じて身構えた。
頬にあたる彼の手。痛くはない。そっと添えられようにあてただけだから。
目を開けるとすぐ目の前に彼の顔があった。
唇と唇が重なる。
「……こういう時は目をつむってるのが普通じゃないのか?」
「うるさいわね!」
「うるさいのはそっちだ。少し声を落とせよ」
「…………」
そのまま、ベッドに押し倒された。体が自然とこわばる。怖い……またあの日々が戻ってくるのね。
馬鹿ね、私は。自分からそうさせているくせに。
彼の手が体に伸びる。冷たい手……なのに何故か心地良い。彼のほうを見ると彼も私を見ていた。
「……目つむれよ」
「……何でよ?」
「恥ずかしいからに決まってるだろ。それに……下手だろうしな」
「経験あるって言わなかった?」
「……それはキスだけだ」
「……じゃあ、私がしてあげようか?」
「それは断る。女に抱かれる趣味はない」
「えらそうに……初めてのくせに」
「いいから、黙れ」
「ん」
◆◆◆
――目が覚めた時には外はすっかり暗くなっていた。頭の中がすっきりしている。その理由は明らかね。悪夢を見ないでゆっくり寝れたのはいつ以来かしら。
ベッドの上には……私一人か。となりに温もりがないことをとても寂しく感じた。
仕方がないわね。脅して抱かせるなんて私は何をやっているのだろう。
「なんだ、起きたのか?」
聞こえてきた彼の声。いてくれたの?
「何よ。まだいたの?」
気持ちとは正反対の言葉が口から出る。
「ひどい言い方だな。女性を置いていくのは良くない対応だっていうから目が覚めるまでそばにいようと思ったのに」
「どんな知識よ、それ?」
「まあ、人から聞いた話だ」
「……そういう場合は隣にいてくれるのが正しい対応じゃないの?」
「そうだけど、いつまでも目を覚まさないから。昼間っからよくそんなに寝れるよな?」
「私は病人よ」
「そうだけど……だったらこのまま寝てろよ」
「……お腹すいた」
「それが病人の台詞か? 食事ならそこに置いてある」
彼の言うとおり、ベッドの脇のテーブルに食事の用意がしてあった。
「温め直すか?」
「……いい」
「じゃあ、ご自由に」
そういうと彼は私から視線をそらしてなにか運動を始めた。
「何をしてるの?」
「スクワット。足の筋肉を鍛える鍛錬だ」
「そう……ねえ、こっち向きなさいよ」
「鍛錬中。それと……服着ろよ」
「あっ……今更、何よ。その目で、その手で十分に――」
「そういう事をいう女は好きじゃない」
「あいにくね。私は純情とはかけ離れた女よ。私は……」
「そうかな? そうは感じなかったけど。まるで初めて――」
「そんなはずないでしよ!」
「……それもそうか」
「何よ。えらそうに。そっちこそ初めてだったくせに」
こう言いながらも顔が赤くなっているのが分かった。彼の言うことはある意味正しい。あんな風に優しくしてもらったのは……初めてだから。
「いいから、食事しろよ。俺は昼の鍛錬をさぼった分を取り返しておかないと」
「あっ、そっ」
上着を羽織ってテーブルの椅子に座る。食事の中身はこれまでと変わらない。でも、何故かとても美味しそうに感じた。
冷め切ったスープの器を手に取って口に運ぶ。
「美味しい……」
「何を今更。ふっ、今までの、ふっ、食事と、ふっ、変わらないだろ」
「……何しているのよ?」
「腹筋。腹の筋肉を鍛える鍛錬だ」
「そっ」
目の前に置かれた食事を次から次へと片づけていく。自分でも驚くような食欲。これは……彼のおかげなのかな?
「さて僕そろそろ行くわ」
「……そうなの?」
「ずっといるわけにはいかないだろ? また明日来る」
「ねえ、明日も……」
「何?」
これを言ったら嫌われる。それは分かっているのに止められない。
「抱いてくれる?」
悲しそうな彼の視線が胸に痛い。
「死なないと約束するなら……」
「約束する。だから……」
「夜になる。鍛錬をさぼるわけにはいかないから」
「分かった……待っている」
「……じゃあ」
部屋を出て後ろ手に扉を閉める姿。振り返ってはくれないのね。それを求めるのは、私のわがままかしら。
◆◆◆
部屋を出るときに彼女の顔を見れなかった。顔色変わってたかな?
出来るだけ普通でいようと思ってたのに、最後の最後で崩れたな。愛情ではない、ただの同情だ。そんな気持ちで女性とあんな事をしたら結局最後には傷つけることになると頭では分かっているのに。流されるままにあんな事になってしまった。明日もか……
「はぁ、とりあえず飯でも食うか」
「んー」
「うわ?」
目の前に突然ルナが現れた。腰に手をあてて小さな体を精一杯に反らしてる。仁王立ちのつもりなのかな?
「お疲れ」
「ルナ、それすごく嫌味に聞こえる」
「嫌味だよ」
「そんなことまで覚えなくていいのに……怒ってるか? 怒ってるよな」
「怒ってない。ヒューガが辛いの分かるから」
「そうか。僕は辛いか……」
無理してる。それは分かってる。そんな気持ちで彼女に接することに罪悪感を感じる。
「どうして?」
僕の隣に並んで歩きながらルナが尋ねてきた。
「どうしてだろ? 自分でもよく分からない。同情だってのは分かってるけど」
「無理してる」
「ああ、僕は無理してる。でも……じゃあ、どうすれば良いかが分からない」
「そう……」
僕の選択が正解だとはとても思えない。でも何が正解かも分からない。何もしないわけにはいかなかった。彼女は死ぬと言った。それを止める為にやったこと……これは良い訳かな?
食堂にしている部屋のドアを開ける。
「うわ!」
食堂のテーブルに皆が座っていた。なによりも怖いのは……先生の視線。怒ってるな、あれは。怒るよな。先生はディア命だからな。
僕がやった事はディアへの裏切り。これを知ったらディアはどう思うか……それを考えたら一段と気持ちが落ち込んできた。
「立っていないで座ったらどうですか?」
「……先生の言葉に冷気を感じるのは僕だけかな?」
「そう感じるのは後ろめたい思いがあるからでしょう? まずはそれを説明してもらいましょうかね」
「説明って……口にしづらい」
「口に出来ないことをしたという証ですね。あんなことやこんなことを」
「……それ意味が違わない? 行為を説明しろって、先生はどんな趣味を持ってるんだ?」
「私はいたって普通です」
「いやだからそういう話じゃなくて……」
「こういう話にしないと私の怒りが沸騰してしまうからですよ」
「……ごめん」
先生の怒りはどうか知らないが、自分の落ち込みは少しだけ和らいだ気がした。
「悪いことをしたという自覚はあるわけですね?」
「正しいことだとは思ってない」
「そうですか……」
悪事とも思っていない。その意味を先生は正しく受け取ってくれたようだ。
「先生だったらどうしてた? あの場面でどういう行動をとった?」
「私にそれを聞きますか?」
「先生だから……」
「ふむ。確かに。生活面の指導も先生の重要な役割ですね」
だからこの知識はどこから来てる? 言ってることは学校の先生についてだ。
「それで? 先生の意見は?」
「……私は先生として未熟なようです。答えが見つかりませんね」
「やっぱり」
「そもそもヒューガくんの気持ちが分かりません。なんであの状況であんな真似が出来るのです? 言ってはなんですけど、女性としての魅力にはかなり問題ありますよね? それでも欲情できるヒューガくんは獣ですか?」
「……なんか見てたみたいな言い方だけど?」
「さて、それでは他の人の意見も聞いてみましょう。こういうことは皆で話し合うべきですね」
「今、誤魔化しただろ?」
「……誰か意見は?」
あくまでも惚けるつもりか。しかし、どこまで見られてたんだ?
「……私はヒューガ殿の気持ちがわかります」
「おや、意外な人から意見が出ましたね。ハンゾウくんはヒューガくんの気持ちが分かると?」
「ハンゾウくん?」
「ああ、教えていませんでしたか? 彼らには名を捨ててもらいました。そもそも間者の名なんてものは仮初のもの。意味はありません。ただ呼ぶときに不便だから必要なだけです」
「それでハンゾウ?」
どう聞いても日本語名。しかも僕にとっては有名人の名だ。
「ええ、間者といえばハンゾウでしょ」
「服部半蔵のこと?」
「……おほん、あとはですね」
また誤魔化した。先生は絶対に僕たちの世界の知識を持っている。その理由はもう想像ついているけど。
「……他の人の名は?」
「彼がサスケ、そのとなりにいるのがサイゾウ、あの二人は兄弟でセイカイとイゾウ。あとはコスケ、カマノスケ、ジュウゾウ、ロクロウ、ジンパチです」
「一人足りない」
「はい? そんなはずはないでしょ?」
「真田十勇士だろ? 十勇士ってくらいだから十人いるに決まってる。六郎は二人いる。たしか……海野六郎と望月六郎だったかな?」
「……しまった」
引用元はやはり真田十勇士。先生の反応がそれを証明している。反応などなくても間違いないけど。
「あとイゾウじゃなくてイサね。読み方が違う」
「イサ……では貴方は今からイサですね」
「えっ? そんな!」
「イサです」
「……わかりました」
「しかしヒューガくんは随分と詳しいですね?」
「歴史小説は大好きだ」
「後は? 間者で有名なのはどんな名なのですか?」
「後? 僕が知っているのは、伊賀は半蔵以外だと……百地丹波かな。風魔は風魔小太郎以外知らない。甲賀は……甲賀は個人名知らないな。あとは高坂甚内か。忘れちゃならないのは飛び加藤。加藤段蔵だな。あと……実際にいたかは別にして果心居士」
先生の質問に対して、思い付く限りの忍者の名前を挙げてみる。
「トビカトウというのは?」
「とにかく優れた忍者で結局その技量を恐れられて暗殺された」
「主を恐れさせるほどの使い手ですか……私の趣味じゃありませんね」
「そうなの? かなりすごい人だと思うけど」
「カシンコジとは?」
「幻術使い。でも実際にいたかどうかは分からない」
「幻術使い。なるほど」
「……こんな話をする為に待ってたのか?」
なんだか話が全然違う方向に進んで行ってる。僕としてはそれはありがたいけど、ハンゾウさんの話も聞いてみたいので、元に戻すことにした。
「えっと、何の話でしたかね?」
「……ハンゾウさんが俺の気持ちが分かるって話」
「そうでしたね。ではハンゾウくん、意見をどうぞ」
「……はい。えっと、なんだか話しづらいな。実は私にはヒューガ殿と似たような経験がある」
「ほぉ、それは貴重な意見ですね」
「……相手は以前お話した結界について話してくれたエルフだ」
「奴隷でしたね?」
「はい。本人の意思とは関係なしに奴隷として譲られた形になったが、俺としては奴隷として扱うつもりはなかった。その必要もないしな」
「でもそういう関係になったのでしょう?」
「最初は話相手だけのつもりだったのだ。彼女はその……かなり傷ついていて。慰めるつもりだったのだが、いつの間にか私は……彼女に惹かれていたのだと思う」
「それで無理やり関係を迫ったと」
「……先生」
ちょっと言い方がきつ過ぎるだろ。少なくともハンゾウさんは好意を持っていたわけだし。それを無理やりといってはハンゾウさんが可哀そうだ。
「違いますか? 相手は奴隷ですよね。本人の意思は関係ないでしょう」
「無理やりのつもりはない。でも……彼女が拒めないのは確かだな」
「まあ、どっちでも良いです。それで?」
「最初は明かな好意など意識していなかった。同情もかなり入っていたと思う」
「だからヒューガくんと似た経験と……駄目ですね。参考になりません」
「何故?」
「貴方は最終的にそのエルフを本気で好きになったのでしょう? ヒューガくんの場合、それは許せません」
「いや先生、恋愛感情というものは人に言われてどう――」
「許せません!」
「すみません! 出過ぎた事を言いました!」
ディアのことになると先生は容赦ない。こんなことを言ってる場合じゃないか。一番危険なのは僕自身だ。
しかしハンゾウさんがエルフと恋愛か……ハンゾウさんは本気で好きだったんだな。相手のエルフはどうだったんだろ。あくまでも奴隷だから仕方なく、そういうことなのかな。そんな相手を本気で好きになれるかな?
これは僕の理想か……男女の関係が全て素敵なものだってわけじゃない。それを僕はもう知っている。でも気になるな……何かが引っかかる。それが何か。
「ちょっと聞きたい」
「なんですか?」
「先生にじゃなくてハンゾウさんに」
「私? 何でしょうか?」
「そのエルフの人はハンゾウさんの事をどう思ってたと思う?」
「相手がどう思っていたかなど……特殊な関係でもあるしな」
「なんとなくでも良い。好意を持ってくれていたと思う?」
「……そう信じている。最初はともかく、最後のほうは俺を受け入れてくれたと感じていた。勝手な考えかもしれないが俺と一緒にいる時、彼女は嬉しそうにしてくれていた。それと……」
「それと?」
「最後の最後のほうでは一緒に過ごした後は……普通でいてくれた」
「……どういう意味?」
問いを口にしたけどなんとなく意味は分かっている。普通……彼女は普通ではない。
「彼女と一緒だ。普通でない時は感情の起伏が激しく、とにかく言っている事が二転三転する。つまり……」
「いいよ。言いたいことは分かった。その人は死んだんだよね?」
彼女もいずれ死ぬ。それを口にしないハンゾウさんは僕に気を使ったのだ。
「ああ、自ら命を絶って。でもそうじゃなくても彼女は……長くなかったと思う」
「なんでそう思う?」
「それも一緒だ。どんどん痩せ細っていく。肉と言う肉が削げ落ち。生きているのが不思議なくらいだった。自殺といっても、実際は楽になりたかったんじゃないかと思ってる」
「……そうか」
「彼女も多分、いつか死ぬだろう。実はそれが分かっていて彼女を連れ出したのだ。大森林を渡るなんて勝算がある事じゃなかったからな。そんな危険な所に連れ出すのであれば先の見えている……そういう事だ」
ハンゾウさんは彼女が死ぬと分かっていた。だから彼女を大森林に連れてきた。これを優しさと言えるのかは微妙だ。少なくとも彼女への優しさではない。
「結局何が聞きたいのですか? 私にはわかりません」
「ああ、話が逸れたから。僕が思ったのはハンゾウさんを本気で好きだったんじゃないかなってこと」
「何故、それを知りたいのですか?」
「結界の事。質問の仕方とか関係ない。聞いたのがハンゾウさんだからそのエルフは答えた。ハンゾウさんを助ける為に……そう思った」
ハンゾウさんの為に彼女はエルフの秘密を明かしたのではないか。首輪なんて関係ない。それによってエルフが秘密を漏らすのであれば、とっくの昔に結界のことは知られているはずだ。
「……綺麗事ですね?」
「そうかもしれない」
「でも論理的に矛盾は感じませんね。質問の仕方なんかより、ずっとね」
「ああ、辻褄は合っていると思う」
「ふむ、いいでしょう。そういうことにしてしまいましょうか? その方が……幸せです」
綺麗事と言いながら、先生もそうであることを望んでいる。
「リースが私を本気で?」
リースっていうんだな。ハンゾウさんの恋人のエルフは。
ハンゾウさんはうつむいたまま肩を震わせている。確信がある話ではない。それでもハンゾウさんはそうであることを信じてるんだな。信じたいってことかもしれない。
「……さて今日のところはここまでにしておきましょう。話が脱線したおかげで随分と時間が経ってしまいました」
「脱線させた張本人のくせに」
「という事で解散です……ハンゾウくん」
「……はい」
「感情に溺れるようでは間者失格ですよ。それと確証のない情報を鵜呑みにすることも」
先生は厳しい。こんな時まで間者としての心得を説いている。そうでなければ間者なんて務まらない。そういうことかと思ったけど。
「すみません。もう大丈夫です」
「……でも貴方は元々未熟者。鍛錬もまだこれからです。だから……今日のところは好きにしなさい」
こう言うと先生は、いつもの様に姿を消した。それを見て慌てて皆も席を立つ。僕も最後に席を立った。
ハンゾウさんは僕が部屋を出るのを待ちきれなかったようで、すでに大粒の涙を流している。綺麗事と先生は言ったな。あいつが一番嫌がることだ。
でも死んでしまった人の気持ちを確認することは出来ない。気休めでも喜んでくれるなら……それを綺麗事というのか。
(分かるよ。名乗りで)
頭に響くルナの声。そうか。
「ハンゾウさん、ごめん。もう一つだけ教えてくれ。リースさんが名乗った時、なんて言ってた?」
「……はい? よく覚えていません。随分と長い名乗りだったので」
「こんな感じかな? なんとかの裔、なんとかの娘のリース」
エルフの正式な名乗り。きっとこれだったはず。
「ああ、確かに。よく御存じですな?」
「そうか……良かったな。ハンゾウさんは本当にリースさんに愛されてたんだよ」
リースさんはハンゾウさんに名を預けた。契約の為ではない。死を前にして、ただ自分の名をハンゾウさんに預けたかっただけ。いや、契約のつもりだったのかもしれない。自分の想いを伝え、ハンゾウさんの想いを受け入れるという自分にしか分からない誓約。
「あの、それは?」
「僕が保証する。信じていい」
「ありがとう……ございます」
ハンゾウさんは僕とは違う。愛し愛される関係だったのだ。それが……少し羨ましかった。