目の前に並ぶナイフをただ見つめているだけで、グレンの手は全く動かなかった。
しばらく、そうやっていたグレンだったが、やがてナイフを一つ一つ手に取ると、切れ味を確かめるように撫でてみたり、握ってみたりを繰り返している。
周りからクスクス笑いが聞こえてくるが、それを気にする様子はグレンにはない。
「何をしているのですか!?」
そんなグレンを咎める声が食堂に響く。
「何が違うのか確かめていました」
「……どうして、そんな事を?」
「たくさん並んでいるので、どれを使うべきかと」
何故、いくつものナイフがテーブルの上に並んでいるのか。まずそこからグレンは分かっていない。
「触って分かりましたか?」
「……分かりません」
「当たり前です! まったく、貴方はマナーを知らないにも程があります」
「お言葉ですが、コレットさん」
「ミス・コレットと呼びなさい」
グレンを叱っているのはミス・コレット。年配の厳しい顔をした女性だ。厳しい顔は、グレンが彼女を怒らせているせいではあるが。
「……ミス・コレット。自分はマナーなど学んだことはありません。そもそも学ぶ必要もありません」
グレンはこのミス・コレットにマナーを教わっている。全く必要性を感じていないのに。
「それはそうですが……」
ミス・コレットもそれは分かっている。
「駄目よ。ちゃんと覚えなさい」
横からグレンを咎める声が聞こえる。メアリー王女の声だ。
「王女殿下。自分はマナーが必要な場に出ることはありません」
グレンは、メアリー王女に呼び出されて、食事のマナーを学ばされている。健太郎と結衣が学ぶ場に同席するようにと呼ばれたのだが、今は、それが口実であることは分かっている。
「それは分からないわ。必要になる時もあるかもしれない」
「……無いと思いますけど?」
あるようでは困る。グレンはこの国から逃げ出すつもりなのだ。
「良いから覚えなさい。ケンもユイも学んでいるのです」
「それは勇者の二人は必要ですから」
勇者となれば、公式行事の場に頻繁に顔を出すことになる。恥をかかないように勉強するのは当然だ。
「学びなさい」
「……はい」
有無を言わせない口調のメアリー王女。仕方なくグレンは又、テーブルに並べられているナイフに向き合った。
「外側から使っていけば良いのです」
それでも手を動かさないグレンにミス・コレットが使い方を説明してきた。
「そうなのですか? でも、微妙に違いますが?」
「肉用と魚用など、それぞれ用途が違います」
「では、やはり、その違いが分からないと」
「料理が出される順番に並んでいるのです」
本来は違いも知っておくべきなのだが、グレン相手だと話が長くなりそうなので、ミス・コレットは説明を省いている。
「あっ、なるほど。では、これですね」
グレンは一番外においてあるナイフとフォークを手に持った。
「違います」
「えっ? 外からと」
「目の前にあるのは肉料理です。簡単なもので練習させているのです」
「……ちゃんと、そう言ってくれないと」
これはグレンが正しい。
「料理の順番は決まっています」
「普通、一緒に出てきますけど?」
宿の食堂で料理の順番なんて気にしない。出来上がったものから順番に、が基本だが、料理を運ぶ手間を省く為にまとめて出すことが多い。客もテーブル一杯に料理が並んだほうが喜ぶのだ。
「……普通は決まっているのです」
ミス・コレットは大衆食堂で食事などしない人だ。
「それを自分は知りません」
「前菜、スープ、魚料理、肉料理、デザート。大体こんな感じです」
「大体?」
「そういう順番です!」
「はい……」
ミス・コレットにとって、グレンは実に面倒くさい生徒だった。
テーブルに視線を落としたグレン。肉料理用がどれか外から数えているのだが。
「ミス・コレット!?」
急に大声でミス・コレットを呼んだ。
「何ですか!?」
「数が合いません!」
ナイフの本数が足りない……とグレンは思っている。
「……貴方はサラダやスープにナイフを使うのですか?」
「あっ」
又、周囲の侍女たちから笑いが漏れ出す。
「……三番目と」
それを全く気にする事なく、グレンは並んでいる中からフォークを一本手にとった。反対側からはナイフを取る。
それで皿の上の肉を切り刻んでいくグレン。又、笑い声が食堂に流れる。
「何をしているのですか?」
「肉を切っています」
「……食べる分だけを切るのです」
「最初に切ったほうが食べ……はい」
口を開くことなく、ただ睨みつけるだけでミス・コレットは、グレンの言葉を制した。
「音を立てない!」
「あっ、はい」
「大き過ぎます!」
「ええ?」
「そんな大口開けて!」
「いや、普通で」
「みっともない!」
「……では」
「切り刻まない!」
グレンが何かをする度にミス・コレットの怒声が食堂に響く。
「……ミス・コレット」
「何ですか?」
「一度、お手本を見せて頂けませんか? 言葉だけでは分かりません」
「そうですね。では、席を代わりなさい」
「はい」
席を立ってミス・コレットにその場を譲ると、グレンは後ろに立って様子を見ていた。
「後ろから覗き込まない!」
それさえも怒られてしまう。
「……じゃあ、前に」
「そうです。食事をしていない者にもマナーはあるのです」
「はい」
テーブルを回って、ミス・コレットの正面に立つ。それを確認して、ミス・コレットは食事を始めた。
ナイフとフォークを取って、優雅に食事を始めるミス・コレット。
「へえ」
流れるような、その動きにグレンは素直に感心していた。
「こんな感じです」
「ミス・コレットは剣を学んでいるのですか?」
「はい? そんなはずがありません」
「そうですか……なるほど。何事も極めると、風格が出るものなのですね?」
「風格?」
「ミス・コレットの動きはまるで剣の達人のようでした。無駄な動きがなく、流れるようで。皿の上の料理が少しずつ、それなのに一瞬に消えていくような錯覚を覚えました」
「……褒め言葉としては合格です。でも、今はそれを教える時間ではありません。今、貴方が学ぶのは食事のマナーですよ」
グレンの褒め言葉にやや呆気に取られたミス・コレットだが、直ぐに気を取り直してグレンをたしなめる。
「はい……コツのようなものは?」
「バランスですね。一つのお皿にもいくつかの料理が並んでいます。どれか一つをまとめて食すのではなく、均等に。後は大きさも均等にです」
「その大きさは?」
「さっき言った通りです。大きな口を開けない程度。それといつまでも口に残らない程度の大きさです」
「……口の大きさは分かりますが、いつまでも口に残らないというのは?」
この拘りはグレンには分からない。何であろうと疑問に思えば素直に聞こうとするのがグレンだ。
「目の前でくちゃくちゃと音を立てて食事をされて気持ち良いですか?」
「あまり気にした事はありません」
国軍でも宿の食堂でもこれくらいは当たり前。口に食べ物を入れたまま大口開けて話す人だって珍しくない。
「……気にする人は気にするのです。良いですか? 食事のマナーというものは、その場全体を快適にする為にあるのです。他人の食器の音が気になる人も、咀嚼する音が気になる人も、口の中が見えるような大口を開けられることを気にする人も居ます」
「自分の為ではなく、他人への気遣いですか?」
「そうです。例えば、ナイフの本数。貴方は無駄だと思っていますね?」
「正直言えば」
洗いものが増えて大変。グレンはこう思う。
「では、同じナイフをずっと使ったらどうなるか。ある料理のソースが付いたナイフで別の料理を切ったら、その料理の味はどうなりますか?」
「前の料理の味が混ざります」
「そうです。それは料理人の意図しない味になります。せっかくの味が台無しになると言っても良いでしょう」
「つまり料理人にも気遣っているわけですか」
この考えはグレンの頭の中には全くなかったものだ。軽い驚きが表情に浮かんでいる。
「丹精込めて作った料理は、最高の状態で食すのが礼儀です。マナーとはこういうことなのです」
「……分かりました」
「では、やってみなさい。彼に新しい料理を」
ミス・コレットの指示で侍女が用意していた皿を出す。グレンは元の席について、それに向かい合った。
「冷めてます」
これは最高の状態ではない。
「……練習です。我慢しなさい」
「はい」
だが、それでもグレンは動かない。
「早くしなさい」
「ちょっと待って下さい。もう少し……では始めます」
ナイフとフォークを手に取って料理にとりかかるグレン。先ほどとは見違えるような動きだ。
「あら?」
それに小さく驚きの声をあげるミス・コレット。その顔が納得したものに変わっていく。しかし、それもわずかな時間。又、グレンの手が止まった。
「どうしたのです?」
「……手を読み損ねました。あと十手足りませんでしたね」
「手?」
「段取りを考えていました。まず、順番と大きさを考えて、何手で食事を終えられるかと」
「貴方、これは食事ですよ?」
「間違えました?」
「ええ。食事を楽しむことを忘れています。美味しかったですか?」
「……覚えていません。考えるのに忙しくて」
「それは料理人に失礼だと思いませんか?」
「……思います」
また、グレンは失敗した。だが、グレンを叱るミス・コレットの顔は初めの頃のただ厳しいだけの表情と変わっていた。
「まあ、良いでしょう。食事を楽しむ余裕はマナーを身に付けないと作れません。メアリー様?」
「終わり?」
「はい。今日のところは」
「えっ?」
ミス・コレットの言葉を聞いて、グレンが驚きの声をあげる。今日のところは、という言い方は、また別の日があることを示している。
「……まだ、肉料理だけですよ」
グレンの反応に呆れ顔のミス・コレット。
「自分は肉が好きです」
「魚も食べなさい!」
「……はい」
二人のやり取りに、とうとう耐えられなくなって吹き出す人まで現れた。だが、これもまた礼儀に反している。ミス・コレットが許すはずがない。
「お静かに!」
ミス・コレットの怒声が食堂に響き渡る。
「貴女たちも、もう一度学び直したほうが良さそうですね? 今日の彼はゲストです。その彼を笑うなんて、もてなす側として許される行為ではありません」
「「「…………」」」
「では、今日はここまで」
侍女たちの顔に反省の色が見えたところで、ミス・コレットは終了を宣言する。
「やった!」
それに喜びの声をあげるグレン。
「明日もこの時間から始めます」
「……はい」
がっくりと肩を落とすグレンだったが、これは半分は振りだ。足取りは軽く、健太郎と結衣を置き去りにして、そそくさと食堂を出て行った。慌てて、二人もその後を追っていく。
「全く……彼ほど教え甲斐がある生徒は久しぶりです」
三人が食堂を出て行ったところで、ミス・コレットがぼそりと呟いた。
「さすがのミス・コレットもお手上げかしら?」
愚痴と思って言葉を返したメアリー王女だったが、意外な答えが返ってくることになる。
「私が申し上げた教え甲斐は、言葉の通りの意味です」
「どういう事かしら?」
「教える事に喜びを感じるという意味です」
「そうなの? でも、あんなに苦労していたじゃない」
グレンはどう贔屓目にみても優秀な生徒には思えない。
「でも、彼は私の言葉を真摯に受け止めました。教えたことの意味を真剣に考えて、それを理解しようとしています」
「そう……」
これが分からなかったメアリー王女は、ミス・コレットとグレンのやり取りを真剣に受け取っていなかったということだ。
「私が教えたいマナーは技術ではなく、心なのです。その心を口に出して教えたのは久しぶりです」
「……ケンとユイは違った?」
ミス・コレットは二人には何も言わなかった。きちんと出来ているからだとメアリー王女は思っていたが、今の話を聞くとそうではない。
「二人は……元々、少し知識があったようです。それもあってか言われたことを、そのまま素直になぞりました。ですが、ただなぞるだけの行為に心が宿るでしょうか? これは言い過ぎですね。彼のような生徒が珍しいのです」
「そう。ことごとく予想の上を行ってくれるわね」
ミス・コレットの説明を聞いてメアリー王女の表情には笑みが浮かんでいる。
「メアリー様?」
「あっ、嫌がらせじゃないわよ。グレンには期待しているの。マナーを学ばせるのも、グレンをいつまでも今の状態に置いておくつもりはないから。ケンに付いているだけでは、グレンの本来の力は発揮出来ないわ」
「そうですか。私にはその辺りは分かりません。ですが程々に」
メアリー王女の話を聞いたミス・コレットの表情には憂いが見える。
「……その程々には誰かにも言われたわ。ミス・コレットは何故、そう思うのかしら?」
「彼は常識にとらわれない人物だと思います。そういう人物は常識に凝り固まったお城では生きづらいかと」
「まさか、ミス・コレットからこんな言葉が出るなんて……」
城の常識人の代表がミス・コレットだとメアリー王女は思っている。ミス・コレットの今の言葉はかなりの驚きだった。
「私は常識を教えています。ですから常識の良いところも、悪いところも分かっているつもりです」
「それを教えてくれるかしら?」
「人々は常識によって守られ、そして安心を得ることが出来ます。でも常識は人々の了見を狭くもします。それから外れるものを正しくても認めないのです」
「よく分からないわ」
「うまく説明出来ませんね……これではどうでしょう? 常識の反対は非常識ですが、もう一つ、反対の言葉があると思います」
「何?」
「革新です」
「それって……いえ、分かったわ。ありがとう。下がって」
「はい」
ミス・コレットが出て行った食堂。メアリー王女はそのまま少し考え込んでいた。
「やっぱり似た言葉は変革、改革ってところね。結構。凄いことを言ったわね。ミス・コレット」
ミス・コレットに分かったと告げたものの、革新の言葉では理解し切れていなかった。それで、頭の中で同じような意味の言葉を探していたのだ。
思いついたのが、口に出した二つの言葉。
常識にとらわれた城の人間が見えないもの。それが変革や改革であるならば、この国の今は決して良いものではない。
「真面目な人の考えることは良く分からないわ」
グレンとトルーマン元帥が気付いたものと、同じ事実に触れても、メアリー王女に同じ考えがもたらされることはなかった。メアリー王女は常識を叩きこまれた王族なのだ。
◆◆◆
まさかミス・コレットに自分が褒められているとは思ってもいないグレンは、嫌なことから少しでも早く離れようと、足早に廊下を進んでいた。
「待った! 早いよ、僕達を置いて行くな!」
背中に健太郎の声を聞いて、グレンはようやく足を緩める。
「はあ、やっと追いついた」
「申し訳ありません。あの様な場は苦手です。急いで逃げ出したくて」
「分かる気はする。僕も堅苦しいのは嫌いだ」
「私も」
健太郎の言葉に結衣も同意を示した。
「でもお二人は怒られることなく、上手く出来ていたではないですか」
「前に習ったからさ。それでも完璧じゃないし、慣れていない。ずっと緊張していた」
「そうですか。でも毎日ですよね?」
健太郎たちは城で暮らしている。毎日、マナーが必要とされるような、贅沢な夕食をとっているとグレンは知っている。
「普段は大目に見てもらえるからさ。本当に畏まった席は、いつだっけ?」
「王様が同席した夕食会よ」
健太郎の問いに結衣が直ぐに答えを返してきた。
「ああ、あれは緊張した。何食べたか覚えていないな」
「そうね。私も味を感じなかったもの」
国王なんて存在と同席したことなど二人はなかった。その為か、国王がそれなりの覇気を有しているからか分からないが、その存在感に二人は圧倒されていた。
「それにはどなたが出席されたのですか?」
グレンは国王その人よりも出席者が気になっている。
「誰だっけ?」
「王様とメアリー様、ジョシュア王子、エリックも居たわね。あとは……覚えていない」
ウェヌス王国の文武の高官たちだ。挨拶はしたが、数が多い上に、言葉を交わす機会もなく、その他大勢としか記憶になかった。
「王族は三人ですか?」
「そうよ」
「……前から気になっていたのですけど、何故、メアリー王女殿下は、お二方と一緒に居るのですか?」
「えっ? おかしい?」
「ジョシュア王子殿下ではないことが不思議で。順当に行けば次代の国王陛下はジョシュア王子殿下のはずです」
勇者と一緒かどうかだけでなく、ほとんど姿を見ないこともグレンは気になっていた。合同演習などは最たるもので、メアリー王女がいて、ジョシュア王子がいなかったのをグレンは不思議に思っている。
「そうだけど。僕はあまり仲良くしたいとは思わないな」
「私は嫌い」
「珍しいですね? 聖女様はそういうことを口にされないと思っていました」
褒めているわけではない。グレンは、人の目を気にして良い人振るタイプだと結衣を思っている。
「……勘違いだと恥ずかしいけど」
「別に気にしません」
「変な目で見られている気がするの」
「変な目?」
「はっきり言うといやらしい目よ」
「……なるほど。そういう方でしたか。だから、行動を一緒にしたくないと?」
可能性としてはなくはない。グレンは何とも思わないが、結衣は美人だ。
「口に出してはっきり言ったわけじゃないのよ。でも、何となく周りも気が付いたみたい。いつの間にか、ずっとメアリー様が行動を共にしてくれるようになって」
「王女殿下は王子殿下に対する盾ですか。それは又……もしかして、御二方は仲があまりよろしくないのですか?」
「詳しくは知らない」
「……なるほど」
二人から情報は得られそうにない。別に王族の仲について知ったからといって自分に関係するかは分からないが、それでも知らないよりは知っている方が良い。
グレンは別の手で情報を入手することに決めた。
「さてと、今日はもう休むかな」
「あっ、そうですか。では、自分も失礼させて頂きます」
珍しく健太郎が引き止めることなく、休もうとしている。気が変わらないうちにと、グレンはこの場から去ろうとした。
「あっ」
そこに結衣の声が掛かる。
「……何か?」
グレンの中に嫌な予感が広がっていく。
「少し相談があるの」
「どうぞ」
「えっと……ちょっと着替えたいから待っていてもらえる?」
「はい?」
「待ってて」
「ここでですか?」
「……えっと、じゃあ、そうね。一時間後にここで待ち合わせは?」
「一時間……」
一時間がどれだけなのかグレンには分からない。
「半刻後よ」
「えっ? 何故そんなに掛かるのですか?」
時間は分かった。だが、今からそんなに待たなければならない理由が分からない。グレンは早く帰りたいのだ。
「女性は色々とあるのよ。一時間くらい待ってよ」
「……分かりました」
「じゃあ、後で。さあ、健太郎、部屋に戻りましょう」
「ああ」
グレンを置いて部屋に戻っていく二人。残されたグレンは納得いかない。
「せっかく早く帰れると思ったのに……居るかな?」
そう呟いて、グレンもこの場から離れた。
◆◆◆
健太郎と結衣と別れて、もうすぐ半刻になる。グレンは空いた時間を利用して、情報収集を行っていた。いや、情報収集を行う為と自分に言い訳をして、若さを発散させていた。
「ねえ、もうちょっと頻繁に会えないかしら?」
グレンの胸に顔を乗せて、侍女は甘えた声で囁いてくる。
「そうしたいのですが、これで結構忙しい身で」
嘘ではない。グレンのスケジュールはかなり埋まっている。さらに、そこにマナー教室まで割り込もうとしているのだ。
「そう……残念だわ」
「自分もです」
「……教えることなんてもうないわね? 貴方も一人前の男」
少し落ち込んだ侍女だが、すぐに気を取り直して、また甘えた声を出してくる。
「もう用済みですか? それでは会う必要はないですね」
少し冷たく突き放すグレン。
「……意地悪。分かっているでしょ? 私は貴方の体に夢中なのよ」
侍女はますます甘えた様子を見せてきたのだが、発した言葉が悪かった。
「……その台詞は二度と言うな」
「えっ?」
「夢中って台詞」
「あっ、ごめんなさい」
グレンを怒らせたと分かった侍女は慌てて謝ってくる。
「…………」
同じ言葉を別の女に言われるとこんなにも不愉快になるものか。そんな事をグレンは思っていた。
「ねえ、怒ったの? 何を怒らせたのかしら?」
「別に」
「何かすることある? ねえ、機嫌直してよ」
侍女のほうはグレンの機嫌を直そうと必死だ。
「平気です。もう怒ってませんから。体だけみたいに言うから、少し傷ついただけです」
さすがに今の怒りはグレンの身勝手だ。侍女に悪いと思って、グレンは言い訳を口にした。
「あっ、そういうこと? なんだ、良かった」
「でもやって欲しいことはあるかな?」
「何? あまり恥ずかしいことは嫌よ」
「嫌いでしたっけ?」
「……意地悪」
しなを作ってグレンを挑発してくる侍女。こういう仕草はグレンも嫌いではなかったりする。理性と欲望の間でグレンの基準は揺れ動いているのだ。
「恥ずかしがる貴女も見てみたいですけど、それじゃありません」
「何?」
「王族の方々の関係って詳しいですか?」
「……噂話くらいね。でも、どうして?」
急にこんなことを聞いてくるグレンに侍女は戸惑いを見せている。
「メアリー王女殿下に呼ばれました」
「凄いじゃない。王女殿下ともお近づきになれたの?」
「勇者付きですから。ただどう立ちまわって良いか分からなくて。お城って人間関係が色々ありますよね?」
変に疑われないように、グレンはもっともらしい理由を侍女に告げる。侍女との関係は情報収集が目的だが、それを伝えて良いほどの関係にはなっていないとグレンは考えている。
「そうね。どろどろしている部分はあるわ」
「やっぱり。何も知らないから変な行動したらマズイかなと思いまして。自分の立場って微妙じゃないですか? 王族に睨まれたら、お城に上がれる立場から外されそうで」
さりげなく会えなくなる可能性を侍女に示唆する。
「……そうね。分かったわ。人間関係を詳しく調べれば良いのね?」
それに気付いた侍女は、グレンの頼みを受け入れた。
「じゃあ、お願いします」
「ええ、任せて」
「……さて、そろそろ行きます」
「もう?」
「聖女様にも呼ばれていて。空き時間が少しあったので貴女に会いに来たのです」
「……嬉しいこと言ってくれるわね。じゃあ、立って。服を着せてあげるわ」
「あっ、はい」
言葉遣いは普通にさせているが、こうした世話はさせることにしていた。上下関係を意識させる為だ。もっとも相手は、上下関係など全く意識することなく、嬉しそうにグレンの世話を焼いている
侍女が自分に向ける好意を感じる度にグレンは落ち込んでしまう。悪意には悪意を向けられるが、好意に悪意で返すのは胸が痛い。
暗い思いを抱いたまま、部屋を出たグレン。そこに更に気持ちを重くする存在が居た。
「ここで何をしているのですか?」
グレンが冷めた視線を向けているのは、扉のすぐ裏に居た結衣だ。
「えっ、あの、待ち合わせ場所に居なかったから」
「それで盗み聞きですか?」
「そんなことしていないから」
結衣は否定するが、信じる気にはなれない。グレンが部屋の中にいたことを結衣は知っていたのだから。
「どこから聞いていました?」
「…………」
グレンの問いに沈黙で返す結衣。その顔が赤く染まっていく。
「軽蔑しますか?」
「……別に」
「少し離れましょうか?」
「え、ええ」
躊躇いながらもグレンの後に結衣は続いた。部屋から少し離れた所で、グレンは立ち止まって振り返った。
「侍女の方とああいう関係にあります」
「そう……」
ああいう関係で結衣は分かっている。
「無理強いされました」
「えっ?」
「奴隷騎士なら言いなりになるだろうと思ったのでしょうね?」
敢えて奴隷騎士という言葉を使う。誰のせいでこんな目にあっているのか思い知らせる為だ。
「…………」
結衣は黙りこんでしまった。グレンの思惑通りだ。
「一度だけかと思っていましたが、知っての通り、関係は今も続いています」
「嫌なら拒否すれば良いのに」
「拒んだら、襲われたと訴えると言われました」
「そんな!?」
追い詰める為の嘘だが、結衣に事実など分かるはずがない。
「侍女とはいえ、元は貴族の令嬢。奴隷騎士の自分とでは、どちらが信用されるか明らかです」
「……じゃあ、私が」
「証拠がありません。いくら聖女様とはいえ、口だけでは信用されません」
実際はどうだかは分からないが、結衣に余計なことを話されたくないグレンはこう断言した。
「じゃあ、泣き寝入りするの?」
余計な正義感。これがグレンの邪魔をする。
「失礼ですが貴女はそれを言える立場ですか?」
その正義感をグレンはへし折りにかかった。
「私?」
「自分は好きで今の立場にある訳ではありません。でも、それについて文句も言えない。これも泣き寝入りでは?」
自分も侍女と同じだ。グレンは結衣にこう思わせようとしている。
「……ごめんなさい。でも私に出来る事があるなら。何かないの?」
謝罪を口にしても、やはり結衣は良い人でいることを譲ろうとしない。この態度が、グレンの感情を逆撫でした。
「……そうですね、一つだけあるかな? 貴女には無理ですけど」
「何? 何でも言ってみて」
「堕ちてもらえますか?」
「えっ?」
グレンが何を言ったのか、結衣は理解出来なかった。
「聖女として讃えられる貴女が、自分と同じ場所にまで堕ちてくれたら、もう何も言いません」
「……それはどういう意味?」
「自分も侍女も堕ちた人間です。貴女も同じ様になってみますか?」
結衣の耳元に顔を寄せて、囁くようにグレンはこれを告げる。
「…………」
グレンの言葉の意味を想像して、結衣の顔は真っ赤に染まった。
「なんてね」
「えっ?」
「今のは警告です。あまり城内の物事に首を突っ込まないほうが良いです。人は誰でも知られたくない秘密を持っているものです。それが城内ともなると、知ってはいけないこともあります」
「……そうね」
「まあ、侍女との関係はそういう点で助かります。城のルールを色々と教えてもらえますから」
「……強いのね」
明るい顔で告げるグレンに、結衣は感心している。完全に誤解だが。
「生き残る為です。力のない人間は、泥にまみれることを嫌がっては生き残れません」
「そう……」
泥にまみれるの言葉で、結衣は、先程言われた事を思い出してしまう。首筋からまた朱の色が昇ってくるのを感じている。
「それでお話というのは?」
「……ごめんなさい。又、今度にするわ。少し混乱してしまって」
「そうですか。じゃあ、今日は失礼します」
何事もなかった様に、この場を去っていくグレン。その背中を眺めながら結衣は溜息をついている。いつまでも治まらない胸の高鳴りを感じながら。