グレンの日常もかなり落ち着いたものになってきた。騎士団官舎にきて、健太郎の鍛錬に立ち会う。立ち会うといっても自分の鍛錬を行っているだけだが。
午前の鍛錬時間が終わると、嫌々ながら健太郎と結衣との昼食。
休憩時間は図書室だ。図書室といっても国軍兵舎のそれではなく、城内の図書室。グレンが勇者付の騎士になって良かったと思うことがあるとすれば、唯一これだ。
城内の図書室の蔵書数は、国軍兵舎のそれと比べることも出来ない多さ。軍書においても、より高等な本が置いてあり、それ以外にも様々なジャンルの本もある。幾ら読んでも読み切れないほどだ。鬱屈とした日常の中でグレンが楽しんでいる数少ない時間の一つである。
午後はまた鍛錬。そして健太郎と結衣の話に付き合わされて、それで帰宅。たまに寄り道などもあったりするが。
こんな毎日が一月程も経っていた。
「なんだ、体調でも悪いのか?」
グレンの素振りを見たトルーマン元帥が声を掛けてきた。
「いえ、特には」
「それにしては振りが鈍い」
「ああ。剣を重いものに変えました」
「何故だ?」
「ずっと左手での鍛錬を続けてきたのですが、それ以前に腕の力が足りないと思いまして。それで少し鍛えようと」
これは嘘だ。普通に、いや、以前よりずっと戦えることを隠す為に行っていた利き腕とは逆での鍛錬。誤魔化す為であるのだから程々に行っておけば良かったのだが、それはグレンの性格が許さなかった。毎日、熱心に続けている内に、たまに満足するような振りが出来るようになってしまったのだ。思ってもみなかった自分の上達の早さに、慌てて考えたのがこれだ。
「……あまり薦められんな。振りの型を崩す事になる」
「それは一からやり直す覚悟です。力のない状態で固めても、上達に限界がくるのではとも思いまして」
「なるほど。確かにそうかもしれん。であれば、ついでに利き腕でもやったらどうだ? 庇っているだけでなく、無理して動かすことで治ることもあるかもしれん」
「ああ、それは勇者様にも言われました。リハビリと言うそうです」
「異世界の知識か」
「はい」
「勇者とはうまくやれているようだな?」
「まあ。今のところ対立するような物事がないが正しいかと。世間話をしているだけですから」
上手くやっているつもりはグレンにはない。言葉にした通り、対立のネタがないだけだ。勇者の二人は、グレンが思っていた以上に子供だった。悩み事といっても、本当に日常生活のちょっとした出来事くらいなのだ。
「ふむ。それでもどうなのだ? 勇者はものになりそうか?」
「すでに強いですが?」
「分かっているくせに惚けるな。言葉の無駄だ」
剣士としては強い。だが、それだけでは戦争には勝てない。
「では……今の勇者は騎馬部隊と同じです」
「又、分かりにくい例えを」
「凄まじい攻撃力を持っていますが、脆い」
分かりにくいどころか、実に簡潔に表現されている。
「……なるほど」
「脆さを少しでも消すつもりであれば、ハーリー千人将から引き離すべきです」
「エリックが元凶と?」
このグレンの進言はトルーマン元帥には意外だった。
「自分には納得いかない指導が多くあります。本当に勇者を強くする気があるのか疑問に思うようなものです」
「何故、エリックがそのような真似をする必要がある?」
「想像に過ぎませんが?」
「かまわん」
「嫉妬」
これも簡潔に一言。だが、これで充分だった。
「……女々しい考えを」
グレンの言葉を聞いて、トルーマン元帥の顔がゆがむ。
「あくまでも自分の想像です。でもあり得るとは思います。勇者が現れる前は、ハーリー千人将が勇者と呼ばれていたそうですね?」
「ああ、そのようだ。若くして千人将になった。それに相応しい能力も示してきておる。王国の期待の若手。その中でも筆頭だな。まあ、儂はそれへの驕りが見えて、最近はどうかと思うがな」
「本物が現れて、期待は自分から勇者に移った。それを妬んでもおかしくありません」
「お前もそう思うのか?」
ハーリー千人将の心情をよく読んでいる。グレンにも同じところがあるのかと、トルーマン元帥は思ったのだが。
「まさか。自分であれば代わりが来てくれて良かったと思います」
そんなはずはない。
「……それはそれでどうかと思うが」
「静かに暮らしたいので」
「ああ、それだがな。お前と妹は兄妹ではなくなった」
「ありがとうございます」
グレンが頼んでいたフローラを戸籍から外す手続きが終わったのだ。そう思って礼をしたグレンだったが。
「正確には戸籍に登録されていなかったので、改めて登録しておいた」
「えっ?」
それはかなり余計なことだ。戸籍がなければ、そこから素性が知られることはない上に、ウェヌス王国から逃げ出しても書類上は罪にならない。
「これで万一、勇者が妹を差し出せなんて言ってきても、それに従う必要はない。そもそも妹は居ないのだからな。そしてお前は天涯孤独の身となった。何かあってもお前一人のことで済む」
グレンの驚きを無視して、トルーマン元帥は話を続ける。
「はい」
「失敗したのではないかと思っておる」
「何がですか?」
「お前は自分のこととなると何故か軽く考える。お前には歯止めとなる何かがあったほうが良いのだ」
繋がれていた鎖から解き放たれた瞬間、グレンは何かとんでもない事を仕出かすのではないか。こんな思いをトルーマン元帥は持っている。
「そのご心配は無用です。戸籍から外れても守りたい存在であることに変わりはありません。妹の為に自分は生きなければなりません」
「そうか。それで聞きたいことがあるのだがな」
「……何かありましたか?」
トルーマン元帥が何を話そうとしているか察して、グレンにわずかに緊張が走る。
「惚けているのか? それとも本当に知らないのか?」
「後者です。そうかもしれないという話は聞いた事がありますが。それで、その『そうかも』はどうだったのですか?」
「……事実だ」
一度、周囲に誰も居ない事を確認して、トルーマン元帥はこう口にした。
「そうですか……ただ、その事実。実はあまり詳しく知らないのです」
「そうなのか? では、どこまで知っているのだ?」
グレンの話を聞いてトルーマン元帥は意外そうな顔をしている。グレンは全てを分かっていて戸籍の偽造を頼んだと思っていたのだ。
「両親が傭兵で王国と敵対する側で常に戦っていたらしい。これくらいです」
「……それは何も知らないと同じだな」
「えっ? まだ何かありましたか?」
グレンにとっては重大な事実。それをトルーマン元帥は何も知らないと同じだと言う。もうグレンには訳が分からない。
「これはお前に話しても良いものか……もし、勇者付騎士から解放されたらどうする?」
「…………」
実に答えづらい質問をトルーマン元帥はしてきた。
「隠すな。分かっておる。国を出るのであろう?」
「……はい。国に敵視されている親を持つ身であれば当然の選択だと思いますが」
「そうだな。では言わないでおこう」
「えっ、それは」
ここまで話してそれはないだろ、爺。心の中の思いをそのまま口にするとこうなる。
「聞かないほうが良い。聞いてお前がどう反応するかは分からない。分からないが、あまり良いことにはならないと思う」
「そこまでですか……?」
王国を敵とする傭兵団の団長。これ以上の秘密となると全く想像がつかない。
「儂もこれを公言するような真似は決してしないと約束する。お前が余計なことを話さなければ気が付く者もまず居ないであろう。それで我慢しろ」
「……はい」
「そして、この話は二度としない。お前も余計な詮索はするな」
「分かりました」
「それと本名も」
つまり、本名には秘密に辿り着く何かがあるということだ。もちろん、この考えをグレンは口にはしない。
「今ではグレン・タカソンが自分の本名と思っています。他の名を名乗るつもりはありません」
「ちなみに、その名は」
「最初に本名を書いていて、それではマズイと慌てて変えました。最後のノは点を付けてソにして、タカソでは変かと思ってンを付けました。それと名の前にグを付けただけです。とっさに考えたのですが、まあまあ気に入っています」
「そうか。余談だな。さて、頼んでいたことはどうだ?」
「ああ、将の方たちですね。少しお待ちを」
グレンは傍らに置いてあった荷物から数枚の紙を取り出して、トルーマン元帥に渡した。
「こちらに纏めております。後でお読みください」
「説明せんか」
「そのつもりだったのですが、邪魔が」
「何?」
グレンが向けた視線の先をトルーマン元帥は振り返って確認した。
調練場に似つかわしくない、青いドレスを身にまとった女性が、何人もの侍女を従えて歩いてきている。
「メアリー王女殿下?」
「そのようです」
「親しいのか?」
「まさか。城内で一度すれ違ったくらいです」
「では何故?」
「それは自分が聞きたいです。今は閣下に御用があって参られたのであることを願っております」
自分には女難の相があるのではないかと、近頃グレンは思っている。今回はこの悪い予感が当たらないことを祈るばかり。
「……それはない」
「残念です」
二人がこんな会話をしている間にメアリー王女はすぐ側まで近づいてきていた。手で侍女を制すると一人、前に進み出てくる。
「おい」
「……閣下に御用では?」
「それはない」
「自分も用はないです」
「不敬だぞ」
「この場合はお許しを」
「……そうだな」
王女と関わって良いことなど何もない。これについてはトルーマン元帥もグレンと同じ考えだ。
「グレン!」
少し手前で立ち止まるとメアリー王女がグレンの名を呼んだ。
「お前の名だ」
「来いということですか?」
王族を前にして、どう振る舞えば良いかなどグレンには分からない。
「王族が自ら足を運ぶのは違うであろう? それがほんの数歩先であっても」
「なるほど。色々と面倒です」
「行け」
「……はっ」
トルーマン元帥に軽く一礼して、グレンはメアリー王女に近付いて行った。
風に靡いている金色の髪が、陽の光を受けて輝いている。透き通るかのような白い肌の上の青い綺麗な瞳がグレンをじっと見つめていた。
緊張した面持で目の前に跪いて、頭を垂れるグレン。それに少し驚きの表情を浮かべたメアリー王女であったが、すぐに表情を笑顔に変えると、グレンの顔の前に手の甲を差し出してきた。
少し躊躇いながらも、その手を取って、甲に口を当てるグレン。
「……お呼びでしょうか?」
「随分と古めかしい礼を知っているのですね?」
「はい?」
「今のは一昔前の騎士が淑女に対する時の礼よ」
「そ、そうでしたか。何も知らないので、本か何かで読んだそれを真似ました。大変失礼をいたしました」
「いえ。悪いものではありません。どちらかという気分が良いですね」
「それは……幸いです」
自分にとっては不幸かもしれない。内心ではこんな風にグレンは思っている。
「鍛錬をしていたのですか?」
「はい」
「怪我のほうはもう良いのですか?」
「いえ。今は反対の腕で行っております」
「まあ? それが出来るのね」
「まだまだ出来るとは言えません。少しずつ出来るようになればとは思っておりますが」
「そう。励みなさい」
「……はっ」
なぜ、こういう会話になるのかが、グレンには分からない。言われなくても鍛錬はやるのだ。これも又、王族の面倒なところかと内心でため息をついた。
「貴方を勇者付騎士から外そうとしました」
「……そうですか」
益々、グレンの頭は混乱する。そんなことを頼んだ覚えはない。それ以前に、こうして話すのも初めてなのだ。
「私の力が足りずに、それは出来ておりません。でも必ずそうします」
「御心遣いありがとうございます。ですが、あまりご無理はなさらぬように。陛下が決められたことです。いくら王女殿下とはいえ、それに逆らうような真似は王女殿下のお為になりません」
「……私の身を案じてくれるのですか?」
「あっ、はい」
当然グレンはメアリー王女のことなんて考えている訳ではない。気を使って口にしただけだ。
「もとは私のせいなのに」
「……はい?」
メアリー王女の口から聞き捨てならない言葉が発せられた。
「私がケンとユイに、同世代の仲間が必要だと言ったから。許して」
「……えっと。許すも何も。自分は元より王女殿下に恨みを抱いておりません」
きっかけになったかもしれない。だが、恨むようなことではない。恨むとすれば、それをきっかけとして利用した者たちだ。
「そう……」
「もう一度申し上げます。自分などのことで、そのような悲しいお顔をするのは止めてください。王女殿下には笑顔がお似合いです」
メアリー王女は誤解している。その誤解を解こうと、グレンは自分が恨んでいないことを示そうとしている。
「……口が上手いのね」
「どちらかと言えば下手なほうだと思っております。今もただ事実を申し上げたまで」
「…………」
形の良い整った眉毛をわずかに寄せて、メアリー王女はグレンを見詰めている。
「あの……嘘ではありません。王女殿下の笑顔はとても魅力的だと思います」
「…………」
「嘘では」
怒らせた。こう思って焦るグレンだった。
「も、もう良いわ」
「あっ、はい。それでご用件は?」
「話を……いえ、騎士たちの鍛錬の視察に参りました」
用件は終わりかと聞いたつもりのグレンだったが、メアリー王女は別の用件を告げてきた。
「そうですか。では閣下の前にご案内差し上げます。どのような鍛錬を行っているかは、閣下にお聞きになるのが一番ですから」
「貴方は説明出来ないの?」
「……少ししか」
自分に説明出来るか聞いてくる理由がグレンには分からない。
「では、貴方から説明を聞きます」
「ですが」
グレンは少ししか出来ないと言ったのだ。
「貴方から聞きます」
それでも返ってきたのは有無を言わせない言葉。自国の王女にここまで言われて、断ることは出来ない。
「……承知致しました。お席をご用意いたします。少しお待ちいただけますか?」
「ええ」
メアリー王女の前から下がり、グレンは一旦、トルーマン元帥の所に戻った。グレンを見ているトルーマン元帥は苦い顔だ。
「……何か失敗しましたか?」
「王女殿下はあれで男慣れしていない」
「はい?」
「王女殿下を褒め称える者はいる。だが、あれだけ正面から巧言を向けられることなどない。何といっても王女殿下だからな」
「巧言という言い方は。機嫌を損ねないように気を使っただけです」
これだけ気を使ったことはグレンは生まれて初めてだ。自国の王女相手となると、やはりグレンも緊張してしまう。
「あれのどこが機嫌を損ねているのだ?」
「睨まれたような?」
「お前という奴は……とにかく、程ほどにしろ。静かに暮らしたいのであればな」
「はあ。あっ、閣下は椅子を使われますか?」
「年寄扱いするな」
「では、持っていきます……閣下もいらっしゃいませんか?」
「いや……いや、やはり行こう」
一旦、拒否しようとしたトルーマン元帥であったが、思い直してグレンとともに、メアリー王女の下に向かう事にした。
「元帥も来たのね」
トルーマン元帥に露骨に嫌そうな顔を向けるメアリー王女。それに苦笑いで応えて、トルーマン元帥は口を開いた。
「その様なお顔を向けられるのは残念ですな。出来ますればメアリー王女のお綺麗な顔を拝顔したいところです。まあ、その様なお顔でもお美しいことに変わりありませんが」
「……そんな言葉を聞いても嬉しくありません」
「おや。年寄の褒め言葉では駄目ですか」
「年齢の問題ではありません」
「……どういう事ですかな?」
どうやらメアリー王女には喜ぶ喜ばないにきちんとした基準があるらしい。それがどういうものか、トルーマン元帥は尋ねてみた。
「グレン、貴方はどう思う?」
「はっ、はい? 何の事ですか?」
メアリー王女はトルーマン元帥の問いに答えることなく、グレンに話を向けてきた。
「私の容姿はどう思う?」
澄ました顔で、グレンに自分の容姿の感想を求めるメアリー王女。
「お綺麗だと思います」
「……もう。心がこもってないわ」
グレンの言葉に今度は拗ねたような表情に変わっていく。その変化を見て、トルーマン元帥の顔がまた苦いものに変わった。
「そうですか? ああ、でもそうですね。今のように感情を表に出される王女殿下のお顔の方が自分は魅力的だと思います。澄ました顔をされていると綺麗なのですが、お人形のようで」
「…………」
「あっ、申し訳ございません」
又、眉を寄せられて無言で見つめられるグレン。慌てて謝罪の言葉を口にした。
「別に、怒ってないわ。これ癖なの」
「癖ですか?」
「王女として、甘言で心を開いたように思われたくないのです。だから嬉しくても、それを表に出さない様にしていました」
「……勿体ないですね。嬉しいのであれば、笑顔をお見せになれば良いのに。臣下はそれを喜ぶと思います」
臣下に隙を見せないという気持ちも分かるが、女性であるメアリー王女には不要な心がけのようにグレンには思えた。
「貴方も?」
「それはもちろんです」
「そう」
今度の反応は明らかだ。頬を染めて、メアリー王女は恥ずかしそうに俯いてしまった。
「痛っ!」
「えっ?」
「……何でもありません。蜂か何かでしょうか? 何かに刺されたような」
そう言いながら、グレンの視線はトルーマン元帥に向いている。固められたその拳骨に。
「大丈夫?」
「蜂に刺されたくらいでは何ともありません。ただ王女殿下はお気をつけて。お肌に傷がついては大変ですから」
「あ、ありがとう」
「……小僧。何の話だったかな?」
二人の、主にメアリー王女の様子をみて、トルーマン元帥はこのままでは不味いと話に割り込んできた。
「ああ、騎士の調練のご説明を」
「そうであった。さて、調練表を取ってきてもらえるか? 将軍であれば全体表を持っているはずだ」
「必要ですか? 全て頭に入っているのでは?」
「王女殿下にご説明差し上げるのだ。一点の間違いもあってはならん」
「そうですか。では、ちょっと行ってきます」
辺りを眺めて、一番近くにいる将軍を見つけると、グレンはその場所へ駆けて行った。
「もう。どうでも良いのに」
「メアリー様」
「何よ?」
トルーマン元帥に対しては、メアリー王女は遠慮のない態度を見せる。親しさの証だ。
「儂の褒め言葉とグレンの何が違ったのですかな? まだ聞いておりませんでした」
「……自分で言うのも恥かしいけど、私の容姿を褒める者は多いわ。褒めない者がいないと言ってもかまわないわね」
「まあ、そうでしょうな」
自惚れと受け取ることはトルーマン元帥でなくてもない。それだけメアリー王女は美しいのだ。
「まるでお人形のよう。一つの芸術品のよう。こんな言葉は何度も聞いたわ」
「まあ」
「でも、私は人間なの」
「……そうきましたか」
メアリー王女の人間だの一言でもう、喜ぶ喜ばないの基準が分かった。
「グレンが私にいうのは表情のことばかり。悲しい顔は良くない、笑顔が素敵。さっきも拗ねた顔でも魅力的だと言ってくれたわ。まるで心を見てくれているような気がするの」
「……グレンをどうするおつもりですか?」
「私の近衛にしたいと思っているわ」
「なりません!」
メアリー王女の望みを、トルーマン元帥は間髪入れずに大声で否定した。
「何故? 王族である私に近衛がいるのは当然よ」
「……護衛役としての近衛であればですな」
「…………」
トルーマン元帥が何を言いたいのか分かってメアリー王女は黙ってしまった。
「ご自身が王族であることをお忘れなく。これを言うのは胸が痛むのですが、王女殿下は自由に恋愛をすることなど許されておりません」
「そんな感情は持ってないわ。グレンと会ったのはまだ二度目よ?」
「では恋愛に憧れを抱いてはおりませんか?」
「それは……」
図星だった。王族であるメアリー王女に自由恋愛など許されていない。許されない分、憧れも強かった。
「何の官位も爵位もないグレンであれば、後腐れはない。ご自身を満足させる為の恋愛相手にはもってこいだ。そんな風に考えておられませんか?」
「……少しくらい良いじゃない。本当の恋愛は出来ない。でも、それに似た経験くらいはしてみたいと思うのは当然よ」
「それで済みますかな?」
「私を誰だと思っているの? 私はウェヌス王国第一王女メアリー・サン・ウェヌスよ。それが私の誇り。それを忘れることはないわ」
恋愛に溺れることなどない。王女らしい口調でメアリー王女ははっきりと言い切った。
「そうですか。では何も申しませぬ」
「えっ?」
「儂だって恋愛をしたことくらいはあります。それも決して想いが叶わない恋愛でした。その頃は辛いと思っておりましたが、今となっては良い思い出です」
「意外」
「儂にだって若い頃はあります」
トルーマン元帥の顔には苦笑いが浮かんでいる。この年で、昔の恋愛話をすることに照れているのだ。
「相手は誰?」
「……それは言えません。心に秘めているからこそ、良い思い出になるのです」
メアリー王女の問いを受けて、トルーマン元帥の顔から笑みが消えた。
「そう」
二人の間になんとなく気まずい雰囲気が流れる。そして、それを崩してしまう存在といえば。
「お待たせしました……何かありましたか?」
敏感に二人の雰囲気を察して、グレンはトルーマン元帥に尋ねた。
「何もない」
「でも……」
何もないようには思えない。だからグレンは聞いたのだ。
「元帥の若い頃の恋愛の話を聞いていたの」
グレンの疑問にはメアリー王女が答えてきた。
「はい? 閣下の恋愛?」
グレンにとって思ってもみなかった意外過ぎる答えだ。
「儂にだって若い頃はある。それに妻だっているのだ」
「ああ、その奥様との」
「違うみたいよ。叶わぬ悲恋だったって言っていたから」
メアリー王女は次々とトルーマン元帥との会話の内容を暴露してくる。
「……悲恋」
今回もインパクトは抜群。グレンの頬がぴくぴくと動いている。
「笑うな!」
「……笑っておりません。ちなみにお相手は?」
何とか笑みが顔に出るのを堪えて、グレンは更に情報を引き出そうとメアリー王女に質問をする。
「言えないって。心に秘めているから良い思い出だと言われたわ」
「はあ。若い頃で、叶わぬ恋で、王女殿下に言えない。なるほど」
「何がなるほどなのだ?」
どこか納得した様子のグレンに、トルーマン元帥が渋い顔をして問いかけてきた。
「いや、案外、王女殿下の御母上ではないかと」
「母上? それは無いわ。私の母はこの国の王妃よ」
グレンの考えをすぐにメアリー王女は否定した。王妃相手の恋となれば、そのライバルは現王だ。それは有り得ないと思ったのだ。
「若い頃となると王太子妃への密かな想いですか。それはいくらなんでも――」
グレンの、それにやや遅れてメアリー王女の視線がトルーマン元帥に集まる。そのトルーマン元帥といえば、あんぐりと口を開けて固まってしまっていた。
「……さて、王女殿下、あそこで行われている調練がですね」
「まあ、凄いわね」
「そうですね。凄いのです。あっちも凄くてですね」
「本当、凄いわ」
トルーマン元帥から慌てて視線を逸らして、二人は意味のない会話を始めた。触れてはいけない真実に触れてしまったことで完全に動揺している。
「……まるで事実であるかのような態度は取らないで頂きたいですな」
苦々しい顔で、グレンたちの考えを否定するトルーマン元帥だが、これは無理というものだ。
「だって。ねえ」
「あからさまでしたね。あれで分からない人はいないかと」
「……昔の話だ」
結局、トルーマン元帥は事実と認めるしかなかった。
「そうじゃないと問題ですよね?」
「そうね。でも、母上と元帥……ちょっと想像出来ないわ」
「実際に想像したのですか?」
「想像? ……ふっ、むっ」
グレンの言葉で本当に頭に思い浮かべたのか、メアリー王女は、口を閉じて懸命に笑いを堪え始めた。
「……我慢は体に悪いですぞ」
「ぷっ、あっ、もう駄目、面白すぎるわ」
もう堪えきれないとばかりに、メアリー王女はとうとう大声で笑い始める。トルーマン元帥としても、苦笑いでただその様子を見つめるしかない。
ただグレンに笑われるのは許せないようで、何気なく拳を固めて牽制している。
それを知ってグレンも、ただ黙ってメアリー王女を見つめていた。
「はっ、はあ。もう、王族として恥ずかしいわ。人前で大声をあげて笑うなんて」
しばらく大笑いしていたメアリー王女もようやく少し落ち着いたようだ。
「いや、大きな口を開けて笑う王女殿下も、やっぱり素敵です。可愛いと言ったら、叱られますね」
「…………」
「うぉっ!」
「グレン!」
大きく横に弾け飛ぶグレン。グレンの居た場所には拳を振るう、では済まずに、高く足を蹴りあげた姿勢のトルーマン元帥があった。