まだ夜明けまでには少し時間がある。
薄暗い部屋の中で、グレンはフローラを起こさないように、そっと身を起こした。着替えはしない。昨晩の内に直ぐに部屋を出られるようにと準備しておいたのだ。
音を立てないように鍵を開ける。普段は気にならない音がやけに大きく響いたような気がして、胸が大きく高鳴った。
後ろを振り返ってフローラが寝たままである事を確認して、ほっと胸を撫で下ろす。
グレンは、ゆっくりと扉を開けて廊下に出た。
「その気になれば起きれるものだな」
フローラを起こさないで廊下に出れた事でホッとしたのか、こんな独り言が口をついて出た。
王都に時を告げる鐘が鳴り響くのは三の刻からだ。普段はそれを合図に起き出していたのだが、今日はいつもよりは半刻ほど早起きをしたはず。
グレンは、そのまま足音を立てないように階段を降りて食堂に出た。
「何だ、早いな」
「うわっ!」
突然後ろから掛けられた声にグレンは心臓が止まりそうになるくらいに驚いた。
「静かにせんか」
「あっ、すみません。親父さんこそ早いですね?」
「儂はいつもこの時間だ。仕込みがあるからな」
「こんな早くから?」
「仕込みを終えたら朝市に行く。戻って残りの仕込みを終わらせたら昼まで休憩だ」
「そうだったのか。知らなかった」
グレンが起きた時には大将は外出していたのだ。会うことがなかったので、こんな朝早いとは気付いていなかった。
「それでお前はどうしてこんなに早く?」
「鍛錬をしようと思って」
「ほう。どういった風の吹き回しだ?」
グレンが勉強している姿は、親父さんも何度も見ているが、鍛錬をするなんて話を聞くのは初めてだった。
「小隊長って思っていたより忙しくて。部下の指導とか、全体調練の勉強とか。自分を鍛えている暇がないから、少し早く起きて鍛錬の時間を増やそうと思って」
「ああ、そういう事か。賢明だな。小隊長になって腕を落とす奴は多い。そして、それに気付かずに戦場に出て命を落とす者もな」
「親父さん、よく知っているな?」
「……儂だって徴兵経験はある。戦場に出た事もな。その時の経験だ」
「なるほど。そうだったのか。じゃあ、そういう事で」
話をしている時間が惜しいと、グレンは会話を止めて外に出ようとしたのだが、そのグレンに更に親父さんが声を掛けてくる。
「おい。どこに行く?」
「えっ? 外だけど?」
「いくら裏通りだからといって、通りで剣を振り回す奴がいるか。裏に行け、裏に」
「あ、ああ……でも、裏庭狭いけど」
「剣を振るには十分な広さだ。というか、あの広さで剣を振れないようじゃ、お前死ぬぞ」
「えっ? どうして?」
「戦場は一対一の立ち会いとは違う。狭い中で敵味方が入り乱れて戦うのだ。間合いなんて取っている余裕があるか」
「……確かに」
親父さんの言葉にグレンは納得した。そして、普段はどちらかと言えば無口な親父さんの雄弁さに少し驚いてもいる。
「狭い場所で剣を振れて初めて戦場で通用するのだ。お前は騎士じゃなくて兵士。それを忘れるな」
「分かった……それも徴兵の時の経験?」
「そうだが」
「それにしては……」
親父さんの話は小隊でも聞いたことがない。それを知る親父さんはどんな経験を積んでいるのかとグレンは疑問に思った。
「良いから、さっさと行かんか」
「あっ、はい」
親父さんに追い立てられるようにして、グレンは裏口から裏庭に出た。
雑然と廃材やガラクタのような物があちこちに転がっている裏庭。素振りは出来ない事はないが、それしか出来ないとしかグレンには思えない。
「ここで……とりあえず素振りからだな」
まずは体を温めようとグレンは素振りから始めた。最初は、ゆっくりと体の動きを確かめるように一回、一回振っていく。とくに剣筋にブレが見られないと感じた所で、徐々に振る速度を上げる。
右上段から斜め下に、左上段から斜め下に。次は左右からの横振り。それが終わると下からの切り上げと、様々な方向への素振りを続けていく。これがグレンが小さな頃から続けている素振りのやり方だ。
それが終わると今度は続けて剣を振る。縦に振り下ろした剣を下から切り上げる。片足を大きく踏み出したところで、予想通り、地面に転がっているガラクタに足をぶつけた。
「痛っ……くはないけど、加減して振ってたら鍛錬に」
仕方なく、まずはガラクタを隅に避けようと剣を置いた。
「勝手に動かすなよ?」
それを待っていたかのように、裏口から親父さんの声が聞こえる。
「……見てたんだ」
「どうせ、そうすると思ってな」
「でも、これじゃあ」
「その幅で剣を触れるようになれ。別に跨いでも構わんがな」
「……それって」
まるで稽古をつけるような親父さんの言い方が気になって質問を返そうとしたグレンだったが。
「儂は朝市に行くからな……勝手に動かすなよ」
それだけを言って、親父さんは去っていった。
「…………」
初めて見るまるで戦士のような親父さんの顔。それに戸惑っていたグレンだったが、いつまでも呆けていても仕方がないと、親父さんの言うがままに廃材やガラクタを動かさないように鍛錬を続けた。
◇◇◇
国軍の調練は五の刻から始まる。自主練を終えたグレンは、着替えだけを済ませて調練場に向った。まずは兵舎に入って調練用の革鎧に着替える。
「間合いですか?」
「そう。戦場で相手と戦う時って、間合いとか考えている?」
「そんなの考えた事もありません。そもそも間合いって、そんな重要ですか?」
重要である。少なくともグレンは、そう学んでいる。
「……ごめん。聞く相手を間違えた」
「あっ、いや。まあ、確かに自分に聞くのは間違いですね。ボリスのおっさんに聞いたらどうですか? あの、おっさん古株だから、そういう事に詳しいと思いますよ?」
「そうか。そうだよな。経験豊富な人に聞くのが一番だ。ありがとう」
着替えを済ませると、グレンは調練場でボリスを探した。それなりに広い調練場だが、探すのに苦労はしなかった。中隊毎に居る場所は決っているからだ。
「あっ、居た。ボリス小隊長!」
「ん? 何だ、小僧か。どうした? ここはお前の小隊じゃないぞ」
まだ十六のグレンは、大抵の人に小僧と呼ばれる。
「ちょっと教えて頂きたい事がありまして」
「ほう。俺なんかに聞く事があるのか?」
「もちろんです。ボリス小隊長は戦場で戦う時に、間合いとか考えていますか?」
「間合い? ああ、間合いな。考えてない」
「……あれ?」
ボリス小隊長の答えはグレンの期待していたものと違っていた。
「戦場で自分の間合いなんて取る余裕があるか。そんな暇があれば数多く剣を振れ」
「それで相手を倒せるのですか?」
「お前、実戦経験なかったのか?」
「盗賊討伐はあります」
「それもそうだな。実戦経験もなしに小隊長になれるはずがない」
「まあ」
「だが、それでも経験不足である事は間違いない」
「それはそうです」
最年少、最短小隊長就任。それはそれだけ軍歴が短いという事だ。
「盗賊には陣形も隊列もない。その分、混戦になるが、それでも個人と個人の戦いの延長に過ぎない」
「個人と個人ですか……でも、数人を相手にする事もあります」
「そういう意味ではない。軍と軍の戦いは、きちんと隊列を組んで密集して戦う。これは、さすがにわかるだろ?」
「はい。部隊調練は、そういう調練ですから」
「敵がどうこう以前に、すぐ隣に味方が居る。そんな所で自分の間合いで剣を振ればどうなる?」
「味方の邪魔をします」
「邪魔ならまだ良い。下手すれば味方を斬ってしまう。そこから更に戦闘が進めば、今度は足元は敵味方の死骸、そうでなくても動けなくなった兵で一杯だ。そんな所で一対一のつもりで剣を振ってみろ。足を取られて転ぶだけだ」
「……そうか」
「そういう事だ。お前の剣は少しは見たことがある。どこで習ったかしらないが、あれは騎士の剣だ。兵士の剣ではない」
「自分の剣がですか?」
グレンは自分の剣がどういうものかなど分かっていない。ボリスの言葉は驚きだった。
「俺にはそう見えた。まあ、俺は別に剣士ではない。何となくそう思っただけだ」
「そうですか。じゃあ、戦場ではどういう剣を使えば良いのですか?」
「無様な剣だな」
「はい?」
「切るのではなく叩く。切るのではなく突く。突くのも、鎧の隙間を狙ってだ。当然、正面から堂々と何て事にはならない」
「殺すのではなく動けなくする事を考えろ、という事で合っていますか?」
「そうだ。盗賊の装備と正規軍の装備は全く違う。まあ、俺達、一兵士の装備なら、幾らでも切る場所はあるが、騎士が出てきたら、それは出来ない。殺すのは動けなくした後、それも余裕があればだ」
「なるほど」
「死にたくなければ、正統なんて捨てろ。俺が言えるのはそういう事だ。俺たち兵士に大将首なんて必要ない。最後まで立っていれば勝ちだ」
「分かりました。勉強になります。ありがとうございました」
「ああ」
「又、聞きたい事が出来たら来ます。その時は、よろしくお願いします」
「あ、ああ」
納得出来る答えを聞けて、グレンは満足そうな顔で自分の小隊の所に戻って行く。そのグレンをボリスは、意味ありげな表情で見送っている
「小隊長?」
「……ふむ。ちょっと意外だったな」
「グレンですか?」
「ああ。あれは早死するタイプだと思っていた」
「へっ? でも、奴は強いですよ」
グレンの強さは、同じ中隊の兵士なら皆知っている。
「強さの質が違う。例えば、騎士が俺たちに紛れて一兵士として戦えば、その多くが死ぬだろう。さっき言った事を知らずにな」
「騎士って強いですよね?」
「あれは騎士対騎士の強さであって、多対多の強さじゃない。だから騎士は後方で指示だけをしているのだ」
「それって逃げてるみたいに聞こえますけど?」
「そうではない。説明が難しいな。騎馬部隊は騎士の戦いだが、あれは特殊技能だ。重装歩兵は装備が特殊。部隊の指揮を取るのも技能の一つ。そういったものを省いて、一兵士とした時は、騎士は途端に弱くなるって事だ」
「……やっぱり分かりません。それよりもグレンの奴は?」
「あれは騎士のように振る舞って、功名を目指すと思っていた。だが、俺が無様と敢えて言った剣を簡単に受け入れた。生き延びる事を大事にしているという事だ。その為に、他の小隊の俺に聞きに来る素直さもある」
「ああ、何だか澄ました野郎だと思っていたけど、そうじゃないという事ですね?」
ボリスの難しい話は、兵士には理解されなかった。だが、全く見当外れかというと。
「どうしてそういう解釈になるか不思議だが、間違ってはいない」
言葉での表現の仕方が違うだけだ。
「じゃあ、もしかして久しぶりの大隊長なんて事も」
「それはどうだろう? そこまで出世するには、従順さが必要だが、あれに間違った事を受け入れる度量はあるかな?」
「なんだか小隊長みたいですね」
「馬鹿言うな。どうして俺と同じなのだ」
「だって小隊長だって、何度も上に逆らうから、未だに小隊長な訳ですよね?」
「……それは認めよう」
「まあ良いことです。俺ら平兵士にとっては信用出来そうな小隊長が増えたって事でしょ?」
「あれが自分の命と同じように、部下や周りの兵の命を大切にするならな」
「素直じゃないですね? 小隊長はもう、グレンの奴を認めているくせに」
「……うるさい」
ずっと小隊長でいるボリスは、その下の兵士たちともそれなりに長い付き合いだ。その性格はすっかり見抜かれていた。
◇◇◇
その日から毎日のようにグレンはボリスの下を訪れるようになった。グレンなりに、ボリスの言葉に感じるものがあったのだ。
「小僧、今日は何だ?」
「小隊全員が生き延びるにはどうすれが良いですか?」
「お前な、それが出来たら誰も苦労はしないだろうが?」
「じゃあ、せめて生き延びる可能性を高めるには?」
言い方を変えているだけで聞いている事は同じだ。だが、部下を大事にしようとする考えはボリスにとって好ましいものだ。
「ふむ……ただ生き延びる為であれば、軍全体の動きを把握する事だ」
「軍全体の?」
「そうだ。俺達は前線に出るといっても、常に最前線にいる訳ではない。幾つかの小隊や中隊が交互に最前線で戦う訳だ」
「ああ、そうですね」
「そういった状況で最悪な場合は? まあ、幾つかあるが、思い付くものを言ってみろ」
「……最前線で突撃を命じられる事ですか?」
「ああ、それも最悪の一つだ。では、その場合にどうすれば良い?」
「突撃の命令が出る時に最前線に居ない事。あっ、これは無理か」
「どうして無理なのだ?」
「命令違反になります」
「完全に背けばな。だが遅延であれば罰せられる事はない。そこまで小隊の動きなど把握していないからな。突撃命令を先読みして、そろそろだと思った時に後方にいる場合は、入れ替わりを出来るだけ避ける。それで生き残る確率は上がる」
「何だかズルいですね?」
「自分の小隊が生き残る事を再優先に考えればそうなる。ただこれをすれば、他の小隊から恨まれるからさすがに俺も勧めない。もう一つの最悪の場合で説明しよう。最前線に居る時に退却の命令が出る事だ。これは遅れれば敵中に取り残される事になる」
「それは分かりやすいです」
「そうならない為には全体の戦況を把握して、これも命令を先読みする事だ。それで避けられる」
「なるほど。難しそうですが、考えてみます」
「ああ、そうしろ」
そして今日も又、グレンは一つ学んだと嬉しそうな顔をして去っていく。横で話を聞いていたボリスの部下が難しい顔をしている事に気付きもしないで。
「小隊長、さすがに今日のは……」
「分かったか?」
「それはそうです。あんなの無理ですよ。全体の戦況を考えて命令を先読みって、将軍か千人将と同じ事を考えろって事ですよね?」
「まあ、そうなるな」
「どうしてあんな事を?」
「間違った事は言ってない。小隊長である俺は中隊長がどう考えているかを常に気にしている。それを少し、大げさに言っただけだ」
「中隊長と将軍じゃあ、かなり違います」
「でも、出来たら面白いだろ?」
「そうですかね? 俺は中隊が混乱すると思いますよ」
「奴の小隊だけが動けばな」
「まさか?」
「あれにそれが出来たら周りも従えば良いのだ。それで俺たちも生き残る確率が増える」
「それはさすがに酷くないですか? つまり、グレンに中隊長の命令に背く事を率先させるって事ですよ」
「そうなるかもしれんな」
「それじゃあ、グレンの奴が可哀想です」
「負け戦であればだ」
「えっ?」
「勝ち戦なら逆に手柄を立てる事になる。中隊長だって自分の功績になるのだ。喜ぶだろう」
「……そんな事を考えていたのですか?」
「大きな戦では無理だ。だが規模が小さければ中隊だけで戦況を動かせる。それを一小隊長がやってみせたら面白いだろ?」
「知りませんよ。どうなったって」
「あくまでも奴がそれが出来ればの話だ。実際、問題として、その可能性は低い」
「まあ」
◇◇◇
まんまとボリスに嵌められたグレンなのだが、本人はそうとは知らずに言われた事を真剣に考えていた。早速グレンは図書室に篭もって必要と思われる知識の取得に取り掛かった。
「……やばい。時間が幾らあっても足りない」
机の上に関係しそうな本を積み上げて、それを一つ一つ読み進めるグレン。
戦術論から始まって、王国軍の各部隊の様々な教本の類。時間が足りないのは当然だ。これらは王国軍における士官学校、王立騎士学院で三年を掛けて学ぶ内容なのだ。
それを独学で学ぼうというのだから、無茶と言って良い。
ましてや勉強嫌いのグレンにとっては、苦痛以外の何ものでもないはずなのだが。
「……へえ、面白い。自分がその立場になれば、割りと分かりやすいものだな」
グレンは馬鹿なのではない。興味のない事には全くと言って良い程、頭を使わないだけだ。この日からグレンは毎日、図書室に篭って、勉強にのめり込む事になった。