時系列についての誤差は多少あるものの、物事はジグルスの知っている通りに進んでいく。今のこの状況も既知のイベントだ。
(しかし、まだこのイベントが必要なのだろうか? エカード様はとっくに攻略されていると思うのに)
そう疑問に思いながら、ジグルスはリーゼロッテの背後から様子を眺めている。
「貴女、いい加減になさったらいかが!?」
「何がですか? 私は貴女に責められるようなことはしていません」
「どの口がそれを言うのです? 貴女が下品なやり口で男性を誑かしていることを私は知っていますのよ」
「私はそんなことしていません!」
「まあ、あくまでも白を切るつもりですのね? 貴女が先日、レオポルドと二人きりで部屋で過ごしていたこと。これは事実ですわよね? こちらには証人がいますのよ」
(レオポルド様? エカード様ではない)
ジグルスの知っている知識と少し違っていた。エカードと二人きりで部屋に籠った主人公。特にやましい出来事があったわけではない。試験を控えて二人で勉強をしていただけだ。
だが、婚姻前の男女が二人っきりで部屋に長時間いるというのは、貴族としてはあってはならない、はしたないこと。それをリーゼロッテに問い詰められるという場面なのだが、リーゼロッテから出てきた名前はエカードではなく、レオポルドだった。
確かにレオポルドも攻略対象の一人ではある。
(どうやら俺の知らない攻略ルートで物事は進んでいるようだ)
別にゲームをやりこんでいたわけではないので、ジグルスは自分の知らない攻略ルートもあるのだろうと納得した。
「それは二人で勉強をしていただけです」
「それはおかしいですわ。勉強でしたら図書館でなされば良いでしょう? 何も部屋で二人っきりになる必要はありませんわ。ああ、嫌だわ。淫らなことをしていたのね。これだから平民は」
「私はやましいことはしていません!」
「貴女にとっては、男性とそういう関係になることは、やましいことではないのでしょうね? 貞操なんて言葉は貴女には分かりませんものね?」
「ひどい!」
主人公から言い訳の言葉が出なかった。なかなかにリーゼロッテは挑発が上手いようなのだが。
(これが勝ち目のある口げんかなら良いのだけど、そうはいかないんだよな)
イベントの結末を知っているジグルスは冷めた目で見ていた。
「何をしているんだ!?」
登場したのはエカード。これはジグルスの知識から外れている。レオポルドが割り込んでくるはずなのだ。
そのレオポルドはといえば、エカードのすぐ後ろに立っていた。
細かい違いではあるが、展開が異なっている。
「エカード。貴女は黙っていて。この娼婦のことは私がなんとかするわ」
「リーゼロッテ! 君はユリアーナに向かって何てことを言うんだ」
(へえ、主人公はユリアーナという名前なのか。てっきり、オリヴィエだと思っていた)
オリヴィエというのは主人公の名前の初期値。名前はプレイヤーが自由に変えられるゲームだった。
「何を怒っているの? 私はこの女に二度と同じことはさせないと」
「それは俺の台詞だ。いいか、リーゼロッテ? いくら幼馴染だからといっても我慢にも限度がある。二度とユリアーナに酷いことをするな。もし、それをしたら俺は決して君を許さない」
「えっ? ちょっと、エカード、何を言っているの? この女は」
リーゼロッテには何故、エカードが主人公を庇うのか分からない。自分が間違ったことをしていると思っていないのだ。
「うるさい! いいか、俺は忠告したからな」
「ちょっと待って。レオポルドにも話を聞いてよ。そうすれば、この女がしていることが分かるわ」
「レオポルドからは、とっくに話を聞いている」
「じゃあ、どうして!?」
「どうしてだと? 二人は試験に向けて勉強をしていただけだ。頭の固い君から見れば少し問題はあるかもしれないが、それは些細なことだ」
「レオポルド。貴方、ちゃんとエカードに本当のことを話したの?」
エカードは何か誤解をしている。そう考えたリーゼロッテは当事者であるレオポルドに問いを向けた。
「リーゼロッテ。僕には君が何を言っているか分からないよ。本当のことって何? 僕とエカードは親友だ。僕は親友に隠し事なんてしない」
「そんな……嘘よ! 二人ともこの女に騙されているのよ! この女はね」
「いい加減にしろ! リーゼロッテ、君とはもう幼馴染でも友達でもない。君との関係はこれまでだ」
「そんな!? エカード!」
「ユリアーナ、すまない。俺が最初から君の側にいてあげれば、嫌な思いをさせなくて済んだのに」
リーゼロッテの声を無視して、エカードは主人公に向き合った。
「ううん、私は平気です。その、ありがとう、エカード……レオポルドも」
「別に。僕は礼を言われるようなことはしていない。さあ、もう、この件は終わりにしよう。どうかな? 気分転換に三人でお茶でも飲みに行かないか?」
「おっ、いいな。ユリアーナ、行こう」
「エカード! 待って!」
リーゼロッテの引き止めの声にもまったく反応することなく、エカードはその場を去って行った。
「そんな……どうして……」
決して振り返ることのない背中を見て、リーゼロッテはがっくりとその場に跪いてしまった。さすがにもその様子にはジグルスも同情してしまう。
「リーゼロッテ様、そのままでは膝を傷つけてしまいます。これを下に」
ジグルスは上着を脱いで、リーゼロッテの目の前の床にそれを置く。内心では相当に恥ずかしい思いを感じながら。
(どこの気障野郎だ、俺は)
「……ありがとう」
(良かった。これで断られたら赤っ恥をかいて終わるところだった)
リーゼロッテはジグルスの上着の上に膝を移したあとも、ずっと俯いたままだ。
「……あの……人が近づかないようにしませんか?」
その様子を見て、ジグルスは周りにいる取り巻きたちに声を掛ける。爵位としては格下であるジグルスの言うことであったが全員素直に従った。
皆気付いていたのだ。リーゼロッテが泣いていることを。プライドの高いリーゼロッテが人前で泣くことなど、これが初めてだった。それを第三者に見られるわけにはいかない。
他の人と同じように、その場を離れようとしたジグルスだったが、リーゼロッテに止められた。
「あ、貴方は、ここに」
「はい」
ジグルスを引きとめたリーゼロッテだったが、特に何か話をするわけでもなく、声を殺して泣き続けているだけ。ジグルスもそんな姿を見ないように背を向けたまま、じっとそばに立ち続けているだけだった。
しばらくして、ようやく落ち着いたのかリーゼロッテが口を開いた。
「どうして、エカードは私の話を聞いてくれないのでしょう? あんな頑ななエカードは初めてですわ」
それはそういう設定だからです、とは言えるはずがない。言ったとしても馬鹿にしていると思われるだけだ。リーゼロッテの問いに対して、ジグルスは答える言葉を持たない。
「ああ、マリアンネに何と伝えれば良いのかしら? 私は何の役にも立たなかったわ」
「マリアンネ様ですか?」
マリアンネはリーゼロッテの友人。主人公の敵キャラの一人と言っても良い。そのマリアンネの名が何故ここで出てくるのかと、ジグルスは不思議に思う。
「レオポルドもレオポルドよ。どうしてあんな嘘を、いえ、やましいのは分かるわ。でも……」
次に出来てきた名はレオポルド。ますますジグルスには話が分からなくなってきた。
「すみません。私には話が見えないのですが? どうしてマリアンネ様の名が?」
「知らなかったのですか? レオポルドはマリアンネの婚約者ですわ。マリアンネという婚約者がありながら、レオポルドはあんな女を相手に浮気をして……」
リーゼロッテは主人公がレオポルドと浮気をしていると完全に決めつけている。
「あの、失礼ですが、それは事実なのですか? リーゼロッテ様の誤解ということはないのでしょうか?」
誤解のはずなのだ。ゲームではそうだった。
「間違いないわ。私はマリアンネから聞いたのよ」
「さらに失礼ですが、マリアンネ様が嘘をついている可能性は?」
「貴方、マリアンネを疑うの!?」
「あっ、すみません。あくまでも可能性として、です」
「マリアンネは本当にレオポルドを愛しているのよ。二人のあとをつけてしまうくらいに。淑女にはあるまじき行為だと分かっていても、気持ちを押さえられなかった。泣きながら私にそう言ってきたわ」
「……それはつまり、マリアンネ様はあとをつけて、二人の、その、行為の様子を、聞いていた?」
「ええ、そうよ。レオポルドがあの女を後ろから抱きしめている姿を見たの」
顔を赤く染めながらも、リーゼロッテはそれを肯定する。
「えっ、それだけ?」
「それだけって何!?」
「あっ……すみません……」
婚約者以外の女性を抱きしめたのだから確かに問題だ。ただジグルスが考えていたのは、もう一歩進んだ関係だったのだ。実際はマリアンネが見ていないだけで、そうなのかもしれないともジグルスは思った。
「あの、さらにさらに失礼なことを聞きますが、レオポルド様はあまり女癖が良くないのですか?」
「確かに失礼ですわね」
「すみません」
「告げ口するようで、あまり気分は良くはありませんが、その通りですわ。レオポルドは他にも色々と女性に手を出しているの」
(この年で? 早熟すぎるだろ。いや、でも主人公も……ええっ?)
内心ではかなりパニックになっているのだが、それを隠して、落ち着いた口調でジグルスはリーゼロッテに問いを重ねた。
「そうなるとレオポルド様から誘ったというか、強引に口説いた可能性もあるわけですね?」
「それは……それは否定出来ないわ。でもレオポルドとエカードは親友よ? レオポルドが自ら、エカードを裏切るような真似をするなんて、信じられないわ」
ジグルスはまた少し意外な事実を発見してしまった。
「リーゼロッテ様はエカード様と主人、じゃなくて、ユリアーナさんの仲を認めているのですね?」
「……認めてなんていないわ」
「でも、エカード様を裏切るということは、エカード様とユリアーナさんの仲は、その……」
「あんな女がエカードの隣にいる事を許せるはずがないわ! 私は何の為に頑張ってきたの! 私は、私はエカードに相応しい……」
リーゼロッテが言葉に出来たのはそこまで。そこまでで充分だった。リーゼロッテはエカードのことが好きなのだ。それは最初からジグルスには分かっていた。好きだから、横から奪い取っていった主人公が許せなくて、嫌がらせをしていた。そういう設定だったのだ。
だが、リーゼロッテがエカードの恋人に相応しくありたいと頑張っていたなんて設定は、ゲームの中のどこにも記されていなかった。
(きっと、これだけではないのだろうな?)
過去のこと、主人公には見えない場での情報は、ゲームでは分かるはずがない。悪役キャラとされている登場人物の、人間としての一面を初めて見てしまった。やるせない。そんな気持ちがジグルスの胸を占めた。
「負けない。私は負けませんわ。私がこれで引き下がったら」
「あの、リーゼロッテ様、何もそこまで無理しなくても」
「私が諦めたら、あの女はこの学院で好き放題するに決まっているわ。私はこの国の貴族の一人として、伝統ある王立学院の秩序を乱すような行為を許すわけにはいかない。決して許せないの」
(この人は、どうしてここまで貴族としての在り方にこだわりを持つのだろうか。それを捨てれば、もしかしてリーゼロッテ様は、もっと楽に人生を歩めるのではないか)
ふと、そんな風にジグルスは思った。
「リーゼロッテ様……」
「あ、貴方は、協力してくれるわよね?」
台詞はいつものように命令調だが、リーゼロッテの態度はいつもとは違っていた。跪いた姿勢のまま、上目使いでジグルスを見つめている。まるで幼い子供が親に縋るような、そんな瞳で。
「エカード様があんな調子では、勝ち目は薄いですね?」
「わ、分かっているわ」
「劣勢になれば仲間はどんどん減っていくでしょう」
「それも、分かっているわ」
リーゼロッテは分かっていると言うが、それは今の覚悟を示しただけだ。この先のリーゼロッテの立場は、彼女が考えているよりも遙かに厳しいものになる。そういう役割なのだ。
そしてリーゼロッテに協力する人は、それに完全に巻き込まれる羽目になる。主人公にとってのハッピーエンド、リーゼロッテにとってのバッドエンドに巻き込まれてしまうのだ。それが嫌でリーゼロッテとの接点を出来るだけ小さくしてきたジグルスであったのだが。
「……ひとつだけ条件があります」
「何かしら?」
「俺のことは貴方ではなく、ジークとお呼びください。親しい人が呼ぶ俺の、まあ、愛称です」
どうしてこんな言葉が出たのか、ジグルスにも分かっていない。この誓約に何の価値を見出したのか。
「そんなことで良いの?」
「そんなこと? リーゼロッテ様に愛称で呼ばれるということは、かなりの価値だと思いますが?」
「そんな価値なんて……」
「おとぎ話では、騎士は見目麗しい姫君の為に無償で忠誠を捧げます。それと同じ。リーゼロッテ様に親しげに名を呼ばれて、張り切らない男はいません」
ジグルスは重苦しい雰囲気を少しでも和らげようと、自分には似合わないくさい台詞を吐いてみた。
「まあ」
それに対するリーゼロッテの反応はジグルスの予想以上。頬を赤らめ、パッと花開くような笑顔をジグルスに見せてきた。その笑顔にジグルスの胸が高鳴る。
「そして、その笑顔も。どうやら恩賞を少し先払いしてもらったようですね? これは頑張らなくてはいけません」
「貴方って」
「ジーク。そう約束しましたよ?」
「ジーク……ジークって、もしかしてレオポルドに負けないくらいに女性の扱いがうまいのかしら?」
「はあ? それはないと思いますよ? どちらかと言うと苦手の部類です」
「そう……そうは思えないけど。いいわ、今日はおだてに乗ってあげるわ。ではジーク。私の騎士よ。貴方の忠誠を私に捧げなさい」
華やかな笑顔を向けて、立ち上がるリーゼロッテ。その左手がジグルスの前に差し出された。それに応えてジグルスは、リーゼロッテの前で片膝をつき、差し出された手を取る。
二人が行っているのは、騎士が行う忠誠の儀式の真似事だ。
「はい。愛しの姫君。貴女に俺の忠誠を捧げます……さすがに、ここまでやると恥ずかしいですね?」
「私もですわ。でも、ここまでしたのですから……」
「はい。では失礼して」
リーゼロッテの左手の薬指にそっと口をつける。
「えっ? あの、ジーク。薬指は、その……」
「へっ? 俺、間違いましたか?」
「騎士が忠誠を誓う場合は親指ですわ」
「あっ、そうでしたか。薬指は?」
「……き、求愛ですわ」
「えっと……すみません。最後の最後で失敗しました」
リーゼロッテの顔が真っ赤に染まっている。それを見て、リーゼロッテへの印象がどんどんと変わってきているのをジグルスは感じた。
「ふふ。まあ、良いですわ。おかげで気分が晴れました。さて、皆を待たせてはいけませんわね」
「そうですね。では、皆さんを呼んできます」
その場を離れて、他の取り巻きを呼びに向かうジグルス。
(これは、もしかしてプレイヤーには分からない裏設定なのかもしれない。リーゼロッテ様に好意を向けて、悪と分かっていても協力してしまう。俺はそんな役柄なのだろうか)
何故、自分がこんな約束をしてしまったのか。その理由を考えてみる。だが、すぐにどうでも良いと頭を振り払った。
(今までも十分に流されてきたのだ。ほんのわずかでも自分の意思と思えるものが見えるのであれば、それは随分とマシな生き方だよな)
そう考えるジグルスの心は、ずいぶんと晴れ晴れしたものになっていた。