ヒューガが早朝の自主練を終えて部屋に戻ると、すでにクラリスが中で待っていた。部屋の中に漂う良い香り。お茶の香りだとすぐにヒューガにも分かる。クラリスが用意したものだ。
「お疲れ様でした」
部屋の中央にあるテーブルに、入れたお茶を置くクラリス。それに従ってヒューガは椅子に腰を下ろした。
なんとなく照れくさいのだが、その思いが表に出さないように澄ました顔を見せている。
「早いね? 無理しなくていいのに」
「ヒューガ様こそ。今日から皆で分担して作業を行うのですから、早起きはもうよろしいのではないですか?」
貧民区の子供たちの為の勉強の準備は、今日から協力して行うことになっている。クラリスが部屋にいるのもその為だ。
「もう慣れているから。朝はそんなに苦じゃないんだ。夜が早く寝られるようになればラッキーってとこかな?」
「夜のほうが辛いのですか?」
「いや、眠気じゃなくて……夜更かしをしてると体の成長が……」
「……もしかして、気にされているのですか?」
ヒューガの身長は同年代の中でもかなり低いほう。本人はそれをかなり気にしているのだ。それを知ったクラリスは。
「別に笑ってもいいけど……」
「えっ?」
「無理に笑いを堪えなくてもいいってこと」
「そう見えました?」
「クラリスさんは感情がほとんど表に出ないけど、なんとなく分かるようになった」
「そう……ですか」
クラリスの顔は、美人ではあるが、表情がほとんどない。ヒューガはそれを勿体ないと思っていたのだが、近頃は何となく感情の色が分かるようになってきていた。
特に瞳。大きな瞳に長いまつ毛。まばたきをするとそのまつ毛がちらちらと動いている。真っ青な瞳の奥を見つめると、無機質な顔とは違った温かい光が見える気がする。
「…………」
「…………」
「やだ!? 何、見つめ合ってるの!?」
沈黙を破る、部屋に響いた大きな声。
「……夏か」
部屋の入口で夏が少し驚いたような顔をしてヒューガたちを見ている。
「お待たせ。もしかして、お邪魔しちゃったかな?」
にやけた顔をヒューガに向けながら部屋に入ってくる夏。
「何の邪魔? ていうか遅くない?」
「だって……冬樹がなかなか起きないんだもん」
「わりぃ。寝坊した」
夏に続いて冬樹も部屋に入ってきた。あきらかに寝起きだ。
「はあ……まあ、想定の範囲内だね。手伝ってくれるのだから文句は言えない」
この時間に部屋に来られたのは冬樹にしては、よく出来たほうだ。自分の手伝いの為となるとヒューガも文句は言えない。
「それで? 何があったの?」
「何がって、何だよ?」
「いやぁ、良い雰囲気だったなぁと思って」
ニヤニヤしながらヒューガとクラリスを交互に見る夏。
「そんなことないから」
「いやいや。あの雰囲気はただ事じゃなかったな。邪魔できる雰囲気じゃなかったからね?」
「……邪魔したよね? 普通に声かけてきた」
「やっぱ、邪魔だった!?」
ヒューガの答えがさらに夏を喜ばせる。それとは真逆にヒューガを不機嫌にさせるのだが、浮かれている夏はそれが分かっていない。
「そういう意味じゃない」
「いやだ、早く言ってよ。なるほどね。ヒューガって年上趣味だったのね? クラリスさんも年下で平気?」
「いえ、あの……」
いきなり夏に変な質問を向けられたクラリスは戸惑いの声をあげている。
「あのさ、別にクラリスさんと僕は何でもない。見つめあっているように見えたとしても、それはたまたまだ」
「そんな雰囲気じゃなかったけどなぁ。好きなら好きって言っちゃえば良いのに。どうなのよ?」
「だから違うって」
「またまたぁ、良いから素直になりなさいよ。僕はクラリスさんが……」
「僕が好きなのはクラリスさんじゃない! 僕は……何でもない」
あまりの夏のしつこさに、とうとうヒューガは声を荒らげてしまう。この話題に関してはヒューガはいつものように流せなかったのだ。
ヒューガの目にクラリスの表情が映る。なんとなく感じられていた感情が、感情があるのは分かるのだが、複雑で良く分からない。
「……夏」
冬樹の少し咎めるような声。
「えっと……ごめんなさい。調子に乗り過ぎました」
さっきまでのノリノリの雰囲気は消え去り、少し肩を落とした格好で夏は謝罪を口にした。
「この話はもういい。とっとと始めよう」
「……はい」
真ん中のテーブルに冬樹と夏も座る。四人で座るには小さなテーブルであるので、ヒューガは一人、机のほうに移動した。
「それで何やればいいんだ?」
気まずい雰囲気がまだ残る中、冬樹がヒューガに何の作業を行えば良いのか尋ねた。今、ヒューガに声を掛けられるのは冬樹しかいないのだ。
「まずはこれを書き写してくれ。十二人分。人数間違えないでくれよ。一人だけ足りないなんてなったら、大騒ぎになるからね」
「ああ、分かった」「はい」「……」
ヒューガが考えた勉強用のテキストの本紙をテーブルの上に置く。一枚の紙を見て、三人で書き写すのは効率が悪そうだが仕方がない。本紙は一枚しかないのだ。
「あと、これも。数は同じ」
別の紙をヒューガはテーブルに置いた。復習用のテストだ。
「じゃあ、私がこれをやりますので、お二人はもう一枚のほうをお願いします」
「ああ」「はい」
それぞれ作業に入る四人。紙の上を動く四人のペンの音だけがしばらくの間、唯一の音だった。
「そういえばこの世界に学校ってないの?」
その沈黙を破って最初に口を開いたのは夏。彼女の立ち直りは早い。
「学校ですか? ありますよ」
「あるんだ。ちょっと意外」
「それ失礼だろ? 学校くらいどこにでもあるさ」
夏の言葉を冬樹が注意する。学校がないなんて考えることは、この世界が遅れていると考えているということ。失礼だと思ったのだ。
「どこにでもあるってことはないよ。元の世界だって貧しい国では学校は限られた場所にしかないじゃん」
「そうなのか?」
「もう……日本が世界の常識なんて思ってたら大間違いだからね?」
形勢逆転。冬樹が夏に怒られることになった。これが本来の形なのだ。
「ああ、それは分かる。日本は豊かな国だからな」
「そういえば、教育を受けるのは子供の権利って言っていましたね。それはその日本という場所では当たり前の事なのですか?」
クラリスはヒューガが口にした「子供の権利」が気になっている。今の話も関連することかと考えて、二人に尋ねた。
「日本だけなのかしら? ねえ、ヒューガ! どうなのよ!?」
「……僕に聞くな」
「だって、ヒューガは子供たちの先生なんでしょ?」
「それと知識があるかは関係ない……教育を受ける権利は、全世界的な考え方だと思う。ただ貧しい国や戦争で荒れている国はそれを与えることが出来ないだけ。あっ、でも宗教によっては性別によって権利が異なるか……もう違うのかな? まあ、色々あるけど原則はそうってことで」
文句を言いながらも説明するヒューガ。ここまで細かい説明を夏は求めていないのだが。
「そうなのですか……御三方も学校の生徒だったのですよね?」
「僕たちは中学生」
「それは?」
中学生と言われてもクラリスには分からない。
「日本という国の制度でいうと学校は小学校、中学校、高等学校、大学の大きく四つに分かれている。他にも専門学校があるけど別の話ということで。院もあるけどそこまで進む人は少数だね」
「そんなに学校の種類があるのですか?」
「順番に通っていく。小学校の六年が終わったら次は中学校で三年間。ここまでが義務教育。高等学校に進んで三年、さらに大学は四年だね」
「そんなに長く……」
そんなに長く学校に通っていて、いつ一人前になれるのかとクラリスは思う。生まれたばかりから学び始めても、この世界での成人を超えてしまう年数なのだ。
「やっぱり、全然違う?」
「はい。この国では幼少の頃はまず家庭教師に付いて学びます。その後、学校に行くのですが、それも任意。しかも期間は最長で四年です」
「それ教育を受ける子供の対象が違うんだね。クラリスさんが今言ったのは貴族の話じゃない? 日本では一定の年令に達した子供は全員教育を受けるんだ」
「……全員とは?」
「全員。政治家の子も商人の子も農家の子も、とにかく全員」
「……ヒューガ様たちの国は皆お金持ちなのですね?」
学費が高いというだけのことではない。たとえば農民の子は小さい頃から家の手伝いを行わなければならない。遊ばせておく余裕はないのだ。
「お金持ちなのは確か。貧しい家庭もあるし、親のいない子供もいるけど、そういった子供たちも学校に通える」
「すごい! そんなことが実現できるなんて」
「制度としては凄いのだろうけど、どうかな? 勉強が出来ることのありがたみを感じている子供はどれだけいるのかな? かなり少ないと僕は思う」
生きていく為に必要な勉強をどこまで出来ていたのか。元の世界にいた時はまったく気にならなかったことをヒューガは考えるようになっている。剣や魔法、この世界の一般常識。学ぶことは沢山ある。
ヒューガは元の世界でも頑張って勉強していたつもりだったが、必死さは今とは比べものにならない。
「あー、それ耳が痛い」
「俺も……」
夏と冬樹も同じだ。ヒューガよりも遙かに勉強をしてこなかった二人は、もっと過去の自分の愚かさを実感している。
「そうなのですか?」
「そう。日本では義務教育どころか、その上の高校に行くのも当たり前。さらに上の大学も、お金さえあれば誰でも行けるから。しかもその多くが勉強をする為に学校に行ってるわけじゃない」
「では、何の為に?」
「働き先を見つけるのに有利だから。それと若いうちから働くのが嫌だからなんて理由」
「そんな……」
クラリスには考えられない無駄。ヒューガが制度は凄いけど、という言い方をした意味が分かった。
「教育を受けられる権利があって、それを実際に与えてもらえているのにそれを全然活かしていない。そんな状況がこの先もずっと続いたら、いつか国が駄目になってしまうと思う」
「国が駄目に……そこまでですか?」
「国の基は人だと僕は思っているから。国民がいて国がある。その基となる国民が駄目になってしまったら、国が衰えていくのは当然の結末だ」
「……国の基は人」
国王があっての国。国を支えているのは貴族。民が国の基という考えはこの国にはない。
「あー、こんな話、始めなきゃ良かった。自分のことを考えると恥ずかしくなるわ。あたしはヒューガのいう駄目な子供の典型じゃん」
「俺もだな。勉強なんてろくにしてない」
「僕だって本当はこんな風に言える立場じゃない。小学校に戻ってからは、真面目に勉強することなんてなかったから」
小学校の勉強は役に立たない。いまさら小学校の勉強なんて。ヒューガはそう考えて勉強をしてこなかった。今はただの言い訳だと思う。この世界に比べれば元の世界には、いくらでも学べる環境がある。それを活かさなかった自分はただサボっていただけだと。
「それでも、そんなことを考えているだけ凄いじゃん。元の世界に戻れたらヒューガは政治家になればいいよ」
「おっ、俺もそう思う」
「あの政治家というのは?」
「施政者かな? この世界だと……国政に携わっている重臣といえば分かるかな? 元の世界ではそういう人たちは国民に選ばれてなるの」
「国民に選ばれて?」
「そういう制度なのよ。昔は王がいて貴族がいてっていう時代もあったけど、今はそういう形に変わったの。国民の代表者がその国の政治を行う仕組みに」
「そうなのですか……そのセイジカにヒューガ様が」
政治家というものが今ひとつ、クラリスにはイメージ出来ない。宰相と同じと考えれば良いのか、という感覚だ。ただなんとなく、違うという思いもある。
「それは無理」
ヒューガ本人は政治家になることを否定してきた。
「何で?」「何故でしょうか?」
「僕はまだ人を好きになれていない。人を嫌いな人間が人の為の仕事なんて出来ない」
「でも、今やっていることは人の為ですよね?」
「……まあ、そうかな?」
子供たちの為。確かに人の為ではある。
「変わろうとしているのですか?」
「少しは……クラリスさんに言われたから……」
「私の言葉で……」
クラリスの瞳の奥に浮かぶ感情。視線を向けていないヒューガにはそれは感じ取れない。向けたいという欲求はあるが、それを堪えているのだ。
「やっぱり!」
こういう反応を見せるやつがいるから。
「夏!」
その夏をすかさず冬樹がたしなめる。
「……ごめんなさい」
◇◇◇
ヒューガたちが子供たちの勉強の準備をしている、為に集まりながらも、他の話で盛り上がっている頃。優斗はまだ自室のベッドの上で寝ていた。
「……様……ト様、ユート様」
その優斗の耳に届く女性の声。
「ん? ああ、もう朝か」
何度も呼ばれてようやく、自分を起こそうとしている声だと優斗は認識した。寝ぼけ眼を、自分を呼んだ女性に向ける。
「いえ、まだ起きるには少し早い時間です」
「そうなの? じゃあ、どうして?」
そうであれば何故、自分を起こしたのか。そんな不満が優斗の表情に出る。まだ寝起きで気が回らないのだ。
「……あの……そろそろ失礼しようかと思いまして」
そんな顔を向けられて女性の表情は暗くなる。躊躇いがちに起こした理由を告げてきた。
「……ああ、そうか」
優斗もようやく頭がはっきりしてきた。声をかけてきたのは夜を一緒に過ごした女性。起こしに来たのではなく、ずっと隣にいたのだ。
枕元に立っている女性は、既にきちんと髪を整え、侍女の服装を身にまとい、昨夜の様子を微塵も感じさせない。この辺りはさすがだと優斗は思う。何がさすがと問われても答えられないが。
「昨日はその……」
「ああ、僕も楽しかった」
「ありがとうございます。それで……」
先の言葉は続かない。だが先を促すほど優斗は野暮ではない。
「そうだね。もう一度会いたいな。でも僕もそれなりに忙しいからな。悲しいけど、頻繁に会うのは難しいかもしれない」
「……そうですか」
女性は明らかに落ち込んでいる。遊ばれただけで終わったとのだと考えているのだ。だがこれで終わらせるほど優斗は野暮ではない……は正しくない。遊びベタではない。
「そうだ。時間があった時に合図をするよ」
「合図ですか?」
「部屋の扉の外に君に似合う花、そうだな……黄色い花を飾っておくっていうのはどうかな? それ以外の花だったり、花がない時は僕が忙しい時だ」
「黄色い花……素敵ですね。わかりました。では失礼します」
女性の顔に笑顔が浮かぶ。そのまま女性は部屋を出て行った。
窓に視線を向ける優斗。夜は明けているようだが、まだかなり早い時間。枕元に置いてあった時計に手を伸ばす。まだ六時だった。
(……こっそり出て行ってくれれば良かったのに。やっぱりもう会うのは止めようかな)
先ほどの女性に対する文句が浮かんでしまう。
「……なんかすごく悪い男みたいだ」
優斗はそんな風に自分が考えたことに驚いて、思わず呟きを漏らしてしまった。
この世界の女性は積極的だ。優斗がこの世界に転移して三日目には女性が部屋に忍び込んできたのだ。
驚いた優斗であったが、やることはしっかりやった。女性の誘惑に耐えられなかったのだ。その後も女性は部屋に忍んできた。これが美理愛にバレたら、なんて考えながらも、優斗はいつも誘惑に負けてしまう。
花を使う方法はバッティングを回避する為に考えたもの。我ながら良いアイディアだと優斗は思っている。
(……少しくらい美味しい思いしても良いよな。僕は命をかけて戦うのだから)
自分への言い訳。それを必要とする優斗には、まだ罪悪感が残っている。元の世界でもかなりモテた優斗だが、周囲の目を気にして、それなりに真面目に過ごしてきた。何よりも美理愛の目が恐かったのだ。
(……もう少し寝よ)
完全にたがが外れる日はそう遠くない。優斗にとって幸福か不幸かは、今の時点では判断出来ないが、この世界の女性の多くは美しい。桜花学院で並ぶ者なしと言われた美理愛の美貌が特別ではないと感じるくらいに。
◇◇◇
優斗の部屋を出て、早足で自室に向かう女性。まだ早い時間。廊下に人影はない、はずだったのだが。
「おい。そこの侍女」
彼女に声をかける人がいた。
「えっ!? グラン様!」
しかも相手は宮廷筆頭魔法士のグラン。勇者たちの師匠であることは女性も知っている。そのグランが何故、声を掛けてきたのか。理由は一つしか考えられない。
「ユートの部屋で何をしておった?」
グランの問いは女性が思っていた通りのこと。
「それは……」
「ふん。言わなくても分かっておる。自分がどんな罪を犯したか分かっているのだろうな? 勇者を色で惑わすとは。お主のしていることは国に背いているも同じだ」
「あっ……あ、お許しください!」
まさかそこまでの罪とは思っていなかった。女性は慌てて、廊下に土下座をしてグランに謝罪するが、それでグランが許すはずがない。
「謝って済む問題ではない」
「そこをなんとか……そんなつもりではなかったのです」
「お主は首じゃ。とっとと荷物をまとめて城を出て行け」
女性の言い訳になどグランは聞く耳を持たない。城からの追放を言い渡した。
「それだけは……そんなことになったら私は……」
女性はグランの足に縋り付いて嘆願している。追放は城内で働く女性にとってはかなり重い罪なのだ。
「お主の事情など聞く気はない。そんなものは関係ないのじゃ。城を出るのが嫌なら、その首、胴体から離れることになるぞ」
「あっ、あぁぁぁぁっ」
女性は泣きだしてしまう。これにはグランは少し焦っている。女性を泣かせている姿など人に見られたくはないのだ。
「静かにしろ! 勇者に聞こえるじゃろ。分かっただろ? お主に選択肢などない。死にたくなくば城を出ろ」
「あっ……んっ……ヒクッ……」
「返事は!」
「は、はいっ!」
グランは脅しつけて女性を大人しくさせる。
「それと……分かっていると思うが、このことを誰かに話したら……」
あとは口止め。優斗との関係を誰にも話さないように釘を刺す。
「……決してっ……誰にもっ……話しません」
「……ふむ、じゃあ、もう行け」
「はい……」
立ち上がった女性は顔を袖で拭いながら小走りでこの場を離れて行った。グランとしては一仕事終わったというところだ。
「ひどいですね」
そのグランに声をかけてきた男。近衛騎士団第一大隊のアレックスだ。その姿を見てグランの顔がわずかに歪む。事が終わるまで隠れていたのだと考えたのだ。
「あっ? どこがひどい。命を取っても良いくらいなのじゃぞ」
「たかが勇者と寝たくらいで……それに元々それを仕掛けたのはグラン殿でしょう?」
優斗に部屋に女性を送り込んでいたのはグラン。そのグランが女性を処罰しようとしているので、アレックスは酷いと言っているのだ。
「今回のは儂の指示ではない。あの侍女が勝手にやったことだ」
「でも、同じことでしょう?」
「アレックス、お主は何にも分かっておらんの。何故、儂が勇者に女をあてがったと思っているのだ?」
グランは意味もなく女性を送り込んでいたわけではない。優斗を喜ばす為だけでもない。
「勇者の欲を刺激する為。女性の誘惑への抵抗をなくす為と聞いていましたけど、違うのですか?」
「その通りじゃ。だがそれは下準備に過ぎん。最終的な目的は、今度の舞踏会で貴族の女を勇者に近づけること。当然、儂らの息のかかった者じゃ。その女を通じて有力貴族の横暴さを勇者に知らしめる。チャンスは一回、失敗は許されん」
これまで女性を送り込んできたのは下準備に過ぎない。本番はもう間もなく開かれる舞踏会の場だ。その時に優斗が女性の誘惑に抵抗しないように、あらかじめ気持ちを緩めておく為だ。
「でも、それとこれとは」
「こちらが準備した以外の女が勇者と親しくなるのは許されん。その者から余計な話を勇者に話されては、せっかくの計画が台無しじゃ。それに繰り返しそういうことになれば、そっちに情が移る可能性もある。勇者の気持ちは儂らが用意した女に向けさせねばならんのだ。不確定な要素は出来るだけ排除するに越したことはない」
グランは勇者に対して情報統制を図ろうとしている。自分たちに都合の良い情報だけを勇者に与えようと考えているのだ。
「はぁ、その事情は分かりました。でも私は女性を泣かすのは気が進みませんね」
「……だったら、さっきの侍女を慰めて来い」
「良いのですか?」
「ああ、そのまま、お主の女にすれば良い。そうすれば別の男との関係など口外することはなくなるじゃろう。こちらとしても好都合じゃ」
そうはならないことを知っていてグランはこれをアレックスに告げている。アレックスへの戒めの意味も含んでいるつもりだ。
「……そういう意味ですか。それじゃあ、私が直接女性を泣かすことになるではありませんか」
「泣かさないように優しくしてやれば良いだろ?」
「私が一人の女性に縛られては、それだけで多くの女性が涙を流すことになります」
「……そんなことは知らん」
アレックスは頼りにならない。グランが前から感じていたことだが、今回また強く思った。実際に頼りになるかどうかではなく、二人の性質が合わないのだ。
アレックスが決して行おうとしない汚れ仕事を手伝う人材。グランの頭の中にはヒューガがある。
ヒューガが望むと望まないに関係なく、周囲が騒がしくなっていく。